大正8年に調査した西野山古墓は実は田村麻呂の墓だった!
大正8年(1919)、今の京都市山科区西野山岩ケ谷町の山中で、地元の人が周囲を木炭で覆った木棺(もっかん)を見つけた。京都大学の梅原末治博士らが中心に発掘調査したところ、そこは長さ約2.7m、幅約1.4m、深さ約0・8mの木棺墓だった。 墓の中には、金装大刀や金銀平脱双鳳文鏡(へいだつそうほうもんきょう)、鉄鏃(てつぞく)(鉄製のやじり)、硯(すずり)などの副葬品が埋葬されていた。これらの出土品から、墓は8世紀後半から9世紀前半に築造されたものと推定された。出土品は京大総合博物館に所蔵されているが、高級さの点では正倉院宝物に匹敵すると言われているほどすばらしいものだった。そのため昭和28年(1953)、出土品は一括して「山科西野山古墓出土品」として国宝に指定された。 これほどすばらしい副葬品と共に眠っていた被葬者は誰か。当然のことながら、被葬者捜しが話題になったが、特定するまでには至らなかった。中臣氏の誰かの墓ではないかと推測されたことがある。だが、8世紀の中臣氏の力を考えると、副葬品が豪華すぎた。約30年前ほど前、京都市はこの墓をもう一度発掘して再調査しようとした。しかし、山科盆地西部の山の斜面に築かれた墓地は、すでに竹やぶに覆われ、その所在を突き止めることができなくなっていた。現在は、付近に墓があることを示す石碑が建てられているにすぎない。
坂上田村麻呂は、京都観光のスポットである清水寺(きよみずでら)の創建者としても知られている。吉川准教授は、清水寺に伝わる『清水寺縁起』に着目された。この縁起の中には、弘仁2年(811)に時の行政の最高機関である太政官が土地を管理する民部省に送った「太政官符」(だじょうかんぷ)が引用されている。 実は、この太政官符の表題部のところに、田村麻呂の墓所として山城国宇治郡七条咋田西里栗栖(くいたにしりくりす)村の山や田を与えると記述されていた。墓地は田村麻呂の死から約5カ月後、朝廷から遺族に与えられた。その土地は山林2町など広大で、朝廷は田村麻呂にふさわしい場所として、あえて京の東の入り口である山科の地を選んだようだ。この『縁起』の「太政官符」の存在は研究者の間で知られていたが、墓の詳しい場所を記した部分は今まで見落とされていたという。
古墓は清水寺の南東約2kmの、京都市東山区の泉涌寺(せんにゆうじ)と山科を結ぶ古道「滑石(すべりいし)越」沿いに位置している。滑石越は古代、平安京から東国、奥州へ向かう要衝で、蝦夷を討った田村麻呂もこの道を通って都に凱旋(がいせん)したとされている。古墓から西へ下ると、平安京の南正面・羅城門に出る。最後は大納言まで上り詰めた高級貴族・田村麻呂への当時の見方として、吉川准教授は「都の東の入り口に据えて守り神としたのではないか」と話しているという。 実は、平安遷都1100年を記念して明治28年(1985)に整備された「坂上田村麻呂の墓」が、古墓の南東1.5kmにある。現在、マウンド状の土盛りが造られていて京都市が公園として管理している。しかし、考古学調査が行われたことはなく、マウンドは田村麻呂の時代より古い古墳時代の墳墓の可能性が指摘されている。 京都市文化財保護課は、吉川准教授の文献調査の結果を重視して、木棺墓の存在の確認や、その正確な位置の特定などのために西野山古墓の再調査を検討しているという。 追記: 30年前に地元史家によって田村麻呂の墓の位置が推定されていた!(2007/06/13)6月12日付け京都新聞インターネット版は、吉川准教授の研究と同様の内容の論文を30年前に発表した地元史家がいたことを伝えている。その人の名は京都市山科区在住の鳥居治夫氏。本職は陶芸デザイナーだが、民間の研究会などで考古学や文献の研究に没頭する歴史考古学研究家でもある。 鳥居氏は、古代に耕作地を方形のマス目で区画した「条里」を現代の地図に当てはめ、文献から遺跡の位置を割り出す歴史地理学の方法で、伏見区醍醐の醍醐天皇陵を起点に一帯の条里を復元して、西野山古墓が田村麻呂の墓であることを推定した。そして、1973年10月、近江考古学研究会が刊行した学術誌「近江」で、その研究結果を「山城国宇治郡条里に関する考察」というタイトルで発表した。しかし、論文は専門家の間では一定評価されたが、一般的に広く知られるには至らなかったようだ。 |
保存修理を終えた西野山古墓の出土品京都大学総合博物館の一階には、マレーシアの熱帯雨林であるランビルの森の自然など自然史系の魅力的な展示がなされている。時間があればゆっくり見学したいところだが、今日のお目当ては特別展示だけに限定して、受付を済ませるとエレベータで二階に上った。普段は地理関係の第一企画展示室が今回の特別企画の展示室に使用されていた。
展示品の内容を知りたいを思い、「レジメは何処にありますか」と、展示室の入口に座っている女性職員に聞いた。すると、レジメは用意されていませんという返事が返ってきた。どこの博物館でも特別企画展では図録を有料で販売している。だが、大学の付属施設である博物館では、展示の規模が小さく、図録を作成する予算もないのかもしれない。 今回の特別企画展には、「蘇る宝たち」とサブタイトルが付いている。展示リストを見ると、3種類に分類されていて、国宝としての「西野山古墓とその出土史料」、重要文化財として椿井大塚山古墳の鏡とマリア十五玄義図、それに京大の宝として、徳川秀忠の書状やポルトラーノ型地中海海図やエーゲ海海図の名があった。面白かったのは、展示室の入口正面に、シーランカス第一号標本の鱗(うろこ)が一枚展示されていて、この鱗が京大に渡るまでのいきさつが解説されていた。
「マリア十五玄義図」は、昭和5年(1930)茨木市下音羽(しもおとわ)の民家の屋根を葺き替えたとき、屋根裏で見つかった。下音羽はキリシタン大名で知られる高山右近が熱心に布教した領地だったところである。見つかった時は、くるくると巻いた状態で竹筒のなかに入れてあったという。おそらく、元和のキリシタン大殉教事件以後に、下音羽にいた隠れキリシタンたちが礼拝のたびに竹筒から取り出して壁に掛け祈りをささげたのであろう。 掛け軸は、発見された翌年の昭和6年(1931)、地元の研究者藤波大超(ふじなみだいちょう)氏から当時の京都帝国大学に寄贈された。京都大学総合博物館は平成16年(2004)に「マリア十五玄義図」の修復を行なった。そのとき、掛け軸部分に修理された跡がいくつか残っているのを発見したとのことだ。 「マリア十五玄義図」は竹紙(ちくし)という日本画に用いられる紙に描かれている。下絵を赤外線写真で見ると、筆で描いた墨の跡が確認できた。そのため、宣教師たちの作った神学校で、西洋画の技法を学んだ日本人が油絵の具で描いたものと推測されている。おそくとも1630年代までには描かれたようだ。ちなみに、元和のキリシタン大殉教があったのは1622年、島原の乱は1637年である。
昭和9年(1934)、西野山古墓からの出土品は発見者の村田留吉氏から当時の京都帝国大学に寄贈された。金装大刀は純金で装飾が施されており、金銀平脱鳳文鏡鏡も金・銀・漆で装飾された豪華な品だった。このため、昭和28年(1953)に出土品のすべてが一括して「山科西野山古墓出土品」として国宝に指定された。 考古資料は出土した瞬間から劣化が始まる。出土してから90年も経ると、劣化が目立ってきたため、昨年、硯と水滴を除くすべての出土品に保存修理が度施こされた。保存修理は奈良の元興寺文化財研究所に依頼して行われた。金装大刀はサビを落としたりアクリル樹脂を塗るなどして保存修理が施こされた。金銀平脱鳳文鏡鏡も保存修理に先だって行なった蛍光X線分析などで、金・銀・漆で装飾されていたことが判明した。 。 二枚の鉄板は墓誌ではないかと推測されていた。だが、保存修理の際の各種調査では、文字らしきものは何も発見されなかったそうだ。こうした鉄板も含めて西野山古墓の15点の副葬品が一度に公開されるのは、今回が初めてだそうだ。
副葬品の中で筆者の注意を引いたのは、多数の鉄製の鏃(やじり)である。古墳時代の墓に多数の矢が埋葬され、鉄の鏃だけが残っていた例は多い。だが8世紀後半から9世紀前半に築造されたと推定されている墓は、もはや古墳とは言わない。それでも鏃が副葬されていたことは、被葬者が武人であることの証である。 その被葬者を特定するような研究成果が、特別展示の開催と軌を一にするように発表された。上記のように、吉川真司准教授は坂上田村麻呂(758 - 811)の可能性が極めて高いとのことだ。そうであれば、多数の鉄鏃が副葬されていた理由も納得がいく。田村麻呂は征夷大将軍になって蝦夷を平定した平安時代初期の武人である。彼は弘仁2年(811)5月に54歳で亡くなっった。その死亡時期は西野山古墓の築造時期の推定範囲の中にある。
椿井大塚山古墳は、京都府相楽郡山城町に築かれた3世紀末の山城最大の前方後円墳である。1953年に発掘調査され、三角縁神獣鏡32面、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面の鏡と武具が出土したことであまりに有名だ。 特に、黒塚古墳が発掘されるまでは、32面の三角縁神獣鏡は過去最多の出土数で、その当時発見されていた三角縁神獣鏡の数のほぼ1割にあたる。三角縁神獣鏡は全国至る所から出土しているが、椿井大塚山古墳出土の鏡と同じ鋳型から作られた同氾鏡が多い。そのため、この古墳の被葬者は、三角縁神獣鏡分与に関してなんらかの関係があった人物と見られている。 |
平安時代初期の武将、坂上田村麻呂の系譜戦前であれば、坂上田村麻呂は文の菅原道真に対して武の坂上田村麻呂と、文武のシンボル的存在として知られていた人物だった。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、延暦16年(797年)に蝦夷平定のために彼が任命された征夷大将軍という称号は、その後の武家社会において武家の棟梁に与えられる最高の権威とされてきた。源頼朝、足利尊氏、徳川家康はいずれも征夷大将軍を拝命して幕府を開き、その職を子孫に世襲させている。しかし、織田信長や豊臣秀吉は征夷大将軍に任命されていない。
京都橘大学教授の門脇禎二氏によれば、漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族で、最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったと推測されている。漢氏は主に飛鳥地方と河内地方に居住した。6世紀の末頃までには、氏の名称の上に東西をつけて、飛鳥の檜隅から高取町に住む漢氏を東漢(やまとのあや)氏、河内に住む漢氏を西漢(かわちのあや)氏と呼ぶようになったとされている。 東漢氏は始め直(あたい)の姓(かばね)が与えられた。東漢直で史上有名な人物として、蘇我馬子の指図で崇峻天皇を暗殺した東漢直駒(こま)や、608年の小野妹子の遣隋使の際に留学生として同行し、623年に帰国した東漢直福因(ふくいん)がいる。 東漢氏から出た諸氏としては、坂上氏、平田氏、内蔵氏、大蔵氏、文氏、調氏、文部氏、谷氏、民氏、佐太氏などがあげられる。このうち、坂上氏は現在の高取町大字観覚寺(かがくじ)小字坂ノ上一帯に居住した渡来集団で、飛鳥時代から平安時代にかけて武門の氏族として発展していった。 坂上氏が歴史の表舞台に現れるのは、672年の壬申の乱の時である。坂上一族はこぞって大海人皇子(おおあまのみこ)側に荷担した。高市皇子の舎人(とねり)だった坂上直国麻呂(くにまろ)、倭古京留守司の配下だったが大伴吹負(おおとものふけい)と通じていた坂上直熊毛(くまげ)、大伴吹負とともに倭古京の奇襲を敢行した坂上直老(おきな)などの名が伝わっている。特に田村麻呂の祖先である老(おきな)は壬申の乱での活躍で直広壱(ちょくこういつ、正四位下に相当)の位を与えられている。
田村麻呂(758〜811)は、中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。801年には、大伴弟麻呂の後任の征夷大将軍になって総指揮をとり、敵対する蝦夷を討って降し、802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では、平城上皇の脱出を阻止する働きをし、大納言右近衛大将にまで昇進した。弘仁2年(811)5月23日、田村麻呂は54歳で生涯を閉じた。嵯峨天皇は一日服喪し、従二位を追贈した。埋葬の際には勅命により、立ったまま甲冑姿で東に向かって葬られ、平安京守護の願いが込められたという。
音羽山清水寺は北法相宗(きたほっそうしゅう)の一寺一宗の寺である。この寺の創建に関しては次のような縁起が伝承されていて、坂上田村麻呂が寺の開創とされている。 今からおよそ1230年前の宝亀9年(778)のことである。ある夜、奈良子島寺の僧・延鎮(えんちん)が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との夢のお告げを受けた。そこで霊泉を求めて音羽山までたどり着くと、そこには山に篭って数百年も修行を続けてきた行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者いた。その行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と延鎮に言い残して去っていった。延鎮は、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。これが清水寺のはじまりという。
延暦24年(805)、坂上田村麻呂は寺地を賜り、さらに弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て、清水寺が公認の寺院となった。この頃に本格的な寺観が整ったようである。現在の清水寺の境内には田村堂が建っている。開山堂ともいう。清水寺創建の願主・坂上田村麻呂夫妻を祀ったお堂で、徳川家光の援助で再建された檜皮ぶきの建物である。 |