橿原日記 平成19年7月25日

中南米の三大文明「インカ・マヤ・アステカ展」を見る

空中都市マチュピチュ
1911年、ハイラム・ベンガムによって発見された空中都市マチュピチュ(Machu Picchu)


インカ・マヤ・アステカ展のチラシ
インカ・マヤ・アステカ展のチラシ
在、上野の国立科学博物館では、中南米の三大文明の至宝約210点を展示した「インカ・マヤ・アステカ展」が9月24日までの会期で開催されている。今回展示されるマチュピチュの遺物やアンデスのミイラは世界初公開であり、その他の展示品もほとんどが日本での初公開だそうだ。中南米の文明に関心を寄せる者にとっては、必見の企画といってよい。

ンデス地域から出土したインカ帝国のミイラが展示されるというので、筆者には今回の東京展が待ち遠しかった。インカ帝国では、王や王妃たちが死後ミイラに加工され、生前と同じように王宮に住み、食事が与えられ、召使いにかしずかれて過ごしたという。インカ人がこうした特有の死生観を持っていたことを、最近になって初めて知った。

となれば遠い昔の話だが、筆者は大学でスペイン語を専攻した。卒論では、アステカ帝国とインカ帝国がごく少数のスペイン人によって滅亡に追い込まれた謎を探った。サラリーマン時代には、かってインカ文明が栄えたペルーで仕事をしたこともある。したがって、これらの中南米の文明は筆者に無縁のものではない。

が、その後は世事に追われて中南米の文明に対する関心が長い間薄れていた。その間に、様々な新しい発見がなされてきたと聞いている。そこで、かって勤務していた企業の先輩たちを誘って、本日久しぶりに失われたインカ・マヤ・アステカ文明に接してきた。以下はその印象記である。


【注】 この「インカ・マヤ・アステカ展」は、東京展のあと神戸、岡山、福岡でも順次開催される。



日本人とルーツを同じくするモンゴロイドが築いた中南米三大文明

からおよそ2万年から1万5000年ほど前、氷河期の海水面低下で当時陸続きになっていたシベリアとアラスカの間のベーリング陸橋を渡って、旧大陸から新大陸へ渡った数百人程度の人々がいた。我々日本人とルーツを同じくするモンゴロイドで、彼らが最初のアメリカ人となった。

の後の地球の温暖化とともに海水面が上昇し、ベーリング陸橋は海の底に沈み、新大陸は我々が住む旧大陸と切り離され、没交渉の長い時間が過ぎた。広大な南北アメリカ大陸に進出した数百人の人々は、1万年以上の歳月をかけて多様な環境に適合しながら人口を増加させた。15世紀末にコロンブスがアメリカを発見したとき、南北アメリカは千以上の語族と数千万人の人口を擁していたと推定されている。

新大陸の三大文明圏
新大陸の三大文明圏

大陸での四大文明は、いずれも大河のほとりで興った。農耕定住生活を基本とする社会では、安定した水利が必須条件だった。だが、新大陸では事情が違った。中南米で興った三大文明はいずれも大河の存在を前提としていない。

ヤ文明は、紀元前2000年ころユカタン半島の熱帯雨林とその周辺部で興った。アステカ文明は13世紀ころ、半農半狩猟を営んでいたメキシコ北方の人々がメキシコ中央高原へ南下して築いた文明である。南米では紀元前2100年から1500年ころ定住農耕村落を成立させた人々が各地に地方文明を築いたが、やがてそれらの文明は中央アンデスの標高3000m前後の盆地に13世紀の初めころ築かれたアンデス文明に収斂していった。

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大陸の人々に知られることなく栄華を誇ったこれらの文明は、コロンブスの新大陸発見に続く大航海時代に押し寄せたスペイン人によってあっけなく滅ぼされてしまった。しかし、これらの文明が世界に及ぼした影響は多大だった。食べ物を例にとっても、我々日本人にとってなじみ深いトウモロコシやジャガイモ、サツマイモ、インゲン豆、トウガラシ、カボチャ、トマトなどの作物の原産地は、いずれも中米かアンデスである。

のため、現在全世界で栽培されている作物の5分の3は、新世界で野生食物に改良が加えられ栽培化されてきた植物であるとされている。新世界原産の植物には医学に貢献したものもある。局部麻酔剤として用いられてきたコカイン、マラリアの特効薬キニーネなどはその代表だ。近年、その有害性のため追放が叫ばれているタバコも新世界原産である。

世界からヨーロッパにもたらされた金銀の存在も、見逃すわけにはいかない。特に1540年代に発見されたボリビアのポトシ銀山やメキシコのサカテカスあるいはグアファト銀山の採掘は、シルバー・ラッシュを生んだ。大量の銀貨がヨーロッパ市場に出回り、インフレが1世紀にもわたって継続したという。



ユカタン半島中央部の熱帯雨林の中で栄えたマヤ文明

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マヤ文明の遺跡チチェン・イッツァ(Chichén Itzá)に築かれた「ククルカンのピラミッド」


失われた文明 インカ・マヤ・アステカ展」の東京展は、上野公園の中にある国立科学博物館の地球館(新館)で7月14日から開催されている。国立科学博物館は、野外展示されているD51の機関車の横に、この東京展のための会場入口を特別に設けていた。

国立科学博物館 特別に設けられた入口
国立科学博物館 特別に設けられた会場入口

球館の地階に設けられた今回の展示展は、3つのセクションに区切られていて、マヤ文明→アステカ文明→インカ文明の順に、それぞれの出土遺物を見学できるように配慮されている。入口では、映像とパネルで、それぞれの文明の歴史を紹介していた。

 マヤ文明の歴史

密林の中の大遺跡ティカル
密林の中の大遺跡ティカル
ヤ文明は、16世紀にスペイン人による大陸征服が行われる以前に、中央アメリカのユカタン半島全域とその東西で栄えた多くの地域文明の総称である、テレビその他のメディアでは、熱帯雨林の中にそびえ立つピラミッド神殿がマヤ文明の遺跡として紹介されることが多い。そのため、マヤ文明は熱帯雨林の中で栄えた文明と見なされているようだ。だが、一般には、マヤ文明の地域は、南部、中部、北部の3つの地域に分けられ、地域と時代に応じて多様な形で発展してきたことが分かっている。

ヤ文明が大いに繁栄したのは、紀元300年頃から9〇〇年頃にかけてである、考古学的にはこの時期を古典期と呼んでいる。この古典期を境にして、マヤ文明はそれ以前の先古典期(紀元前2000−紀元300年頃)とそれ以後の後古典期(紀元900年−16世紀にスペイン人に征服されるまで)の3つの時代に区分される。

ーリング陸橋を渡って新大陸へ渡ってきた最初のアメリカ人の子孫たちは、紀元前2000年頃にはユカタン半島の熱帯雨林に居住するようになった。彼らは独自の土器文化を発達させるとともに、メキシコ湾岸で興ったオルメカ文明(紀元前1500−前300年)やそれを継承する諸伝統を受け継いで、マヤ暦とマヤ文字が刻まれた記念碑を低地に築いている。

ティカル遺跡
密林の中に築かれたティカル遺跡。左に聳えるのが1号神殿(別名ジャガー神殿)

ヤ文明の特徴の一つに、金属器を知らなかったことがある。つまり、マヤの人々は石器時代の技術水準でありながら、繁栄が困難とされる熱帯雨林に適応し、その中で国を築いてきた。紀元300年から900年の古典期には、中部地域を中心に60から70の国が各地に存在したことが知られている。

ヤ地域では、人々が歩いて集まる距離程度で、政治と祭祀がよく行き届く範囲に国があった。最近では、この「国」を「都市」と呼ぶことが多い。遺跡の規模から、当時の国の規模は5万から10万の人口を擁するにすぎないことが分かってきたためだ。その実態は、ピラミッドの立ち並ぶ中心区域の周辺に農民の居住地や耕地が点在しているといったものだ。

の中には、属国を従えたティカルやカラクムルなどの大国もあった。そのため、国と国の間には、敵対と友好、支配と従属といった関係が存在した。しかし、アステカやインカのように全土を統一する王朝はついに成立しなかった。

古典期に入ると、中部地域の国々の発展は急速に失速し、神殿も石碑も建設されなくなった。ついには高度な文明を築いた人々もいなくなって、あとには、広大なジャングルと壮麗な神殿だけがひっそりと取り残された。古典期のマヤ文明崩壊の原因については、外国の進入、乾燥化による熱帯森林の環境の変化、過度の人口増大、内紛、戦争などさまざまな説が出されている。

部地域で古典期に栄えた国が次々と衰退し放棄された後、特に北部低地を中心として、ウシュマルやチチェン・イツアなど新たな政治形態の国が栄えた。スペイン人たちがマヤ地域にやってくる前には、メキシコのマヤパン、グァテマラのイシムチェ、ウタトラン(クマルカフ)にマヤ人たちの王国が存在していた。


 マヤ文明の特徴

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カラクムル遺跡最大のピラミッドの
墓から出土したヒスイ製仮面(*)
ヤ文明の出土品で、まず人目を引いたのはヒスイの仮面である。古典期に栄えたカラクムル遺跡の最大のピラミッドの墓から発見されたヒスイのモザイク仮面で、目と鼻飾り、口、牙に貝と黒曜石が象眼されている。

説によれば、当時の王や高位の人物の中には、ヒスイの仮面をかぶせて埋葬された者が多いとのことだ。ヒスイは産地が限定されており、威信財として貴人の装身具などによく使われている。特にマヤでは、緑色は生命を象徴する色とされており、ヒスイが珍重された。ヒスイの他に貝や黒曜石も用いられていることから、当時のマヤ地域では国家間で遠距離交易を盛んに行っていたことが推測される。カラクムルもそうした国の一つだった。

ヤ文明の最大の特徴は、旧大陸のいわゆる「四大文明」のように大河の周辺に興った文明ではないことだ。大河のない熱帯雨林の中で、それぞれの都市を築いて栄えた文明である。全盛期とされる古典期でも、上述のようにマヤ地域には60から70の都市が各地に存在していた。

ヤ文明はまた、青銅器や鉄器などの金属器を持たない新石器時代の文明だった。マヤ文明を代表する石造彫刻は、みな硬い石の道具で彫られている。さらに、マヤの人々は牛や馬などの家畜を持たず、車輪の原理も知らなかった。したがって、人力だけでピラミッドを建設したり、物品を担いで遠距離交易などをおこなった。

方、密林で焼き畑農業によって生計を立てていくために、マヤの人々は天体観測によって精緻な暦を考案した。彼らが用いた暦には、「循環する時間」の観念に基づいて作られたハアブ暦と呼ばれる365日暦と、ツォルキン暦と呼ばれる260日暦がある。その他に、「直線的な時間」の観念に基づいて作られた長期暦と短期暦がある。

アブ暦は、太陽の動きを基にして1年を数えた暦である。1ケ月は20日からなっていて、20日の月が18回繰り返されると(=360日)、最後に5日の特別な期間が設けられて1年が終わる。ツォルキン暦は、日々の吉兆を占うのに用いられたもので、1から13までの数字と20種類の記号からなっている。毎日、数字がひとつずつ繰り上がると同時に20種類の記号も一つずつずれていき、260日で一巡する(中国の十干十二支を組み合わせて60日で一巡するのと似ている)。

マヤの石碑に刻まれた日付
マヤの石碑に刻まれた日付(*)
かし、ハアブ暦もツォルキン暦もそれぞれ単独で用いられていたわけではなく、日にちを長期的に特定するため、両方の暦を組み合わせて使われていたようだ。365日暦と260日暦が歯車のようにかみ合って回転し、365日暦が52回転、260日暦が73回転すると、18,980日が経過して最初の組み合わせに戻る。この大周期は、我々が用いている「世紀」に似ている。

方、マヤでは古くから「直線的な時間」の観念に基づいた暦も用いていた。この暦は、古典期の終焉とともに使われなくなるが、現在我々が使用しているグレゴリオ暦に良く似ていて、紀元前3114年8月11日を起点として累積する時間を表したものである。この暦は、キン(1日)を最小単位として、ウイナル(20日)、トゥン(360日=約1年)、カトゥン(7200日=約20年)、パクトゥン(144000日=約400年)の5つの単位を用いて日付を表すもので、長期暦と呼ばれている。

ヤの石碑では、長期暦の大きな単位から順次小さな単位を記述して、マヤの世界創造の時(紀元前3114年)から経過した日数で石碑が建立された日付を表している。しかし、後古典期に入ると、長期暦の代わりに短期暦が使われるようになる。長期暦のカトゥン(7200日=約20年)の位を利用したもので、カトゥンが13回繰り返されると、暦が一巡する。すなわち、20年X13=260年周期の暦である。

マヤ文字の例 太陽神の四脚土器に描かれたマヤ文字
マヤ文字の例 太陽神の四脚土器に描かれたマヤ文字(*)

ヤ文明の人々は、オルメカ時代に発明された記号を受け継ぎ体系化して独自の文字体系を作り出した。このマヤ文字は、表語文字として一字で意味を表す場合と、音節文字を組み合わせて読みのみを表す場合と、さらにはわざわざ表語文字に音節文字を組み合わせる場合があるという。これらの文字の種類は4万種に及ぶとされている。

ヤ地域にやってきたスペイン人の神父たちは、マヤ文字で書かれた文書を異教の書と見なしてそのほとんどを焼却してしまった。そのため、これまでに発見されたマヤの文書はわずかに4冊しか残っていない。そのためマヤ文字は解読が不可能と思われたが、1970年頃から解読が急速に進み、現在では遺物に刻まれたマヤ文字の8割程度がすでに解読されているという。

部低地のドス・ピラス遺跡から出土した太陽神の四脚土器が展示されていた。土器の中央にはチャク・シブ・チャックという太陽神の顔が描かれ、土器の内壁には、17文字が描かれている。これらの絵文字で、この皿がモトゥール・デ・サンホセ遺跡として知られる国の王のものであることを示している。

 ククルカン(羽毛のある蛇神)が知らせる春分の日と秋分の日

ヤの人々はユカタン半島の密林で焼き畑農業によって主食のトウモロコシを栽培していた。雨期の到来や気温の変化に合わせて作物の生育に必要なタイミングで種を播き収穫していくには、季節の変化を予測することが死活問題だった。そのため、マヤ文明では太陽の天体観測が発達し、精緻なマヤ暦が考案されたのは上記の通りである。

らはまた、春分の日や秋分の日を正確に知る仕掛けを考案した。その仕掛けが、マヤ文明最大の遺跡であるユカタン半島北部に位置するチチェン・イツァーの遺跡の中にある。「ククルカンの神殿」と呼ばれているピラミッドである。

北の階段を天下るククルカン
北の階段を天下るククルカン
クルカンとは、羽毛のはえた蛇の形で表される水や農耕に関わる蛇神でのことで、メキシコのアステカ神話ではケツァルコアトル(Quetzalcoatl)と呼ばれている。この蛇神を祀るピラミッドは、高さ25m、底辺55m、9層の基壇を持つ壮大な石の建造物である。9世紀初頭に完成したとされるピラミッドは、全体が暦を意識して設計されているという。すなわち、四面に91段の階段が築かれていて、これを合計すると364段になる。これに頂上神殿の1段を加えると、1年の日数と同じ365段になる。

クルカン神殿の四面はほぼ東西南北に面しているが、方角が微妙に東西南北からずらしてある。このため、太陽が真西に沈む春分、秋分の日の夕方には、ピラミッドの影が北の階段に投影して、階段の下に置かれた蛇の頭像と9層のピラミッドのなす影が合体して見える。それは、羽毛のはえた蛇神の巨大なククルカンが神殿から天下ってくるように見える。

ヤの人々は、このククルカンの天下りで、春分の日の到来を知り、焼き畑作りを開始したという。現在はこの神の天下る姿を一目見ようと、大勢の観光客がチェチェンイッツア遺跡に集まってきて、一大観光イベントとなっている。



メキシコの中央高原に栄えたアステカ文明

テンプロ・マジョール遺跡
メキシコ市の地下から発見されたアステカの宗教の中心テンプロ・マジョール(Templo Mayor)遺跡


ウイツィロポチトリ(Huitzilopochtli)
部族神ウイツィロポチトリ(Huitzilopochtli)
雨と農耕の神トラロック
雨と農耕の神トラロック(Tláloc)(*)
978年、メキシコ市の地下に長らく埋もれていたアステカ(Azteca)時代の大神域が発見された。スペインの征服者たちが、”テンプロ・マジョール(Templo Mayor)”と名付け、植民地時代の初期に破壊しつくしたアステカの精神社会を象徴する遺跡である。そのテンプロ・マジョールの一番奥に二つの神殿を双子のように戴く大基壇があった。それぞれの神殿には、太陽と戦争の神であり部族神でもあったウイツィロポチトリ(Huitzilopochtli)と、雨と農耕の神トラロック(Tlaloc)が祀られていた。

立科学博物館の「マヤ文明」に続く「アステカ文明」のブースでは、テンプロ・マジョールから出土した数々の品を展示して、アステカの人々が信じた神々や、神に供物を捧げる生け贄の儀式などを紹介していた。

 アステカの歴史

キシコの高原盆地に栄えたアステカ文明の歴史は意外と短い。メシーカ(Mexica)と自称するアステカ族が、長い放浪の果てにメキシコ盆地に移り住んだのは1250年から1298年にかけてのことである。彼らはメキシコの北方で半農半狩猟の生活を営んでいた。だが、紀元1200年頃からメキシコ及び中央アメリカ北西部が乾燥化しだしたため、メキシコ中央高原に向けて南下することを余儀なくされた。そして、メキシコ盆地のテスココ湖畔にたどり着くと、湖の西岸にあったアスカポツァルコという国に臣従する形で、湖岸に住み着いた。

ステカが国家としての体裁を整えてくるのは、1345年、テスココ湖に浮かぶ湿地の多い島を干拓して自らの居所を定めてからである。彼らは移住を率いていた首長テノチの名をとって、その町をテノチティトラン(Tenochtitlán)と名付けた。1358年には、アステカ族の別の一派がテノチティトランの北側にトラテロルコを作った。その結果、テノチティトランは軍事の中心地として、トラテロルコは商業の町として栄えることになった。

湖上の王都テノチティトランのイメージ
湖上の王都テノチティトランのイメージ

428年、アステカは臣従していたアスカポツァルコを滅ぼし、テスココとトラコパンという都市と三都市同盟を結んだ。これがアステカ発展のきっかけとなった。このときから、アステカは中央高原の諸都市の征服に積極的に乗り出して行く。

古文書に描かれた「ワシの戦士」と「ジャガーの戦士」
古文書に描かれた「ワシの
戦士」と「ジャガーの戦士」(*)
力な軍事力で、アステカは15世紀半ばにはメキシコ湾岸、太平洋沿岸まで領土を拡大し、500万人以上を支配した。被征服民を従属させるために、インカの支配階級は社会制度や法制度、労役の分担など内政面に気を配ったとされている。しかし、従属国からの貢納や地方特産物の献上、遠距離地域との交易を保証するものは、武力による懲罰への恐怖だった。「ワシの戦士」や「ジャガーの戦士」に象徴される軍団はそのための重要な役割をになった。

519年、スペイン人のエルナン・コルテス(Hernán Cortés)は、エル・ドラドを求めてわずか550人の兵士と14門の大砲、そして16頭の馬を率いてユカタン半島に上陸した。幸運にも伝説の白い善神ケツァルコアトル(Quetzalcóatl)神と同一視され、インカの皇帝モクテスマ2世王に迎え入れられてテノチティトランに入城した。このころ、アステカ族は現在のメキシコの中央部に、40近い地方国家や部族から貢納を受け取る大国家を作っていたという。

ルテスはテノチティトランのいたる所を案内され、この町の豊かさと繁栄ぶりに目を見張り、アステカ征服の意を固めた。コルテスが僅かの守備隊を残して一時テノチティトランを去ったとき、その隙をねらってアステカはコルテス勢力を除こうとした。そこで、コルテスはアステカと敵対していたトラスカラ王国などの周辺諸国と連合してアステカに攻撃を加え、1521年までにこれを滅ぼした。コルテスは、植民地「ヌエバ・エスパニョーラ」の首都、現在のメキシコシティを、テノチティトランの廃墟の上に建て、その別名メシコをもって新しい都市の名とした。現在テスココ湖はほとんど埋め立てによって消失している。

 アステカの生け贄の儀式

ステカ文明は、先行するオルメカ、テオティワカン、マヤ、トルテカ文明を継承し、製陶・土木・建築・工芸に優れていた。また、マヤと同様に精緻な天体観測で、シウポワリ暦と呼ばれる365日暦やトナルポワリ暦と呼ばれる250日暦を作った。アステカは王を頂点とする中央集権的国家であり、この国を支えたのは整備された行政組織や法秩序、および階層社会に組み込まれた経済システムであったことが、残された古文書の解明によって明らかにされている。

古文書に描かれた生け贄に儀式
古文書に描かれた生け贄の儀式(*)
ステカ文明の中で我々がよく理解できないのは、生け贄の慣習である。テンプロ・マジョールの双子の神殿では、たびたび生け贄の儀式が行われたことが古文書に記されている。なぜアステカの人々は、生きた人間から心臓を取り出し神に捧げなければならなかったのか。その理由を知るには、彼らの宗教観を理解しておく必要がある。

ステカの人々は、自然の万物や現象は神聖なものであり、人間のコントロールを越えた力、すなわち神々の意志によってその秩序が保たれていると考えていた。アステカ神話によると、人間は過去に神への敬いを欠いたために、4度にわたって世界は創造と破壊を繰り返した。そして、第5番目の世界である現世を創造するために、ナナワツインとテクシステカトルという二神が燃えさかる火の中に飛び込んで、現在見られる太陽と月が生まれたという。また、人間はケツアルコアトル神が地下世界に行って過去の死者たちの骨を集め、それに自らの体を傷つけて出した血を振りかけて作りだしたものだという。

まり、自然界は神々の自己犠牲によって成り立ち、人間も神の犠牲によって創造されたのであり、そのお陰で、我々は太陽の光と熱を受け、日々生かされている。人間が存続していくためには、人間にとって最も大切な命の象徴である心臓と血を神々に捧げ、最大限の畏敬を示さなければならない。そうすることで、太陽や月が運行し、自然界が再生を繰り返し、農作物や人間の誕生から死までが循環することが保証される。

ウイツィロポチトリ神(左)とトラロック神(右)
ウイツィロポチトリ神(左)とトラロック神(右)
ステカの社会はこうした神話に基づく宇宙の摂理を保つために、様々な聖地で特定の意味のある日に生け贄の儀礼を行っていた。「双子の神殿」は、部族の守護神であり太陽神でもあるウイツィロポチトリと雨と、農耕の神であるトラロックを祀る生け贄の儀式を行った場所である。

450年代初頭の大飢饉の際には、大勢の子供がトラロック神に捧げるため生け贄にされた。神殿増築と戦勝を記念して1487年にウイツィロポチトリ神に捧げられた儀式では、数千人の捕虜の生け贄が4日間続けられ、白い漆喰の神殿が鮮血で染まり、歩道は血の池を作ったという。

ステカには、「ワシの戦士」および「ジャガーの戦士」と呼ばれる超エリート戦士たちで組織される国王直属の軍団があった。彼らの重要任務は、生け贄のための捕虜の確保であり、隣国のトラスカラやウェショツィンコに戦争を仕掛けて捕虜を捕まえてきた。こうした戦いは「花の戦争」と呼ばれていた。花の戦争のお陰で、生け贄のための捕虜が不足することはなかったという。

ワシの戦士像
ワシの戦士像(*)
け贄の儀式は、祭壇の上で捕虜の胸を切り裂き心臓を取り出す、生け贄の皮を剥いで神官が着て踊る、火の中に生きたまま投げ込むなど、現代の感覚からすると想像を絶する方法で行われた。

ンプロ・マジョールの双子の神殿の北側から「ワシの家」と呼ばれる建物跡が発掘された。そこはワシの戦士たちの司令部だった。内部から等身大の土で作られたワシの戦士像が出土した。今回の展示展では「人身供犠と信仰」というコーナーにその像が飾られていた。ワシの頭飾りを被り羽毛や鉤爪をつけたコスチュームで体を覆っている姿は、見る者に異様な雰囲気を与えた。



南米アンデス高地のクスコを都としたインカ文明

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インカ第9代の王パチャクティによって築かれた空中都市マチュピチュ(Machu Picchu)


 インカ前史

央アンデスのインカの版図となった地域は、エクアドルからチリ中部におよび、海抜0mの海岸砂漠から、6000mを越えるアンデス山脈をまたいで、アマゾンの熱帯雨林まで含んでいる。この広大な地域を支配しインカ文明を開化させた部族が、1200年ごろペルーの標高3600mのアンデス高地クスコ(Cusco;Qusqu)に興ったケチュア族である。

インカ帝国の版図
インカ帝国の版図
が、インカ帝国が出現するまでには、幾多の地方文明が中央アンデス地域で生まれ、そして消えていった。ここで、インカの前史ともいうべき、これらの地方文明の消長を簡単にふれておこう。

央アンデス地域に定住農耕生活が普及したのは、紀元前2000年ごろとされている。その後、様式化されたジャガー神をモチーフとした器形の壺に代表される地方文明があちこちで生まれた。代表的なものに、中央高地で栄えたチャピン文明、あるいは北海岸で生まれたクピスニケ文明がある。

元前200年ごろになると、それぞれの伝統を引き継いだ新しい文明が生まれた。北海岸のモチェ文明、南海岸のナスカ文明などである。そして、紀元600年から900年ごろにかけて、最初の広域国家が北高地から南高地に出現して栄えた。ワリとティワナクである。その後は再び地方国家の時代に入る。その中でシカンやチムーという国が北海岸で強大だった。これらの国々を統合し大国家を作ったのが、上記のケチュア族で、80の民族をわずか50年で統一したといわれている。

 インカ帝国の繁栄と滅亡

3世紀の初めにインカ帝国を作り上げたケチュア族は、自分たちの国をタワンティンスウユ(Tawantin Suyu )と呼んだ。その意味は「4つの部分が集まったもの」であり、事実、最終的にはインカの国土は4つの州または4つの部分から成り立っていた。

インカの王道カパック・ニャン
インカの王道カパック・ニャン(*)
ンカの王統は、初代のマンコ・カパックから1532年にスペイン人のフランシスコ・ピサロに捕らえられたアタウワルパまで13代を数える。王国建設のための征服活動は、第8代のビラコチャのとき始まったとされている。1438年ごろ、クスコが巨大なチャンカ国に侵略されたとき、ビラコチャは皇太子のウルコン王子を連れてクスコを離れた。

かし、インカ・ユパンキ王子はクスコに留まって防戦し、チャンカを追い払った。この王子が第9代王として即位したパチャクティである。征服戦争は第11代ワイナ・カパックまで続き、1476年ごろこの国家が完成したとされている。

クアドルからチリにいたる広大な領土を治めるためにインカが行ったのは、カパック・ニャン(王道)と呼ばれるインカ道の整備だ。インカ道は海岸と山地に一本ずつ南北に走る幹線道路と、これらの幹線道路を東西につなぐ多くの支線で成り立っている。インカ道の総延長は4万キロにも達し、要所は敷石で舗装され、狭いもので幅3m、広いもので20mを越えたという。

ンカ道には、一定の間隔をおいてタンボと呼ばれる宿駅が置かれた。軍隊の移動のための食糧や物資の供給、行政官による巡察の便に供するものだった。また、タンボの他に、チャスキと呼ばれる継飛脚が休まずに全力で走りきることができる距離ごとに、専用の小屋も設置された。(我が国でも律令制の時代に、唐にならって駅制が導入され、京を中心に街道に駅(うまや)が設けられ、重要な通信には「飛駅」とよばれる至急便が用いられた)。

結び目で数を記録したキープ
結び目で数を記録したキープ(Chupu)(*)
うした巨大な道路網と駅制の整備で、情報の伝達と物資の輸送が円滑に行なわれ、インカはその勢力を拡大していった。しかし、驚くべきことに、インカは大量輸送に欠かせない「車輪」も、情報の伝達に必要な「文字」も全く知らなかったという。建造物に使用された巨大な石は、主にテコを用いて人力によって運ばれ、また文字の代わりに「キープ」と呼ばれる毛製の紐に結び目を規則的に編みこむことにより、様々な情報が伝達された。

ンカは、伝統的な制度を有効に活用して国家を作り上げたとされている。征服した土地はインカのものとして撤収し、それを3つに分けてインカの土地、宗教の土地、アイユ(農民の伝統的な共同体)の土地とした。そして、インカの土地と宗教の土地の収穫物は国家に帰属させ、民衆には畑を耕す労働力のみを要求した。収穫物は現物あるいは税としてインカ道を介してクスコに運ばれた。

インカの王都だった現在のクスコ
インカの王都だった現在のクスコ

ヤやアステカの文明は10世紀まで金属器を作る技術を知らなかったが、中央アンデスの諸文明は金銀銅の装身具や利器を紀元前の時代から製作してきた。そうした技術を受け継いだインカでも金製の装身具が盛んに作られた。インカ皇帝は太陽の子であり、黄金の輝きは太陽を象徴するものとして、皇帝の権威を永続させるために利用された。そのため、エル・ドラド(黄金郷)伝説がヨーロッパに伝わり、黄金を求めてスペインの冒険野郎が南米を目指すことになった。

1970年に筆者が訪れた頃のマチュピチュ
1970年に筆者が訪れた頃のマチュピチュ
スコから北西方向にウルバン川に沿って114kmほど下ると、峡谷に面した標高2280mの山の頂きにマチュピチュ(Machu Picchu)遺跡がある。アメリカの探検家ハイラム・ビンガム(Hiram Bingham)によって1911年7月に発見されたこの遺跡は、スペイン人によって追い詰められたインカ最後の都として一躍有名になり、現在でもユネスコに登録された世界遺産の中で最も知名度が高い。

第9代王パチャクティ
第9代王パチャクティ
チュピチュは、第9代の王パチャクティが15世紀半ばに築いた空中都市である。マチュピチュ(老いた峰)とワイナピチュ(若い峰)という二つの山に囲まれた尾根の上に築かれていて、北側に宗教・儀礼施設と居住区、南側に農業用テラスが配されている。そのため、現在ではインカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものであったと理解されている。実際、インカ人が崇めていた太陽を観測する施設が存在し、そこには冬至と夏至の日に太陽がちょうど正面に現れる窓が付いている。

ペイン人によるインカ帝国の征服は、まことにあっけないほど簡単に行われた。インカの征服者フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)は、何度か南アメリカを探検してインカ帝国の存在を知ると、1528年にスペインに戻り、カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からペルー支配の許可を取りつけたという。そして、募集した兵士とともに1530年にパナマに戻り、翌年の1531年に現在のペルー地域への侵入を開始した。そのとき彼が従えたのは、たった180人の兵士と37頭の馬だけだったという。

フランシスコ・ピサロ
フランシスコ・ピサロ
れだけの兵力でピサロがインカ帝国を滅ぼすことができたのは、さまざまな僥倖のお陰とされている。まず、インカはスペイン人が携えてきた鉄砲も、彼らが騎乗してきた馬という乗り物も知らなかった。馬を駆りながら馬上から発砲するスペインの兵士の前に、インカの軍隊は逃げまどうばかりだったという。

らに、インカ内部の内紛もピサロに味方した。第11代の王ワイナ・カパックが、1525年頃、ヨーロッパ人から伝わった天然痘で死亡した。このとき、王だけでなくインカ帝国の数百万人の人々も天然痘で命を落としたとされている。ワイナ・カパックの死によって、皇太子のワスカルと王子のアタワルパが王位継承をめぐって内戦が起きた。ピサロがインカに入った頃、ワスカルを倒したアタワルパが北高地のカハマルカ近郊に滞在中だった。

532年、ピサロはカハマルカでアタワルパと会見し、その場で生け捕りにした。アタワルパは身代金として莫大な金銀の提供を申し出た。ピサロはそれを受け取ったにも関わらず翌年7月にアタワルパを処刑してしまった。その後も、インカ帝国の分裂を巧みに利用しながら進撃し、1533年11月にはインカ帝国の首都クスコに無血入城し、新王マンコ・インカが支配する帝国を実質的にスペインの手中におさめた。

 ミイラに見るインカの死生観

マチュピチュ遺跡からの出土品
マチュピチュ遺跡からの出土品(*)
服を着た大人と子供のミイラ
服を着た大人と子供のミイラ(*)
立科学博物館の今回の展示展では、マヤ文明とアステカ文明の遺品を見学した後にインカ文明のコーナーが設けられていて、その5番目のブースにマチュピチュからの出土品が展示されていた。現地以外で、マチュピチュ遺跡からの出土品が公開されるのは、今回が世界で初めてだそうだ。このブースには、マチュピチュで発見された唯一の金製品であるブレスレットや、2002年に3基の墓の中から出土した蓋付き高台土器などが展示されていた。

のブースでは意外なものを見ることになる。ペルー南端の海岸地域で栄えたチリバヤ文明(紀元900−1440年)の中心だったイロから出土したミイラである。イロはアタカマ砂漠の一部をなす塩分を含んだ乾燥地帯である。そのため、雑菌が育ちにくくミイラを作るにはうってつけの環境だそうだ。

示されていたのは、服を着た大人と子供のミイラや、金のマスクを付けたミイラの頭蓋骨、犬のミイラ、遺体処理して内蔵を取り除き胎内に獣毛が詰められていた男性のミイラなどである。人間のミイラはうずくまった姿勢で体を屈められ、衣服の上から布を巻いて埋葬包みにされている。

説によると、古代アンデスでは、死後の世界に旅立つ死者の体に手を加え、処理を施す風習があった。死者があの世でも不自由のないように、食物や手仕事の材料とその道具、日常生活や宗教儀礼に用いる品々を携えて行く必要があると考えていたようだ。

らに驚いたのは、アンデスでは死者は生者と共存してきたという。いったん埋葬された後ミイラ化した遺体が取り出され、衣服を着せ替えたり、あらたな供物を供えたりして死者への気配りを怠らなかったそうだ。ときには死者は共同体にとどめられ、宗教儀礼に参加し、輿にのって行進し、人々から崇められることもあった。

ンカに先行する地方文明のこうした風習は、インカにも受け継がれた。スペイン人の記録によると、インカ王のミイラは、生前に属していた王の親族集団であるパナカの屋敷や専用の洞穴に安置され、専属の担当者にかしずかれていた。それだけではない。良質の衣服を何重にもまとい、食物や飲み物が与えられ、生前と同じように扱われた。時には、輿に乗って他の王のミイラやその時代の王を訪問し、主要な儀礼の際には広場や神殿に持ち出されたとのことだ。しかし、偶像崇拝根絶を目指すスペイン人の徹底した破壊によって、インカ王のミイラはすべて失われ現存しているものはない。



(*)「インカ・マヤ・アステカ展」の図録より転載

2007/07/31作成 by pancho_de_ohsei return