橿原日記 平成19年6月26日

富田林市内の歴史のある旧蹟を訪れる


aaaaa
旧杉山家(文化財)の庭に咲いていた
ゼフイランサス(またはレインリリー)
日、富田林市内の飛鳥時代の地名や飛鳥時代創建伝承が残る寺院をレンタサイクルした(平成19年6月21日付け橿原日記参照)。だが、富田林には寺内町(じないまち)をはじめとして、著名な名所旧跡が多い。

の中の主なものを訪れてみたいと思い、アッシー役をかってくれているA君に連絡すると、快く同行を引き受けてくれた。御陰で、本日は美具久留御魂神社富田林寺内町瀧谷不動明王寺楠妣庵観音寺の4カ所を見学できた。その探訪レポートを以下に記す。
(上のアンダーラインを付した箇所をマウスでクリックすると、その箇所にジャンプすることができます



崇神天皇が大国主命を祀った美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)

美具久留御魂神社の正面
美具久留御魂神社の正面鳥居

 見 学 メ モ

【所在地】 大阪府富田林市宮町3丁目2053
【主祭神】 美具久留御魂大神(大国主命の荒御魂)
【アクセス】近鉄長野線「喜志」駅下車。南西約800m


aaaaa
君が運転する車は羽曳野ICで南阪奈自動車道をおりた。そして、大阪外環状線と通称されている国道170号線を南に向かった。近鉄長野線の「喜志」駅がある旭が丘町を過ぎたあたりで、A君がカーナビを見て突然聞いた。
「この神社、何て言う神社なんだ?」
彼が指さした先には、「美具久留御魂神社」と表示されている。とっさにはその神社名が読めなかった。
「なんとか、みたまじんじゃ、と読むんだろうな」と答えると、
「その、なんとか、が知りたいんだ」と、彼は前方を見ながら聞いた。鎮座地は、次の「宮前」交差点を右折してすぐのところのようだ。
「ついでだから、寄っていこう」
そう言って、彼は信号の手前で右折レーンに車を進めた。


社の鳥居の前に、数台の自動車を駐車できるスペースがある。木陰になっている場所に車を止めると、二人は鳥居の横に掲げられた案内板の方に向かった。「河内ふるさとにみち」の案内板として立てられているボードには、神社名に「みぐくるみたまじんじゃ」と読み仮名が付され、当神社の略記が次のように説明されていた。

河内ふるさとのみちの案内板
河内ふるさとのみちの案内板
10代崇神天皇の10年、支子(きし)の森からしばしば大蛇が出没して農民を悩ました。そのため、天皇がみずから視察し、「これは大国主命の荒御魂によるものである」として、大国主命を祀らせた。これが当社の始まりだという。

神62年になって、丹波の国の氷香戸辺(ひかとべ)の子が神懸かりして、「玉藻鎮石。出雲人祭、真種之甘美鏡。押羽振、甘美御神、底宝御宝主。山河之水泳御魂。静挂甘美御神、底宝御宝主也。」という神託を下した。

の神託の意味は「玉のような水草の中に沈んでいる石。出雲の人の祈り祭る、本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主」と解釈されている(『日本書紀』は崇神60年の条にこの神託を載せている)。

まり、『出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾神(龍神)であり、水泳御魂大神(みくくるみたまおおかみ)である』と、美具久留御魂大神の御神体を明らかにしたものである。天皇はそのことを聞いて、皇太子の活目入彦命(いくめいりひこのみこと、後の垂仁天皇)を河内国支子(きし)に遣わして当社を祀らせ、「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名を称え奉ったという。

河内名所図絵の中の下水分社
河内名所図絵の中の下水分社
神社は歴代天皇からの崇敬が厚く、『文徳実録』によれば、嘉祥3年(850)には神階を従五位上に進められている。光孝天皇(在位 830-887)の時代には、河内大社の勅額を奉納された。また延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神明帳には、河内国石川郡 美具久留御魂神社」として記載され、河内国二宮、石川郡総社とも称されたという。平安末には、正東山という神宮寺が建てられ、神社は隆盛に向かった。

北朝時代、南朝歴代の信仰が厚く、また楠正成は千早赤阪村に鎮座ずる上水分社(うえのすいぶんのやしろ、建水分(たけみくまり)神社)と共に、当神社を下水分社と称し氏神として信仰したので、戦乱の間にも、朝廷は神社にしばしば参拝したり社殿を造営して治世の安泰を祈った。

朝鮮通信使の絵馬
朝鮮通信使の絵馬の写真
正13三年(1585)、豊臣秀吉の根来攻めの際に、兵火を浴びて社殿が灰燼に帰した。以後数十年間は復興されなかったが、万治元年(1658)から復興がはじまり、同3年にはほぼ元通りの姿を取り戻したという。その後200年間、わずかに民間の信仰によって社頭を支えていたが、明治時代に入り、近郷五箇町村の氏神として郷社に列せられ、現在にいたっているという。平成6年、氏神崇敬者の篤志により、本殿・摂末社および拝殿・社務所等の大改築がなされ、同8年完成した。

内板には、江戸中期に描かれた河内名所図絵の下水分社すなわち当神社の俯瞰図と、何故か淀川を遡行する第7回朝鮮通信使の絵馬の写真が掲載されていた。実際の絵馬は縦98cm、横189cmの木製でかなり大きい。三隻ずつ並んだ御座船が上下二段に描かれていて、奉納されたの元禄8年(1695)9月吉日とのことだ(なお、当神社の略記には、朝鮮通信史と誤記されている)。


神社の下拝殿
神社の下拝殿
上拝殿へ続く石段
上拝殿へ続く石段
えかかった境内の配置図を眺めていたA君が、振り返ってボソリと言った。
「おいおい、ここは大変な神社だぞ」
「どうした?」と聞くと、拝殿が下拝殿と上拝殿の二カ所あり、下拝殿から上拝殿までは、長く急な石段を登ることになりそうだ、という。

拝に来た近所の氏子たちの様子を見ていると、下拝殿で参拝しただけで皆引き返してくる。上拝殿まで登って参拝しようとするものなど一人もいなかった。下拝殿に到着して、その理由を納得した。下拝殿の先に長く急な石の階段が続いている。この石段を登り切るには勇気がいる(後で知ったのだが、脇に地道の比較的楽な一の宮参拝道がある)。

神社の本殿には、主祭神の大国主命を祀り、左の相殿には天水分神(あめみずくまりのかみ)と弥都波迺売命(みずはのめのみこと) を、右の相殿には国水分神(くにのみずくまりのかみ)と勢理比売命(すせりひめのみこと)を配祀している。さらに、本殿に並んで8社の摂社や末社が奉られている。

上拝殿と扁額殿
上拝殿と扁額
のように祀られているのか後学のために見ておきたいと、二人は急な石段を登って上拝殿まで行くことにした。最近足の膝を痛めているA君には、この階段の登りはかなり堪えたようだ。何回途中で一息入れながら、なんとか登り切った。

拝殿は四方に壁がない柱だけの広々とした建物である。その正面に、金文字で「美具久留御魂神社」と書かれた扁額が掲げられている。本殿その他の祭殿は塀垣に囲まれてほとんど屋根の部分しか見えないが、最近大改築されたとあって、いずれも立派な社殿である。

美具久留御魂神社の本殿および摂末社
美具久留御魂神社の本殿および摂末社

神社が鎮座する山は「真名井ケ原」と呼ばれ、山そのものがご神体とされている。シイ、アラカシ、サカキなどの広葉樹で覆われ、山頂付近には四基の古墳がある。登ってみるか?との筆者の問いに、A君は首を振って先に下へ降り始めた。



旧家の白壁が連なる富田林寺内町(じないまち)

中世から続く古い町並みの寺内町
中世から続く古い町並みの寺内町

 見 学 メ モ

【所在地】 大阪府富田林市富田林町
【アクセス】近鉄長野線「富田林駅」下車。徒歩約10分


寺内町散策マップ
寺内町散策マップ
者がアパートを借りている橿原市には、伝統的建造物保存地区に指定されている今井町がある。戦国時代に、石山本願寺の家衆である今井兵部が築いた宗派の道場・称念寺を中心とした城塞都市だった。しかし、江戸時代になると、商業都市に様相を変え、大阪の堺と共に「海の堺、陸の今井」と言われるほどに栄えた町である。

じように、戦国時代に浄土真宗の寺を中心に土塁で防御した寺内町が富田林市にある。江戸時代には徳川幕府の直轄地となり、近くを流れる石川の水運と、東高野街道・千早街道が交差する陸運に恵まれて、商業の町として大いに発展したところである。特に酒造業が盛んで、寛文年間の記録によれば、149の酒造店が軒を並べていたという。

内町にある建物の500棟のうち、約180棟が江戸、明治、大正、昭和初期に立てられたもので、古い町並みがよく残っている。そこで、平成9年10月に国の重要伝統的建造物郡保存地区に選定され、中世から続く町並みが将来に向けて保存されることになった。

内町を見学するには、近鉄長野線の「富田林」駅からのアクセスが便利が良い。徒歩で10分も歩けば、古い町並みにタイムスリップできる。ところが、車でアクセスする場合は問題である。周囲が駐車禁止区域となっていて、近くに適当な駐車場がない。見学者用駐車場は、駅からもっとも離れた所にあり、たどり着く道も分かりにくい。


興正寺別院
町作りの中心となった興正寺別院
「あてまげ」<
半間ほど道をずらした「あてまげ」
田信長が尾張桶狭間の戦いで上洛途上の今川義元を戦死させたのは1560年(永禄3年)のことである。それとほぼ時を同じくする永禄年間の初め頃(1558 - 1561)、京都興正寺の証秀上人(しょうしゅうしょうにん)がこの地を訪れ、荒れた芝地を銭百貫文で購入した。そのときから寺内町の歴史は始まる。

秀上人は近隣4ケ村から8人の有力者を集めて興正寺の別院を建立し、8人衆の合議制のもとで御坊を中心とした町づくりが行われた。時は戦国時代のさなかである。戦乱を避ける知恵が町の随所に生かされている。町は一段上がった台地の上に営まれた。周囲に環濠を巡らすことはなかったが、土塁を巡らせて竹藪を植え、町筋の道と道は「あてまげ」と称して、道を半間ほどずらして見通しを妨げる工夫が施された。

戸時代になると、南河内における水運・陸運に便利な立地条件を生かして、米、酒造、木綿、菜種油、木材などの商品作物の交易・流通の中心地となり、商業の町として大いに発展した。特に、酒造業が盛んで、酒造りで財をなした仲村家や橋本家、杉山家などの旧家が、現在も寺内町に中世から続く歴史的景観に色を添えている。

内町は、近鉄長野線「富田林」駅のの南400mに位置し、東西約400m、南北約350mの範囲に古い町割を残す歴史の町である。現在も人々が生活する町だが、その中に中世や江戸から続く旧家があちこちに点在している。

横に築かれた町並みを散策すると、かっての古い商業の町で見られたさまざまな光景を目にすることができる。旧家の屋根を見上げれば、かまどの煙を外に出す煙だしや、さまざまな意匠を施した見事な鬼瓦が目に入る。大屋根の下を見ると、屋根裏部屋の明かり取りと風通しのために、さまざまな形の虫籠窓(むしこまど)が漆喰の白壁にはめ込まれている。街には、駒つなぎの石や、収納式の縁台だったあげ店、塀の上に先のとがった竹・木を並べた忍返し、あるいはさまざまな形の出格子などが、あちこちで目に付く。


重要文化財・旧杉山家住宅
重要文化財・旧杉山家住宅
旧杉山家住宅の拝観券
旧杉山家住宅の拝観券
い建物には、国の重要文化財に指定された旧杉山住宅や大阪府有形文化財に指定された仲村家住宅、あるいは国の登録有形文化財などがある。だが、旧杉山家以外の各住宅の内部は非公開で、一般には公開されていない。しかし、寺内町の歴史や文化を紹介する「寺内町センター」や「じないまち交流館」で、必要な情報は入手できる。

内町センターの前に聳える4層の大屋根の家が旧杉山家の住宅で、寺内町の創設期からの旧家として知られている。代々「杉山長左右衛門」を名乗り、江戸時代を通じて富田林8人衆の一人として町に経営に携わってきた家柄である。旧来の家業は不明だが、1685年(貞享2年)に酒造株を取得してからは、造り酒屋として成功し、財をなしたとされている。

口で拝観料を払って、旧杉山家の内部にはいると、A君は懐かしげに「ホウ」とため息を漏らした。広い土間の片隅に釜屋(かまや、厨房)があり、黒光りする竈(かまど)があった。だが、A君が感動したのは、煙返し梁や天井裏の梁の太さである。巨大なケヤキの丸太を皮を剥ぎわずかに加工しただけで、立て柱に載せてある。立て柱に比べて何倍も太い。だが、北陸の雪国で育った筆者などには、かっての農家で見かけた構築の一部として見慣れていて、大した感動はなかった。

かし、数寄屋造りの洗練された奥座敷や、障壁画に飾られた大床の間、大きな仏壇が供えられた仏間などは、さすがに最盛時には年に1300石の酒造石高を誇ったという旧町家の財力を思い知らされた気がした。


女流天才歌人・石上露
女流天才歌人・石上露子
本町公園の中にある石上露子の歌碑
本町公園の中にある
石上露子の歌碑
治の終わり頃に堺の与謝野晶子らと活躍した明星派の歌人・石上露子(いそのかみつゆこ、1882 - 1959)は、明治15年(1882)に杉山家の長女として生まれた。本名は杉山タカといい、幼時から古典や漢籍、琴などに親しんだ。二十歳頃から”夕ちどり”、”石上露子”のペンネームで『婦女新聞』『明星』などに短歌,詩、小説などを発表した。新しい女流詩人として知られるようになり、与謝野晶子の知遇も得た。

が、杉山家には男子の跡取りが生まれなかったため、26歳のとき家業を継ぐため父親が決めた相手と結婚し、夫からは作歌活動を禁じられたため、文学界から身を引いた。彼女が明治40年(1907)に明星12月号に発表した次の「小板橋」という作品は、彼女の絶唱とされ、多くの賛仰者を得た。

ゆきずりのわが小板橋 しらしらと一枝のうばら
いづこより流れか寄りし 君まつと踏みし夕べに
いひしらず沁みて匂ひき

今はとて思いに病みて 君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば ああ、うばらあともとどめず
小板橋ひとりゆらめ

年、「明治美人伝」で石上露子のことが紹介され、彼女の人となりと作品が広く知られるようになった。彼女は二人の息子をもうけたが、長男が病死、二男は自殺し、彼女自身も昭和34年(1959)10月8日、秋日和の昼下がり、奥座敷で衣類の虫干しをしていて、脳出血のため人知れずに死去した。78歳だった。

上露子は白菊に似た「薄幸の麗人」と伝えられた。だが、本当の露子は新思想に目覚め、確固たる自我を持ち、主体的に行動する近代女性であった。明治37年(1904)7月に『明星』に夕ちどりの名で発表した次の短歌を発表した。彼女の反戦思想を明確に示している歌である。

みいくさに こよひ誰が 死ぬさびしみと 髪ふく風の 行方見まもる

なみに、この短歌が発表されたのは、与謝野晶子が「ああおとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ」に始まる詩篇を『明星』に記載した2ヶ月前のことである。本町公園には、この歌の歌碑が建っている。

杉山家住宅の庭の奥に土蔵が建っている。その中に、石上露子の手紙や愛用した琴、訪問着、火鉢や家具、駕籠などが陳列されている。



日本三大不動の一つを祀る瀧谷不動明寺(たきだにふどうみょうじ)

瀧谷不動明寺の総門
瀧谷不動明寺の総門

 見 学 メ モ

【所在地】 大阪府富田林市滝谷1762
【本尊】 不動明王と脇侍の矜羯羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子
【アクセス】【バス】近鉄長野線「富田林」駅前から金剛バス循環線で「滝谷不動前」まで。
【車】国道170号線(大阪外環状線)の「廿山南」交差点を左折して、府道202号線(森屋狭山線)を南東方向へ約2km


瀧谷不動明寺の境内案内
瀧谷不動明寺の境内案内
谷不動明寺の駐車場に車を入れたとき、梅雨の晴れ間の太陽は真上にあった。じりじりと照りつける太陽で、外気の温度は30度に達している。この暑さと空腹に耐えかねたように、A君は、拝観より腹ごしらえが先決だ、と駐車場の隅にある和風レストランに飛び込んだ。

伝によると、瀧谷不動明寺は平安時代の弘仁12年(821)、国家の安全と国民の幸せを祈るために弘法大師空海が開いた道場とされている。本尊として不動明王と脇侍の矜羯羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子を祀っている。この三体は、空海が一刀三礼をもって恭しく刻んだ霊像とされ、重要文化財に指定されている。

一願不動堂
一願不動堂
滝行場
不動の滝(滝行場)
動明寺の境内は、府道202号線で二分されている。寺の本堂や多宝塔は道路に北側に位置し、逆に南側には一願不動堂、滝行場、西国三十三所堂、三宝荒神堂などがある。昼食に天ぷらそばをペロリと平らげて元気が出たのか、A君は小生が終わるのを待たずに席を立って、正面にある総門へ向かった。総門をくぐると、坂の参道が左へ続き、鐘楼の先に本堂があった。

建時の寺は、この場所ではなく、ここから南へ約1kmのところにある嶽山(だけやま)の中腹に営まれた。しかし、天正15年(1360)に足利義詮(よしあきら)が嶽山・金胎寺を攻めたとき焼かれてしまった。幸い本尊と両脇侍は滝の下に移されて難を逃れたという。その後、再興された寺は、寛正4年(1463)の畠山政長・義就の嶽山合戦で再び兵火で焼かれた。そのため、場所を現在の所に移し、しだいに復興して今日に至っているという。

谷不動明寺の本尊は「日本三不動の一つ」とされ、とくに眼病平癒の霊像とされている。もともと不動明王は人間の悩みの原因である無明(むみょう)を断ち切って本当の幸せを授けることを誓願としている仏とされている。そのため、信者の真心が通ずるのであれば、どのような願いをでも必ず一願は必ず成就してくれるという。不動の滝への降り口にある一願不動堂は、そうした不動明王を祀っている。

惣拝所 西国三十三所堂
惣拝所 西国三十三所堂

車場の脇から上に延びる石段があったので、登ってみた。石段は惣拝所に続いている。惣拝所とは何なのかよく分からなかったが、正面に立つと、ガラス窓を通して後方の西国三十三所堂が見え、その前に一体の観音像が立ちはだかっている。西国三十三所堂には西国三十三カ所霊場の本尊のレプリカとその前に砂がおいてある。その砂を踏んで、それぞれの本尊を拝めば、実際に霊場に訪れたのと同じ功徳があるという。三十三所の本尊を拝んで回る時間が惜しい信者には、惣拝所で観音像を拝むことで西国三十三カ所霊場を回ったことになる。仏教における合理主義もここに極まり、との印象を受けた。

三宝荒神堂
三宝荒神堂
西国三十三所堂のさらに上には三宝荒神堂が建っている。三宝荒神は略して荒神さまとも呼ばれ、竈(かまど)の神様として知られいる。仏教系と陰陽道系の二種類があるとのことだ。仏教系は仏(ほとけさま)、法(教え)、僧(お釈迦様の教えを守る人達)の三宝を守る神様とされている。また、不浄をきらう神様とされている。火はすべてを焼きつくし清浄にすることから、火のある所と結び付けられて竈の神様となり、台所・家計費のやりくり・商売の資金繰りの神様として信仰されている。三宝荒神堂の前に立つと、前方の山の中腹に、木立に囲まれた多宝塔が見えた。

三宝荒神堂から見た多宝塔
三宝荒神堂から見た多宝塔



楠木正成の夫人が一族の冥福を祈った楠妣庵観音寺(なんぴあんかんのんじ)

瀧谷不動明王寺の本堂
楠妣庵観音寺の本堂

 見 学 メ モ

【所在地】 大阪府富田林市大字甘南備1103
【アクセス】近鉄長野線「富田林」駅下車、金剛バス東条線「甘南備」停留所下車、徒歩3分。南海高野線「河内長野」駅下車、南海バス「小吹台口」下車、徒歩20分


楠母子の像
楠母子の像
仏前に描かれた楠家の菊水の紋章a
仏前に描かれた楠家の菊水の紋章 /font>
妣庵観音寺の参道脇に「楠母子の像」が置かれている。楠正成(くすのきまさしげ)没後600年の節目の年の昭和10年(1935)5月に、岩崎光仁師が建立したものである。延元元年(1336)、正成は湊川(みなとがわ)の戦いで戦死し、その首級が足利尊氏によって届けられた。一族従臣たちは変わり果てた主君の姿を見て、皆号泣して拝伏したという。

のとき、正成の嫡男・正行(まさつら、1326 - 1348)はまだ11歳の少年だった、正行はやおら立ち上がると、涙を抑えて持仏堂に入り、父の形見の菊水の短刀で、父の後を追わんとした。このとき、正成の夫人・久子はすかさず正行の手をとらえて訓戒したため、正行は短刀を捨てて号泣したという。

楠母子の像」は、このとき久子夫人が持仏堂で正行を訓戒する様子を銅像で表したものである。なお、案内板にには、このとき楠夫人が詠んだとされる次の歌が記されている。
● 世の憂きも 辛きも忍 思いこそ 心道の 誠なりけり

の後、正行は南朝方として戦い、足利幕府軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破る功績を挙げた。しかし、正平3年(1348)1月の四條畷(しじょうなわて)の戦いで敗北し、弟の楠木正時と刺し違えて自害して果てた。時に正行23歳だった。


正成の夫人久子は、現在の富田林市大字甘南備の矢佐利で、この地方の豪族南江備前正忠の妹として生まれた。元享3年(1323)、20歳で正成に嫁ぐまで、兄の厳格な家庭教育を受けたという。正成に嫁いだ後、正行を筆頭に6人の男子を出産し、正成が出征した後は留守を守って子供たちを養育した。

大正6年に再建された楠妣庵
大正6年に再建された楠妣庵
観音堂
久子夫人の念持仏の十一面観音を
安置している観音堂
川の戦いで夫の正成を失い、四条畷の戦いで長男の正行と次男の正時を失った後、久子は生まれ故郷の甘南備に戻ると、草庵を結んで隠棲した。そして、名を敗鏡尼と改め、今はなき正成や一族郎党の菩提を弔って、寂寥の余生16年を過ごしたという。彼女が住んだ庵が、楠妣庵(なんぴあん)である。

條山観音寺は、楠正行が在世中に峰條山の一画の地を清め、一殿を作って、後醍醐天皇の念持仏だった千手観音像を安置して、峰條山観音殿としたのが始まりとされている。敗鏡尼が入寂した後、4男の楠正儀が観音殿を観音寺にあらため、楠氏一族の香華寺とした。

音寺と楠妣庵は久しく廃絶していた。大正6年(1917)になって楠妣庵が再興され、続いて大正11年(1922)に壮麗な観音寺本堂が再建された。昭和3年(1928)には書院を、昭和7年(1932)には恩光閣を落成して面目を一新し、現在に至ってる。


に覆われて薄暗い参道の階段を登り詰め、やっとの思いで境内にたどり着いた。午後の強い日差しが、広い境内一杯に照りつけていた。この時刻、参拝客は誰もいない。本堂の縁側に腰掛けて、周囲の樹木の葉音ひとつしない静寂を楽しんでいたときである。突然境内の奥の方から三匹の白い子犬が飛び出してきて、足元で人なつっこくじゃれ合って離れなかった。子犬も人影がない境内では寂しかったのだる。

堂の正面に石段があり、木立に囲まれて一段高くなっている。そこに、再建された楠妣庵と観音堂、さらに久子夫人の墓所があった。久子夫人はここに在住すること16年、正平19年(1364)7月、61歳をもってその生涯を閉じたとされている。石の玉垣の中にささやかな五輪塔が一つ置かれていた。これが彼女の墓だという。

久子夫人の墓所
久子夫人の墓所




2007/06/29作成 by pancho_de_ohsei return