宗教法人神慈秀明会の会主・小山美秀子
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| 美術館のレセプション棟 | 途中のトンネル |
さらに神慈秀明会は、美による社会奉仕を目的として、平成5年(1993)に秀明文化財団を設立した。そして、美術品を展示し社会に貢献する美術館を、神苑の近接地に建設することにした。設計のテーマは、道に迷った漁夫が仙境の楽園を見いだすという陶淵明の「桃花源記」に倣って、桃源郷を信楽の山中に実現することに置かれた。
設計を依頼した先は、ルーブル美術館のガラスのピラミッドなどで知られる世界的建築家のI.M.ペイ氏。そして、建設費250億円をかけて平成9年(1997)に完成したのが、会主・小山美秀子(みほこ)の名をとってMIHO MUSEUMと名付けられた美術館である。建物の80%以上が地中に埋設されながら、幾何学模様が織りなすガラス屋根から降り注ぐ太陽の光が、ライムストーンの壁に反射して来訪者を優しく包んでくれる。自然と建物と美術品の融合をテーマにした建築家の意図が、見事に実現したまさに桃源郷のような美術館である。
| 幻想的な光が彩なすトンネル内 | ハープ橋と移動用カート |
見学は、半円形のレセプション棟のチケット・インフォーメーションで受け付ける。このレセプション棟には、その他にレストランやミュージアムショップなども置かれている。 美術館棟は、レセプション棟からかなり離れた別の丘陵に位置しているため、途中でトンネルを抜け、ハープ橋を渡ってアクセスしなければならない。徒歩で散策すれば、いかにも桃源郷に近づく印象が深まるだろうが、見学者の便を考えてカートに乗って移動することができる。
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| 美術館棟の入口 |
照明で幻想的な世界が演出されているトンネルを抜け、ハープ橋を渡ると、正面に寺院の本堂を思わす美術館棟のエントランスホールが石段の上に聳えている。ガラスの屋根を載せたエントランスホールの奥の窓から、神苑の建物が見える。信者以外には近づけない場所だそうだ。
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| 美術館棟のエントランスホール |
意外! 笑って来訪者を迎えてくれる山東半島の仏像たち我が国の古代美術史上で燦然とその名を今に伝えている仏師がいる。7世紀前半に華々しい仏像制作を行い、飛鳥寺の本尊とされている飛鳥大仏や法隆寺金堂の釈迦三尊像を制作したとされる鞍作止利(くらつくりのとり)である。止利仏師と通称されているこの仏師は、北魏の仏像様式の影響を強く受けたとされている。 飛鳥寺の本尊は後世の補修がひどく、制作当時の面影はほとんど残っていないが、彼の代表作とされる法隆寺金堂の釈迦三尊像は、奥行きがなく正面観照を重視している、衣文や服飾が左右対称である、面長で古拙な微笑を浮かべている、抽象化した衣文を裳懸座(もかけざ)としている、など北魏様式のさまざまな特徴を受け継いでいる。
3年前に故網干義教教授が講師を務められた飛鳥渡来文化の源流を尋ねる中国旅行では、鞏県石窟寺や龍門石窟、雲崗石窟などを見学して、北魏様式と呼ばれる仏像の特徴を己の目で確認した。いずれも、唇の端に笑みを浮かべた「アルカイックスマイル」など、この時代の特徴が目立ったが、止利が制作した法隆寺の釈迦三尊像に比べて柔和な顔つきだったとの印象を受けた。その差は、止利が仏像をより抽象的に表現し、そのため表情が堅くなったものと解釈した。
ところがである。MIHO MUSEUMの地下1階の特別展示室で、入口正面に置かれた三尊像を見て驚いた。主尊の如来像も両脇侍菩薩も、じつにににこやかな笑顔で迎えてくれているのである。照明の光を受けて陰影が一層強調された石像は、写真で見るよりも表情が明るて和やかだ。 この三尊像は1996年に青州市の龍興寺遺跡から出土した400体の石仏の中の一つで、東魏時代の作品だそうだ。東魏とは、中国の南北朝時代に鮮卑拓跋部によって華北に建てられた北魏(ほくぎ、386年 - 534年)が534年に東西に分裂して、鄴(ぎょう)を都として建国された王朝だが、わずか16年の短命王朝である。
よく見ると、主尊の足元に現れた二頭の龍がその口から蓮華をはき出し、その蓮華の上に両脇侍が立っている。こうした形は、山東省の東魏時代の三尊像に見られる特色だそうだ。いずれの仏も口元に笑みを浮かべているが、面長ではない。向かって左の脇侍菩薩の尊顔などは、秋篠宮の紀子妃に実によく似ている。
こうした中央の殺伐とした空気に、山東地方はまるで無縁だったかのように、和やかな表情の仏像が造られた。この弥勒仏に見られるアルカイック・スマイルを浮かべる顔や、左右に強い広がりを見せる大衣の表現は北魏様式の特徴であり、法隆寺金堂の釈迦三尊像にもその影響が見られる。だが釈迦三尊像に比べて、この仏像の表情は柔和で、初々しさすら感じる。そうした表現の違いは時代の差なのだろうか、それとも仏師が心に描いた仏のイメージの違いなのだろうか。 ちなみに、同じ北魏様式と言っても、この弥勒仏と止利仏師の釈迦三尊像とでは、制作時期に100年近い隔たりがある。釈迦三尊像の光背には、以下のような趣旨の銘文が刻まれている。すなわち、推古30年(622)正月22日、聖徳太子と膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が病気になった。そこで、王后・王子と諸臣らが病気回復を祈って釈像尺寸王身を造ることを発願したが、二人とも亡くなってしまった。像は翌年の推古31年(623)に、止利仏師によって完成した、という。
青州市の龍興寺遺跡から出土した北魏時代の石仏は、いずれも表情がにこやかだ。永安2年(529)の銘がある弥勒三尊像も、永安3年(530)の銘がある仏三尊像も、主尊の像高は25cm前後と小柄な仏像だが、微笑みかける3体仏が来訪者の気持ちを和ませてくれる。特に後者の主尊は、少し頭を傾けながら、「何か悩みがあるなら正直におっしゃってヨ、何でも聞いてあげるから」と、今にも語りかけてくれそうな親しみやすさを感じさせる。迷える衆生をどの様に救おうかと、まぶたを半眼に閉じて思案する後世の仏像のイメージとはほど遠い。 東魏時代の山東省では、北魏時代に引き続いて優しい顔立ちの仏像が造り続けられたようだ。だが、すこしずつ変化も見えてきた。横に直線的でただ両端が少し上がった仰月形の口(いわゆるアルカイック・スマイル)はそのままだが、それまでのあんずの種の形に似た「杏仁形」の眼の形に変化が見られる。下の写真は、やはり龍興寺から出土した東魏時代の菩薩立像だが、目の形がそれまでと違う。強い上向きの曲線を持つ上まぶたと、目尻にむかってややつり上がるように刻まれた下まぶたで構成された目が微笑んでいる。
北魏末から東魏時代にかけて山東省で造られた菩薩像の中に、頭上に頂く宝冠に蝉の飾りをつけたものが、3体展示されていた。中国では戦国時代以来、皇帝の近臣や高級宦官が清廉・節倹の証として冠の正面に蝉の飾りをつける伝統があったという。そこで、蝉の冠飾りをつけた貴人になぞらえて菩薩像が造られた可能性が指摘されている。ただし、この類の菩薩像が制作されたのは、北魏末から東魏にかけての極めて短い時期だけに限定されるという。 写真に示した蝉飾りの菩薩像は山東省博興県の龍華寺から出土したものである。この仏像には、実は一度国際芸術品市場に流出してしまった経緯のある。どういう経路か知らないが、仏像は神慈秀明会の手に渡った。しかし、小山弘子会長の好意によって、今回の展示のあとにMIHO MUSEUMからの寄贈でふるさとに戻ることになっているそうだ。 中国に仏教が伝来したのは、後漢の明帝(在位57−75)の頃である。だが、山東省に仏教が流布してくるのは五胡十六国時代になってからである。最初の仏教寺院は仏図澄の弟子・竺僧朗が皇始元年(351)に建てた朗公寺だった。南北朝時代には、山東半島は一時期南朝の勢力下にあったが、469年に北魏がこの地方を勢力下に置くと、北魏様式の仏像がこの地域でも造られるようになった。 東魏の時代になると、この地では青年のような若々しい表情をした仏像が生み出されるようになる。さらに、東魏の後に建国した北斉(ほくせい、550 - 577)になると、分厚い衣を捨てて薄い衣に下に柔らかな肉体を感じさせる表現をした仏像が造られるようになる。今回の特別展示では、こうした仏像様式の変遷を実物に即して学ぶことができる貴重な機会だった。 (*)MIHO MUSEUM作成展示会図録よりコピー |