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これらの神社の所在を見る限り、田原本町付近に鏡作りを専業とした古代の技術集団が居住していたことは間違いなさそうなのに、不思議な土地柄である。たまたま遺跡や遺物がまだ発見されていないだけのことなのだろうか。今回の史跡探訪地には、これらのうち4つの鏡作神社が含まれている。それらの神社を巡りながら、この謎を考えてみたい。
集合場所に指定された田原本町の津島神社は、近鉄田原本駅から徒歩5分のところにある。午前10時の集合場所に遅れないように駅に到着すると、津島神社までの道の要所に友史会の係の人が立って進行方向を指示してくれた。 梅雨の中休みで晴天に恵まれたためなのか、大勢の友史会会員がこの例会に参加するために集まってきた。係員の話だと、その数200名以上。案内役は橿考研付属博物館の山田隆文氏。地元で生まれ地元で育ったため、田原本周辺はわが庭のように熟知しておられる学芸員である。
【コース】 近鉄田原本駅 → 田原本町津島神社 → 下ツ道 → 鏡作坐天照御魂神社 → 鏡作麻気神社 → 唐古・鍵考古学ミュージアム → 羽子田古墳群 → 保津・阪手道 → 鏡作伊多神社 → 太子道 → 保津・宮古遺跡 → 笹鉾山古墳群 → 鏡作神社(石見) → 近鉄石見駅
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田原本町津島神社 − 以前の祇園社、今でも地元では祇園さんと親しまれている
田原本の地名の由来は、一般には低地を意味する「タワラ」と場所を示す「モト」を抱き合わせた地名とされている。しかし、鏡作りに関連して「踏鞴(タタラ)」が転化したとする説もあるそうだ。 その田原本は、中世に成立した楽田寺の門前町と、近世に成立した教行寺を中心とする寺内町、田原本領主だった平野氏の陣屋などを中心に発達してきた町である。
社名は、領主平野氏の本貫地であった尾張国津島に因んで、明治2年(1869)に祇園社から津島神社に改称された。明治時代に書き写された棟札から、この神社の創建は、平安時代までさかのぼるとのことだ。平安時代以降、田原本村の産土神を祀った神社と考えられている。 うっそうと生い茂る巨木に囲まれた神域は、いかにも古社の面影を留めている。その周りを歩いてみると、拝殿の前で大々的な発掘調査が行われていた。 |
下ツ道 − 古代、奈良盆地を南北に貫いていた3本の直線道路の一つ
集合場所の津島神社から最初に向かったのは、旧田原本村の北、大字八尾に鎮座する鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてるみたまじんじゃ)である。神社の正面鳥居を出て一直線に東に向かうと、やがて楽田寺という寺院にぶつかる。 この寺の創建に関しては、天平元年(729)と元享2年(1322)とする2つの説がある。どちらが正しいかは、案内役の山田氏にもよく分からないそうだ。現在は小さな寺院に過ぎないが、室町時代中期の最盛期には坊が二十を数えた大寺院だったようだ。かっての田原本村はこの楽田寺と祇園社の門前町として形成された。
下ツ道は古代のみならず近世にいたるまで主要道路として存続し、近世には中街道と呼ばれていた。中街道は田原本村の中心を南北に通っている。それを証明するものが、街道に面して立っている道標である。北となりの新町のものを含めると、現在5基の道標が残っている。また、道標の他にも、常夜灯として用いられた太神宮燈籠も多く残っているとのことだ。 おおざっぱな概念として、下ツ道は現在の国道24号線の近くを平行して築かれていたものと思っていた。だが、楽田寺の地図で計測してみると、寺川を挟んで24号線の西側およそ300mのところに築かれていたことになる。寺川の右岸ではなく、寺川の左岸に存在したのだ。
その阿斗の所在地に関して二つの説がある。和名抄は河内国渋川郡跡部郷、すなわち現在の大阪府八尾市植松付近とする。一方、大和志は大和国城下郡阿刀村、すなわち現在の田原本町阪手(さかて)とする。後者ならこの付近の寺川の右岸のどこかである。国道24号線には「阪手」という交差点もある。 日羅たちは難波の館で歓迎の宴を催された後、阿斗の館に移っている。一行は水運を利用して難波津から大和川をさかのぼり、さらに寺川に入って阿斗までやってきた、と推測していた。しかし、後述のように、その当時保津・阪手道がすでに存在していたのであれば、現在の河合町の川合あたりで大和川から上陸して、陸路を取った可能性も否定できない。 |
鏡作坐天照御魂神社
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| 鏡作坐天照御魂神社を象徴する朱塗りの鳥居 |
「鏡作神社」と通称されている鏡作坐天照御魂神社は、近鉄田原本駅の東北1kmの所に鎮座している。このあたりは田原本町の大字八尾であり、東隣の大字小阪を含めて、古代には鏡作郷と呼ばれていた地域だ。したがって、古代人が崇敬した鏡の制作を業とする鏡作部(かがみつくりべ)が居住していたところとされ、この神社も鏡作部の遠祖とされる石凝姥命(いしごりどめのみこと)を、当初は自分たちの氏神として祀った社と理解されている。
朱色も鮮やかな鳥居をくぐって明るい参道を拝殿の方に進むと、周囲を雑草に覆われた小さな池が左手に見えてくる。古来、鏡作師たちはこの地に集まり、鏡の水を以て秘法を授けられた、と縁起が伝える池である。また、江戸時代には、鏡職人がこの池で鏡を洗い清めたという。
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| 鏡池 | 昭和44年(1969)に再建された拝殿 |
この神社の拝殿は、昭和19年(1944)の地震で倒壊した。鏡業界やガラス業界が共同で拝殿を再建したのは、昭和44年(1969)のことである。 拝殿の裏には、色鮮やかな本殿が建っている。桁行(けたゆき)7.55m、梁間(はりま)1.64mの5間社流造で、本殿3社と2つの合間からなる。江戸時代中期ごろの建築とされているが、詳細は不明である。
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| 5間社流造りの本殿 |
石凝姥命は、天照(あまてらす)大神がスサノオの乱暴に怒って天岩戸に隠れた時、彼女を岩戸から誘い出す方便として八咫鏡(やたのかがみ)を作った神である。本殿では石凝姥命を鏡作伊多の神として右座に祀っている。天糠戸命は、石凝姥命の父として系譜つけられており、本殿では鏡作麻気の神として左座に祀っている。この神は鏡の製作の守護神の性格があり、先代旧事本紀には鏡作連などの祖と記されている。
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| 神宝として祀られている 唐草文帯三神二獣鏡 |
ご神体とされている鏡は、学術的には唐草文帯三神二獣鏡と呼ばれている鏡だが、実際は三角縁神獣鏡の外区が欠落している。おそらく、いつのころか近くの古墳から出土したものを神宝として祀ることにしたのであろう。考古学上、三角縁神獣鏡は舶載品か国産品か今だに決着をみていない。舶載品であれば、鏡作部で製作した鏡ではなく、社伝は嘘になる。
鏡作麻気神社
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| 大字小阪にある鏡作麻気神社 |
鏡作麻気神社は、鏡作坐天照御魂神社から寺川を挟んで東側の大字小阪に鎮座している。近鉄田原本駅から東北へおよそ1.5kmの地点で、近くを国道24号線が通っている。江戸時代までは子安大明神と呼ばれていたが、明治時代に『延喜式』神名帳に記された鏡作麻気神社に比定された。
祭神は天糠戸命(あめのあらとのみこと)とも天麻比止都禰命(あめのまひとつねのみこと)とも言われている。天糠戸命は石凝姥命(いしこりどめのみこと)の父とされる神である。一方、天麻比止都禰命は別名を天目一箇神(あめのひとつのかみ)ともいい、鍛冶に関わる神とされている。太玉命(ふとだまのみこと)に隷属した神で、天孫降臨の時金工として従ったとされている。金工は片目を閉じて一つの目で面や曲、直を調べるため、この名がついたとされている。
唐古・鍵考古学ミュージアム − 平成16年11月にオープンした考古学ミュージアム
こうした事情を勘案して、主催者側は昼食休憩場所として唐古・鍵考古学ミュージアムを選んだようだ。田原本町には、弥生時代前期に始まり、古墳時代前期まで600年間以上継続して営まれた唐古・鍵遺跡がある。佐賀県の吉野ヶ里遺跡や静岡県の登呂遺跡と並ぶ弥生時代の有名な大規模環濠(かんごう)集落の遺跡である。田原本町の史跡巡りで、この遺跡を外すわけにはいかない。そんなわけで、主催者側は田原本町教育委員会の藤田三郎氏に、午前11時半から唐古・鍵遺跡の概略の説明をお願いし、その後館内で昼食と取るようにスケジュールを組んでいた。 4年前の平成15年4月10日、唐古・鍵遺跡を見学し、ついでに郷土資料展示室がある中央体育館を訪れたことがある(平成15年4月10日付け橿原日記参照)。当時はまだ唐古・鍵考古学ミュージアムは存在せず、唐古・鍵遺跡からの出土品は体育館の中に設けられた資料展示室に置かれていた。田原本青垣生涯学習センターの一画に唐古・鍵考古学ミュージアムがオープンしたのは平成16年11月である。
約100回におよぶ発掘調査から、唐古・鍵遺跡は約600年間継続して営まれた弥生時代の環濠集落だったことが判明している。土器や木器など多種多様な遺物が出土しており、それが当時の生活文化の実態を我々に提供してくれる貴重な遺跡である。 研修室で昼食を取った後、午後1時半の集合時間までの間、二階に設けられた3つの展示室を見学した。第1室は唐古・鍵の弥生の世界を紹介したもので、絵画土器を参考に制作したシャーマンの模型や、模型を使った弥生時代のまつりの様子が興味深かった。
第2室では、環濠集落の中で行われた「ものづくり」の技術が紹介されており、土器、石器、木器、青銅器、機織りなどの制作過程と使用した道具などが展示されていた。第3室では、考古出土遺物で紹介していた。午後の見学に予定されている羽子田古墳群から出土した牛形埴輪や盾持人埴輪、笹鉾山2号墳の周濠から見つかった馬形埴輪と人物埴輪なども展示されていた。 藤田三郎氏によれば、平成3年に出土した楼閣が描かれた絵画土器や、平成10年に発見された青銅器の炉跡は、全国に類例がなく、これららの出品からこの遺跡が近畿地方の中核的な集落だったと考えられるようになってきたという。同氏の話で興味深かったのは、これまでの調査は約2.7haと遺跡全体の1割にも満たず、地下には計り知れない弥生時代の情報が眠っているとの指摘だ。これらを調査・解明することで、唐古・鍵遺跡は弥生時代の最新の文化を知る手掛かりを今後も提供し続けるであろう。 |
羽子田古墳群
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| 牛形埴輪が出土した羽子田1号墳跡は幼稚園の敷地内 |
午後1時半ミュージアムを後にすると、一直線に西に延びる道を、参加者たちは長い隊列を組んで進んだ。国道24号線を横切り、寺川を渡り、本町役場の前を過ぎた。田原本幼稚園の前まで来たところで、突然、隊列の先頭が止まった。
その幼稚園の敷地から田原本小学校にかけての一帯は、羽子田古墳群(所在地:磯城郡田原本町字東羽子田)の広がっていた地域である。鏡作坐天照御魂神社からは、南西の方角ににあたる。しかし、古墳群といっても、いずれの古墳も墳丘が残っていたわけではない。ほとんどは発掘調査によって発見されたものである。山田氏の説明によると、これまでの第30次におよぶ調査で22基が確認されているそうだ。いずれも古墳時代前期から後期のものである。
| 1号墳から出土した牛形埴輪 | 盾持人埴輪 | 楯持人埴輪の頭部(第11次) |
羽子田古墳群を有名にしているのが、ここから出土した牛形埴輪や盾持人埴輪であろう。これらの埴輪は明治30年(1897)年の病舎建設に伴って出土した。しかし、正確な出土地点は長らく不明だった。平成10年(1998)、本町教育委員会が1号墳の墳形を確認するため第11次調査を実施し、1号墳が前方後円墳であることを確認した。
その折、1号墳の周濠から楯持人埴輪の頭部も出土した。その結果、明治時代に見つかった牛形埴輪や盾持人埴輪も1号墳を飾っていたものであることが判明した。出土した埴輪は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。特に、牛形埴輪は全国的にも出土例がなく、国の重要文化材に指定されている。
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| 羽子田遺跡から出土した革袋形土器 |
保津・阪手道
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| 現在の保津・阪手道 |
羽子田古墳群の近くを、不思議な古道がかって築かれていた。文献にも記録されていないため、考古学では保津・阪手道と仮の名前が付けて呼んでいるという。周囲の条理地割りとは方向が異なり、田原本町の大字新町から西の大字富本(とんもと)にかけて、西北西から東南東方向に走る道路である。
羽子田遺跡の第10次と第16次調査で、西北西・東南東に走る保津・阪手道の側溝が見つかった。土層の断面を観察することで、南側溝は同じ位置で再掘削され、北側溝もやや南へづれた位置で再掘削されていたことが確認された。つまり、当初は幅14.5mの道路が築かれたが、後に10.5mから9m道路に縮小されたようだ。側溝の埋め土から奈良時代の土師器坏が出土していることから、奈良時代には存在した道である。
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| 保津・阪手道と太子道の巷(ちまた) |
その太子道と保津・阪手道の交差点が、保津・宮古遺跡の第14次調査と第18次調査で見つかった。第14次調査では、太子道の西側溝が、また第18次調査では保津・阪手道の南側の溝がそれぞれ検出され、発掘調査地点付近で二つの古道が交わっていたことが判明した。
山田氏の説明によると、保津・阪手道の痕跡は、新町から富本にかけて明確に残っているそうだ。その東側でも、阪手から大安寺、伊与戸(いよど)を経て桜井市の江包(えつつみ)にかけて道路の痕跡を追うことができるという。その先は、桜井市の三輪の方向を向いているようだ。反対側は、富本の先はどうやら河合町の川合(かわい)あたりに向かっていると推測されている。このため、この保津・阪手道は、飛鳥時代以前に、都が置かれた桜井から奈良盆地の河川が合流する川合を結ぶ重要な道路だった可能性が指摘されている。
我々がこれから近鉄橿原線と近鉄田原本線の隣接した2つの線路を越えて行く道は、かっての保津・阪手道の上に築かれた現在の車道である。
鏡作伊多神社
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| 大字宮古に鎮座する鏡作伊多神社 |
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| 宮古池の縁に見えてきた鎮守の森 |
実は、鏡作伊多神社と呼ばれる同名の神社が、田原本町には2つ隣接して存在する。一つは、これから向かう大字宮古字補屋60に所在し、もう一つはその南の大字保津字南垣内150に所在する。いずれも鏡作部の祖・石凝姥命(いしこりどめのみこと)を祭神として祀っている。ただし、保津にある鏡作伊多神社の祭神は、石許利止売命と書く。
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| 二つの鏡作伊多神社の標識 |
明治時代に『延喜式』神名帳に示す鏡作伊多神社に比定されることになったが、どちらの神社に比定すべきか定かでなかったため、このような矛盾が生じたという。往古は、両地とも鏡作りを専業とする集団の住居地であったと考えざるを得ないとのことだ。
太子道 − 古い地割りに沿って7世紀以前に築かれた筋違(すじかい)道
奈良盆地では、東西に走る横大路や南北に走る上ッ道・中ッ道・下ッ道などの古道が極めて明瞭に現存している。これらの道は、7世紀の後半、天智〜天武朝頃に、途中にある丘陵や河川を無視して、正南北・正東西の方位を持つ方格地割(―条理地割)に従って東西南北に建設されたと考えられている。 このように正方位に計画された道路に対して、斜めの方位を取る古い地割に沿って走る直線道路があったことも、部分的に確認されている。こうした斜行道路は、7世紀前半以前に建設されたものと推定され、一般には、「筋違(すじかい)道」と呼んでいる。その一つに、斑鳩(いかるが)と飛鳥(あすか)の間を短距離で結ぶように造られた直線道路がある。北北西に約20度傾いた斜行道路で、現在この道は、北は斑鳩町高安から下ツ道と合う橿原市新ノ口付近に至る約13.5kmが道路や畦道として残っている。 宮古の集落の中を北北西に延びる太子道は、現在でも狭い生活道路として利用されている。その道が集落を抜けるあたりで、再び前方に京名和自動車道の高架が見えてきた。 『日本書紀』は推古13年(605)冬10月、聖徳太子がそれまで居所とされた磐余(いわれ)の上宮(かみつみや)から新装なった斑鳩宮(いかるがのみや)に遷られたと伝えている。そのため、聖徳太子は、仕丁(しちょう、従者)の調子丸(ちょうしまろ)を従え、愛馬の黒駒にまたがって、斑鳩から小墾田宮まで、筋違道を通って毎日通われたという。
毎日というのは少し大げさだろうが、当時、宮古のあたりにも人家があったはずだ。住民たちは朝な夕なに颯爽と筋違道を疾駆していく太子の姿に、どのような感慨をいだいたであろうか。 |
保津・宮古遺跡− 縄文時代からの古い人の営みを今に伝える3ツの遺跡
しかし、これらの遺跡が覆う範囲は広い。そのため、これまでの発掘調査の成果から、遺構の時期や性格を考慮して、現在では保津・宮古遺跡、宮古北遺跡、常楽寺跡と区別しているとのことだ。 これらの遺跡では、人の営みが縄文時代の後期からすでに始まっていたことが確認されている。弥生時代から古墳時代にかけては、いくつかの集落や古墳が営まれていたようだ。 高架の向こうに健康づくりセンターや国保中央病院が現在建っている付近は、宮古北遺跡の所在地である。この遺跡で実施された第4次調査では、礎板を持つ建物跡や倉庫と考えられる総柱建物跡が多数見つかっている。これらの建物群は正方位を向いたものと、太子道ではなく保津・阪手道の方位に近いものに分かれるという。 |
笹鉾山古墳群− 合計5基から構成され、盟主は笹鉾山1号墳
説明板によると、この神社はもと法楽寺の鎮守社だったが、明治の初めに現在の場所の遷座し、黒田村の氏神として引き継がれたとのことだ。第7代孝霊天皇の黒田廬戸宮(ころだいおとのみや)は、田原本町宮古(都(みやこ)の意)から黒田集落のあたりを指し、この一帯は古代の地名を残した貴重な場所とされている。神社の周辺には、弥生時代の黒田遺跡や、古墳時代の黒田大塚古墳(前方後円墳)がある。
1号墳の北西側には、墳丘が削り取られた2号墳がある。1994年2月の用水工事に伴う発掘調査で見つかったもので、6世紀前半に築かれた直径約22mの円墳である。非常に小さな古墳だったが、周濠が残っていて、墳丘から崩れ落ちた状態で多数の埴輪が埋まっていた。中でも、人物埴輪2体と馬形埴輪2体は非常に残りが良く、「馬を引く馬子」の姿がよく分かる。その他にも傘形や盾形木製品も出土していて、墳丘には土製品の埴輪だけでなく木製品のものも並べてあったようだ。
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鏡作神社(石見)− 田原本町の北、三宅町石見に鎮座する鏡作神社
この神社も祭神として石凝姥命(いしこりどめのみこと)を祀っている。石見は、鏡作郷ではなく、かっての黒田郷に属している。さらに、この神社は『延喜式』の式内社にも比定されてもいない。それにもかかわらず、この地に鏡作神社が存在することは、十分に注意してよい、とは案内役の山田氏がの最後のコメントだ。
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