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その中の主なものを訪れてみたいと思い、アッシー役をかってくれているA君に連絡すると、快く同行を引き受けてくれた。御陰で、本日は美具久留御魂神社、富田林寺内町、瀧谷不動明王寺、楠妣庵観音寺の4カ所を見学できた。その探訪レポートを以下に記す。 |
崇神天皇が大国主命を祀った美具久留御魂神社
見 学 メ モ
【所在地】 大阪府富田林市宮町3丁目2053
「この神社、何て言う神社なんだ?」 彼が指さした先には、「美具久留御魂神社」と表示されている。とっさにはその神社名が読めなかった。 「なんとか、みたまじんじゃ、と読むんだろうな」と答えると、 「その、なんとか、が知りたいんだ」と、彼は前方を見ながら聞いた。鎮座地は、次の「宮前」交差点を右折してすぐのところのようだ。 「ついでだから、寄っていこう」 そう言って、彼は信号の手前で右折レーンに車を進めた。 神社の鳥居の前に、数台の自動車を駐車できるスペースがある。木陰になっている場所に車を止めると、二人は鳥居の横に掲げられた案内板の方に向かった。「河内ふるさとにみち」の案内板として立てられているボードには、神社名に「みぐくるみたまじんじゃ」と読み仮名が付され、当神社の略記が次のように説明されていた。
崇神62年になって、丹波の国の氷香戸辺(ひかとべ)の子が神懸かりして、「玉藻鎮石。出雲人祭、真種之甘美鏡。押羽振、甘美御神、底宝御宝主。山河之水泳御魂。静挂甘美御神、底宝御宝主也。」という神託を下した。 この神託の意味は「玉のような水草の中に沈んでいる石。出雲の人の祈り祭る、本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主」と解釈されている(『日本書紀』は崇神60年の条にこの神託を載せている)。 つまり、『出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾神(龍神)であり、水泳御魂大神(みくくるみたまおおかみ)である』と、美具久留御魂大神の御神体を明らかにしたものである。天皇はそのことを聞いて、皇太子の活目入彦命(いくめいりひこのみこと、後の垂仁天皇)を河内国支子(きし)に遣わして当社を祀らせ、「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名を称え奉ったという。
南北朝時代、南朝歴代の信仰が厚く、また楠正成は千早赤阪村に鎮座ずる上水分社(うえのすいぶんのやしろ、建水分(たけみくまり)神社)と共に、当神社を下水分社と称し氏神として信仰したので、戦乱の間にも、朝廷は神社にしばしば参拝したり社殿を造営して治世の安泰を祈った。
案内板には、江戸中期に描かれた河内名所図絵の下水分社すなわち当神社の俯瞰図と、何故か淀川を遡行する第7回朝鮮通信使の絵馬の写真が掲載されていた。実際の絵馬は縦98cm、横189cmの木製でかなり大きい。三隻ずつ並んだ御座船が上下二段に描かれていて、奉納されたの元禄8年(1695)9月吉日とのことだ(なお、当神社の略記には、朝鮮通信史と誤記されている)。
「おいおい、ここは大変な神社だぞ」 「どうした?」と聞くと、拝殿が下拝殿と上拝殿の二カ所あり、下拝殿から上拝殿までは、長く急な石段を登ることになりそうだ、という。 参拝に来た近所の氏子たちの様子を見ていると、下拝殿で参拝しただけで皆引き返してくる。上拝殿まで登って参拝しようとするものなど一人もいなかった。下拝殿に到着して、その理由を納得した。下拝殿の先に長く急な石の階段が続いている。この石段を登り切るには勇気がいる(後で知ったのだが、脇に地道の比較的楽な一の宮参拝道がある)。 当神社の本殿には、主祭神の大国主命を祀り、左の相殿には天水分神(あめみずくまりのかみ)と弥都波迺売命(みずはのめのみこと) を、右の相殿には国水分神(くにのみずくまりのかみ)と勢理比売命(すせりひめのみこと)を配祀している。さらに、本殿に並んで8社の摂社や末社が奉られている。
上拝殿は四方に壁がない柱だけの広々とした建物である。その正面に、金文字で「美具久留御魂神社」と書かれた扁額が掲げられている。本殿その他の祭殿は塀垣に囲まれてほとんど屋根の部分しか見えないが、最近大改築されたとあって、いずれも立派な社殿である。
当神社が鎮座する山は「真名井ケ原」と呼ばれ、山そのものがご神体とされている。シイ、アラカシ、サカキなどの広葉樹で覆われ、山頂付近には四基の古墳がある。登ってみるか?との筆者の問いに、A君は首を振って先に下へ降り始めた。 |
旧家の白壁が連なる富田林寺内町
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| 中世から続く古い町並みの寺内町 |
【所在地】 大阪府富田林市富田林町
【アクセス】近鉄長野線「富田林駅」下車。徒歩約10分
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| 寺内町散策マップ |
同じように、戦国時代に浄土真宗の寺を中心に土塁で防御した寺内町が富田林市にある。江戸時代には徳川幕府の直轄地となり、近くを流れる石川の水運と、東高野街道・千早街道が交差する陸運に恵まれて、商業の町として大いに発展したところである。特に酒造業が盛んで、寛文年間の記録によれば、149の酒造店が軒を並べていたという。
寺内町にある建物の500棟のうち、約180棟が江戸、明治、大正、昭和初期に立てられたもので、古い町並みがよく残っている。そこで、平成9年10月に国の重要伝統的建造物郡保存地区に選定され、中世から続く町並みが将来に向けて保存されることになった。
寺内町を見学するには、近鉄長野線の「富田林」駅からのアクセスが便利が良い。徒歩で10分も歩けば、古い町並みにタイムスリップできる。ところが、車でアクセスする場合は問題である。周囲が駐車禁止区域となっていて、近くに適当な駐車場がない。見学者用駐車場は、駅からもっとも離れた所にあり、たどり着く道も分かりにくい。
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| 町作りの中心となった興正寺別院 |
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| 半間ほど道をずらした「あてまげ」 |
証秀上人は近隣4ケ村から8人の有力者を集めて興正寺の別院を建立し、8人衆の合議制のもとで御坊を中心とした町づくりが行われた。時は戦国時代のさなかである。戦乱を避ける知恵が町の随所に生かされている。町は一段上がった台地の上に営まれた。周囲に環濠を巡らすことはなかったが、土塁を巡らせて竹藪を植え、町筋の道と道は「あてまげ」と称して、道を半間ほどずらして見通しを妨げる工夫が施された。
江戸時代になると、南河内における水運・陸運に便利な立地条件を生かして、米、酒造、木綿、菜種油、木材などの商品作物の交易・流通の中心地となり、商業の町として大いに発展した。特に、酒造業が盛んで、酒造りで財をなした仲村家や橋本家、杉山家などの旧家が、現在も寺内町に中世から続く歴史的景観に色を添えている。
寺内町は、近鉄長野線「富田林」駅のの南400mに位置し、東西約400m、南北約350mの範囲に古い町割を残す歴史の町である。現在も人々が生活する町だが、その中に中世や江戸から続く旧家があちこちに点在している。
縦横に築かれた町並みを散策すると、かっての古い商業の町で見られたさまざまな光景を目にすることができる。旧家の屋根を見上げれば、かまどの煙を外に出す煙だしや、さまざまな意匠を施した見事な鬼瓦が目に入る。大屋根の下を見ると、屋根裏部屋の明かり取りと風通しのために、さまざまな形の虫籠窓(むしこまど)が漆喰の白壁にはめ込まれている。街には、駒つなぎの石や、収納式の縁台だったあげ店、塀の上に先のとがった竹・木を並べた忍返し、あるいはさまざまな形の出格子などが、あちこちで目に付く。
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| 重要文化財・旧杉山家住宅 |
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| 旧杉山家住宅の拝観券 |
寺内町センターの前に聳える4層の大屋根の家が旧杉山家の住宅で、寺内町の創設期からの旧家として知られている。代々「杉山長左右衛門」を名乗り、江戸時代を通じて富田林8人衆の一人として町に経営に携わってきた家柄である。旧来の家業は不明だが、1685年(貞享2年)に酒造株を取得してからは、造り酒屋として成功し、財をなしたとされている。
入口で拝観料を払って、旧杉山家の内部にはいると、A君は懐かしげに「ホウ」とため息を漏らした。広い土間の片隅に釜屋(かまや、厨房)があり、黒光りする竈(かまど)があった。だが、A君が感動したのは、煙返し梁や天井裏の梁の太さである。巨大なケヤキの丸太を皮を剥ぎわずかに加工しただけで、立て柱に載せてある。立て柱に比べて何倍も太い。だが、北陸の雪国で育った筆者などには、かっての農家で見かけた構築の一部として見慣れていて、大した感動はなかった。
しかし、数寄屋造りの洗練された奥座敷や、障壁画に飾られた大床の間、大きな仏壇が供えられた仏間などは、さすがに最盛時には年に1300石の酒造石高を誇ったという旧町家の財力を思い知らされた気がした。
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| 女流天才歌人・石上露子 |
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| 本町公園の中にある 石上露子の歌碑 |
だが、杉山家には男子の跡取りが生まれなかったため、26歳のとき家業を継ぐため父親が決めた相手と結婚し、夫からは作歌活動を禁じられたため、文学界から身を引いた。彼女が明治40年(1907)に明星12月号に発表した次の「小板橋」という作品は、彼女の絶唱とされ、多くの賛仰者を得た。
ゆきずりのわが小板橋 しらしらと一枝のうばら
いづこより流れか寄りし 君まつと踏みし夕べに
いひしらず沁みて匂ひき
今はとて思いに病みて 君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば ああ、うばらあともとどめず
小板橋ひとりゆらめ
後年、「明治美人伝」で石上露子のことが紹介され、彼女の人となりと作品が広く知られるようになった。彼女は二人の息子をもうけたが、長男が病死、二男は自殺し、彼女自身も昭和34年(1959)10月8日、秋日和の昼下がり、奥座敷で衣類の虫干しをしていて、脳出血のため人知れずに死去した。78歳だった。
石上露子は白菊に似た「薄幸の麗人」と伝えられた。だが、本当の露子は新思想に目覚め、確固たる自我を持ち、主体的に行動する近代女性であった。明治37年(1904)7月に『明星』に夕ちどりの名で発表した次の短歌を発表した。彼女の反戦思想を明確に示している歌である。
●みいくさに こよひ誰が 死ぬさびしみと 髪ふく風の 行方見まもる
ちなみに、この短歌が発表されたのは、与謝野晶子が「ああおとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ」に始まる詩篇を『明星』に記載した2ヶ月前のことである。本町公園には、この歌の歌碑が建っている。
旧杉山家住宅の庭の奥に土蔵が建っている。その中に、石上露子の手紙や愛用した琴、訪問着、火鉢や家具、駕籠などが陳列されている。
日本三大不動の一つを祀る瀧谷不動明寺
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| 瀧谷不動明寺の総門 |
【所在地】 大阪府富田林市滝谷1762
【本尊】 不動明王と脇侍の矜羯羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子
【アクセス】【バス】近鉄長野線「富田林」駅前から金剛バス循環線で「滝谷不動前」まで。
【車】国道170号線(大阪外環状線)の「廿山南」交差点を左折して、府道202号線(森屋狭山線)を南東方向へ約2km
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| 瀧谷不動明寺の境内案内 |
寺伝によると、瀧谷不動明寺は平安時代の弘仁12年(821)、国家の安全と国民の幸せを祈るために弘法大師空海が開いた道場とされている。本尊として不動明王と脇侍の矜羯羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子を祀っている。この三体は、空海が一刀三礼をもって恭しく刻んだ霊像とされ、重要文化財に指定されている。
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| 一願不動堂 |
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| 不動の滝(滝行場) |
創建時の寺は、この場所ではなく、ここから南へ約1kmのところにある嶽山(だけやま)の中腹に営まれた。しかし、天正15年(1360)に足利義詮(よしあきら)が嶽山・金胎寺を攻めたとき焼かれてしまった。幸い本尊と両脇侍は滝の下に移されて難を逃れたという。その後、再興された寺は、寛正4年(1463)の畠山政長・義就の嶽山合戦で再び兵火で焼かれた。そのため、場所を現在の所に移し、しだいに復興して今日に至っているという。
瀧谷不動明寺の本尊は「日本三不動の一つ」とされ、とくに眼病平癒の霊像とされている。もともと不動明王は人間の悩みの原因である無明(むみょう)を断ち切って本当の幸せを授けることを誓願としている仏とされている。そのため、信者の真心が通ずるのであれば、どのような願いをでも必ず一願は必ず成就してくれるという。不動の滝への降り口にある一願不動堂は、そうした不動明王を祀っている。
| 惣拝所 | 西国三十三所堂 |
駐車場の脇から上に延びる石段があったので、登ってみた。石段は惣拝所に続いている。惣拝所とは何なのかよく分からなかったが、正面に立つと、ガラス窓を通して後方の西国三十三所堂が見え、その前に一体の観音像が立ちはだかっている。西国三十三所堂には西国三十三カ所霊場の本尊のレプリカとその前に砂がおいてある。その砂を踏んで、それぞれの本尊を拝めば、実際に霊場に訪れたのと同じ功徳があるという。三十三所の本尊を拝んで回る時間が惜しい信者には、惣拝所で観音像を拝むことで西国三十三カ所霊場を回ったことになる。仏教における合理主義もここに極まり、との印象を受けた。
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| 三宝荒神堂 |
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| 三宝荒神堂から見た多宝塔 |
楠木正成の夫人が一族の冥福を祈った楠妣庵観音寺
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| 楠妣庵観音寺の本堂 |
【所在地】 大阪府富田林市大字甘南備1103
【アクセス】近鉄長野線「富田林」駅下車、金剛バス東条線「甘南備」停留所下車、徒歩3分。南海高野線「河内長野」駅下車、南海バス「小吹台口」下車、徒歩20分
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| 楠母子の像 |
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| 仏前に描かれた楠家の菊水の紋章 /font> |
このとき、正成の嫡男・正行(まさつら、1326 - 1348)はまだ11歳の少年だった、正行はやおら立ち上がると、涙を抑えて持仏堂に入り、父の形見の菊水の短刀で、父の後を追わんとした。このとき、正成の夫人・久子はすかさず正行の手をとらえて訓戒したため、正行は短刀を捨てて号泣したという。
「楠母子の像」は、このとき久子夫人が持仏堂で正行を訓戒する様子を銅像で表したものである。なお、案内板にには、このとき楠夫人が詠んだとされる次の歌が記されている。
● 世の憂きも 辛きも忍 思いこそ 心道の 誠なりけり
その後、正行は南朝方として戦い、足利幕府軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破る功績を挙げた。しかし、正平3年(1348)1月の四條畷(しじょうなわて)の戦いで敗北し、弟の楠木正時と刺し違えて自害して果てた。時に正行23歳だった。
楠正成の夫人久子は、現在の富田林市大字甘南備の矢佐利で、この地方の豪族南江備前正忠の妹として生まれた。元享3年(1323)、20歳で正成に嫁ぐまで、兄の厳格な家庭教育を受けたという。正成に嫁いだ後、正行を筆頭に6人の男子を出産し、正成が出征した後は留守を守って子供たちを養育した。
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| 大正6年に再建された楠妣庵 |
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| 久子夫人の念持仏の十一面観音を 安置している観音堂 |
峰條山観音寺は、楠正行が在世中に峰條山の一画の地を清め、一殿を作って、後醍醐天皇の念持仏だった千手観音像を安置して、峰條山観音殿としたのが始まりとされている。敗鏡尼が入寂した後、4男の楠正儀が観音殿を観音寺にあらため、楠氏一族の香華寺とした。
観音寺と楠妣庵は久しく廃絶していた。大正6年(1917)になって楠妣庵が再興され、続いて大正11年(1922)に壮麗な観音寺本堂が再建された。昭和3年(1928)には書院を、昭和7年(1932)には恩光閣を落成して面目を一新し、現在に至ってる。
梢に覆われて薄暗い参道の階段を登り詰め、やっとの思いで境内にたどり着いた。午後の強い日差しが、広い境内一杯に照りつけていた。この時刻、参拝客は誰もいない。本堂の縁側に腰掛けて、周囲の樹木の葉音ひとつしない静寂を楽しんでいたときである。突然境内の奥の方から三匹の白い子犬が飛び出してきて、足元で人なつっこくじゃれ合って離れなかった。子犬も人影がない境内では寂しかったのだる。
本堂の正面に石段があり、木立に囲まれて一段高くなっている。そこに、再建された楠妣庵と観音堂、さらに久子夫人の墓所があった。久子夫人はここに在住すること16年、正平19年(1364)7月、61歳をもってその生涯を閉じたとされている。石の玉垣の中にささやかな五輪塔が一つ置かれていた。これが彼女の墓だという。
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| 久子夫人の墓所 |