長徳寺を中興した竜派禅珠
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| 竜派禅珠の頂相(*) |
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| 竜派禅珠の遺偈(*) |
天正18年(1590)、徳川家康は新領国となった関東の寺社に所領を寄進・安堵した。このとき長徳寺も40石が安堵されている。長徳寺はその後も徳川氏代々の保護を受け、建長寺派の四大柱の寺院の一つとして重きをなした。
長徳寺を中興した竜派禅珠は天文18年(1549)、すなわち宣教師フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が乗った船が鹿児島に到着した年に生まれた。だが、出身地や姓は分かっていない。おそらく、岩槻(いわつき)付近の出身だったのではと考えられている。
16才になったとき、竜派は鎌倉に出て円覚寺に入り、そこで奇文禅才(きぶんぜんさい)を師として7年間禅僧としての修行を積んだ。しかし、元亀2年(1571)に師が死去すると、鎌倉を離れ、天正元年(1573)の春、25才のとき足利学校に入学し、鉄子(てっし)と名乗った。当時の足利学校の庠主(しょうしゅ、=学長)は7世の九華(きゅうか)であり、足利学校の最盛期といわれた時代である。竜派は九華の講筵(こうえん)に出席し、卜筮(ぼくぜい)を修得した。この知識が後年、竜派を徳川家康や諸大名と結びつけることになる。
天正6年(1578)、師の九華が没したのを機に、竜派は足利学校を離れた。その後、指扇(さしおうぎ、さいたま市)の清河寺を経て天正10年(1582)、上記のように長徳寺の住持として迎えられた。竜派34才のときだった。江戸時代に入ると、足利学校の第九世庠主の推薦を受け、また徳川家康の命によって竜派は足利学校第10世庠主に就任した。慶長7年(1602)11月のことである。以後、寛永5年(1628)に退任するまで26年の間、足利学校に勤めたが、しかしその間、慶長13年(1608)から4年間長徳寺住持職を麟甫等徐に任せた時期をのぞき、長徳寺の住持を兼ねていた。
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| 長徳寺の歴代住職墓地内にある竜派の墓 |
寛永5年(1628)11月、竜派は足利学校庠主を退き、長徳寺住持職も弟子の輝陽禅復に譲って、寺内の臥雲軒(がうんけん)に隠居し、自適の生活に入った。寛永13年(1636)、自己の終末が近づいたことを悟り、禅復の求めに応じて、自分の肖像画である頂相(ちんそう)に賛を入れてこれを授けた。この年の4月20日、禅復の差し出す筆墨をとって遺偈(ゆいげ)をしたため、泰然として示寂した。時に88才。竜派の墓標は長徳寺境内の歴代住職墓地内にあり、ひときわ大きい無縫塔に「中興」の文字が刻まれている。
| 竜派が残した寒松稿(*) | 竜派の寒松日暦(*) |
竜派は寒松(かんしょう)と号していた。長徳寺には、彼が生前に記した「寒松日暦」と「寒松稿」が残っていて、いずれも県の文化財に指定されている。「寒松日暦」は慶長18年(1613)から書き始めたと思われる竜派の日記である。書簡や年筮(ねんぜい)などの草稿の反故を用紙として用いているため、保存状態が悪く、年次がばらばらでまとまっていないものが多い。ほぼ年間を通して揃っていると思われるのはほぼ9カ年分である。
内容は実に豊富であり、長徳寺住持としての竜派自身の生活や、芝村をはじめ近在の村の様子、村民との交際、医療施薬の模様、竜派と将軍はじめ幕府要人や諸寺院の僧たちとの交際や往来、書簡のやりとり、などさまざまな事が記述されている。そのため、竜派自身のことはもちろん、当時の江戸幕府や足利・鎌倉・芝村といった中央・地方を通じての経済・社会・文化・宗教などの状況を知ることができる貴重な資料である。
「寒松稿」は竜派が草稿を整理し、清書し、後世に伝えることを意図してまとめたと思われる自選の漢詩文集である。元来は12巻あったと思われるが草稿1と草稿2が欠けている。慶長5年の長徳寺の火事の際に焼失したものと思われる。その内容は、禅宗本来の法語類をはじめとして、文学に属する詩歌、論文、紀行、随筆など多種多様なものを含んでいて、五山文学の最後の傑作といわれている。
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| 熊沢忠勝と伝えられる座像(*) |
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| 円通殿観音堂の真後ろにある代官熊沢家の墓 |
忠勝は、神仏への信仰心が厚い人物だったようだ。その生涯を通じて長徳寺をはじめ芝村の地にいくつもの堂塔を創建している。長徳寺は慶長5年(1600)と慶長16年(1611)の2度火災にあったが、二度目の火災で焼失した本堂を再建したのは、熊沢忠勝である。竜派は本堂の落成を喜び、忠勝を長徳寺開基の大壇越(だいだんおつ)になぞらえている。
忠勝が建立したのは本堂だけではない。円通殿観音堂を建てたり、梵鐘を寄進したり、仁王門を建立するなど矢継ぎ早に長徳寺の整備を進めている。その一方で、寛永3年(1626)には芝村鶴ケ丸の地に安房国鶴ケ谷から八幡宮を勧進し、現在の産業道路を挟んで長徳寺とは反対側にある小さな丘陵上に鶴ケ丸八幡神社を建立した。本堂に張られた棟札によって、この神社の完成は2年後の寛永5年だったことが判明している。
その忠勝は、正保元年(1644)2月10日にこの世を去り、長徳寺境内に自ら建立した円通殿観音堂の真後ろに位置する丘に葬られた。この丘には、忠勝から三代目の良泰に至る代官熊沢家の墓がある。
実は、バチカン文書館文書にある江戸の「勢数多講定之事」(セスタこうさだめのこと、金曜日の集会のこと)に記されたクリスチャンネーム「るひあな」という女性は、熊沢忠勝の娘である。彼女の名前は伝わっていないが、「るひあな」はおそらく"Lujiana"(ルヒアーナ)だったのだろう。しかし、「ルシーナ」と呼んでいる資料もあり、あるいは"Luciana"だったかもしれない(以下では、ルヒアーナと呼ぶことにする)。
| 忠勝が勧進した鶴ケ丸八幡神社。三間社流造りの 本殿は保存のため現在覆屋で覆われている |
棟札から寛永5年(1628)建立と判明。 |
我が国におけるキリスト教の普及と元和のキリシタン大殉教事件
天下統一を遂げつつあった織田信長は、キリスト教を保護し、安土城を築くにあたってその城下にも教会堂を建てることを認めた。 信長の天下統一の事業をついだ豊臣秀吉も、キリスト教会に対する信長の方針を踏襲した。しかし、天正14年(1587)、九州征伐を終えたあと、長崎がキリスト教会の領地となっていることを知り、にわかに禁教令(天正禁令)を発布して宣教師たちの布教を禁じ国外に退去することを命じた。しかしポルトガル船の来航については歓迎したため、この禁教令は徹底できなかった。
家康は、スペインとの貿易がもたらす利益とスペイン人たちの鉱山技術(銀の精製法)に着目し、幕藩体制の基礎づくりにキリスト教を利用したにすぎない。権力がほぼ確立した慶長17年(1612)、岡本大八事件、すなわち岡本大八と有馬晴信との間に所領問題による贈収賄事件が起こった。所領問題は幕藩体制の根幹に関わる問題であり、たまたま二人ともキリシタンだったことから、家康はこの事件を契機に禁教を決意した。まず、その年に旗本・御家人の棄教を命じ、幕府直轄領における布教を禁じた。ついで翌年の慶長18年(1613)、全国におけるキリスト教の布教を禁止した。 その当時、教会は驚異的発展を遂げていた。慶長19年(1614)の統計によれば、聖職者150名、信徒数65万を超え、信徒の中には公卿2家および大名55名があったという。 徳川幕府はこうしたキリスト教会の伸張を危惧したというのが実情だろう。我が国におけるキリスト教の布教と殉教の歴史は、竹内幹氏のHPの中のキリシタン千夜一夜に詳しい。 元和2年(1616)、二代将軍となった徳川秀忠は「伴天連宗門御制禁奉書」を発してキリスト教を厳禁し、外国商船の入港を平戸・長崎の二港に限定した。さらに、慶長天主堂をはじめ京の内外に散在していたキリシタン教会を焼き払わせた。 元和5年(1619)、秀忠上洛の際、伏見でキリシタン投獄者のことを知ると、全員を火あぶりの刑に処することを命じた。その結果、その年の8月29日には、52名のキリシタンは大八車に積み込まれ、十字架に磔にされ火あぶりの刑に処せられて悲惨な最期を遂げたという。 この処刑は京における最大のキリシタン弾圧であり、「古代ローマ皇帝のネロにまさる残虐の所業」と宣教師が形容したほどだ。この後、京ではキリシタンが歴史の舞台に登場することはなかったとされている。その処刑を目撃したイエズス会の宣教師の記録から、刑場は現在の川端通りの正面橋東詰付近にあったと推定され、元和キリシタン殉教の地の碑が建っている(所在:東山区川端通正面上る西側)。
元和9年(1623)7月27日、徳川家光は父秀忠のあとをうけて三代将軍職を継ぎ、京から江戸に戻るとただちに江戸のキリシタンの一斉検挙に乗り出した。そのきっかけは、ヨハネ原主水(はらもんど)のもと旧臣が、主水をキリシタンの頭目として江戸町奉行に訴え出、他に二人の宣教師が江戸にいることを明らかにし、彼らの宿主やめぼしいキリシタン信者の名簿を提出したことによる。
10月13日の処刑の日、原主水と二人の宣教師は馬に乗せられ、他の者は徒歩で市中を引き回され高輪の刑場に引き立てられた。レオン・パジェス(Leon Pages)の「日本切支丹宗門史」によると、原主水は第一の柱に、デ・アンゼリス神父は第二の柱に、ガルペス神父は第三の柱にくくりつけられたという。実はもう一人、第四の柱に縛られた男がいる。デ・アンゼリス神父の宿主だったレオ竹屋権七、すなわち竹子屋権七郎である。4人は、他の信者たちが火あぶりでもがき苦しみながら死んでいくのを見せられた後に、火刑に処せられた。 上記のヨハネ原主水は、下総国臼井城の城主原胤成(はらたねしげ)の嫡男として生まれた。天正18年(1590)徳川家康に小姓(または鉄砲組頭)として召し出されて旗本となった。将来を嘱望されていた武士だったが、キリスト教に入信した。そのため、慶長17年(1617)に家康が旗本を対象にキリシタンを探索したとき、摘発されて駿府から追放された。彼は駿府から武蔵国岩槻に逃れてきたが、2年後にある大逆事件に連座して捕らえられ、駿府に送られた。そして、額に十字架の烙印をおされ、手の指と足の筋を切られ、この者を挙用するものがあれば処罰する旨の制札を添えられて、再び駿府から追放された。その後の原主水は江戸に潜伏し信仰を守っていたが、元和9年の一斉検挙で捕らえられた。 一方、竹子屋権七郎は慶長8年(1603)生まれの武士で、当時数え年の21歳だった。父の名は不明だが、母はマリアというクリスチャンネームを持つキリシタンだった。おそらく権七郎自身は武家の子息として相当の教育を受け、教養も身につけた若者だったと思われる。母の感化を受けてキリスト教に入信し、その信仰心は原主水によって強化され、デ・アンゼリス神父によって導かれたようだ。 実は、この権七郎は上記の熊沢忠勝の娘ルヒアーナの婿だった人物である。代官の熊沢忠勝には男子がいなかったので、権七郎は代官の家に婿として入籍したようだ。ルヒアーナは慶長14年(1606)の生まれで、一斉検挙が行われた年はまだ18歳だった。だが、二人の間には元和8年(1622)に生まれた彦四郎(昌夢)という2歳になる男の子がいた。したがって、二人は遅くとも元和7年(1621)頃までには結婚していたことになる。 代官の熊沢忠勝がキリスト教徒の権七郎を娘の婿として迎えた背景は分からない。長徳寺の大壇越でありながら、異教のキリスト教にも理解があったのだろうか。若いカップルは権七郎の母マリアと一緒に江戸に住んだ。ルヒアーナは義母と夫の影響を受けてキリスト教に入信したものと思われる。彼女は一家が世話したデ・アンゼリス神父の洗礼を受けて、クリスチャンネームをルヒアーナと名乗ったのであろう。
元和9年の9月19日、突然の災難が一家を襲った。幕府の手の者が権七郎宅を襲いデ・アンゼリス神父を捕縛するとともに、宿主だった権七郎とその母マリアおよびわずか2歳の彦四郎(昌夢)まで逮捕した。このとき、ルヒアーナはなぜか逮捕を逃れることができ、その日のうちに芝村にある父母の家に逃げ帰り、長徳寺の竜派禅珠に保護を求めてきた。驚いたのは熊沢忠勝であろう。幕府側の代官としてはたとえ娘といえど匿うわけにはいかない。運良く、家光の新将軍就任を賀するため竜派が足利学校から江戸に赴く途中で長徳寺に逗留していた。竜派は幕府要人とも広い人脈を持っている。おそらく忠勝は竜派に娘の助命方法を相談したにちがいない。 |
竜派禅珠によるキリスト信者ルヒアーナ助命活動をトレースするかくして、禅宗の僧侶である竜派禅珠が異教徒ルヒアーナの助命運動に奔走するという、他では例をみない活動が開始された。当時すでに75歳の高齢に達していた竜派が助命運動を展開した背景には、保護を求めてきたルヒアーナが長徳寺の大壇越である代官の熊沢忠勝の娘であり、幼いころからの顔見知りだったこともあるだろう。だが、それ以上に竜派と忠勝の長い付き合いで培われた信頼関係が彼を突き動かしたに違いない。
元和9年9月28日、竜派はルヒアーナを預かったまま江戸に入り、徳川秀忠・家光に拝謁し、家光の将軍職就任を賀している。竜派は家康以下3代の徳川家に仕えた学僧であり、多くの有力な幕臣とも交際があったが、この時点ではまだ新将軍のキリシタンに対する大弾圧は予想していなかったようだ。彼が本格的にルヒアーナの助命活動を展開するのは、10月13日の大殉教があった以後のことである。 10月13日、上述のように高輪の刑場でヨハネ原主水以下50余名の処刑が行われ、ルヒアーナの夫である竹子屋権七郎も火刑に処せられた。翌14日、竜派は長徳寺において権七郎の冥福を祈って午前の読経を催した。そして、その日のうちに、老中である酒井忠世と土井利勝、および江戸町奉行の米津田政と島田利正に宛てたルヒアーナ助命嘆願の親書を作成して、弟子を江戸に行かせた。
10月17日には、土井利勝の屋敷に伺い面談した。ついで米津田政を訪ねたが会うことができず、やむなく伝言を託して帰った。翌日の18日には酒井忠世、次いで島田利正のもとへ自らでかけている。しかし、なかなか放免の道は開けなかったようだ。 こうした竜派の奔走はその後も毎日のように続けられた。しかし、10月27には伝馬町牢獄からルヒアーナの召喚が要求された。驚いた竜派は翌28日、町奉行所に赴くと、逆に娘の召喚を厳命された。29日、竜派は朝早く江戸町奉行の米津田政のもとに行き、こまごまと説明した。だが、放免要求は聞き入れられず、ルヒアーナを江戸に呼ぶことを要求された。やむなくルヒアーナを芝村から呼び寄せると、たちまち捕らえられ伝馬町の牢屋に送られた。 竜派もルヒアーナに同道して牢屋へ行き、自らこの娘が長徳寺の檀徒であって、今後竜派が保護観察する旨の宗旨一札を提出した。さらに、ルジアーナが行なったキリシタン棄教の宣誓を竜派が保証までした。その結果、ようやくルヒアーナが放免されることになった。 ルヒアーナを救出した帰り道、竜派は江戸町年寄の樽屋富士左衛門を訪ね、ルヒアーナの子供のことを相談している。11月3日にも、竜派は樽屋のもとへ弟子を遣わしたが、この日は二度目の殉教があった日である。先に殉教した信徒たちの婦人や子供など37人が処罰された。その中に権七郎の母マリアと権七郎の息子の2歳になる彦四郎も含まれていた。
幽閉中のルヒアーナの気持ちを想像すると、胸が痛む。竜派の奔走によって何とか処刑は免れたが、夫の権七郎を失い、権七郎との間にできた2歳の彦四郎を失い、さらにはキリスト教信者への道を教えてくれた義母のマリアを失った。己一人が生き残ったことに後悔と憤りを感じて、生ける屍のような日々を送ったにちがいない。彼女にとっては、棄教するのではなく、家族と共に殉教する方がどれだけ幸せだったかしれない。
だが、寒松日暦によれば、苦渋に満ちた年月を過ごしたルヒアーナも、ようやく喜ばしい日を迎えることになる。寛永10年(1633)3月17日、晴れて再婚の日を迎えることができた。 ルヒアーナ救出から10年、竜派は彼女の再婚を祝して、次の七言絶句を送った。 |
川口芝のキリシタン遺物
如意輪観音堂には、中央に如意輪観音、左側に薬師如来、右側に阿弥陀如来をそれぞれ奉納した厨子が三つ並べて安置されいる。如意輪観音と薬師如来の厨子は、江戸時代前期の作と考えられるが、細工も良く金箔が塗られている。だが、阿弥陀如来の厨子は漆塗りの木製で他の二つとは比較にならないほど質素であり、製作時期もこれらより新しい。 この観音堂に3つの厨子が安置されたいきさつは、よくわかっていない。古い資料によると、芝村の光明寺から出火し、光明寺はもちろん、ほど近い萬蔵寺などを焼き尽くし、300mほど離れた如意輪観音堂を焼き、燃えるものがなくなって鎮火した、と伝えられている。それが何時のことだったかは記録になく、江戸後期と推定されている。火災のあと如意輪観音堂は再建されたが、光明寺と萬蔵寺は再建されていない。そのため、火災の際に両寺から持ち出された本尊の薬師如来と阿弥陀如来が、観音堂に安置されたようだ。
翌月、この観音堂を再調査したところ、阿弥陀如来の厨子から、小さくても念入りに作られた桧材一木造りの像が見つかった。像形から、あきらかにイエスを抱いたマリア像だった。 阿弥陀如来座像の像高は29.3cm、光背台座を含めた総高は64.5cmで、それほど大きい仏像ではない。現物は実見したことがないが、光背の模様は麦の穂を形取ってあるなど、仏像全体からどことなく西洋的な感じを与える造りとなっているとのことだ。 ところが、その後の調査でこの仏像の首部が抜け、先に見つかったマリア像と十字架は阿弥陀如来座像の胴部の中に納められていたことが分かった。過去のあるとき、誰かがマリア像と十字架を阿弥陀如来の胎内から取り出したことがあったのだろう。だが、元の場所に戻すのを忘れて、マリア像は厨子の奥に、十字架は阿弥陀如来の手に懸けたまま厨子の扉を閉めてしまったにちがいない。
娘婿の竹子屋権七郎が元和9年(1623)に江戸高輪で処刑されており、その霊をなぐさめるため、当時この地域を治めていた代官の熊沢忠勝が奉納したとも考えられる。この場合、一応キリスト教の棄教を宣言したけれども、ルヒアーナが父に頼み込んで礼拝の対象のマリア像を内蔵した如来像を造らせた可能性も棄てがたい。 だが、仏像研究家の稲村担元は、阿弥陀如来の前に飾れている百万遍鏡に正徳4年(1714)と明記されていることから、仏像と鏡は一緒に作られたと想定し、仏像の製作時期を正徳時代(1711 - 1715)と断定した。そうであれば、元和のキリシタン大弾圧があった時とは時間的な隔たりがある。 この阿弥陀如来像は焼失した光明寺の本尊だったとする伝承がある。あるいは、元和の殉教事件以後も芝村付近に潜伏キリシタンが存在し、光明寺をキリシタン教会として集会をもっていたのかもしれない。この如来像を安置した厨子は、中央部に横木が一本通っていて、扉が閉められているときは縦木と横木でちょうど十字架を組み合わせたような形になるという。 阿弥陀如来座像は、胎内仏と十字架ともに、昭和34年に埼玉県の文化財に指定された。地元では胎内仏はマリア観音と呼ばれ、市民に親しまれている。 |