高句麗の発展と滅亡


はじめに

5世紀末の高句麗の領域
5世紀末の高句麗の領域(***)
句麗の歴史が面白い。今回写真が展示された壁画古墳を紹介する前に、高句麗の歴史を概括しておこう。これらの古墳が築かれた時代を知っておくのも、あながち無駄ではなかろう。

れぞれの壁画古墳が築造された時期は、次のように考えられている。  
4世紀後半:安岳3号墳  
5世紀前半:徳興里古墳  
5世紀末:双楹塚  
5世紀末〜6世紀初め:湖南里四神塚  
6世紀末〜7世紀初め:江西大墓、江西中墓



高句麗の建国は紀元前1世紀

済(ペクチェ、くだら)・新羅(シルラ、しらぎ)と並んで朝鮮三国の一つとして知られる高句麗(コグリョ、こうくり)は、古代東アジアの大国だった。『三国史記』に記された高句麗の始祖伝説では、始祖の朱蒙(しゅもう、第1代東明王)が扶余(ふよ)王から迫害されたため南に逃れ、現在の遼寧省桓仁地方の卒本(チョルボン、そつほん)で紀元前37年に高句麗を建国したと伝える。卒本は集安に都が遷る3世紀初めまでの高句麗第一の王都だったと考えられており、付近には五女山城を初めとして高句麗初期の遺跡がいくつか見つかっている。


高句麗王都の変遷
高句麗王都の変遷(*)
っとも、高句麗の名が最も早く史書に登場するのは『漢書』である。漢の武帝は紀元前107年に衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡を朝鮮に置いた。その一つである玄菟郡(げんとぐん)は、高句麗族の住地に県城をいくつか設置し、その統括をめざすことにあったとされる。そのとき設置された県城に高句麗県がある。

かし、高句麗族が自分たちの住地に置かれた県城を攻撃したため、紀元前75年に玄菟郡が桓仁西北の新賓県永陵陳に移された。このことは、紀元前107年から紀元前75年の間に高句麗の興起があったことを予想させ、建国神話よりさらに古く紀元前1世紀の初めには高句麗が建国されたと考えられている。


の高句麗が滅亡したのは、西暦668年である。その年、唐・新羅連合軍の攻撃に王都の長安城がは持ちこたえられずに陥落し、宝蔵王以下高句麗の臣僚たちは降伏し唐の長安へ連行され、高句麗は滅亡した。中国の歴代王朝の領土と地続きだったことは、高句麗の不幸だった。そのため、建国から滅亡までの約700年の高句麗の歴史は、まさに波乱万丈の歴史だったと言ってよい。



3〜4世紀、高句麗発展のための度重なる試練

高句麗王都の変遷
国内城と丸都山城(*)
三国史記』には、紀元3年にあたる第2代・瑠璃明王(在位前19-後18)の22年に国内城(集安))に遷都したとあり、その記事をそのまま認める研究者も少なくない。だが、同じ『三国史記』には209年に「都を丸都を遷した」という記事があり、遷都が実際に行われたのは3世紀初め頃と見なす研究者も多い。

都の背景には、次のような事件があった。3世紀の初めに高句麗王の伯固(ベツコ)が死去すると、2子の間で王位継承問題が起こり伊夷模(イイモ)が兄の抜奇(バルキ)をおさえて王に推戴された。そこで、伊夷模は卒本から国内城(集安)に移り、そこで新国を建てたという。

内城は現在の中国と北朝鮮の国境に沿って流れる大河・鴨縁江の北岸に位置しており、王都は平城(ひらじろ)の国内城と山城(やまじろ)として築かれた丸都山城が一体となって構成された。高句麗の発展はここから始まった。

が、最初の試練は、後漢が滅んでその後に鼎立した魏・呉・蜀の中の魏によってもたらされた。魏が興ると、遼東の公孫氏を討伐し、楽浪郡や公孫氏が設置した帯方郡を接収して、遼東や北部朝鮮地方を支配下においた。その魏が244年から2年間にわたって毋丘倹(かんきゅう けん、?−255年)を派遣して高句麗を攻撃させた。激しい戦闘の末に、第11代・東川王(在位227-248)は蹂躙された王都を脱出して沃沮(よくそ)の地に逃れた。


の攻撃による災禍から立ち直った300年、第15代・美川王(在位300-331)が即位して官位制を整備し、一元的な身分編成を推し進めて国家体制を飛躍的に発展させた。その勢いに乗って、ついに313年に楽浪、ついで帯方の二郡を滅ぼして、半島南部へ進出する足場を固めた。

句麗の対外発展は順調に進むものと思われたが、第二の試練が待ちかまえていた。中国の五胡十六国時代の混乱の中から台頭してきた慕容氏(ぼようし)の前燕が319年に遼東を確保すると、高句麗と前燕の間に新たな緊張と抗争が続いた。

安岳3号墳
安岳3号墳
42年、前燕の慕容(ぼようこう)は5万の軍勢を率いて丸都を襲い、高句麗に壊滅的な打撃を与えた。前燕の軍隊は、前王の美川王の墓を暴いて屍を奪い、王母や王妃を捕らえ、宮殿を焼き払い、略奪の限りを尽くした。第16代・故国原王(在位331-371)は前燕の臣下となり朝貢することで、この難局を乗り切ったとされている。高句麗の最初期の壁画古墳である安岳3号墳は、西側室の入口左側にこの墓の主人公の墓誌が墨書されており、それによれば、被葬者は故国原王の時代の永和13年(357)に69歳で死んだ冬寿という人物である。

川王の時代に開始された南進は、南部から勃興してきた百済(ペクチェ、くだら)とも戦火を交えることとなった。北進を企てる百済は旧帯方郡の土地を奪ったため、369年、故国原王は百済を攻撃したが敗退した。2年後の371年、故国原王は平壌地方を襲ってきた百済軍を迎撃したが、そのとき流れ矢に当たって戦死してしまった。

のように西北と南の両方に対抗勢力が登場したことで、百済は再び新たな試練に立たされた。戦死した故国原王のあとに即位した小獣林王(在位371-384)と故国壌王(在位384-391?)の兄弟は、国政の立て直しを迫られた。小獣林王の時代には中国の前秦から仏教が伝えられ、また律令が制定されたという。故国壌王の時代には、宗廟が建てられ、礼制が整えられたという。



5世紀、広開土王の時代に領土を拡大し、長寿王の時代に平壌へ遷都

広開土王碑
広開土王碑
練をくぐり抜けて回復の兆しを見せた391年、広開土王が第19代国王として即位した(在位391-412)。広く領土を開いた王という諡号を持つ王の一代は高句麗の領域を飛躍的に拡大させた時代だった。王の死後、その陵墓のほとりに建てられた巨大な広開土王碑には、王自らが出征を重ね、百済とそれを後援する倭や任那加羅、安羅と戦った戦績が誇らしげに刻まれている。

くに、396年の親征では、百済の王都・漢山城(ハンサンソン、現ソウル江南)を襲って、阿華王に忠誠を誓わせ、人質・貢ぎ物をとって58城邑の700村を奪取して凱旋した。398年には、東北の粛慎に軍を派遣して、300余の捕虜を獲得し、朝貢を促した。400年には新羅からの救援要請をうけて5万の兵を新羅に派遣し、新羅王都にいた倭軍を駆逐し、さらにそれを追って任那加羅(金海)まで進み、安羅の守備兵とも戦って勝利した。404年には、倭が海路、帯方郡の故地に侵入したが、王が親征して排除した。

徳興里古墳
徳興里古墳
427年に遷都した平壌付近
427年に遷都した平壌付近(**)
開土王の時代は、後燕とも戦闘を重ね、前燕に奪取されていた新城(現在の撫順)を取り返し、402年には遼東郡を奪取して、高句麗は遼河以東を領有することになった。1976年に南浦市江西区域徳興里の丘陵地で発見された徳興里古墳は、通路入口の上方に記された墓誌によれば、409年に77歳で没した幽州刺史の鎮という漢人系の人物の墓である。彼は、広開土王の治世中に亡くなったことになる。

開土王が拡大した領域を継承し、高句麗の国力を万全なものにしたのは、その子の第20代・長寿王(在位413-491)の時代であった。その名の通り在位期間が79年にも及んだ長寿王は、427年に王都を国内城から平壌に遷し、本格的に南方経営に乗り出している。新しい都城・平壌は、大同江に面して海に近く、江南には広い平野を擁する豊かな土地である。しかし、現在の平壌市街ではなく、そこから東北に6kmほど離れた大城山城を逃げ城とし、その西南麓の清岩里土城を居城とした。

世紀の中国は南北朝時代で北朝(北魏)と南朝(宋)と対立する新たな秩序が形成された。長寿王はその対立を巧みに利用しながら、両国に使者を派遣し、それぞれ冊封を受けた。こうして中国との関係が安定すると、朝鮮半島南部への進出を積極的に展開した。

双楹塚
双楹塚
55年以降、高句麗はたびたび百済に侵攻した。475年には長寿王自らが3万の兵を率いて親征し、王都の漢山城を陥落させ蓋鹵王(がいろおう)を斬首した。このとき、いったん百済は滅亡したが、蓋鹵王の子の文周王(在位475-477?)が錦江上流の熊津を王都として百済の再興をはかった。長寿王のあとを継いだ文咨明王(ぶんしめいおう、在位492-519)は、494年は扶余王の来降を受け入れ、北方にも高句麗の武威を増すこととなった。

913年に南浦市龍岡郡龍岡邑で関野貞(せきのただす)氏を中心とする日本人考古学者によって発掘調査された代表的な壁画古墳の一つである双楹塚(そうえいづか)は、5世紀末に築造された古墳である。この古墳は、四神が天井から壁に描かれるようになった過渡的な壁画古墳として知られている。また、1916年に発見された湖南里四神塚も5世紀末から6世紀初め頃の築造とされている。



6世紀、新羅・百済によって南進を阻止され、逆に漢山城領域を失う

湖南里四神塚
5世紀末〜6世紀初め頃築造された湖南里四神塚
世紀に入ると、高句麗の勢いが次第にかげりを見せ始めた。一つは王権の弱体化である。531年に第22代・安蔵王(在位519-531)が殺され、弟の安原王(在位531-545)があとを継いだ。しかし、安原王が病気になると、545〜546年にかけて外戚間で王位継承を巡る内乱が起こり、王は乱中で死去し、破れた側には2千人あまりの死者が出たという。8歳で即位した世子の第24代・陽原王(在位545-559)の時代には、557年に丸都城主が反乱を起こして誅殺されるなどして支配層が動揺し、王権は弱体化していったとされている。

方、5世紀後半には高句麗の南進に対して百済と連携してその圧力をかわしてきた新羅が成長し、百済とともに高句麗に対抗する姿勢を見せ始めた。6世紀に入ると、新羅は軍を東海岸を北上させ高句麗の勢力を後退させていった。一方、百済も、漢山城を陥落された後、熊津城で国力の回復を図り、538年には泗ヒに遷都して高句麗に対抗する体制を整えた。

現在の平壌市
高句麗の最後の王都があった現在の平壌市
51年、高句麗が70余年にわたって確保してきた漢山城地域が、新羅と百済の連合軍によって奪取された。その翌年、新羅は百済を排して漢山城地域を占有し、西海岸進出という長年の夢を叶えた。国内的な不安定に加えて新羅の急速な成長に危機感を抱いた陽原王は、552年に王都をわずかであるが南の、現在の平壌市街に遷して、不退転の決意を占めそうとした。中国的な条坊制を敷いた計画的な王都の実際の工事は、次の第25代・平原王(在位559-590)の566年から開始され、造営計画から43年後の586年に遷都した。新都は平壌城の名をそのまま残されたが、長安城とも呼ばれた。

62年に朝鮮半島の南端に位置していた加羅諸国を併合した新羅は、2年後の564年に北斉に朝貢し、はじめて中国王朝から冊封された。ついで568年には南朝・陳にも朝貢を果たし、南北陵王朝との外交を樹立した。このことは、高句麗に計り知れない衝撃を与えた。新羅に対抗するため、高句麗はそれまで友好な関係になかった倭に対しても使節を派遣するようになった。高句麗の使節が初めて我が国に来朝したのは、欽明天皇31年(570)4月のことである。使節が乗った船は嵐に遭遇し、越の国に漂着した。



7世紀後半、唐・新羅連合軍によって滅亡に追いやられた北の巨人

中国を統一した隋の文帝
中国を統一した隋の文帝
89年、中国大陸ではが陳を平定して290年ぶりに中国に統一国家が誕生した。朝鮮半島の高句麗、百済、新羅は、相次いで隋に朝貢し、その冊封を受けた。これら三国を等しく包みこんだ一元的な国際秩序は、しかし長くは続かなかった。隋の誕生は、それから100年にわたって東アジアに吹き荒れる巨大な嵐の前兆にすぎなかったのである。

の誕生をもっとも警戒したのは、当然の事ながら国境を接する高句麗だった。隋からの侵攻をおそれ、いち早く防備の体制を整えた。そのことが、隋に口実を与えた。6世紀末の598年、隋の文帝は領域侵犯を口実に水陸30万の軍を高句麗へ遠征させた。第一次高句麗戦争の勃発である。

のときは、陸軍は遼河の洪水で兵糧が続かず、水軍は嵐で沈没する船が続出した。このため干戈を交えることなく、隋軍はは自滅してしまった。隋軍の再来をおそれた第26代・嬰陽王(在位590-618)は謝罪し、いったんは収束したが、隋では高句麗征討論が根強く主張された。嬰陽王は倭国との連携をいっそう進めるため、この頃盛んに第一級の人材送り込んできた。

えば、高句麗の僧・慧慈(えじ)は595年に来朝して、聖徳太子の仏教の師となっている。我が国に墨や彩色の製法を伝えた僧の曇徴(どんちょう)は610年の来朝である。その他にも天寿国繍帳の絵師である高麗加西溢(こまのかせい)などの高麗姓の絵師、黄文本実(きぶみのほんじつ)など黄文姓をもつ一族など多くの技術者が日本に来ている。

鮮半島の南半分に位置していた百済や新羅にとって、半島の北半分はおろか中国の東北地方まで領有していた高句麗は、まさに北の巨人だった。隋の出現は、この北の巨人を倒す絶好の機会だった。百済は、征討の先導役を務めることまで申し出て、隋をけしかけている。

江西大墓
6世紀末〜7世紀初め頃築造された江西大墓
江西中墓
6世紀末〜7世紀初め頃築造された江西中墓
帝のあとを継いだ煬帝(ようたい)は、612年になって100万を超える大軍を率いてみずから親征した。さらに613年と翌年にも隋は遠征を敢行した。、高句麗は乙支文徳(ウルチムンドク)らの活躍で、隋の攻撃を防いだ。隋は第四次の侵攻を計画したが、遠征による疲弊と国内の反乱で、計画は実現せず、隋は滅亡してしまう。

が滅び618年に唐が興ると、朝鮮三国ははやばやと使節を派遣して唐の冊封を受けた。建国間もない唐は、周辺諸国に融和策で応じたので、東アジアでは一時的な安定を取り戻したかに見えた。しかし、それはつかの間の嵐の静けさだった。

30年、唐は東突厥を服属させると、翌年、対隋戦争の戦勝記念塚の破壊とそこに埋められた遺骨の返還を高句麗に求めた。唐の攻撃の意図を読み取った最高実力者の泉蓋蘇文(チョンゲソムン、せんがいそぶん)は642年にクーデターを敢行して国家体制を再編し、唐との戦いに備えた。

済は義慈王が642年に新羅西方の旧伽耶諸国の領域に親征して、この地を占領した。新羅は高句麗に救援を要請したが、クーデターを実行したばかりの泉蓋蘇文はこれを断り、逆に百済との同盟をはかった。窮地に陥った新羅は、643年に唐に使者を派遣して唐の出兵を要請した。、唐の太宗は高句麗に対して新羅との和解を勧めたが、高句麗はこれを拒絶したため、645年自ら水陸10余万の軍を率いて出征した。

宗はその後も647年に遠征軍を派遣し、また648年にも水軍を派遣したが、いずれも高句麗を打ち負かすことはできなかった。太宗のあとを継いだ高宗は、660年に新羅から百済攻撃の要請を受けると、13万の大軍を百済に派遣し、唐と新羅の連合軍によって、百済の王都を陥落させ、義慈王を捕らえて連行し、ここに百済は滅亡した。その上で高句麗に対する侵攻を再開した。

隋と唐の侵攻ルート
隋と唐の侵攻ルート(*)

句麗では、最高実力者の泉蓋蘇文(チョンゲソムン、せんがいそぶん)が666年に死ぬと、その3子の間で権力争いが生じた。長子の男生(ナムセン)は弟の男建(ナムゴン)、男産(ナムサン)と対立し、追われて国内城に立てこもった。翌667年、唐は服属してきた男生に先導させて遼東方面へ軍を進め、その翌年には新羅軍とともに王都・長安城を攻撃した。この唐・新羅連合軍の攻撃に王都は持ちこたえられずに陥落し、宝蔵王以下高句麗の臣僚たちは降伏し唐の長安へ連行され、ここに高句麗は滅亡した。



(*)東 潮・田中利明編著『高句麗の歴史と遺跡』から転記
(**)武田幸男著『朝鮮史』(山川出版社)から転記
(***)共同通信社『高句麗壁画古墳』から転記


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