橿原日記 平成19年7月26日

法興寺(=飛鳥寺)の光と影: 寺院建立の謎を追う

春の飛鳥寺
春の飛鳥寺 (撮影 平成18年4月6日)


在、直木孝次郎著『飛鳥 その光と影』を読んでいる。吉川弘文館の第U期歴史文化セレクション13冊に選ばれた一冊である。同書は1990年(平成2年)に吉川弘文館から刊行した同名の書の復刻版で、今年の5月に発行された。著者の直木孝次郎氏は、大正8年生まれの大阪市立大学名誉教授で、日本古代史を専門とする歴史学者である。今まで数多くの著書をものにしてこられたが、その中でも『飛鳥 その光と影』は、古代史の碩学が古代史の舞台となった飛鳥を縦横に活写した傑出の飛鳥史としてよく知られている。

書の第1章「飛鳥−歴史の舞台−」の中に、第6節「飛鳥寺回顧−その栄光と風雪と−」と第7節「飛鳥大仏を巡る史実と虚構」が含まれている。これらによって、現在飛鳥観光の目玉になっている飛鳥寺の過去をよく理解することができる。復習の意味もかねて、直木教授の説明から今一度飛鳥寺の歴史を整理してみた。

 創建時の飛鳥寺は、”仏法興隆”の願いを込めてこの四字熟語から中の二文字を取り「法興寺(ほうこうじ)」と名付けられた。したがって、創建時の寺院を扱う場合、「法興寺」の寺号で呼ぶべきだが、当時の人々は「飛鳥の寺」と通称していたようだ。この通称が詰まっていつしか「飛鳥寺」の呼び名が一般的になった。本項も通例にしたがって、法興寺ではなく飛鳥寺と呼ぶことにする。なお、法隆寺も”仏法興隆”からの二文字を寺号としている。こちらの通称は「斑鳩の寺」だった。



戦前は、飛鳥寺はいっこうに有名な寺ではなかった

鳥寺は、石舞台古墳と並んで飛鳥観光の目玉とされていて、週末や春秋の好季には、いつ訪れても参拝客がとぎれない。そのはずである。飛鳥寺は我が国で最初に建立された本格的な仏教寺院であり、鞍作止利(くらつくりのとり、止利仏師)の作と伝えられる丈六の金銅釈迦像が、当初安置された場所に今日も厳然と鎮座している。

飛鳥寺の復元イメージ
飛鳥寺の復元イメージ
入鹿の首塚
入鹿の首塚
れだけではない。飛鳥寺は我が国の古代史を区切る重要な事件の舞台となったところでもある。西暦645年6月12日に勃発した有名なクーデター「乙巳(いっし)の変」では、時の権力者・蘇我入鹿(そがのいるか)を飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で誅殺した直後、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)たちはこの寺に入って軍備を整え、甘樫丘に邸宅を構える蘇我蝦夷(そがのえみし)と対峙した。誅殺された入鹿の首塚とされる五輪塔は、現在も寺の西の畑の中に建っていて献花が途切れたことがない。

巳の変から27年後の西暦672年6月29日、大海人皇子(おおあまのみこ)側についた大伴吹負(おおとものふけい)は、飛鳥古京を守るため飛鳥寺の西に設けられた近江朝廷側の兵営を急襲して壊滅させた。これによって、壬申の乱の勝運は大きく大海人皇子側に傾いた。飛鳥寺の西はまた、「大化改新」の主役である中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)の出会いの場となった槻(つき)の木の広場があった場所でもある。


が国最古の寺院にもかかわらず、『日本書紀』は創建飛鳥寺の造営プロセスを比較的詳しく記録してくれている。それによれば、

●587年(用明2年7)7月、蘇我馬子(そがのうまこ)が諸皇子と群臣に呼びかけて物部守屋(もののべのもりや)を滅したとき、仏の加護で戦いに勝利したあかつきには、寺塔を建立し、仏法を広めることを誓う。
●588(崇峻元年)、蘇我馬子の要請を受けて、百済が仏舎利・僧・寺工・露盤博士・瓦博士を献上してくる。この年、衣縫造の祖・樹葉(このは)の家をつぶして寺地とし、整地作業が始まる。
●590年(崇峻3年)10月、山に入って伽藍の用材を伐採する。
●592年(崇峻5年)10月、仏堂(金堂)と歩廊の工事に着手する。
●596年(推古4年)11月、飛鳥寺が竣工。落慶の日に、慧慈(えじ)と慧聡(えそう)は飛鳥寺に入る。

元興寺縁起』に引く「塔露盤銘」にも、596年にあたる「丙辰年」に造り終えたと記している。これらの記録を見て、寺院の造営期間があまりにも短いのに、誰しも驚くに違いない。用材の伐採を始めてから6年、仏堂と歩廊に着工してからわずか4年で、596年(推古4年)11月には飛鳥寺は完成し、落慶法要が行われている。したがって、専門家の間では、この『日本書紀』の記述を疑問視し、後述のように本尊の造像時期との関連で、竣工はもっと遅い時期だったとされている。


飛鳥寺本堂
飛鳥寺本堂
にはともあれ、権勢を誇る蘇我氏の氏寺として建立された飛鳥寺は、蘇我本宗家滅亡後も栄え、天武天皇の時代には、大官大寺や川原寺、薬師寺と並ぶ「四大寺」の一つとされて、朝廷の保護を受けた。

鳥寺の没落は、平城遷都がきっかけで始まったとされている。710年、都が藤原京から平城京に移り、716年から718年にかけて、飛鳥寺も現在の奈良市に移転し元興寺となった。その後も飛鳥寺は存続して本元興寺と称されていたが、寺運は次第に衰えた。

して、1196年(建久7年)6月、落雷によって伽藍が完全に焼失してしまった。中金堂に安置されていた本尊の飛鳥仏も焼け落ちて、わずかに顔の一部と、左耳、右手の中央の指3本だけが残った。胸前の裳の結び目や襟元の内衣の合せ目などの特徴から推して、破損した仏像は記憶が薄れないうちに元の形を想起しつつ補修されたようだ。しかし、その補修は拙い。

本堂に鎮座する飛鳥大仏
本堂に鎮座する飛鳥大仏

448年(文安5年)にこの地を訪れた訓海法師は、『太子伝玉林抄』の中で「伽藍の形一切これなく、丈六釈迦像だけがあり、釈迦像も四方に小柱を建て藁を葺くという惨めさであった」と記している。江戸時代になっても、寺は復興されず仮堂一宇を残すのみであった。江戸時代の学者本居宣長は1772年(明和9年)に飛鳥を訪れているが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったと『菅笠日記』に記している。

826年(文政9年)になって、大阪の杉井某という篤志家が発願して、堂一宇を建立した。これが丈六の飛鳥大仏を覆っている現在の飛鳥寺本堂である。このように、幕末になって飛鳥寺の寺運はやや回復したが、明治になっても飛鳥寺の名は一般には知られることはなかった。



飛鳥寺の存在を再認識させた本尊の釈迦如来像と特異な伽藍配置

正面から拝観した飛鳥大仏
飛鳥大仏(正面から拝観)
飛鳥大仏(左から拝観)
飛鳥大仏(左から拝観)

鳥寺が世に知られるようになったのは、本尊の再認識がきっかけだった。大正から昭和にかけて飛鳥寺の研究を推進した石田茂作氏は、1928年(昭和3年)に最初の調査を行い、1933年に再調査を実施して、本尊の頬のあたりにわずかに残る鍍金の痕を発見し、痛みに痛んだこの仏像が止利仏師作の丈六釈迦像であると認識し、写真家の小川晴暘氏に依頼して正確な写真を撮影してもらった。これによって飛鳥大仏が美術史家に取り上げられ、戦前、国宝に指定されるにいたったという。

が、当時は万葉研究の人々が万葉地理の立場から飛鳥を訪れたものの、『万葉集』には飛鳥寺が詠まれていないため、飛鳥寺が話題にされることはなかった。1919年(大正8年)初版の和辻哲郎著『古寺巡礼』でも、1941年(昭和16年)に出版された井上正次著『大和古寺』やそれから2年後の1943年に出版されてベストセラーになった亀井勝一郎著『大和古寺風誌』でも、飛鳥寺にはまったく筆が及んでいない。

問的に飛鳥寺の評価を高めたのは、1956年(昭和31年)から始まった飛鳥寺の発掘調査の成果のせいである。発掘によって、創建時の飛鳥寺の伽藍配置が塔を中心に北・東・西の三方にほぼ同じ大きさの金堂を配するという、前代未聞の形式であったことが判明した。

飛鳥寺地割復元図
飛鳥寺地割復元図
(飛鳥資料館のHPよりコピー)
来、古代寺院の伽藍配置としては、中門・塔・金堂を縦に一直線に並べた四天王寺様式が一番古く、中門の内側に、塔を左、金堂を右に置く法隆寺式、あるいは塔を右、金堂を左におく法起寺式が、それに次ぐというのが定説だった。

が、その定説が完全に覆された。飛鳥寺の形式が一番古く、塔一つに金堂一つという四天王寺式や法起寺式はその簡略化した伽藍配置だったのである。一塔三金堂の伽藍配置は、高句麗の都・平城の郊外にあった清岩里廃寺あるいは上五里廃寺、定陵寺、新羅の皇竜寺の跡でしか見つかっていない。しかも、新羅の皇竜寺の創建は飛鳥寺より後であり、我が国に仏教文化を伝えたとされる百済では、この伽藍配置の寺跡は見つかっていない。

掘の成果として、その他にも多くの新しい知見が得られた。その一つが基壇の建築手法の違いである。塔と中金堂の基壇は、切石で築いた一重の壇上基壇だが、東西金堂の基壇は乱石積の上段と玉石積(一部板石)の下段からなる二重基壇で作られている。この基壇の違いが、飛鳥寺の完成時期に関する異説の根拠となった。



飛鳥寺の完成時期は?

現在の飛鳥寺
甘樫丘の豊浦展望台から見下ろした現在の飛鳥寺

日本書紀』に記された我が国最初の本格的仏教寺院・飛鳥寺の工事期間が予想以上に短いこと、および発掘調査の結果、中金堂の基壇と東西金堂の基壇の違いが明らかになったことで、この寺院の工事期間に関して次のような説が出された。

 東西金堂は二期工事で追加された!?

代美術史家の毛利久氏は、飛鳥寺の建立は二期に分けて行われたとする説を出された。すなわち、596年(推古4年)11月に完成したのは、塔と仏堂(中金堂)、歩廊(回廊)を主とする第一期工事で、東西金堂の建設は第二期工事として605年(推古13年)〜609年(推古17年)頃に行われた、と考えられた(「仏教芸術」所収の『飛鳥大仏周辺』)。

の毛利説を継承発展させたのは、フランス人学者のフランソワ・ベルチェ氏である。氏は、”第一期工事が行われた頃の飛鳥寺は、蘇我氏の氏寺で、蘇我氏と関係が深い百済系工人の手で造営され、伽藍配置も百済系の四天王寺式だった。しかし、605年(推古13年)ころから始まる第二期工事は、天皇家の介入によるもので、東西金堂を建立し高句麗式の一塔三金堂の形式に造り直した”とする説を発表した(「仏教芸術」所収の『飛鳥寺問題の再吟味−その本尊を中心として』)。

飛鳥寺の本堂
飛鳥寺の本堂
まり、この時期は聖徳太子が冠位十二階を制定したり、憲法十七条を作成したりして、中央集権国家の基礎を築こうとした時期にあたり、仏教も天皇の勢力下・支配下に置くため氏寺から官寺に性格を変えようとした。その傍証は、推古女帝の誓願によって新たに本尊の釈迦如来像が鞍作止利によって製作されたことである。

かに、『日本書紀』は本尊の丈六像の造像時期を次のように記している。
●605年(推古13年)、推古天皇が詔勅を発して銅と繍(ぬいもの)の丈六仏各一躯をつくることを誓願し、鞍作止利(鳥)を像仏工とする
●606年(推古14年)4月、丈六の像が完成。金銅に安置し、斉会を行なう。

元興寺縁起』に引く丈六像の光背銘にも、鞍作止利が605年にこの像の製造に着手したと記す。しかし、こちらは完成時期を609年(推古17年)としている。


昨年11月に発見された講堂の礎石
昨年11月に発見された講堂の礎石
れらの2つの説に対して、さまざまな反論が出された。まず、ベルチェ説は推古朝の政治の実際と合わないことが指摘された。604〜5年頃に天皇・太子側が蘇我氏勢力を抑圧できたかどうかは疑わしいというのである。『日本書紀』の記述をみても、推古朝を通してみても蘇我氏の権力が低下した兆候はない。したがって、蘇我氏の氏寺としていったん建立された飛鳥寺を、天皇家の官寺として威厳を示すために高句麗式の一塔三金堂の形式に造り直したとする考えはあたらないと反論された。

は、毛利説はどうか。毛利説では、塔と中金堂、回廊が第一期工事で596年(推古4年)11月に完成したことになる。第一期工事終了した時点で、落慶法要が行われ、高句麗と百済から招かれた慧慈と慧聡の二人の僧が飛鳥寺に入っている。したがって、中金堂には本尊が安置されていたはずであり、609年に完成した『書紀』の丈六仏とは異なる。

の場合、596年に安置された中金堂の本尊の作者は止利仏師でないことになる。では、誰か? そこで、毛利氏は『塔露盤銘』に着目されて、ユニークな説を出された。

露盤銘には、596年に飛鳥寺が完成したことを述べ、次の文章で最後を結んでいる。
爾時使作金人等、意奴弥首(おぬみのおびと)名辰星也、阿沙都麻首名未沙也、鞍部首名加羅爾也、山西首名都鬼也、以四部首為将、諸手使作奉也
これを、毛利氏は次のように読まれた。
”その時金人などを作らしむるは、意奴弥首(おぬみのおびと)辰屋、阿沙都蘇首(あさづまのおびと)未沙乃(みしゃの)、鞍部首(くらつくりのおびと)加羅爾(からに)、山西首(かわちのおびと)都鬼(つき)の四名で、諸工を指導してことにあたった”

まり、金人とは仏像を意味し、ここに列記されている渡来系の4人は仏像を作った仏師である、とされた。そして、推古17年に止利仏師が制作した仏像は、推古4年以後に造営された東西両金堂のいずれかに安置されたもの、と解された。

かし、このユニークな根拠も、別の視点から疑問視された。東洋美術史の大橋一章氏は、”『元興寺縁起』を書写した弁豪は誤字脱字が多いから、露盤銘の”金人”は必ずしも「金」にこだわる必要はない、文体からして”奉”つまり使作奉人等(作り奉らしむる人等)と読むべきである”、とする説が出された(『飛鳥寺の創建に関する問題』)。この場合、露盤銘に記された4名は塔と露盤の制作関係者ということになる。

 創建時の中金堂に安置されていた本尊は?

飛鳥寺の春
飛鳥寺の春

利氏が推定した4名の渡来人たちが、創建飛鳥寺の中金銅に安置した金堂釈迦像の制作者ではなかった。この仏像の制作者は鞍作止利であり、しかも完成時期は時代が下がって、606年または609年と推定される。では、596年に飛鳥寺が完成したとき、中金堂にはどのような仏像が祀られていたのか。

の問題にユニークな説を提唱されたのは、仏教彫刻史研究者の久野健氏である。氏は1976年に発表された『飛鳥大仏論』の中で、 @飛鳥寺の金堂は塔と共に推古14年にできあがった、A現在の飛鳥寺本尊は岩座の上に安置されており、その岩座は創建当時のものである、B飛鳥寺の本来の本尊は弥勒の石仏であったと考えてよい、と述べられた。

塔心礎跡
塔心礎跡
勒の石仏については、『日本書紀』は584年(敏達13年)に鹿深臣が百済から弥勒の石像一体を持ち帰ったと記している。この年にはさらに、佐伯連も仏像一体を持ち帰ったとのことだ。蘇我馬子は、二体の仏像を貰い受け、家の東に仏殿を作って弥勒の石像を安置し、渡来人の娘三人を出家させ奉仕させた。また石川の家にも仏殿を作った。そのため、仏法の広まりはここから始まったとされた。

かし、疫病が流行し死ぬ者が多かったので、廃仏派が天皇の許可を得て仏殿を焼き払い、仏像も難波の堀江に捨てたとされている。となると、中金堂に安置された弥勒の石仏はこれらの仏像ではない。史書に記録されない石仏がまだ他に招来していたことになる。嘉祥元年(1106)に大江親通が撰した『七大寺巡礼私記』には、百済からの瑪瑙の弥勒を”本元興寺(=飛鳥寺)金堂に安ず”とあるという。

が、この本元興寺の金堂は中金堂ではなく、東金堂だったようだ。そこで、久野健氏は自説をさらに次のように敷衍された。すなわち、596年に落成した中金堂には石仏が安置されていたが、その後、東西両金堂の建築にともない、この両金堂のどちらかに安置する目的で金銅丈六釈迦像が鋳造された。ところができあがってみると、それは飛鳥寺全体の本尊とするにふさわしい仏像だったので、急に予定を変更して、中金堂に安置し、弥勒石仏は中金堂から東金堂に納めた。

雪の飛鳥寺
雪の飛鳥寺
り終えた金銅丈六釈迦像を中金堂に搬入するにあたって、鞍作止利が苦労した話を『日本書紀』は伝えている。仏像の高さが金堂の戸より高くて、堂内に入れることができなかったので、工人たちは戸を壊そうとした。だが、止利の計らいで戸を壊さずに搬入することができた。そこで、推古女帝はその功をめでて、冠位十二階の第3にあたる大仁の位を止利に授け、近江国坂田郡の水田二十町を賜った、云々。

の金銅丈六釈迦像が完成した609年(推古17年)をもって飛鳥寺が作り終わったと解するならば、建立が開始された588年(崇峻元年)から20年以上の歳月がたっている。直木孝次郎氏もその著の『飛鳥 その光と影』の中で、二期工事説、そして推古17年創建説を支持しておられるようだ。氏は、”歴史の興亡・変転を眺めて1370余年、飛鳥大仏はいまも寂然として坐したまう”と、本書の第7節をしめくくっておられる。



飛鳥寺創建の問題を解くキーは回廊跡の遺構

波書店から出版された『飛鳥の寺と国分寺』の中で、考古学者の坪井清足氏は若き日に従事された飛鳥寺発掘調査の概要を丁寧に説明しておられる。この著書によって、筆者は塔と中金堂の基壇が一重の壇上積基壇なのに、東西金堂の基壇は乱石積の上段と玉石積の下壇からなる二重基壇であることを知った。そして、同じ時期の立てられた3つの金堂の建築手法がなぜ違うのか疑問を抱いた。

飛鳥寺の本堂
飛鳥寺の本堂
と中金堂が第一期工事で596年ころに完工し、東西金堂は第二期工事で605〜609年前後に建てられたと解することで、この疑問は氷解したようにも感じられた。だが、発掘調査の結果は重要なことを指摘している。第一期工事で作られた回廊は移し替えた様子が伺えないという。

初、四天王寺式寺院として平面プランが考えられたのであれば、回廊の東西部分はそれぞれもっと内側に築かれたはずである。そして、第二期工事で東西両金堂が追加されたのであれば、回廊の東西部分を外側に移動させなければ、平面プランのバランスがとれない。そうした疑問を突き詰めていくと、専門家諸氏が出されている二期工事説は成り立たないような気がする。当初から一塔三金堂方式の伽藍配置で立案され、工事が着工されたと考えなければならない。

鳥寺建立に先立って、蘇我馬子は百済に寺工、露盤博士、瓦博士などの技術者派遣を要請している。実際の工事も彼らの指導で行われたことが、『日本書紀』の記述から伺われる。しかし、筆者は高句麗も当初から飛鳥寺造営に深く関わっていたと考えている。5世紀代には、倭と高句麗は互いに敵国として矛を交えたこともあるが、572年(敏達元年)には、両国は国交を開始している。その後は、史書には現れない彼我の往来が日本海経由で活発に行われていたものと思われる。特に仏教に関しては、『日本書紀』にもこの時期に来朝した高句麗僧の名前を数多く伝えている。

四天王寺と飛鳥寺の伽藍配置
四天王寺と飛鳥寺の伽藍配置
ちろん、その裏には、高句麗側が時の権力者蘇我氏とよしみを通じたいとする思惑があったであろう。高句麗の大興王(=嬰陽王)は、当時の高句麗仏教界の第一人者であった恵慈(えじ)を我が国に派遣している。さらに、後には飛鳥大仏を鍍金するために黄金三百両を献上している。

我馬子が氏寺の建立を思い立ったのは、仏教徒として仏教広通を願ったためばかりではなかろう。蘇我氏の権勢の象徴として、仏教寺院はまさにうってつけの建造物だったはずだ。仮に、百済から四天王寺式の伽藍配置が、高句麗から一塔三金堂式の伽藍配置が提唱されたとして、馬子はどちらを選択しただろうか。より豪華で壮大に見える後者を当然選んだであろう。

の場合、百済側には塔と中金堂を、高句麗側には東西両金堂を任されたものと思われる。知恵者の馬子のことである。その際、百済と高句麗の技術者を競わせて早期の建立を目指したであろう。おそらく双方はほぼ同時に工事に着工したものと思われる。だが、高句麗側になんらかの支障が来した。そのため、百済の技術指導のもとで596年に完成した伽藍だけで、とりあえず落慶法要が行われた。高句麗側に生じた支障は、その頃立ちこめ始めた隋−麗戦争(隋と高句麗の戦争)の暗雲ではなかったかと、筆者は想像している。598年に天運に助けられて隋の侵略を退けた高句麗は、中断していた技術支援を開始して605年ころには東西両金堂を完成させたにちがいない。

飛鳥大仏
飛鳥大仏
の頃になると、他の氏族も氏寺の建立に奔走するようになった。ちなみに、624年(推古32年)には46寺院に達するほど氏寺の建立は盛況だった。推測が許されるならば、蘇我氏の氏寺として建立された飛鳥寺が、これらの寺院を総括する官寺として機能する必要が生じてきたのではないだろうか。官寺とは国家の寺である。そのためには、それなりの威厳を備えなければならない。

こで考え出されたのが本尊の作り替えである。仏像の見本を募集したところ、推古女帝は鞍作止利が提出した見本が心にかなった。そこで、605年(推古13年)4月、銅と繍との丈六の仏像をそれぞれ一躯制作することを止利に命じた。『日本書紀』の記述を信用すれば、飛鳥大仏の完成までには1年を要したことになり、丈六光銘を信用すれば、4年を要したことになる。




2007/08/01作成 by pancho_de_ohsei return