橿原日記 平成19年7月5日

史跡比蘇寺(ひそでら)跡に建つ霊鷲山 世尊寺(りょうじゅせんせそんじ)を訪れる

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世尊寺の中門 (2007/07/05 撮す)

 見 学 メ モ

【宗派】曹洞宗
【史跡】比蘇寺跡
【本尊】阿弥陀如来座像(国の重要文化財)
【所在地】〒639−3128 奈良県吉野郡大淀町比曽762
【電話】07463(2)5976 【Fax】07463(2)1195
【代表者】本山一路
【アクセス】近鉄吉野線「六田」駅からバスで「北野台五丁目」まで。バス停から徒歩約10分



池辺直氷田(いけのべのあたい・ひた)という人物を追って

が国最初の仏師は誰か? そう聞かれたなら、大抵の人は鞍作止利(くらつくりのとり)の名を思い浮かべるのではないだろうか。法興寺の飛鳥大仏や法隆寺の釈迦三尊像を造った仏師として、その知名度は高い。だが、吉川弘文館発行の『日本古代人名辞典』は別の人物の名をあげている。その名は、池辺直氷田(いけのべのあたい・ひた)。そして、”漢氏(あやうじ)の族、我が国最初の仏工”と註している。

泰山木
世尊寺の境内で見つけた花:泰山木
辺直氷田とは、一体何者? 早速『日本書紀』で調べてみた。氷田に関係する記述は2カ所あった。敏達天皇13年(西暦584年)の条と、欽明天皇14年(西暦553年)5月の条である。

達天皇13年、大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)は、百済からの帰国者が持ち帰った仏像2躯を譲り受けたとき、仏道修行者を求めて、鞍部村主司馬達等(くらつくりべのすぐり・しめたちと)と池辺直氷田の二人を各地に派遣している。時代は仏教が伝来してまだ間もない頃のことである。我が国には仏を祀る僧尼がいなかった。そこで馬子は二人を各地に遣わして仏道修行者を求めさせた訳である。

良く二人は、高句麗からの渡来人で還俗僧の恵便(えべん)という者を播磨国で見つけ出して、大和に連れてきた。 馬子はさっそく恵便を仏教の師とし、仏殿を屋敷の東に造り、三人の渡来人の娘を受戒させて、仏を祀らせた。さらに、達等と氷田に命じて三人の尼の衣食の面倒をみさせたという。だが、この記述の中では、氷田が造仏工だったとする事実はどこにも記されていない。

ノウゼンカズラ
世尊寺の境内で見つけた花:ノウゼンカズラ
明天皇14年(西暦553年)5月、河内国から「泉郡の茅淳の海中から、仏教の楽の音がします。響きは雷のようで、日輪のように美しく照り輝いています」と知らせてきた。天皇は不思議に思われて、溝辺直(いけべのあたい)を遣わし、海に入って探らせられた。溝辺直は、海の中に照り輝く楠木のあるのを見つけ、これを取って天皇にたてまつった。そこで天皇は画工に命じて仏像二躯を作らせた。これが今の吉野寺に光りを放っている楠の像であるという。

確な言い方をすれば、ここでは”池辺直”ではなく、”溝辺直”(いけべのあたい)と表記され、しかも氷田の名が欠落している。あるいは別人かもしれないが、一般には池辺直氷田と同一人物と見なされている。しかし、彼が造仏工であったことを伺わせる記述はない。

ナツツバキ
世尊寺の境内で見つけた花:ナツツバキ
は、池辺直氷田が造仏工であるとする記述は、『日本書紀』ではなく『日本霊異記』の中にあった。『日本霊異記』上巻第五では、上記の欽明紀の内容が次のような伝承として書かれている。

達天皇の時代に、和泉国の海中に奇瑞を示す不思議な楠木が漂っていることを、大部連屋栖古(おおとものむらじ・やすこ)という人物が奏上した。敏達天皇の皇后(後の推古天皇)がこれを聞いて、高脚(たかあし)の浜(現在の堺市浜寺海岸)に漂着した楠木を屋栖古に調べさせた。屋栖古は復命して、この霊木で仏像を作るべきでしょうと進言したので、皇后は蘇我馬子に仏像を彫ることを命じた。そこで、馬子は池辺直氷田の菩薩三躯を作らせ、豊浦の堂に安置した。

がて物部守屋の廃仏にあうと、皇后は屋栖古を介して、仏像を稲の中に隠すよう氷田に命じた。物部守屋が滅ぼされてから、仏像を掘りだして後の世に伝えた。それが現在吉野の比蘇寺に安置して光りを放つ阿弥陀像である、云々。

日本書紀』と『日本霊異記』を子細に比較すると、さまざまな差異がある。まず年代が欽明天皇と敏達天皇とでは一時代異なる。楠木から仏像を作ったのは画工ではなく、池辺直氷田に代わっている。造り出した仏像は二躯だったのが、菩薩三躯に代わっており、さらに同じ『日本霊異記』の中でも 菩薩三躯が阿弥陀像に代わっている。


白蓮
世尊寺の境内で見つけた花:白蓮
をいうと、蘇我馬子が仏道修行者探索のために池辺直氷田を選んだ理由がよく分からなかった。司馬達等は、来朝すると高市郡坂田原に仏像を安置して帰依礼拝していたと『扶桑略記』にも伝えられるほど熱心な仏教徒だったようだ。だから、この人選は理解できるが、氷田は仏教とどのような関わりがあったのか不明だった。しかし、『日本霊異記』に記すように我が国最初の造仏工であったなら、仏教関係者としてまことに当を得た人選だったと言える。

の池辺直氷田が現在の浜寺海岸に流れ着いた楠木に刻んだ仏像が、かっての吉野の比蘇寺の跡地に建つ霊鷲山世尊寺放光阿弥陀像として現存していると聞いた。『日本書紀』の伝承が史実であれば、この仏像の制作時期は西暦553年、すなわち我が国に仏教がおおやけに伝えられた翌年ということになる。そんな古い仏像が現存するなら、是非とも拝観したくなるのが人情だ。

日は梅雨の間のつかの間の晴天との予報だったので、世尊寺に電話して拝観可能かどうか問い合わせた。電話口に出たのは、住職の本山一路(もとやまいちろ)氏のようだった。午後1時から2時の間にお見えになるなら、本堂で説明いたしましょうとの返事をいただいたので、さっそくでかけてきた。



参道の両脇に残る東西両塔跡の礎石群

道順と境内略図
道順と境内略図(*)
洞宗の霊鷲山世尊寺は、飛鳥時代に吉野川北岸の広く浅い山間部に創建されたと伝えられる比蘇寺の跡地に築かれた寺院である。近鉄吉野線で「六田」駅まで行き、駅前から出ている奈良交通バスの「北野台五丁目」バス停で降りた。その後、10分ほど県道222号線を東に向かって歩くと、左手の民家の間に狭い参道があり、その奥の一段高いところに山門が建っているのが見えた。「六田」駅または「大和上市」駅からタクシーを利用すれば、5分で着くことも可能である。


伝によれば、聖徳太子建立の48寺の一つとされる比蘇寺が、用明天皇元年(西暦586年)にこの地に創建されたと伝えられている。そのことの証(あかし)のように、山門の左手前に「史跡 比曽寺跡」の碑が立っている。山門の右手前には、寺の略縁起を記された案内板が立てられている。残念ながら、表面のペンキが剥げて、何が書かれているのか判読しがたい。

れよりも驚いたのは、山門に掲げられた扁額である。「日国 最初 洞窟」と書かれている。宝暦元年(1751)に世尊寺を再興した開祖・雲門即道(うんもんそくどう)禅師の筆である。我が国で最初に建立された寺という意味なのだろうか。

世尊寺の山門 鎮守の天照大神社
世尊寺の山門 鎮守の天照大神社

門を入ると、右側に「天照大神社」が鎮座している。祭神として天照大神を祀っている。神祭用の湯釜が残っていて、銘に「明応5年(1496年)丙辰9月8日比曾現光寺」の銘が刻まれている。だが、この神社の創建は遅くとも室町以前にさかのぼるとのことだ。明和2年(1765年)に作成された世尊寺校割帳や同3年に作成された世尊寺年譜から判断すると、神社は同寺の鎮守で、比曾村の氏神であった事がわかるという。

殿が施錠されていて本殿を見ることができなかった。だが、横に回ると、白塀に囲まれた中に朱塗りの彩色を施した春日造りに立派な本殿が聳えていた。


東塔跡の礎石群
東塔跡の礎石群

門から中門に向かって一直線に続く参道の両脇に、比蘇寺の東塔跡と西塔跡がある。寺伝によると、東塔は聖徳太子が父の第31代用明天皇のために、西塔は炊屋姫(後の推古天皇)が亡き夫の第30代敏達天皇のために建立したとのことだ。

近江園城寺(三井寺)の三重塔
近江園城寺(三井寺)の三重塔
塔はその後鎌倉時代に改築され、室町時代初期の明徳3年(1392)に再建されたことが、礎石の一部などによって知ることができるという。再建された三重塔は、大和地方における中世の塔の風格を持っており、その優美な姿故に流転の歴史を経ることになる。

ず文禄3年(1594)には、吉野に花見に来た豊臣秀吉が塔の優美さに惚れ、伏見城の観月橋下に移築される。しかし、7年後の慶長6年(1601)年には徳川家康によって近江園城寺(三井寺)に再度移築される。現在近江園城寺に聳える総高約25mの三重塔(重文)は、かって比蘇寺の東塔としてこの場所に建っていたものである。

塔跡では、菩提樹の巨木が日陰を作っている。昭和50年頃、3本の細い苗木を寄せ植えしたものが決着して1本となったという。毎年6月に開花して実を結ぶ。

西塔跡の礎石群
西塔跡の礎石群

東塔の礎石
東塔の礎石
方、西塔は、この地方の相次ぐ戦乱に災いされ、惜しくも焼失したと、『今昔物語』に記されている。今、西塔の跡に立つと、残された礎石が苔むして、東塔の礎石との差が目立つ。東塔は南北朝時代に一度再建されたこともあって、礎石はきれいに仕上げられ、柱の方向を示すような突起が彫り込まれているが、西塔のそれは円柱が載る部分だけが彫りだされているにすぎない。西塔跡の端に置かれた五輪塔までが蔦がまつわりついていた。



中門から東西に延びる回廊に囲まれた堂宇

中門の前に置かれた金堂跡の礎石<
中門の前に置かれた金堂跡の礎石

鐘楼堂
鐘楼堂
ハナノキ
”ハナノキ”という名の木
中門を入ると、すぐ目の前に礎石群が参道を挟むように置かれている。ほとんど地中に埋もれる ように置かれているため、注意しないと見過ごしてしまうかもしれない。これらの礎石は、比蘇寺の金堂がこの場所に建っていた跡であることを示している。

門から右に延びる回廊を視線で追うと、その先に二階建ての鐘楼堂が聳えている。銘が刻まれていないためはっきりしたことは判らないが、二階に吊された鐘はかなり古いもののようだ。後で住職に伺った話だと、鐘の音が遠くまで届くように、わざわざ二階建てにされたそうだ。毎日午前11時に、住職はこの鐘楼堂に登って6回鐘を突く。正午ではなく11時に鐘を突くというのが面白い。まもなくお昼であることを予告するための鐘の音だそうだ。

手の庫裏の前に一本の巨木が聳えている。名前を「ハナノキ」という。冗談かと思ったが、れっきとした木の名称である。カエデ科カエデ属の木で、ハナカエデともいう。岐阜県東南部、長野県南部の限られた地域のみ遺存的に成育する「生きている化石植物」とも言われる大変珍しい樹木だそうだ。奈良県には5本しかない。新芽が吹く前の4月頃、小さな赤い花を咲かせるとのことだ。

を左に転ずれば、聖徳太子十六才孝養像を本尊として祀る太子堂がある。角屋の鬼瓦には享保7年(1722)とか享保9年(1724)の銘が彫られているものがある。さらに、内部の虹梁絵様、蟇股(かえるまた)などの細部様式なども考え合わせて、18世紀前期頃の建築物と推定されている。仏壇部を角屋として突き出した形式は、県内でもあまり例を見ない建て方のようで、平成元年3月に奈良県の有形文化財に指定された。

太子堂 聖徳太子十六才孝養像
県の有形文化財の指定をうけている太子堂 太子堂の本尊・
聖徳太子十六才孝養像(*)

在、本尊の太子孝養像は本堂の本尊・阿弥陀如来座像の横に並べて安置されている。住職の話だと、団体の参拝客が多いための配慮だそうだ。世尊寺では、毎年4月29日に聖徳太子報恩大会式を行っている。当日、本堂では大般若経が奉納され、中庭では大ごく撒きが行われる。あらかじめ焚かれた17斗の餅を特設の矢倉の上から参拝者に撒かれ、にぎわいを見せるとのことだ、以前は、餅の奪い合いで喧嘩になり、「喧嘩ごく撒き」の異名が付けられるほど怪我人が出たそうだ。



創建時の比蘇寺の講堂跡に建つ世尊寺の本堂

講堂跡に建つ本堂
講堂跡に建つ本堂

だ約束の時間前だったので境内を散策していると、庫裏から出てこられた住職の本山一路氏から声を掛けられて、本堂の中へ案内された。現在の本堂は創建時の講堂があった場所に建っているお堂である。

本尊の阿弥陀如来座像
本尊の阿弥陀如来座像(*)
面中央に置かれた祭壇の壇上には、本尊の阿弥陀如来座像が安置されている。伝承通りに楠木の一木彫りの仏像だが、全体が煤けて黒ずんでいる。そのため、白毫(びゃくごう)ばかりがまぶしくて、顔の輪郭が遠目にははっきりしない。しかし、頭部が縦長の割にふっくらとしており、口元に笑みを浮かべている。目元ははれぼったく、鮮やかに弧を描く眉との間が離れている。

体の印象としては、穏やかな顔かたちであり、止利仏師の作とされる法隆寺の釈迦三尊像とはかなり異なった印象を与える。しかし、衣文や服飾が左右対称である、通肩の衲衣をまといその下の胸部正面に下着とその帯の結び目を現す、といった服制は北魏様式のものと見た。

職は、阿弥陀座像を前にして、この仏像が飛鳥時代に比蘇寺に安置されるようになったいきさつを話された。その骨子は、ほぼ『日本書紀』の欽明紀の伝承と同じである。しかし、住職は面白い話を付け足された。楠木が流れ着いたとされる海岸近くには池辺直の末裔を名乗る家が5軒ほどあり、本尊と対面するために4年に一度この寺に参詣に見えるという。

いで住職にはこの寺の歴史について簡潔に話していただいた。現在この付近の地名は比曽だが、創建当時の寺は「比蘇寺」といい、壷阪峠の山々を後背とし大淀古道沿いに建てられた。当時としては、吉野地方唯一の仏教寺院であり、飛鳥寺、四天王寺、法隆寺と並んで飛鳥4大寺とされていたという。

談だが、天智10年(671)10月、天皇の病気平癒を名目に近江大津宮で剃髪して吉野に逃れた大海人皇子(おおあまのみこ)は、まず比蘇寺に入ったとする説があるそうだ。『日本書紀』にはそうした事実を記していないが、僧侶として吉野に来た以上、形だけでもどこかの寺に逗留して祈願の法要を営むのが常識だ。当時は吉野に比蘇寺しかなかったことを思えば、あながち否定できない説である。

さまざまな時代の瓦片
さまざまな時代の瓦片
承では、比蘇寺は聖徳太子が建立した48ヶ寺のひとつとされているが、創建時の事実は今となっては不明としか言いようがない。『日本書紀』や同寺に残っている瓦や伽藍配置などから、少なくとも飛鳥時代(7世紀後半)には存在していたことは間違いないようだ。そう言って、住職は奥から紙箱を持って来られた。箱の中には様々な瓦の破片があった。その中には、飛鳥寺の屋根っを飾っていた素弁八弁蓮華紋の軒丸瓦があった。

職の話だと、この地に建立された寺は5回も寺号を変えていて、寺歴の古さを物語っているという。創建当時は比蘇寺と呼ばれた寺院は、飛鳥時代の終わり頃から奈良時代には「吉野寺」と呼ばれている。金峯入峯前に役行者(えんのぎょうじゃ)がここで修行をしたので、寺は「行者道分道場」とも呼ばれた。近くに行者が修行した滝があり、住職も子供の頃はそこで水遊びをしたという。

安時代に入ると、「現光寺」と呼ばれ吉野地域の仏寺巡礼地の一つとして知られていた。清和天皇や宇多天皇が行幸され、また藤原道長が参詣するなど大いに栄えたという。『元享釈書』によれば、中国の学僧・神叡道叡も当山に20〜30年近く止住して、よく求聞持法を成就したとされている。空海や最澄もこの地に足を運び、神叡に求聞持法の伝授を請うた。

の寺が栄えたのは奈良時代から平安時代で、特に密教を中心に栄えたという。だが、栄枯盛衰は世の常である。かつては16の堂宇が並び立った寺院も、その後は荒廃に任せた。しかし、弘安2年(1279)には金峰山寺の春豪(しゅんごう)が再興し、更に西大寺の叡尊(えいそん)が律院として再興した。南北朝時代には「栗天奉寺」(りってんほうじ)と名を変えている。御醍醐天皇が小野文観を先達として吉野に行幸された折、自ら筆を取って「栗天八一山、栗天奉寺」の山号、寺号を賜ったことが古文書に記録されている。

山門に掲げられた雲門即道禅師の筆による扁額
山門に掲げられた雲門即道禅師の筆による扁額
国時代には無住時代が続き、加えて山間僻地とあって、かつての寺院は再び荒廃に任せた。江戸時代になって、この地方を統括していた竜門城の城主・中之坊兵庫守が寺の再建に尽力した。宝暦元年(1751)、彼は河内の国の大道寺より雲門即道(うんもんそくどう)禅師を迎えて、伽藍の整備縮小を図った。雲門即道禅師は能筆家でもあった。彼の書は山門にも掲げてある。

門即道禅師によって再興された寺の山号と寺号は現在の「霊鷲山世尊寺」と改められ、曹洞宗の寺院として今日に及んでいる。 昭和2年(1927)には、その重要性が認められ、国の史跡に指定された。現在残っている建物は後世に再建されたものばかりだが、建物を含めて広大な境内を維持するのは大変な苦労があるようだ。寺域は7000坪に達するという。

門即道禅師は世尊寺の開山とされている。現在の住職である本山一路氏は、禅師から数えて20代目だそうだ。教員として奉職していたが、定年退職を機に父の後を継いで25年目だという。

平安中期の作と伝えられる十一面観音像
平安中期の作と伝えられる
十一面観音像(*)
尊の向かって右には、太子堂の本尊である聖徳太子十六才孝養像が並べて安置してある。本堂左の祭壇には、壺坂寺とこの寺の境にあたる田口の阿佐寺という奥の院に安置されていた秘仏を入れた厨子が置かれていた。その横には役行者や文殊菩薩の像が置かれているが、やはり視線は中央に置かれた丈六の仏像に引き寄せられる。国の重要美術に指定されている丈六十一面観音像である。

頂部に十一面の観音をあらわした高さ約2.17mのこの巨像は、平成17年の夏に催された奈良国立博物館の特別展『古密教』に300年ぶりに40日間貸し出され、吉野地域を代表する仏像として見学者の注目の的となったという。また、その年の冬に行われた奈良県教育委員会の調査では、この仏像が奈良時代につくられ、鎌倉時代と江戸時代に、頭部や腕の一部を補修していることも確認された。

弥陀如来座像の裏側に回ると、そこには世尊寺建立を支援した中之坊兵庫守と世尊寺を開山した雲門即道禅師の像が祀られている。


職の話が一段落したところで、気になっていたことが一つあり質問させて貰った。本尊が造られたとされる欽明朝または敏達朝の頃は、我が国に仏教が伝来してまだ間もないころである。その時期にはまだ浄土信仰は伝わっておらず、飛鳥寺や法隆寺の本尊は釈迦像である。したがって、この寺の本尊も釈迦像であってしかるべきだが、本尊の印相は明らかに弥陀定印であり、阿弥陀如来として造像されているように思われ、なんとなくしっくりこない、というものだった。

じような疑問は、住職ご自身もかって持たれたようで、いろいろ調べられたことがあるそうだ。古文献でも釈迦像とされ、先代も釈迦像と呼んでおられたとのことだが、印相の点から相変わらず疑問は残っていると正直に答えられた。

オオヤマレンゲ
オオヤマレンゲ
ころで、この寺には「現光寺絵巻」という極彩色豊かなすばらしい巻物が保存されているそうだ。 上巻と下巻の2巻があり、上巻は阿弥陀如来関係、下巻は十一面観音関係の絵巻で、当時の境内の様子は周囲にあった16の寺も描かれている。昭和の初めにその道のプロが描いた模写は、宮内庁関係者などに公開したことがあるが、本物は過去100年間公開されたことがない。

職はその絵巻を、厨子に納められた秘仏とともに、来年の5月頃公開することを考えておられるようだ。なぜ5月なのかとたずねると、境内のあちこちに植えたオオヤマレンゲが花咲く頃に合わせたいとの返事だった。



”世にさかる 花にも念仏 まうしけり”(芭蕉)

本堂の裏にある壇上桜 松尾芭蕉の句碑
本堂の裏にある壇上桜 松尾芭蕉の句碑

職の話を聞いた後、本堂を辞するとき、本堂の裏にある壇上桜もついでに見て行きなさいと勧められた。その桜の根本には、俳人の松尾芭蕉が貞享5年(1688)に弟子の杜国を伴って吉野に西行の足跡を訪ねたとき、世尊寺に立ち寄って詠んだ次の句の碑が建っている。
 世にさかる 花にも念仏 まうしけり

そらく桜の盛りの頃この寺を訪れて、聖徳太子お手植えとの伝えがある檀上桜を眺めて一句を詠んだのであろう。ところで、「壇上桜」とは変わった名前なので、そのいわれを聞くと、住職は面白い話をしてくれた。

国宝の龍首水瓶
国宝の龍首水瓶
上桜と呼ばれている山桜は、もともと丈六十一面観音像の前の壇の上に置かれた水瓶に差してあった一本の桜の枝だった。花が散ったのでその枝を裏庭に捨てる自然と根付いて大木に育ったという。そのときの水瓶は竜首水瓶(りゅうしゅすいびょう)と呼ばれる全高49.9cm、 胴径18.9cmの舶来の逸品だった。だが、当山に止住していた中国の学僧・神叡が法隆寺に移ったとき、その水瓶を持ち出してしまった。

瓶の胴部には「比曽丈六高一尺六寸□□」という墨書の銘があって、この水瓶がもともと吉野の比曽寺(ひそでら)にあったことを伝えているが、□□の部分の最初は「貢」だろうと思われるが以下の文字は読めなくなっている。いずれにせよ、この銘によって水瓶は現在の霊鷲山世尊寺が建つかっての吉野の比蘇寺にあったことを証明している。

治11年(1878)、この竜首水瓶は法隆寺献納宝物の一つとして、法隆寺から皇室に献納された。現在は国宝の指定を受け、東京国立博物館の法隆寺宝物館に展示保管されている。このような長い首と下にふくらむ胴に把手を取り付けた器形は、ササン朝ペルシャに源流をもち、一般に「胡瓶(こへい)」と呼ばれている。

職は、この水瓶をなんとかして今一度十一面観音像の前に置いて在りし日の姿を復元したく、関係者に掛け合ったが、貸し出しの許可は得られなかったという。それにしても、国宝のルーツをたどれば世尊寺にたどり着くとは・・・。この寺のもつ歴史の深さを今一度思い知らされた気がした。


(*) 拝観のしおりからコピー

2007/07/05作成 by pancho_de_ohsei return