読み始めから気になる作者の時代考証の甘さと歴史認識の間違い
「遙かなる大和」の第1章は「渤海の黎明」というタイトルがついている。その名の通り、激しい嵐が去った渤海が、一転して空に月を残し、まどろむように波打っている明け方、留学生・留学僧全員が小野妹子の船室に呼び出されるところから、物語は始まっている。船室で、妹子は「この船はいま、いずこの国の海にあるか、汝(いまし)らは分かっているか」と問いかけ、高句麗と隋の境目あたりを航行中であることを告げている。 それが何月何日のことだったかは、作者は明記していない。しかし、一行を乗せた遣隋船が那津(なのつ、博多)を出航したのは、推古天皇16年(西暦608年)の旧暦9月末に想定されており、百済の沖をはなれてから5日を経過していた、とあるから、下弦の月が残る10月下旬のことであろう。
実は、この作品の出だしの数頁を読んだときから、作者の時代考証の甘さが気になりだした。歴史小説家なら、過去のある時代を背景に物語を創作する場合、当時の事件や人物を記したあらゆる史料を読み込んで、その上でなお不明なところは作家自身の推測で整合を図りながら物語を展開していかなければならない。つまり、しっかりした時代考証に支えられた作品でなければ、せっかくの作品も最終的には読者から見捨てられる運命にある。 以下に示すように、この作品のスタート部分から、作者の時代考証は甘いと指摘されても仕方がない箇所が散見する。その結果、小生はかなり醒めた目で物語の展開を追うようになった。荒山徹氏は”超弩級の正統派歴史小説”と絶賛しているが、古文献に記された内容を無視した作品が、果たして”正統派歴史小説”と呼べるか疑問をもった。 せっかくの大作をものにされた八木氏の努力にケチをつけるつもりはサラサラないが、参考まで物語の最初の部分で気付いた点をいくつか次に列挙しておこう。 上で述べたように、「遙かなる大和」は夜明け前の渤海湾沿岸を航行中の船上から始まっている。だが、遣隋使節が派遣された当時、夜間の船旅は行わなかったことが常識とされている。当時の船旅は沿岸航海が原則であり、陸地の山や島影を目印として航行した。夜にはこうした目印とすべき目標が見えない。さらに、当時の人々にとって、夜は百鬼夜行の世界であり、魑魅魍魎が跋扈する世界である。そのため、夕方になれば必ずどこかの海岸か島陰に船を停泊して夜を過ごすことにしていた。こうした当時の航海術の基本的な常識が、この作品では無視されている。
さらに、一行は那津にある筑紫館(つくしのむろつみ)でも歓送会を受けたであろうし、何よりも玄界灘を渡る良風を得るために、何日も風待ちを余儀なくされたはずだ。旧暦の10月は現在の暦で言えば11月である。すでに初冬を迎えた北九州では良風がなかなか得られなかったに違いない。9月末に那津を出航したとする設定には無理があると言わざるをえない。 このとき小野妹子に同行した遣隋留学生・留学僧として、『日本書紀』に記載されている人物は次の8人で、「はるかなる大和」でもこれらの人物が登場する。
・留学生:倭漢直副因(やまとのあやのあたい・ふくいん)、奈羅訳語恵明(ならのおさ・えみょう)、高向漢人玄理(たかむこのあやひと・げんり)、新漢人大圀(いまきのあやひと・おおくに) だが、彼ら8名は帰国後に何らかの功績があったため、『日本書紀』編纂時にその名を留めていた人物であると考えてよい。実際はもっと多くの人材が隋に送り込まれたはずである。「隋書」の巻八十一、列伝十三にも”大業三年(西暦六0七年)、その王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人をして、来たりて仏法を学ばしむ"とある。沙門数十人は誇張であろうが、わずか8名だけでなかったことは事実だろう。 ちなみに、唐の道世が撰した『法苑珠林』には中国において学問につとめ、儒教や仏教に博知だったので、中国名で”会丞”と呼ばれていた倭人がいたことを伝えている。彼は唐の貞観5年(631)に道俗7人とともに帰国したようだが、我が国の史書にはその名は示されていない。 「遙かなる大和」では、そうした人物の存在を一切無視している。 さらに重要なことは、小野妹子が、船中でかれら8名に向かって、「汝らのからだには、漢人(あやひと)の血が流れている。かの隋の国の民族の血が流れているのである」と言っている点だ(p.9)。つまり、作者はかれらの名前に漢人または新漢人という表現が含まれている点から、中国本土からの渡来人の子孫と見なしているわけである。 しかし、渡来系氏族の名前に漢人(あやひと)が含まれる一族は、中国本土の漢人(かんじん)ではなく、朝鮮半島の南部にあった伽揶諸国の一つ安羅(あんら)あたりからの渡来系であるとするのは、今や古代史の常識である。名前に”漢”の字を含むからといって、留学生たちが祖先の国に戻って祖国のために一働きしようと、隋末に反乱を起こした李密(りみつ)に荷担して戦場で戦うとする設定は、やりすぎの観がある。 漢民族の末裔と考えて良い人物を挙げるならば、通訳の鞍作福利だけであろう。彼には祖父にあたる司馬達等(しばたちと)が南梁出身であるという伝承がある。身内の本土出身の者がいたのであれば、漢語にも習熟しており通訳としては適任であっただろう。 作者は裴世清の役職である「文林郎」を外務担当官と誤解している(p.10)。文林郎とは、秘書省の属官で、書物の校訂や著述などを掌る官庁の役人である。隋の煬帝は、裴世清を鴻臚寺(外国客接待の官庁)の掌客(接待係)の肩書きで当時の倭国に派遣し、宣諭(天子の徳を知らせる)させた。裴世清はその後、唐初に主客郎中として外交事務に活躍し、後に江州刺史(長官)となっている。 作者は、船室での対話で、”この船は大陸の奥にある東都、洛陽(らくよう)から、さらにはるか西方の首都、大興城(たいこうじょう)へこのまま乗り入れることができる”と、小野妹子に語らせている(p.11)。すなわち、渤海湾から黄河をさかのぼり、運河に入って洛陽に船べりをつけることができ、さらに広通渠(こうつうきょ)を通って都の大興城に乗り入れられるというのだ。 この箇所を読んで、作者の地理認識はひどいと感じた。かってNHKは「大黄河」という特番をシリーズで放映した。その中で黄河の河口を扱った場面を見た視聴者には自明のことだが、現在も黄河の河口は上流から運ばれてきた膨大な黄土によって埋まり、ほとんど泥沼のような状態だ。とてもではないが、外洋船が接岸できるような港はない。 そのため、遣隋使や初期の遣唐使が目指したのは、山東半島の先端にある登州である。しかも、彼らは陸路で大興城や後の長安城を目指した。まして、洛陽から大興城まで広通渠(こうつうきょ)を通って船で乗り入れられるなどとは、当時の中国の漕運(そううん)に対するとんでもない認識不足である。
だが、洛陽から黄河を遡って広通渠に達するまでには、三門峡と呼ばれる黄河の難所があった。川底から三つの岩(人、鬼、神)が突き出ており、流れは三筋に分かれて、急流になっているため、とても船が通過できる場所ではなかった。今でこそ、多目的ダムが建設され琵琶湖の三倍半にも及ぶ大きな人工の湖ができているが、それ以前は水運の危険を避け、物資を車に積み替えて陸上を運ぶ方法をとっていた。それくらいのことは、中国の地理を学んだ者には常識である。外洋船が黄河を遡り、大興城に着岸できるなどという話は聞いたことがない。 広通渠に関しては、第2章「失踪」でもおかしな話が展開している。大和の使節団が大興城についてほぼ2ヶ月後に、「失われた国書」を取り戻した通訳の鞍作福利が、煬帝に謁するために失踪するという事件がおきた。それを阻止すべく南淵請安と高向玄理が大使小野妹子の命令で福利の後を追うという筋書きで物語が展開する。
煬帝は、黄河から揚子江までの運河が開通したのを記念して、大業元年(605)の8月、数千艘の船団を従えて竜船で洛陽から揚州に向かったことがある。しかし、それは遣隋使の一行が大興城に到着する3年以上も前のことである。その後も、煬帝は永済渠の完成で大運河の完成を喜び、大業7年(611)2月、竜船を浮かべ、揚州から通済渠を通り、永済渠に入って遠く現在の北京近郊まで達した。また、楊玄感の乱で焼かれた竜船を江南で造り直すことを命じ、大業12年(616)、その船で洛陽から揚州に向かった。煬帝が竜船で国内を巡航したことが史書で確かめられるのはこの3回だけである。 物語のように、洛陽から大興城まで竜船で巡航した事実はない。そもそも三門峡は、小舟ですら黄河を遡ることを拒んでいる。まして竜船のような巨大船が三門峡を通り抜けることなど不可能だった。南淵請安と高向玄理が広通渠を航行してくる竜船に遭遇することなど起こりえない話である。 第4章では、隋の西域遠征軍が首都を出発する大業5年(609)3月、外国使節団も大興城の正門にあたる明徳門に近い位置に呼び出され、煬帝みずからが大軍を率いて出征していくのを見送る場面が描かれている(p.82)。燃えるような旌旗(せいき)が明徳門に林立しているのを見て、留学生たちが目を見張ったとあるが、この時期、明徳門が完成していたかどうか疑問である。 『隋書』によれば、文帝は隋を建国した翌年の開皇2年(582)6月、北周の首都だった長安城を捨てて、その東に新しい都を作る決定を下した。この新都城造営の大綱を統べたのは左僕射の高潁(こうけい)であるが、企画はすべて当時の名建築家だった宇文ト(うぶんがい)が担当したという。その年の暮、新しく造営する都城は大興城(たいこうじょう)の名付けられた。 翌年の開皇3年(583)正月、文帝は新都に入ることし、まず大赦を行い、3月に正式に新都に入った。しかし、東西9.7キロ、南北8.6キロとされる巨大な都城が半年で造れるわけがない。とりあえずは皇城を中心とした建物を建設し、市街地はその後に造られていったはずである。 『隋書』は「煬帝の大業9年(613)3月、丁男10万人を発して大興を城(じょう)す」と記述している。作家の陳舜臣氏によれば、この「城す」という動詞は城壁を築くことにほかならないという(「中国の歴史7)。そうであれば、大業5年(609)3月の時点では、明徳門が完成していたという保証はない。 唐は隋の大興城をそのまま引き継いで名称を長安城に復した。我々が史料として利用しているのは、盛唐の頃の長安城のイメージである。遣隋使たちが滞在した大興城をそうした長安城のイメージで捉えることは正しくない。おそらく、市街地はあらかじめ敷かれた大道に沿ってあちこちで建設ラッシュが続いていたに違いない。はたして、大業5年(609)3月の時点で明徳門は存在しただろうか?
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聖徳太子と蘇我馬子の外交政策の角逐が物語の主軸「遙かなる大和」は一般読者を想定した新聞小説として執筆されただけに、物語の論理は単純明快である。それを一口で言えば、聖徳太子と蘇我馬子の外交政策を巡る対立抗争を縦軸にして、両陣営のさまざまな人間模様を生き生きと描いている。聖徳太子の陣営は朝鮮半島の高句麗と百済との同盟関係を軸に隋の高句麗侵略を阻止すべく、小野妹子を筆頭に遣隋留学生が活躍する。 一方、新羅からの賄賂によって新羅と結託した蘇我馬子は、刺客・迹見赤檮(とみのいちい)を使って太子陣営の主要人物を次々と抹殺していく。聖徳太子とその妃が新羅と蘇我氏によって毒殺されるというショッキングな場面までも最後に用意されている。したがって、物語は二重三重の謀略がからみあい、非常にミステリアスでスリリングな展開を見せる。 そうした意味では、八木荘司という作者は、並々ならぬストーリーテーラーである。だが、彼が物語の根幹に据えた外交戦略の対立が、史実であったかと問われると、首をかしげざるを得ない。少なくとも、7世紀代の歴史に少しでも関心がある読者には、物語の展開が荒唐無稽に見えるはずだ。 『日本書紀』をすなおに読む限り、高句麗・百済寄りの外交路線を取り続けたのは、蘇我馬子の側だった印象を与える。蘇我氏が百済系王族の出自とする極端な説は横においておくとしても、蘇我氏の氏寺として建立した飛鳥寺は、百済から派遣された技術者の指導によって建立された。しかし、同時に一塔三金堂方式という高句麗に特異な伽藍配置を採用している。こうした点を考慮すれば、蘇我氏は百済や高句麗と交流があったと見なさざるを得ない。 一方、聖徳太子は朝鮮三国と等距離外交を実現し、新羅を敵視する政策は採っていない。おそらく、聖徳太子の陰のスポンサーとされている秦河勝(はたのかわかつ)が新羅系渡来人であったことも影響しているのであろう。聖徳太子が薨じたとき、太子の冥福を祈るため使者を派遣して仏像や金塔、舎利、観頂幡などを献上したのは新羅である。このうち仏像は葛野(かどの)の蜂岡寺に安置し、その他は四天王寺に納めたという。 さらに言うならば、聖徳太子と蘇我馬子が外交路線で対立したことを示す史料はない。一般に遣隋使の派遣は聖徳太子の功績の一つのように言われているが、『日本書紀』を素直に読めば、太子が派遣したとは一言も書かれていない。むしろ、当時の情勢を勘案すれば、太子と馬子が共同で内政や外交を処理したと考えた方が、より実態に近いであろう。 「遙かなる大和」は伝奇的手法で当時の東アジア世界を描いて見せた歴史小説であるとの評価が高い。確かに物語としては面白いし、一気に読ませる作品に仕上がっている。しかし、歴史小説とするにはいささか抵抗を感じざるを得ない。小生は歴史小説の体裁を借りた伝奇小説と見なしたい。 |