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| ”あじさい寺”の名で親しまれている矢田山・金剛山寺(こんごうせんじ) (2007/06/16 撮影) |
矢田地域は天武天皇の新都計画の候補地だった
近鉄郡山駅を出発したバスは、郡山城を迂回したあと一直線に西に向かう。バスの正面には、矢田丘陵の低い山並みが南北に延びている。服部嵐雪の俳句に「布団着て寝たる姿や東山」があるが、東山を矢田丘陵に置き換えれば、そのまま車窓の実景となる。生駒山脈の東側に谷を一つ挟んで広がる矢田丘陵は、市街地のそばにしては珍しく自然が比較的良く保たれている里山である。 富雄川にかかる外川橋を過ぎると、道は緩やかな丘陵の斜面にかかる。このあたりは古代に「八田の野」と呼ばれていた。丘陵の斜面がどうして野原なのか不思議に感じたが、以前に、古代民俗研究所の大森亮尚(あきひさ)氏から、古代には山の斜面を「野」と呼んだという話を聞いたことがある。
「八田の野」の呼称は古い。万葉集の巻10には、八田の野を詠んだ次の歌が載っている。
実は、「八田の野」の東側に広がる地域は、我が国最初の計画都市が築かれたかもしれない土地だった。『日本書紀』によれば、壬申の乱に勝利した天武天皇は、とりあえず飛鳥浄御原を宮処とした。しかし、この天皇は新都計画に熱心で、天武5年(676)、新城(にいき)に都を作ろうとし、新都の範囲に含まれる田園は公私を問わず耕作を禁じた。天武11年(683)には、三野王らに命じて造都の準備のため地形を観察させ、自らも現地に行幸している。 新都造営計画の対象となった新城は、現在の大和郡山市新木(にき)町で郡山城跡あたりだったとされている。しかし、どのような事情があったのか不明だが、この遷都計画は挫折してしまった。計画を予定通り実施して「矢田京」が造営されていれば、藤原京はなかったことになる。そうであれば、その後の平城京や平安京の造営にも何らかの影響を与えたかもしれない。
しかし、この創建伝承は史実ではあるまい。壬申の乱が勃発する前の年、大津京から吉野に必死の思いで逃れた大海人皇子である。近江朝廷方が飛鳥古京を防衛している時期に、わざわざ危険を冒して大和の矢田まで出てきて戦勝を祈願する余裕などなかったはずである。それに、戦勝を祈願するには、その対象として神なり仏の存在が不可欠だが、矢田寺創建以前にこの地に何らかの神社または仏寺が存在した事実はない。おそらく新都造営計画の下見として、天武天皇が何度かこの地を行幸した事実が付会されて、創建伝承が作られたのであろう。 |
日本最古の延命地蔵菩薩を本尊として祀る矢田寺
矢田寺は近鉄郡山駅からおよそ3.5キロ西に行った丘陵の山腹に位置している。麓の「矢田」バス停までは、20分の走行距離である。9時55分発の臨時バスに乗ったら、10時15分には終着駅の「矢田」バス停に着いた。 本日は土曜日とあって、奈良リレーハイキングが実施されていた。近鉄郡山駅を降りると、筆者にもハイキングのルートマップが渡された。近鉄郡山駅から出発して、矢田寺から松尾寺を巡り平群駅までの12.45キロのフリーハイキングである。 バスの車窓から道路の左側を見ると、歩道を連れ立って歩くハイカーたちの姿が目に付いた。彼らも矢田寺を目指していた。真夏の太陽が照りつけるアスファルトの道はずいぶん暑そうだ。だが、この時期にしては意外なほど空気は乾燥しているのが、彼らにとっては救いだろう。
矢田寺は昔から”矢田の地蔵さん”の名で親しまれ、関西の善光寺とされてきた。上に述べたように、創建時には十一面観音と吉祥天を本尊としてきた。しかし、弘仁年間に寺を中興した満米上人が延命地蔵菩薩を刻んで安置したことから、地蔵信仰の中心地として栄えてきたとされている。いわば矢田寺は日本のお地蔵さんの発祥の地である。あちこちに地蔵菩薩の石像が置かれていて当然だ。
石段の途中に、三尺組の歴代組長の墓が並んでいた。さらにその先には、江戸時代の力士の墓も並んでいた。没年を確認すると、文化とか天保、文政といった江戸時代の元号が多い。余り耳にしたことがない関取名が多いが、ずいぶんと立派な墓石が目立つ。関取の墓標群の端にも巨大な石の地蔵が建っている。
現在でも、広い境内には本堂をはじめ、講堂、焔魔堂、阿弥陀堂、開山堂、御影堂などの堂宇が並び、その他に塔頭寺院が4坊ある。築地塀に貼られた矢田寺案内図を見ると、参道の両脇に大門坊と念仏院が、さらに本堂の両脇に北僧坊と南僧坊の4つの塔頭が描かれている。 大門坊と念仏院の築地塀に挟まれた参道を進むと、石の階段の上に県下屈指の巨大な木造の本堂が聳えている。その手前の右手には、あじさい見本園があり、左手にはあじさい園の入口がある。
仏教では、釈迦入滅後、弥勒菩薩が竜華樹の下で悟りをひらき再び法を説かれるまでの56億7千万年の間、現世に仏が不在の五濁の世が続くとされている。地蔵菩薩はその五濁の世に出現し、その身をさまざまな姿に分身し、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を教化し救済することを使命としている菩薩である。
矢田寺の本尊とされている延命地蔵菩薩に関して、面白い縁起が伝えられている。この像の制作者は満米(まんまい)上人であるが、彼は嵯峨天皇の大臣である小野篁(おののたかむら)から不思議な依頼を受けた。小野篁は体は現世のものだが、魂は地獄の閻魔大王に仕える不思議な人物である。その篁が、閻魔大王から三熱の苦しみから離れるため菩薩戒を授けてくれる人物を連れてきてくれと頼まれた。篁は満米上人の徳を慕ってたびたび矢田寺に詣でていたので、上人に訳を話した。そして上人を閻魔庁に案内して、閻魔大王に菩薩戒を授けてもらった。 地獄を訪れたとき、上人は燃えさかる炎の中で大衆に代わって地獄の責め苦を受けている地蔵菩薩を見て心打たれ教えを請うた。しかし、地蔵菩薩は、「われに縁を結んでいない者は救いがたい、われと縁を結ぶには、わが姿を一度拝し、わが名を一度唱えよ」と答えたという。そこで、上人はこの世に戻ると、地獄で見たそのままの地蔵尊像を作り上げた。それが本尊であるとされている。 余談だが、満米上人が閻魔大王と別れるとき、不思議な手箱をお礼に貰ったそうだ。その箱には米が入っていて、上人がいくら使っても常に箱が一杯に満ちていたところから、彼を満米上人と呼ぶようになったようだ。
参道脇のあじさい見本園には、ユニークな地蔵菩薩の石像が建っている。「味噌なめ地蔵」という。伝説によると、昔一人の女人が自宅で味噌を作っていたが、なかなか美味しい味噌が作れず困っていた。ある夜、夢枕に矢田寺の石地蔵が立ち、「われにその味噌を食べさせてくれたら、よい味噌にしてあげよう」と告げた。翌朝、女人は矢田寺に参詣し、その地蔵に味噌を供え、さらに地蔵の口にもべったり味噌を塗ったそうだ。帰宅して早速味噌をなめてみると、すごく旨い味噌になっていた。それからは、誰いうとなく、この地蔵を味噌なめ地蔵と呼ぶようになったとされている。 本堂の下に築かれた講堂から重要文化財の指定を受けた春日神社に向かう左手にも、別の地蔵が建っている。水子供養の地蔵菩薩像である。ただし、こちらは石像ではなく青銅製の像だ。
本堂の背後から、咲き乱れるあじさいを掻き分けるように山裾を昇ると、天武天皇像を安置する御影堂へ続く道に出る。その道は御影堂の周りのあじさい広場で終わっている。本堂の裏山にあたる地蔵山には、四国八十八カ所の霊場の本尊石仏が安置されている。散策路を歩いてそれぞれの石仏を拝んでまわれば、四国霊場巡りと同じ功徳を授かると言われている。あじさい広場の隅にも二体の石仏が置かれていた。その一つは、第37番・岩本寺の阿弥陀如来で、あじさいの花に囲まれて鎮座していた。
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咲きそろう様々な種類のアジサイ花
矢田寺は”あじさい寺”の異名を持つほど、境内には数多くのあじさいが植えてある。その数は8000株にも達する。この時期、あじさい園で咲き競うあじさいの花の一つ一つが、色を変えて訪れる者の目を楽しませてくれる。 地蔵菩薩とあじさいとは決して無縁ではない。あじさいは「七変化」とも呼ばれるように、つぼみの頃は緑色、それが白く移ろい、咲くころには水色または薄紅色。 咲き終わりに近づくにつれて、花色は濃くなっていく。それは、とどまるところを知らない世の無常を表しているようでもあり、種々の姿に分身して衆生を救済する地蔵菩薩の化身のようでもある。
様々な花が咲き競うあじさい園を散策する前に、あじさい園の入口の反対側にある「あじさい見本園」をのぞいてみた。花の名前を少しは覚えて帰ろうと思ったのだが、途中でギブアップした。あじさいの名前は多く、とても一度に覚えられるものではない。 参考までに、見本園で見た主なあじさいのいくつかを、以下でビジターに皆さんにも紹介しよう。鬱陶しい梅雨時の不快感を、これらの花々を眺めることで少しは解消して貰えるなら幸いである。イメージをクリックすれば、拡大表示できますよ。
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