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| 世尊寺の中門 (2007/07/05 撮す) |
見 学 メ モ
【宗派】曹洞宗 |
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参道の両脇に残る東西両塔跡の礎石群
寺伝によれば、聖徳太子建立の48寺の一つとされる比蘇寺が、用明天皇元年(西暦586年)にこの地に創建されたと伝えられている。そのことの証(あかし)のように、山門の左手前に「史跡 比曽寺跡」の碑が立っている。山門の右手前には、寺の略縁起を記された案内板が立てられている。残念ながら、表面のペンキが剥げて、何が書かれているのか判読しがたい。 それよりも驚いたのは、山門に掲げられた扁額である。「日国 最初 洞窟」と書かれている。宝暦元年(1751)に世尊寺を再興した開祖・雲門即道(うんもんそくどう)禅師の筆である。我が国で最初に建立された寺という意味なのだろうか。
山門を入ると、右側に「天照大神社」が鎮座している。祭神として天照大神を祀っている。神祭用の湯釜が残っていて、銘に「明応5年(1496年)丙辰9月8日比曾現光寺」の銘が刻まれている。だが、この神社の創建は遅くとも室町以前にさかのぼるとのことだ。明和2年(1765年)に作成された世尊寺校割帳や同3年に作成された世尊寺年譜から判断すると、神社は同寺の鎮守で、比曾村の氏神であった事がわかるという。 拝殿が施錠されていて本殿を見ることができなかった。だが、横に回ると、白塀に囲まれた中に朱塗りの彩色を施した春日造りに立派な本殿が聳えていた。
山門から中門に向かって一直線に続く参道の両脇に、比蘇寺の東塔跡と西塔跡がある。寺伝によると、東塔は聖徳太子が父の第31代用明天皇のために、西塔は炊屋姫(後の推古天皇)が亡き夫の第30代敏達天皇のために建立したとのことだ。
まず文禄3年(1594)には、吉野に花見に来た豊臣秀吉が塔の優美さに惚れ、伏見城の観月橋下に移築される。しかし、7年後の慶長6年(1601)年には徳川家康によって近江園城寺(三井寺)に再度移築される。現在近江園城寺に聳える総高約25mの三重塔(重文)は、かって比蘇寺の東塔としてこの場所に建っていたものである。 東塔跡では、菩提樹の巨木が日陰を作っている。昭和50年頃、3本の細い苗木を寄せ植えしたものが決着して1本となったという。毎年6月に開花して実を結ぶ。
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中門から東西に延びる回廊に囲まれた堂宇
中門から右に延びる回廊を視線で追うと、その先に二階建ての鐘楼堂が聳えている。銘が刻まれていないためはっきりしたことは判らないが、二階に吊された鐘はかなり古いもののようだ。後で住職に伺った話だと、鐘の音が遠くまで届くように、わざわざ二階建てにされたそうだ。毎日午前11時に、住職はこの鐘楼堂に登って6回鐘を突く。正午ではなく11時に鐘を突くというのが面白い。まもなくお昼であることを予告するための鐘の音だそうだ。 右手の庫裏の前に一本の巨木が聳えている。名前を「ハナノキ」という。冗談かと思ったが、れっきとした木の名称である。カエデ科カエデ属の木で、ハナカエデともいう。岐阜県東南部、長野県南部の限られた地域のみ遺存的に成育する「生きている化石植物」とも言われる大変珍しい樹木だそうだ。奈良県には5本しかない。新芽が吹く前の4月頃、小さな赤い花を咲かせるとのことだ。 目を左に転ずれば、聖徳太子十六才孝養像を本尊として祀る太子堂がある。角屋の鬼瓦には享保7年(1722)とか享保9年(1724)の銘が彫られているものがある。さらに、内部の虹梁絵様、蟇股(かえるまた)などの細部様式なども考え合わせて、18世紀前期頃の建築物と推定されている。仏壇部を角屋として突き出した形式は、県内でもあまり例を見ない建て方のようで、平成元年3月に奈良県の有形文化財に指定された。
現在、本尊の太子孝養像は本堂の本尊・阿弥陀如来座像の横に並べて安置されている。住職の話だと、団体の参拝客が多いための配慮だそうだ。世尊寺では、毎年4月29日に聖徳太子報恩大会式を行っている。当日、本堂では大般若経が奉納され、中庭では大ごく撒きが行われる。あらかじめ焚かれた17斗の餅を特設の矢倉の上から参拝者に撒かれ、にぎわいを見せるとのことだ、以前は、餅の奪い合いで喧嘩になり、「喧嘩ごく撒き」の異名が付けられるほど怪我人が出たそうだ。 |
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創建時の比蘇寺の講堂跡に建つ世尊寺の本堂
まだ約束の時間前だったので境内を散策していると、庫裏から出てこられた住職の本山一路氏から声を掛けられて、本堂の中へ案内された。現在の本堂は創建時の講堂があった場所に建っているお堂である。
全体の印象としては、穏やかな顔かたちであり、止利仏師の作とされる法隆寺の釈迦三尊像とはかなり異なった印象を与える。しかし、衣文や服飾が左右対称である、通肩の衲衣をまといその下の胸部正面に下着とその帯の結び目を現す、といった服制は北魏様式のものと見た。 住職は、阿弥陀座像を前にして、この仏像が飛鳥時代に比蘇寺に安置されるようになったいきさつを話された。その骨子は、ほぼ『日本書紀』の欽明紀の伝承と同じである。しかし、住職は面白い話を付け足された。楠木が流れ着いたとされる海岸近くには池辺直の末裔を名乗る家が5軒ほどあり、本尊と対面するために4年に一度この寺に参詣に見えるという。 ついで住職にはこの寺の歴史について簡潔に話していただいた。現在この付近の地名は比曽だが、創建当時の寺は「比蘇寺」といい、壷阪峠の山々を後背とし大淀古道沿いに建てられた。当時としては、吉野地方唯一の仏教寺院であり、飛鳥寺、四天王寺、法隆寺と並んで飛鳥4大寺とされていたという。 余談だが、天智10年(671)10月、天皇の病気平癒を名目に近江大津宮で剃髪して吉野に逃れた大海人皇子(おおあまのみこ)は、まず比蘇寺に入ったとする説があるそうだ。『日本書紀』にはそうした事実を記していないが、僧侶として吉野に来た以上、形だけでもどこかの寺に逗留して祈願の法要を営むのが常識だ。当時は吉野に比蘇寺しかなかったことを思えば、あながち否定できない説である。
住職の話だと、この地に建立された寺は5回も寺号を変えていて、寺歴の古さを物語っているという。創建当時は比蘇寺と呼ばれた寺院は、飛鳥時代の終わり頃から奈良時代には「吉野寺」と呼ばれている。金峯入峯前に役行者(えんのぎょうじゃ)がここで修行をしたので、寺は「行者道分道場」とも呼ばれた。近くに行者が修行した滝があり、住職も子供の頃はそこで水遊びをしたという。 平安時代に入ると、「現光寺」と呼ばれ吉野地域の仏寺巡礼地の一つとして知られていた。清和天皇や宇多天皇が行幸され、また藤原道長が参詣するなど大いに栄えたという。『元享釈書』によれば、中国の学僧・神叡や道叡も当山に20〜30年近く止住して、よく求聞持法を成就したとされている。空海や最澄もこの地に足を運び、神叡に求聞持法の伝授を請うた。 この寺が栄えたのは奈良時代から平安時代で、特に密教を中心に栄えたという。だが、栄枯盛衰は世の常である。かつては16の堂宇が並び立った寺院も、その後は荒廃に任せた。しかし、弘安2年(1279)には金峰山寺の春豪(しゅんごう)が再興し、更に西大寺の叡尊(えいそん)が律院として再興した。南北朝時代には「栗天奉寺」(りってんほうじ)と名を変えている。御醍醐天皇が小野文観を先達として吉野に行幸された折、自ら筆を取って「栗天八一山、栗天奉寺」の山号、寺号を賜ったことが古文書に記録されている。
雲門即道禅師によって再興された寺の山号と寺号は現在の「霊鷲山世尊寺」と改められ、曹洞宗の寺院として今日に及んでいる。 昭和2年(1927)には、その重要性が認められ、国の史跡に指定された。現在残っている建物は後世に再建されたものばかりだが、建物を含めて広大な境内を維持するのは大変な苦労があるようだ。寺域は7000坪に達するという。 雲門即道禅師は世尊寺の開山とされている。現在の住職である本山一路氏は、禅師から数えて20代目だそうだ。教員として奉職していたが、定年退職を機に父の後を継いで25年目だという。
頭頂部に十一面の観音をあらわした高さ約2.17mのこの巨像は、平成17年の夏に催された奈良国立博物館の特別展『古密教』に300年ぶりに40日間貸し出され、吉野地域を代表する仏像として見学者の注目の的となったという。また、その年の冬に行われた奈良県教育委員会の調査では、この仏像が奈良時代につくられ、鎌倉時代と江戸時代に、頭部や腕の一部を補修していることも確認された。 阿弥陀如来座像の裏側に回ると、そこには世尊寺建立を支援した中之坊兵庫守と世尊寺を開山した雲門即道禅師の像が祀られている。 住職の話が一段落したところで、気になっていたことが一つあり質問させて貰った。本尊が造られたとされる欽明朝または敏達朝の頃は、我が国に仏教が伝来してまだ間もないころである。その時期にはまだ浄土信仰は伝わっておらず、飛鳥寺や法隆寺の本尊は釈迦像である。したがって、この寺の本尊も釈迦像であってしかるべきだが、本尊の印相は明らかに弥陀定印であり、阿弥陀如来として造像されているように思われ、なんとなくしっくりこない、というものだった。 同じような疑問は、住職ご自身もかって持たれたようで、いろいろ調べられたことがあるそうだ。古文献でも釈迦像とされ、先代も釈迦像と呼んでおられたとのことだが、印相の点から相変わらず疑問は残っていると正直に答えられた。
住職はその絵巻を、厨子に納められた秘仏とともに、来年の5月頃公開することを考えておられるようだ。なぜ5月なのかとたずねると、境内のあちこちに植えたオオヤマレンゲが花咲く頃に合わせたいとの返事だった。 |
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”世にさかる 花にも念仏 まうしけり”(芭蕉)
住職の話を聞いた後、本堂を辞するとき、本堂の裏にある壇上桜もついでに見て行きなさいと勧められた。その桜の根本には、俳人の松尾芭蕉が貞享5年(1688)に弟子の杜国を伴って吉野に西行の足跡を訪ねたとき、世尊寺に立ち寄って詠んだ次の句の碑が建っている。
おそらく桜の盛りの頃この寺を訪れて、聖徳太子お手植えとの伝えがある檀上桜を眺めて一句を詠んだのであろう。ところで、「壇上桜」とは変わった名前なので、そのいわれを聞くと、住職は面白い話をしてくれた。
水瓶の胴部には「比曽丈六高一尺六寸□□」という墨書の銘があって、この水瓶がもともと吉野の比曽寺(ひそでら)にあったことを伝えているが、□□の部分の最初は「貢」だろうと思われるが以下の文字は読めなくなっている。いずれにせよ、この銘によって水瓶は現在の霊鷲山世尊寺が建つかっての吉野の比蘇寺にあったことを証明している。 明治11年(1878)、この竜首水瓶は法隆寺献納宝物の一つとして、法隆寺から皇室に献納された。現在は国宝の指定を受け、東京国立博物館の法隆寺宝物館に展示保管されている。このような長い首と下にふくらむ胴に把手を取り付けた器形は、ササン朝ペルシャに源流をもち、一般に「胡瓶(こへい)」と呼ばれている。 住職は、この水瓶をなんとかして今一度十一面観音像の前に置いて在りし日の姿を復元したく、関係者に掛け合ったが、貸し出しの許可は得られなかったという。それにしても、国宝のルーツをたどれば世尊寺にたどり着くとは・・・。この寺のもつ歴史の深さを今一度思い知らされた気がした。 |