大津皇子の人物像大津皇子と草壁皇子。大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)を同じく父に持ち、天智天皇所生の実の姉妹である大田皇女(おおたのひめみこ)と鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)をそれぞれ母に持つ。このように似た境遇に生を受けた二人の皇子は、何かにつけてよく対比される。 『日本書紀』は、大津皇子が大逆罪の罪で死を賜ったと記した後に、次のような人物評価を記載している。”皇子大津は天武天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛されておられた。成長されるにおよび有能で才学に富み、とくに文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まったといえる”。皇子の死から三十有余年、『日本書紀』編纂の時点ですら、天下の大罪人がこのように高い人物評価を受けるのは、異例と言えよう。 「五言臨終一絶」のほか、「五言春苑宴一首」「五言遊猟一首」「七言述志」などの皇子の漢詩を載せる『懐風藻』ではどうか。こちらの皇子伝もべた褒めで、”(皇子は)状貌魅梧、器宇峻遠、幼年学を好み博覧にして能く文を属し、壮に及んで武を愛し、多力にしてよく剣を撃ち、性はばかる放蕩、法度に拘わらず、節を降して士に礼した。是によって人は多く皇子に付託した”と記している。 では、天武天皇の第二子として誕生した草壁皇子に対する当時の人物評価はどうであったか。残念ながら、この皇子の人物評価記事はいずれの古書にも見あたらない。持統3年(689)4月、草壁皇子は即位することなく28歳の若さで薨去してしまった。だが、彼は第43代元明天皇の夫であり、第42代文武天皇と第44代元正天皇の父である。まして、『日本書紀』は元正天皇の治世中に編纂された史書である。今上天皇の父を持ち上げるヨイショ記事ぐらいあっても当然だと思うのだが、どこにも見あたらない。後に編纂された『続日本紀』で、天平宝字2年(758)になって、岡宮御宇天皇の尊号が追加されたと記述されているくらいである。 こうした古書の記述に影響されてか、我々が両皇子に対して懐いている印象も上記とたいして変わらない。大津皇子は文武両道に秀でた青年貴公子で、何事によらず大らかで、朝野の人気を一身に集めているといった人物像を描きたくなる。翻って草壁皇子はというと、虚弱体質で健康にも余り優れず、性格にも陰があり、なんとも凡庸な青年との印象をぬぐいきれない。文才があったとも思われず、『万葉集』の巻2−110に掲載された皇子の歌も平凡である。母の鵜野讃良皇女の強力な後押しがなければ、なにも決断できない男だったにちがいない。 |
大津皇子抹殺のシナリオ大津皇子の出生は西暦663年、これに対して草壁皇子の出生は662年。年齢で言えば、草壁皇子が1歳年上であるが、皇子としての序列では逆だったと思われる。つまり、彼らが出生した頃、大海皇子の正妃は鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)ではなく、姉の大田皇女(おおたのひめみこ)だったはずである。何事にも姉の風下に置かれるのが、勝ち気な性格の鵜野讃良皇女は耐えられなかったに違いない。 ところが、姉の大田皇女が突然死亡して、鵜野讃良皇女は思いがけず正妃の座を得た。彼女は夫の大海皇子に全人生を捧げることを決心し、ついで凡庸な我が子を皇位につけることを生涯の目標に決めたと思われる。天智10年(671)10月、大海皇子が兄の天智天皇の皇位継承要請を断って吉野に逃れるとき、多くの妃の中で彼女だけが、幼い草壁皇子を連れ、夫と共にみぞれ混じりの芋峠を越えた。大海皇子が壬申の乱で勝利し、飛鳥浄御原の宮で皇親政治を始めると、その傍らには常に彼女がいた。 皇后となった鵜野讃良皇女にとって、頭痛の種は我が子の草壁皇子だった。だが、母親の立場からすれば、できの悪い子ほど可愛い。姉の子の大津皇子は天智天皇に可愛がられ、若者に成長するにつれて朝野の人望を一身に集めていく。そのことで、大津皇子の存在そのものが、我が子の行く末に巨大な障壁として意識されるようになったとしても、なんら不思議ではない。この頃から、皇后の頭の中に、どす黒い陰謀のシナリオが徐々に形を取り始めた。 彼女が最初に打った手は、我が子草壁の皇位継承者としての地位の安定を図ることだった。そのために、夫の天武天皇をたきつけ、吉野の宮に主だった皇子たちを集めると、千年の後までも継承の争いを起こさないことを誓わせた。これを「吉野の会盟」という。天武天皇8年(680)5月のことだった。このとき、会盟に加わった皇子は、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河島皇子、忍壁皇子、芝基皇子の6名だった。河島皇子は天武天皇ではなく天智天皇の子であるが、なぜかこの会盟に加わっている。大津皇子抹殺のシナリオで重要な役割を果たすことになるこの皇子を、皇后はすでに用意していたと見てよい。 次に、彼女が打った手は、草壁皇子を皇太子の位に正式に就かせることである。吉野の会盟から2年後の682年2月、天皇と皇后は一緒に大極殿に出御し、親王・諸王および諸臣を前にして、草壁皇子を立てて皇太子とし、一切の政務を預からせることを公にした。これで鵜野讃良皇女は一安心したはずである。だが、事態は思わぬ方向へ動き始めた。天武天皇12年(684)2月、大津皇子が朝政に参画してきた。凡庸な皇太子草壁に対して、朝野の人望が高い大津皇子の処遇を、天皇は無視できなくなったのであろう。天皇が薨去する2年前のことである。 大津皇子の朝政参画は、皇后の鵜野讃良皇女にとってショックだったに違いない。かねて手なずけていた天智系の河島皇子を大津皇子に接近させ、大津皇子の行動を監視させるとともに、皇子に期待を寄せる諸王・諸臣の言動も探らせることにした。その結果、我が子が皇太子であるにもかかわらず、諸王・諸臣たちは次期天皇として大津皇子に期待している声が高いのを知った。皇后の腹は決まった。大津皇子自身が皇位を望んでいるか否かは、もはや関係ない。何らかの理由をつけて、彼を抹殺しないかぎり草壁皇子の将来はない。彼女は大津皇子抹殺のXデーを決定した。我が夫が薨去して、殯の宮が営まれる期間中に、大津皇子を処断しなければならない。 西暦686年9月9日、天皇の病が癒えず、ついに帰らぬ人となった。殯の宮が宮中の南庭に立てられ、連日、誅が奉られた。そして、10月2日、大津皇子の謀反が発覚して、皇子が逮捕された。謀反に組みしたとされる八口朝臣音橿(やくちのあそんおとかし)、壱岐連博徳(いきのむらじはかとく)ら三十余人も一緒に捕らえられた。発覚したのは、河島皇子の密告によるとされている。しかし、それは皇子抹殺のシナリオだったにちがいない。
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余りに寛容な事後処理が意味するもの上に述べたように、『日本書紀』は686年10月2日に大津皇子の謀反が発覚し、皇子を逮捕するとともに、謀反に加わった三十余人も捕らえられた。処断は早かった。翌日には大津皇子に訳語田の家で死を賜った。皇子は磐余の池で辞世の歌と漢詩を詠んだ後、家で自頸して果てた。まだ24歳の若さだった。このとき、妃の山辺皇女が髪を乱し、裸足で走り出し殉死した。見る者は皆すすり泣いたという。 大津皇子に荷担した同調者の処分は、その月の29日に言い渡された。このとき皇后が下した詔の内容がふるっている。大津皇子の計画に組した官吏や舎人は皆、皇子に欺かれやむを得ず従ったのだから、皆の罪を許すというのだ。ただし、帳内(とねり)の礪杵道作(ときのみちつくり)は伊豆へ配流になり、新羅僧・行心(こうじん)は罰するに忍びないため飛騨の寺へ移された。行心は天武天皇が病に臥した頃から崩御迄の間に、「皇子の骨法は臣下にいる人のものではない」と言って、大津皇子に謀反を決心させたと言われている。 大津皇子に対する余りに早い処罰と、その他の同調者に対する余りに寛大な処置。そこから見えてくるのは、謀反計画そのものが別の目的でねつ造された架空の出来事ではなかったかという疑問である。そのシナリオを書いた張本人は誰の目にも明らかだ。なりふり構わず我が子に皇位を継がせようとする皇后・鵜野讃良皇女以外に考えられない。 死を賜った大津皇子の遺骸はどうなったか。詳しいことは分かっていない。我が国の古代においては、皇族といえども犯罪者は墓に葬ることが許されず、死体は路傍にうち捨てられたとのことだ。おそらく、殉死した山辺皇女と一緒に磐余の池の堤のどこかに仮埋葬したまま放置されていたと思われる。二人の遺体を二上山へ改葬したのは、あるいは伊勢神宮の齋宮の任を解かれて飛鳥に戻ってきた姉の大伯皇女ではなかったか。しかし、雄岳山頂へ改葬したという証拠はなにもない。 皇后・鵜野讃良皇女の大津皇子抹殺計画は成功した。この時点で、草壁皇子はすでに数え年25歳の成年男子に成長していた。天皇位に登極するには十分な年齢だったと言えよう。だが、それから3年を経ても、この皇子が何らかの理由で天皇にはならなかった。おそらく無実の皇子を死に追いやった見え見えの謀略で、草壁皇子の登極を望まない空気が朝野にあったのであろう。持統称制3年(689)4月、皇后の願いも空しく、草壁皇子が薨去し、その翌年、皇后は称制をやめて、天皇として即位した。持統天皇である。結果として、鵜野讃良皇女が描いたシナリオは実を結ばなかった。おどろおどろした権力闘争のすさましさと空しさを後世に示しただけである。 |
他にもある大津皇子の墓
昭和58年(1983)5月、池の堤を築くための土砂採掘を行っていたユンボによって、一基の古墳が発見された。鳥谷口古墳である。場所は、現在大津皇子の墓がある二上山の南東斜面で、およそ古墳が築かれているとは考えられないところだった。しかし、眼下に奈良盆地が広がり大和三山を眺望できる景勝の地であり、かっての古道「岩屋越え」が古墳の下方を東西に通っていた。
発掘調査を担当したのは、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)である。古墳発見の通知を受けて、橿考研は直ちに緊急調査を実施し、さらに2年後にも第二次調査を行った。調査の結果、墳丘は一辺約7.2.m、高さ2.1mの小さな方墳だった。古墳はすでに盗掘されていたが、出土遺物の須恵器や土師器などから7世紀後半の築造であることが判明した。 石室は横穴式石槨で、この頃はすでに流行遅れとなり未使用のまま放置されていた凝灰岩の石棺用材を転用して作られていた。石槨の主軸は東西方向であるが、長辺である南側に開口部が設けられていた。石槨の内部の大きさは幅60〜66cm、長さ158cm、高さ71だった。この石槨内部の大きさに着目して、被葬者が大津皇子である可能性を指摘されたのは、当時橿考研の主任研究員だった河上邦彦氏である。 石槨内部の大きさは、遺体を木棺に安置して埋葬するには小さすぎる。仮に棺なしにむき出しで土葬するとしても、成人を入れるには小さい。そのため、この墓は被葬者の骨を集めて二次葬を行なった火葬墓かまたは改葬墓であると、河上氏は推論された。飛鳥時代に行われた二次葬の例としては、中尾山古墳がある。 さらに、石槨の中には木棺の残欠も骨の一部なども全く発見されなかった。このことは、土葬などは行われず、遺骨は金属製の容器に入れて埋葬され、盗掘によってそのまま持ち去られた可能性を示しているという。
河上氏は『万葉集』巻2に収められている大伯皇女(おおくのひめみこ)の次のの二首にも注目された。 現在、二上山雄岳山頂には、宮内庁に管理されている大津皇子の墓がある。だが、河上氏によれば、この治定には根拠がない。江戸時代には、大津皇子の墓の位置がすでに分からなくなっていたため、巻2-165に記載の大伯皇女の万葉歌を参考に、二上山の頂上を単純に決めた結果にすぎない、と言われる。 考古学的知見から、河上氏は次のように説明される。まず、当時の墓は、山麓や丘陵の南傾斜を削って作り、石室の入り口もほぼ南に設けるのが原則だった。唯一の例外は丘陵の最高所に築かれた天武・持統合葬陵である。だが、この天皇陵ですら低い丘陵の頂に築かれている。大和盆地のどこからも見える二上山の頂上に、反逆者の墓が築造されることは常識的にあり得ない。
大伯皇女の歌から二上山の山中に築造されたことは間違いない。ところが、7世紀後半から末期にかけて二上山の南斜面に築かれた古墳は鳥谷口古墳以外に存在しない。しかも、鳥谷口古墳は一辺がわずか7.2mの方墳である。これは当時の唐尺の約25尺にあたり、当時の墓制ではおそらく最低の規模だったようだ。こうした事実を総合的に判断すると、鳥谷口古墳こそ”叛逆者”大津皇子を改葬した墓としてふさわしいことになる。 |