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| 富田林市のどこの市街地からでも望見できるパーフェクトリバティー教団(PL)の大平和記念塔 |
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西暦584年(敏達13年)我が国で初めて3人の渡来系氏族の娘が出家して尼僧になった。その中の一人に、錦織壺(にしこりのつふ)の娘・石女(いしめ)がいる。出家して恵善尼(えぜんのあま)となったこの娘は、錦織郡で生まれ育ったはずである。そこが、どのような環境の土地柄だったのか、一度わが目で見ておきたかった。これが第一の理由である。 もう一つの理由は、別の事件に関連した地名がやはり富田林に存在したためである。石女が出家して恵善尼となった前の年の583年の暮れ、日系百済人の達率・日羅(だちそち・にちら)が難波津で暗殺されるという事件が起きた。日羅は、新羅に滅ぼされた加耶諸国を復興するために、敏達帝がわざわざ百済から呼び寄せた百済の冠位十六階中第二位の政府高官である。
そのとき、大伴連糠手子(おおとものむらじ・あらてこ)が「一カ所にまとめて置いては、何か変事を起こすかもしれない」と危惧して、584年に妻子は石川百済村、水夫らは石川大伴村に、さらに捕縛された暗殺団の一味は下百済の河田村に置いたという。 石川百済村の現在地は未詳だが、河内国錦織郡百済郷、すなわち現在の河内長野市太井付近だったのでは、とする説がある。石川大伴村はかっての石川郡佐備郡大伴付近で、現在でも富田林市北大伴、南大伴の地名が残っている。下百済の河田村は錦織郡廿山(つづやま)村甲田、現在の富田林市甲田とされている。これらの地域は、当時大和朝廷の重臣の一人だった大伴連糠手子が支配していた土地だったと思われる。
6世紀末の飛鳥時代に起きた出来事が関係した場所が、このように富田林市の市域内外に点在しているとなれば、やはりその土地や風土を己自身で確かめたくなるのが人情である。かくて、梅雨の晴れ間をぬって富田林にでかけることにした。 関連地図:富田林案内マップ |
蘇我馬子
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| 龍泉寺の境内から見下ろせるパノラマ風景 |
富田林市の南部に嶽山(たけやま)という名の丘陵状の山がある。金剛山の手前に位置する海抜278mの山で、山頂に「かんぽの宿」があり、楠正成の築いた山城のひとつ龍泉城址がある。その山の中腹に、推古天皇の勅命を奉して、蘇我馬子が聖徳太子とともに594年(推古2年)に衆生済度のため創建したと伝えられる牛頭山龍泉寺がある。
最近になってこの寺の存在を初めて知った。我が国で最初の仏教寺院とされる飛鳥寺がまだ完成していない時期に、山間の人目に付かない山腹に蘇我馬子が別の寺院を建立しているとは驚いた。そもそも我が国の仏教は、当初氏族仏教として根付いたのであり、蘇我氏に続いて有力氏族は競って祖先を祀るための寺院の建立を始めた。
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| 府道201号線の交差点「中佐備」 |
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| 山間の集落を縫って続く府道201号線 |
古刹と称される寺院の多くは、創建を古く見せるため聖徳太子などに関連づけて縁起を語りたがるようだ。龍泉寺の創建の伝承もおそらくその類(たぐい)であろう。しかし、推古天皇の勅命で蘇我馬子が建立した寺となると、事の真偽は別として、一度は参拝してどのような寺か見てみたくなった。そのため、金剛大橋の手前にある「川向」交差点で左折して府道201号線(甘南備川向線)に入った。この車道は佐備川に沿ってほぼ真南に向かって延び、富田林市の南の端にある甘南備町の南妣庵(なんぴあん)観音寺まで続いている。
府道201号線は、けっこう車の往来が激しい。途中の「板持南」交差点で国道309号線を横切り、佐備川を左手に見ながら、南下を続ける。自転車のペダルが少しずつ重くなってくるところを見ると、坂道にかかってきたようだ。「中佐備」交差点では瀧谷不動明王寺方面の標識が出ていた。信号を右折すれば、瀧谷不動明王寺がある。
やっと龍泉寺方面への標識がある三叉路に来た。「ようこそオレンジライン」への看板がゲートを作っている。このあたりは、丘陵の傾斜を利用したミカン作りが盛んなのだろう。そこからは丘陵の登り坂である。「かんぽの湯」もこの坂道からアクセスするようだ。ただし、ペダルをこいで行けるような傾斜ではない。自転車を降りて押しながら周りくねったカーブを登っていくと、ようやく龍泉寺の入口に着いた。時計を見ると、「川合」交差点からここまで約45分かかった。
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| 龍泉寺方面への登り坂オレンジライン | やっと坂の途中にある龍泉寺に到着 |
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| 龍泉寺の案内図 |
”昔この地に古い池があり、悪い龍が棲んで人々に危害を加えていた。蘇我馬子は人々を救うため修法を行なったところ、悪龍はどこかへ飛び去った。やがて、馬子は聖徳太子とともにこの地に寺を建てて仏教の興隆に努めた。この時期から奈良時代後半にかけて、金堂、東西両塔、僧坊などが建てられたことが、発掘調査の結果から推定される”とのことだ。
その後、池の水が枯れて寺も衰退した。823年(弘仁14年)弘法大師空海がこの地を訪れ、里の老人から湧き水が少なくて困っているとの話を聞いた。そこで、空海は竜王を勧請し、7日間の雨乞いの祈祷を行なったところ、7日目の夜半に滝のように雨が降り、池に水が満々と満たされるようになった。そこで池に弁財天を祀り、牛頭天王を鎮守とし、精舎を再営したという。
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| 国の重要文化財に指定されている八脚門 | 龍泉寺の本堂 |
平安時代には、衰微した堂塔の再建がはかられたとのことだ。淳和天皇は天長5年(828)中納言藤原冬緒を勅使として派遣し、堂塔を再建させ、龍泉寺医王院の号を賜った。このため、寺は大いに栄えたという。だが、元弘2年(1332)楠木正成が嶽山の山頂に城を設けて戦ったので、寺の堂宇や僧坊は数度の兵火を被り灰燼に帰した。その後、寛文元年(1669)以後、石川若狭守総長の支配地となってからは、白木城主石川氏の崇敬をうけて、度々の修理を経て現在に至っているという。
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| 三重の東塔の心礎 |
浄土庭園の遺構を今に残す池泉回遊式庭園が本堂の西側にあり、国の名勝に指定されている。池を中心にして周囲を木立に囲まれたこの庭園は、南北朝以前のものといわれ、約2700平方メートルの広さをもつ。池の中には南北ほぼ一列に3つの小島があり、中央には水神である弁財天、その両側に叱天、聖天を祀っている。
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| 国指定の名勝庭園 | 龍泉寺庭園の中の池 |
境内を一巡してみて、建物や庭園がずいぶんと荒れているのに驚いた。本堂の西に建つ大日堂や名勝庭園の縁にある雨井戸の覆屋などはまるで廃屋だ。せっかく国の名勝の指定を受けながら、庭園の手入れもままならないようだ。広大な敷地を保持するのは莫大な費用がかかるのだろう。重要文化財に指定されている八脚門の保全には、国からなにがしかの補助もあるのだろうが、おそらく焼け石に水というのが実情だろう。まことに惜しいことだ。
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| 葛城・金剛連山 |
河内石川説の根拠は、『日本三代実録』の元慶元年(877)12月27日条に、武内宿禰の子・宗我石川宿禰は河内国の石川の別業に生まれたので石川を名としたという記述による。その後裔である蘇我馬子は、6世紀末にはまだ先祖の土地だった石川流域を支配していたという伝承があり、そのために龍泉寺の開祖に付会されたのかもしれない。
絹織物をつくる技術者集団錦織部
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| ニシゴリ |
古代には、大和政権は朝鮮半島から渡来し錦綾の織物技術で朝廷に奉仕する技術者集団を錦織部または錦部という組織に編入して管理した。似たような技術集団には、銅・鉄製品の制作を専業とした韓鍛冶部(からかぬちべ)、須恵器(すえき)作りに従事した陶作部(すえつくりべ)、馬具、とくに鞍作りの集団だった鞍作部(くらつくりべ)などがある。
錦織を専業とする渡来系の工人集団は、畿内を中心に各地に設けられた錦織部に分散居住させられた。『日本書紀』には、仁徳天皇の時代に居地を賜り、錦織の名を賜ったと記されている。5・6世紀ごろ渡来人の一大集住地だった河内国石川郡(のちに錦部郡となる)にも錦織部の人々が住んでいた。大臣蘇我馬子の要請を受けて娘を尼にすることを了承した錦織壺(にしこりのつぶ)は、おそらくその技術集団を束ねる長のような立場にいた人物であろう。あるいは密かに仏教を信仰し、馬子とは私的なつきあいがあったかもしれない。
584年に3人の渡来系の娘が出家して尼となった。すなわち、司馬達等(しめたっと)の娘・嶋(しま)、漢人夜菩(あやひとのやめ)の娘・豊女(とよめ)、そして錦織壺の娘・石女(いしめ)である。出家した後の彼女たちの法名はそれぞれ善信尼、禅蔵尼、恵善尼といった。三人の尼は、馬子の家の東方に新しく造って弥勒石像を安置した仏殿で、仏に仕えた。
当時の善信尼の年令は17歳だったと想定されている。善信尼の弟子として尼になった他の二人は若干若く15歳前後だっただろう。だが、4年後の588年、彼女たちは正式な受戒を受けるために、百済の都・泗沘城(しひじょう)に2年間留学することになる。つまり、若いながら彼女たちはバイリンガルを操ることができる利発な女性たちだった。
父親に請われて大和に出て出家するまで、石女は錦織郡で育ったはずである。彼女を育んだのは羽曳野丘陵を覆う森林や原野、そして近くを流れる石川といった自然環境だっただろう。彼女が多感な少女期を過ごした生家が現在の錦織公園付近にあったと想定してもおかしくない。
観光案内所で貰った「富田林 文化・観光ガイド」の裏には道路マップが印刷されている。それを見ると、龍泉寺から錦織公園に向かう一番の近道は「河内ふるさと道」で瀧谷不動明王寺付近まで出て、それから府道202号線を西に向かえばよい。しかし、近くでみかん園を営む男性に確認すると、途中に階段などがあり、自転車では無理だと教えてくれた。やむなく201号線を「中佐備」交差点まで戻り、そこから202号線で瀧谷不動明王寺の前を通って行くことにした。
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| 東高野街道の「錦織」交差点 |
交差点をそのまま横切ると、左手に「錦織公園」方面への小さな標識が狭い路地に立っていた。標識が示しているのは、どうやらハイキングコースの「河内ふるさとみち」のようだ。指示された通りに錦織中町から錦織南町の住宅を抜けて行くと、府道38号線に出た。前方を見ると、国道170号線のガードの向こうに錦織公園の入口が見えた。
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| 錦織公園の入口 |
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| 錦織公園の案内図 |
園内をゆっくり散策すれば、石女が生きた時代の羽曳野の様子がある程度体感できるのかもしれない。残念ながら、すべてを一通り見て回る時間の余裕がなかった。案内図で確認すると、入口近くにある堂の山古墳がある。1300年ほど前の終末期の古墳らしい。そこで、その古墳を見て、ドレミの小橋から見晴らしの丘へ回ることにした。
堂の山古墳は一辺が10mの方墳である。発掘調査によって、幅約1m、長さ約2.5m、高さ約0.6mの石室が南北方向に2基並べられていたことが判明している。同じ墳丘に石室が2つ築かれている古墳は、我が国だけでなく朝鮮半島でも数少ない。棺を飾った鉄製金具や方形座金が出土していて、朝鮮半島の影響を受けた終末期の古墳と推定されている。ひょっとして、錦織部の首長を埋葬した墓だったかもしれない。
ドレミの小橋では、高欄に取り付けてある音響板を備え付けのバチで順番にたたけば『ふるさと』や『七つの子』のメロディーが流れるそうだ。試しに叩いてみたが、叩き方が悪かったのかメロディーになっていなかった。
| 堂の山古墳 | ドレミの小橋 |
ドレミの小橋の先に、「みはらしの丘」がある。どのような景観が楽しめるのか期待してアクセスした。しかし、東屋の周りの樹木が育ちすぎて、周囲の景色はほとんど何も見渡せなかった。だが、筆者が石女だったら、父に連れられて大和に向かう前日、かならずやこのような高みに来て故郷の山河を瞼の奥に焼き付けたと思う。二度と見ることがないかもしれない故郷の風景である。
彼女はおそらく東の方角にも視線を投げたであろう。眼下を石川が南から北へゆったりと流れ、その向こうに二上山から葛城・金剛と続く山塊が長々と横たわっていた(もっとも、当時は金剛山という呼称はなく葛城と金剛を合わせて、葛城山と呼んだそうだ)。その山の彼方が飛鳥である。己の人生を変える出来事が飛鳥で待ち受けていると、彼女は予想しえたであろうか。15歳前後のうら若き乙女は、出家するということの意味を理解していただろうか。
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| 錦織公園付近の国道170号線から東を望む |
古代に錦織郡の守護神を祀った錦織神社
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| 錦織神社の案内図 |
錦織公園を出て、国道170号線(大阪外環状線)の歩道を自転車で北に向かうと、国道309号線との交差点「新家」の先に、「西甲田」という信号がある。その交差点に立って東を見ると、坂道の下に樹木が生い茂った森がある。そこが錦織神社(所在:大阪府富田林市甲田町378)の鎮守の森である。
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| 錦織神社の正面鳥居 |
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| 長い参道 |
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| 東拝殿 |
この本殿は平成17年に70年ぶりに修復された。色が塗り替えられ新しく見えて当然である。その年の4月に行われた竣工奉祝祭では、修復を祝って9台のだんじりが宮入りし、当日は大勢の見物客で賑わったという。
「錦織神社由緒略記」によれば、この付近は昔、百済から渡来した人々が広く土着して綾錦織などを朝廷に貢献していた。そのため、「爾之古里(にしこり)」と称され、後に錦部郡となった。大和の都に通じる要路で、浪速よりの水路を主とする要衝であったため、早くから大陸文化が移入され「和名抄」にみえる百済郷とも称される集落をなしていたという。
この神社が鎮座する場所は錦部郡の最北端に位置する。創建年代は詳かではないが、おそらく当初は錦織部が自分たちの祖神を祀っていたものと思われる。現在、本殿では建速素戔嗚命(たけはやすさのおのみこと)、品陀別命(ほんだわけのみこと)、および菅原道真を主祭神としている。
ちなみに、この本殿は、唐破風(からはふ)と千鳥破風を組み合わせた独特の様式の建物であり、国の重要文化財に指定されている。
筆者がこの神社に興味を抱いたのは、錦織部に関係がありそうな神社の名前そのものに惹かれたこともあるが、それ以上に神社の鎮座する地域が、現在の富田林甲田だったことである。『日本書紀』は達率・日羅(だちそち・にちら)を暗殺した一団を捕縛して、下百済の河田村に置いた、と記している。その河田村は、現在の富田林甲田に当てられている。
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| 錦織神社の本殿 |
日羅を暗殺した一団とは、日羅と共に来朝した恩率・徳爾(おんそち・とくに)や恩率・余怒(おんそち・よぬ)たちである。彼らは一足先に帰国する恩率・参官(おんそち・さんかん)の指示で、583年の大晦日の日に日羅を暗殺し、そして捕縛された。その後、身柄を下百済の河田村に移され、取り調べを受けた。
彼らは取り調べに際し暗殺の事実を認めたため、大和朝廷は使者を肥後の葦北に派遣して日羅の一族を呼び、彼らの処断を一任したという。葦北君らは、彼らを受けとり皆殺しにして、淀川河口にあった姫島に遺骸を捨てたという。また、日羅の遺骸を受けとって、肥後の葦北に新たに埋葬しなおしたと伝えられている。
実は、『日本書紀』が書き記した日羅暗殺事件に関して、様々な謎がある。発端は、583年(敏達12年)7月、新羅に滅ぼされた加耶諸国を再興するため、敏達帝が日系百済人の達率・日羅を召喚する指示を出したことである。加耶諸国とは、562年に新羅に併合された朝鮮半島南岸の金官加羅国などの諸国を指す。
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| 4〜5世紀初め頃の加耶諸国 |
謎の第一は、登極して即座に遺詔を奉じず、12年も経って、ようやく加耶諸国の再興を思い立ったことだ。しかも日系とは言え百済国の政府高官を召喚することにしている。本来なら同盟を結んでいる百済に使者を派遣して、百済王と対策を講じるのが筋であろう。
日羅は、火葦北国造(ひのあしきたのくにのみやつこ)・阿利斯登(ありしと)の子とされている。阿利斯登は新羅が加耶諸国を侵そうとした537年(宣化2年)、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)に従って朝鮮半島に渡った武将である。その彼が何故帰国しなかったのかは不明だが、百済の女性と結婚し、一子をもうけた。それが日羅である。
当時の百済は聖明王の時代である。仏教を伝えたり五経博士を派遣するなど倭国接近策をとる聖明王は日系一世や日系二世を重く用いたものと思われる。だが、異国での生活が容易だったとは思えない。親子は武人として、さまざまな戦場に赴いて多くの手柄を立てたであろう。それ故に、日羅は百済の冠位十六階の第二にあたる達率(だちそち)まで登り詰めることができた。
583年は、聖明王の子の威徳王の治世30年にあたる。この王は、倭国からの日羅召喚要求に対して、日羅の一時帰国を許可しなかった。本来なら倭国と百済が連合して仇敵新羅を撃とうというのである。喜んで日羅の帰国を後押しすべきだが、そうしなかったのには、後述のような訳があったようだ。
倭国から再度訪れた使者は、倭国王から威徳王を恐喝するような親書を提出したことで、日羅の倭国訪問がようやく実現することになった。しかし、威徳王は、日羅に随行して、百済の冠位十六階の第三にあたる恩率の徳爾(とくに)、余怒(よぬ)、奇奴知(がぬち)、参官(さんかん)および第四位の徳率・次干徳(とくそち・しかんとく)を同行させ、密命を与えている。それは、おそらく百済の機密を漏らすようであれば、日羅を抹殺せよ、という指示であっただろう。
来朝した日羅のもとに、大和朝廷は三人の実力ある政治家を派遣して、加耶諸国再興の策を乞うた。本来なら両国が連合して、どのように新羅勢力を加耶諸国から追い出すべきか献策されると思われた。だが、日羅は意外な提案を行なった。これが、第二の謎である。一つは富国強兵策で、今は兵を動かす時ではなく、3年間国力を充実して将来に備えよ、という進言だった。
今ひとつは、百済恫喝策である。日羅の言葉によれば、百済は加耶諸国の復興に協力的でなく、逆に謀略をもって、船三百隻の人間を筑紫に送り込み、そこに国を造ろうとしている、という。そこで、多くの船を造って港ごとに連ねておき、百済人にそれを見せて倭国王の命に服するように恫喝することを日羅は進言している。それでも、筑紫に百済人を送り込んで来ようとするなら、壱岐や対馬に伏兵をおいて、やってくる連中を殺してしまうべきだとまで言い切った。
日羅は、百済の王宮で重きをなした政府高官である。その彼が、なぜ国家機密を大和朝廷に暴露するような挙に出たのであろうか。彼は、百済は加耶諸国の再興に協力的ではない、それどころか、謀略を持って、九州を自国の領土に組み入れようとしている、というのである。大和朝廷側は驚いたに違いない。4世紀後半に百済と通交して以来、我が国は百済一辺倒の外交を展開してきた。それなのに、百済は密かに筑紫侵攻を画策しているという。そうした事実があったのなら、その背景には新たな謎が潜んでいる。
一足先に帰国することになった恩率の参官は、国家機密を暴露した日羅の暗殺を徳爾たちに指示した。それは威徳王の秘密指令であったのだろう。機会を伺っていた徳爾たちは、大晦日の日に難波の百済館で日羅の暗殺を実行した。
日羅は妻子を伴って来朝している。たぶん彼には百済に帰国する意志はなかったのだろう。また、彼は難波の地に上陸すると、鎧(よろい)を着、馬にまたがって、小郡(おごおり)の政庁の前に進んだ。そして、その鎧を脱いで大王に奉った。鎧はおそらく父・阿利斯登が着用していたものだったのだろう。父に代わって長い出兵からの帰国を、そのような形で報告したかったにちがいない。