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これらの湖東三山は、さら南に位置する瑞石山 永源寺(えいげんじ)と合わせて、紅葉の名所として知られている。紅葉だけではない。いずれの寺も美しい庭園と国宝、重要文化財の建築物や美術品で知られ、「芸術の花園」として四季を通じて訪れる人が多い。 ゴールデンウイーク(GW)が終わった一昨日の夜、知人のK君から久しぶりに電話があった。先日アップした湖南アルプス金勝山のハイキングレポートの感想を聞かせた後、もう少し北にある湖東三山へ行こうと誘った。
湖東三山は紅葉の頃訪れるのがいいと聞いているが・・・、と反論すると、 筆者は別の意味で湖東三山に興味を抱いていた。三山が営まれた地域は、古代の渡来氏族が盤踞した土地である。そもそも湖東平野の農業生産に着目した渡来人は、早くからこの土地を開拓していたことがわかっている。百済寺は依知秦(えちはた)氏、金剛輪寺は秦氏、西明寺は高句麗系氏族と関係が深かったとされている。 いずれにしろ、アッシー君を引き受けてくれる彼の申し出である。断る理由などない。例によって、彼が指定する場所で落ち合って、名神高速自動車道を八日市ICまで行き、そこから一般道で4つの寺を巡ることにした。4つの寺の所在地、創建時期、開基、および本尊をまとめると、以下の表のようになる。
【探訪ルート】 |
瑞石山 永源寺 − 臨済宗永源寺派の総本山八日市ICで名神高速道路を降りて、国道421号線を東へ直進することおよそ11km、愛知(えち)川に架かる朱塗りの欄干の旦度橋を渡ると、右岸の高野(たかの)山南麓に建つ臨済宗永源寺派の総本山永源寺の駐車場に着く。
駐車場に車はなく、その前の土産物の売店もシャッターを降ろしている。どうやらK君の読みは当たったようだ。紅葉の時期でもなく、またGWが過ぎたこの時期、山寺まで参拝に来る観光客などほとんどいないのかもしれない。山際を見ると、数人の雲水が作業衣を着てブロアーの音を響かせながら枯れ葉を集めている。晩秋はモミジの落ち葉で山内の掃除が大変だろうが、今の時期も常緑樹が枯れ葉を落としている。それをかき集めて、境内をきれいに保つのも禅を修行する雲水の日課なのだろう。 売店の前を通り過ぎると、大歇橋(だいけつきょう)という名の石橋がある。古来、永源寺を目指して修行に来る雲水たちが、この橋で俗世間との縁を切り一息いれる橋であり、禅林の聖域に足を踏み入れる第一の関門とされている。橋は大正8年(1919)に架けかえられたものである。
湖東三山と違って、この寺は禅宗の寺であり、永源寺派の特徴を知るには、まず臨済宗の高僧・寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師(1290〜1367)を知らなければならない。 なぜなら、永源寺は、近江守護職だった佐々木六角氏頼(法名 崇永)が、元光に開山を請い、元光が現在の場所に一寺を創建したのが始まりとされているからである。時に康安元年(1361)。寺名は氏頼の法名の一字「永」と源氏の「源」をとってつけられた。 当山開基の元光は、31歳のとき中国の元に渡り天目山の中峰明本に6年間師事した。中峰明本は俗化した中国禅の中での栄達を拒み、後進の指導に当たった人物として知られている。元光はその禅風に強い影響を受けた。そのため、永源寺を創建すると、腐敗した中央の禅風を嫌った僧たちが大勢この寺に参集してきたという。 六角氏頼は元光を厚く援助し、永源寺対岸の山上郷熊原村を寄進し、この村は根本寺領として永く維持された。当時は山中に56坊の僧坊を有し、2000余りの修行僧がいたと記録されている。また応仁の頃には、京都五山の名僧知識が難をこの地に避け修行した。そのため「文教の地近江に遷る」と言われたほど、永源寺は隆盛を極めたという。
しかし、その後も享保9年(1724)や明和元年(1764)の出火で、またしても多くの堂宇を失った。再建は井伊家の後援を得て行われた。現存する建物群は明和元年の焼失以後に再建されたもので、山内には本堂・開山堂・含空院・経堂・鐘楼・書院など多くの堂宇が維持されている。 永源寺の再建を後援した井伊家の墓が羅漢坂を登り切って、左手の石段を少し登った崖の中腹に築かれている。ただし、墓域は施錠され、この場所は永源寺の山内と区別されているのか、近頃掃除が行われた形跡がない。 総門の手前に御手洗の水盤が置かれている。この寺の手洗い石は少し形が変わっていて耳型をしている。「手を清め、口をすすぎ、耳に入っている俗界の垢をここで清浄に洗い清めて門をくぐれ」という第二の関門だそうだ。
総門を入ってすぐの所に受付がある。拝観料を払って一歩境内に足を踏み入れると、石畳の参道が一直線に山門(県指定重要文化財)まで延び、参道の両脇に植えられたモミジが、若葉をつけた枝を頭上に伸ばしている。初夏の太陽に照らされた若葉を裏側から見上げると、そのみずみずしさがいっそう明るく強調されて、実に気持ちが良い。 受付で渡された参拝の栞は、若葉のモミジの向こうに聳える山門と、晩秋に黄金や朱赤に染まったモミジに彩られた山門の二つの写真が、その表紙を飾っている。おそらく、GWの期間中も、新緑を求めてかなりの参拝客がこの寺を訪れたにちがいない。K君が予想したように、GWを過ぎた後に当山を訪れたのは、まことに正解だった。広い山内には我々以外には人影はない。新緑のモミジを中心に織りなす境内の緑と、木々の葉音ひとつしない禅寺の静寂を独占できることは、これ以上至福の時はない。
モミジの枝に邪魔されて山門の偉容が正面からはわからない。だが、門をくぐって後ろを振り返ると、禅宗総本山の寺院にふさわしく禅宗様を取り入れた重厚な二階建ての重層門であるこがわかる。 この山門に貼られていた棟札によって、建立は享和2年(1802)だったことが分かっている。下層は五間三戸の扉のない解放された通り門になっている。上階には釈迦如来と十六羅漢像を安置しているという。さらに組物(くみもの)も下層と上層では違えているのが興味深い。下層で出組(でぐみ)だが、上層は尾垂木付二手先(おたるきつきふたてさき)という組み型である。
山門から先へ進むと、左手に鐘楼が建つ。戦前には安永9年(1780)鋳造の梵鐘がつり下がっていたが、第二次大戦で供出されてしまった。現在のものは昭和25年(1950)に再鋳されたものだという。 禅宗の寺院らしく枯山水を思わせる実に手入れの行き届いた庭を前にして、ヨシ葺きの国内屈指の大屋根を戴いた方丈、すなわち本堂が建っている。背後の樹木の緑を借景にして見上げる屋根が、明るい日差しを受けてまぶしい。方丈は、古くからのしきたりに従って法要が行われる道場であり、本尊として聖観音が安置されている。この観音は、霊験あらたかな秘仏とされている。一心に祈願すれば、優れた世継ぎが授かり子々孫々まで繁栄するというので、俗に「世継ぎ観音」と呼ばれている。
禅堂の前を通って奥へ進むと、左手の池の後ろに法堂がある。享保13年(1728)に建てられたこの堂は、後水尾天皇が寄進した釈迦・迦葉・阿難の三尊を安置している。その右横に、開祖・寂室元光の墓所である開山堂がある。ここには国指定の重要文化財である寂室和尚坐像が祀られている。 開山堂の近くに、二本の古い梅の古木に囲まれて歌碑が建っている。碑には「こんにゃくの さしみもすこし 梅の花 はせを」という松尾芭蕉の句が刻まれている。元禄6年(1693)の春、亡くなった妹のことを思いながら松尾芭蕉が弟子に詠み送った句とされている。そう言えば、永源寺の名産「永源寺こんにゃく」は、近江八幡市の「赤こんにゃく」と並んで滋賀を代表するコンニャクの2大ブランドである。永源寺周辺ではこんにゃく芋がいっぱい採れる。これは僧侶による精進料理のために作られたのが始まりとされている。
境内の一番奥に、寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師(1290〜1367の塔頭だった含空院がある。元光は、貞治6年(1367)9月、遺偈(いげ)を書き残してここで78歳の生涯を閉じた。その遺偈には「屋後青山 檻前流水 鶴林双趺 熊耳隻履 又是空華 結空子」と書かれており、現在、国の重要文化財に指定されている。
元光の門弟には優秀な人材がいた。永源寺住持を勤めた門弟のうち、弥天永釈は永安寺、松嶺道秀は興源寺、霊仲禅英は曹源寺、超渓秀格は退蔵寺をそれぞれ創建した。この4つの寺は後に永源寺四派、高野四カ寺などと称されるようになる。こうして、臨済宗永源寺派が形成され、永源寺がその総本山となった。 もと来た道を含空院からゆっくりと散策しながら戻った。新緑の中、久しぶりに古寺巡礼の醍醐味を味わった思いだった。禅堂の前まで戻ったとき、ふとこの寺の宝物を何も見ていないのに気づいた。中国宋時代の絹本着色地蔵十王図や南北朝時代の寂室元光墨蹟など、国指定の重要文化財が数多くある寺である。
一緒に戻ってきたK君の姿が見えなくなった。探すと、モミジの木の陰で、デジカメをモミジの葉に近づけながらさかんに接写している。何をしているんだ、とたずねると、モミジの花を撮影しているんだ、という。うかつなことに、今までモミジに花が咲くことを知らなかった。 |
釈迦山 百済寺
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| 百済寺案内図 |
仏教の開祖である釈迦をそのまま山号にした寺も珍しいが、本来クダラデラと訓読みだった寺名をヒャクサイジと音読みに変更した寺も珍しい。
寺伝によれば、この寺は推古天皇14年(606)聖徳太子によって創建されたと伝えられている。室町時代の勧進帳序文でも、聖徳太子が百済(くだら)の龍雲寺を模して堂を建て、高句麗僧の恵慈(えじ)をもって呪文を唱えて祈願する呪願導師とし、百済僧の道欣(どうきん)によって供養したと述べている。
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| 県道脇に建つ百済寺の碑 |
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| 百済寺三百坊跡図 |
高句麗僧・恵慈や百済僧・道欣の他にも、百済の僧恵總(えそう)や観勒(かんろく)らも、この百済寺の住持を務めたという。7世紀の初めに聖徳太子によって創建され、朝鮮半島から渡来した高僧たちが、次々とこの寺に関係したとする伝承は、史実とは考えにくい。
しかし、白鳳期のものと推定される布目瓦の破片が付近から出土している。したがって、7世紀後半にはこの瓦を用いた寺院がこの地に建設されていたことは事実であろう。
近江のこの付近は韓半島から日本海・若狭を経由して移ってきた渡来人が早くから住み着き、彼らの持つ灌漑・農耕・土木・建築など先進技術で、愛知(えち)川を中心に湖東平野を肥沃な大地に変えていったとされる。その中心は秦一族の枝氏とされる依智(えち)秦氏だったようだ。依智秦氏がひときわ高い山中に一族の氏寺として建てた寺が、百済寺の始まりだったかもしれない。
平安時代になると、他の湖東三山がそうであったように、百済寺も天台宗に改宗した。1144年に改宗して天台別院になったとき、寺名を「百済寺(ひゃくさいじ)」と寺名を改めたといわれている。その後、この地方に多い天台領の後ろ盾によって、鎌倉から室町にかけて百済寺は最盛期を迎えた。山内の300余坊に僧俗合わせて1,300人が居住したといわれ、「湖東の小叡山」と呼ばれた。明応年間に作られた勧進帳の序文には、「当時は一山の境内を東西南北の4つの谷に分かち、・・・4つの谷の塔頭は三百余坊だった」とある。まことに壮大な寺院だったことが分かる。
その後、たびたびの火災や兵火のために再建を繰り返してきた。例えば、明応元年(1492)の第二次六角討伐のときには、足利義材が進発の際に当寺を焼き払った。文亀3年(1503)の伊庭貞隆の乱の兵火では、本尊を除いて、七間本堂をはじめすべての堂宇が灰燼に帰した。しかし、その当時はなお再興することができる勢力を保っていた。百済寺の衰亡は、織田信長によってもたらされた。
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| 天正元年の織田信長焼き討ちを伝える境内の説明板 |
湖東地方を勢力下に置いた近江源氏佐々木六角氏は、自主防衛のため、観音正寺や百済寺を石垣で城塞化し、鯰江(なまずえ)城などの出城を築いていた。天正元年(1573)、武田信玄の死を知った織田信長は、4月になると六角攻めのため近江へ軍を進めてきた。百済寺は織田と六角のいずれに荷担するか苦渋の選択を余儀なくされたが、長年の恩義に重んじて、鯰江城に兵糧米を送るとともにその婦女子を境内の三百坊に預かり保護した。
これを知った信長は4月11日、百済寺焼き討ちを命じ、寺の各堂宇はそれから半月ほど燃え続けたという。信長の焼き討ちを予期して、寺では平安時代に造られた本尊の十一面観音像など数体の主な仏像と重要な経巻を奥の院に移していたため、辛うじて難を免れることができた。だが、全山ことごとく焼失した寺は、荒涼として人影を見ることもなかったと伝えられている。
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| ルイス・フロイスも見た百済寺 |
百済寺が本格的に再興したのは、江戸時代になってからである。寛永年間に天海僧正の高弟・亮算(りょうさん)がこの寺に入り堂宇の再興に着手した。まず寛永14年(1637)に明正天皇から改建の勅許を得ると、住僧たちを諸国に勧進させた。さらに、徳川幕府要人や井伊家の喜捨も得て、慶安3年(1650)には、本堂・仁王門・山門などを竣工させた。これらが現在の建物である。
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| 晩秋には朱赤の絨毯に変わる石の参道 |
喜見院下の駐車場まで車で一気に登ってきたので気づかなかったが、徒歩なら、城の門のような大きな扉の赤門と呼ばれる山門をくぐって、若葉が美しいモミジ並木の石段を登ってくることになる。晩秋の頃には色づいた落ち葉が石の参道を見事な朱赤の絨毯に変えるにちがいない。
同じ石段でも、一直線に延びる百済寺の参道は、弧を描いて登る永源寺の参道とはまた違った趣が漂っている。両脇の苔むした石垣の上に、モミジの木の隊列が続き枝が参道を覆っている。その枝の間から参道に落ちてくるこぼれ日がなんとも明るい。幸い参道を登ってくる参拝者の人影はなかったので、石段の中程に腰を下ろして昼食を取った。久しぶりにピクニック気分を味わったような気がした。
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| 喜見院の庭園の入口 |
腹ごしらえが終わって最初に訪れたのは、その雄大さから「天下遠望の名園」と称されている喜見院の庭園である。この寺の喜見院はもと千手坊と呼ばれていたが、寺を再興した亮算が入寺するや、千手坊を喜見院と改めた。しかし、その喜見院は出火で焼失したので、元文2年(1737)に仁王門の傍に移転改築された。現在の建物は、昭和15年(1940)に仁王門傍から再度移転改築したもので、それに伴い庭園も拡大して移築した。
「天下遠望の名園」と書かれた門を入ると、まず喜見院の池泉回遊式庭園へ導かれる。自然の谷川の水が池に注ぐ庭の景観を、大屋根の喜見院の縁側に腰かけて眺めるのも良いが、池の周囲に築かれた石を伝いながら眺める景観もすばらしい。日がな一日のんびりと庭を眺めて過ごすのも、ストレス解消法の一つかもしれない。
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| 喜見院の池泉回遊式庭園−1 |
池の端から裏山に登っていく散歩道がある。道路の脇を流れる谷川にいろんな滝が作られていて、さまざまな滝の音を聞かせてくれる。林の奥に視線を投げると、そこには苔むして半分崩れかけた石垣が累々と続いている。こうした石垣の遺構から往事の百済寺の偉容を偲ぶことができる。一山三百坊という表現は決して誇張ではない。
| 喜見院の池泉回遊式庭園−2 | 僧坊跡の石垣 |
道をさらに登っていくと、眼下に湖東の風景が遠望できる高台に出た。晴れた日であれば、ここから湖東平野と琵琶湖をかすめて真西50km先にある比叡山が富士山のように見えるという。ルイス・フロイスが見た喜多院はおそらく仁王門の脇にあっただろう。場所は違うが、現在の喜見院の庭を見たとしても、やはり「地上の天国」と絶賛したにちがいない。
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| 喜見望郷庭からの遠望 |
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喜見院から本堂へ向かうには、いったん参道に戻って、一直線にのびる石段を登って行かなければならない。百済寺は標高771mの押立山の山腹に築かれ、戦国時代は石垣が積まれた。参道を登っていくだけでも、梢の間から空堀や土塁、石垣等の遺構があちこちで見ることができ、まるで城郭の遺構のような雰囲気も漂わせている。そうした重苦しい雰囲気を和らげるように、参道の脇のあまり日の当たらない場所に、シャクナゲが一輪けなげに花を付けていた。
石段を登っていくと、大きなワラジを飾った仁王門近くの右手に石垣を組んだ喜見院跡がある。当時の建物があった場所は平らだが、庭園はどのあたりにあったか分からない。仁王門は、江戸時代前期に井伊氏が寄進したもので、甲良(こうら)大工の手で建てられたものと伝えられている。
| 仁王門へ続く参道 | 大きなワラジが迎えてくれる仁王門 |
仁王門をくぐると、さらにその先に石段が続いている。平成15年11月4日に作家の五木寛之氏が百済寺に参拝したが、そのときの様子を「百寺巡礼」の中で次のように書いている。
「・・・仁王門をくぐって、この石段を登って行くと目の前に石垣があって、その上に何とも言えない風情のある本堂がまるで空中楼閣のようにグーと空中に浮かび上がって見える所も、この百済寺の魅力の一つかもしれませんね・・・」
| 仁王門から仰ぎ見る本堂 | 百済寺の本堂 |
五木氏が空中楼閣に例えた本堂も、井伊氏の寄進によって江戸時代前期に建てられたものである。想像していたより簡素な本堂だった。本堂の外陣と内陣は格子で仕切られていて、内部は見えない。試しにデジカメで内陣の様子を撮影してみると、前立ち観音の姿が意外とはっきり写った。秘仏とされる本尊の十一面観世音菩薩はその奥の厨子の中に安置されている。
この十一面観世音の高さは3.2mもあり、「植木観音」と呼ばれている。寺伝はそのいわれを次のように伝えている。推古天皇14年(606)に聖徳太子が高句麗僧・恵慈の案内でこの山中に分け入ってこられたとき、杉の大木の上半分が運び出されているのをご覧になった。理由を尋ねると、百済の龍雲寺の本尊を作るために運び出されたとのことだった。そこで太子は下半分の根の付いたままの巨木に自ら十一面観音を刻まれた。そのため、聖徳太子自作のこの仏像が植木観音と呼ばれるようになったという。ただし伝承は伝承として、十一面観音像はその作風からみて平安時代の作と推定されている。
| 本堂の外陣 | 格子の間から内陣をのぞき見る |
松峯山 金剛輪寺
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| 金剛輪寺の黒門 |
湖東三山の中央に位置する金剛輪寺は、松尾寺とも呼ばれている古刹である。寺伝によれば、聖武天皇の勅願によって、天平13年(741)に行基(ぎょうき、668〜749)が開いたという。本尊の木造聖観音菩薩像は、行基自ら刻んだと伝えられ、「生身の観音様」と呼ばれる秘仏である。
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| 黒門から延々と続く参道 |
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| 金剛輪寺の大悲閣本堂(国宝) |
黒門をくぐって参道を少し進むと、右手の受付がある。拝観料を払って、本堂までの距離を聞くと、徒歩なら500mほどですと、受付の女性は涼しい顔で答えた。登り坂の石畳の参道を500mも歩かされるのはきつい。それを言うと、本日は参拝者が少ないから、本堂近くまで車で登れますよ、と便法を教えてくれた。
駐車場の横から上へ登る車道があるが、ゲートが閉まっている。そのゲートに取り付けてあるインターフォンのボタンを押せば、ゲートを開けてさしあげますとのことだった。果たして彼女の指示通りにすると、ゲートが開いて狭い山道を本堂の横まで乗り付けることができた。ただし、駐車できるスペースは2〜3台程度しかなく、客が多いときはこのアクセス方法を教えないようだ。
金剛輪寺も紅葉(モミジ)の名所として知られている。寺では、真っ赤に色づいたモミジを「血染めのモミジ」と呼んでいる。その由来は次のような伝承に基づいている。すなわち、開祖の行基が彫刀で聖観音像を彫り進めていると、突然木肌から赤い血が流れ出てきた。行基は驚いて刀を投げ出し、木像の下半身を白布で覆った。境内のモミジは、そのとき流れ出た血のように真っ赤に染め抜かれるため、いつしか血染めのモミジと表現されるようになったようだ。
| 重要文化財の二天門 | 秘仏の聖観音その他を安置する本堂 |
長い石畳の参道を徒歩で登り詰めてくると、七難即滅を願って大きなワラジが下げられている二天門が行く手に聳えている。国の重要文化財に指定されているこ門は、元来は室町時代に建てられた二階建ての楼門だったが、近世になって二階部分が取り払われたとのことだ。 この門に置かれている2体の仏像は、阿吽の形相をした仁王像ではない。帝釈天の部下として須弥山の四つの門を守る仏教の護法神のうち持国天と増長天だそうだ。そのため仁王門ではなく二天門という。
二天門をくぐると、入母屋造、檜皮葺(ひわだぶき)の堂々たる本堂が正面に聳えている。7間四方の荘重な本堂は、内陣の須弥壇の束金具に刻まれた銘によって、康安11年(1288)正月に再建されたことがわかっている。そのため、鎌倉時代の代表的な和様建築物として国宝の指定を受けている。この本堂の中には、秘仏の本尊聖観音像をはじめ、阿弥陀如来像、十一面観音像など10体の重要文化財が安置されている。上記のような制作伝承を持つ秘仏の聖観音像が公開されるのは、住職一代につきたった1度かぎりとされている。
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| 昭和53年秋に復元修理され三重塔 |
本堂の左手の一段高い場所に、木立に囲まれて三重塔が建っている。待龍塔と呼ばれているこの塔は、寺伝では寛元4年(1246)に多くの合力によって建立されたとされている。しかし様式的には南北朝時代から室町時代の建築と見られている。現在の塔は昭和53年(1978)秋に復元修理されたものである。
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| 名勝庭園で見つけたクリンソウ |
おそらく、当初は秦氏が氏寺を建てて観音菩薩を祀っていたと思われる。平安時代に入って、他の湖東三山と同様に比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗に改宗したことで、寺は天台別院として発展したようだ。平安時代の嘉承年間(848−851)には天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって再興されたとする伝承があり、寺では円仁を中興の祖としている。
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| 参道の両脇に並ぶ千体地蔵 |
二天門に至るまでの参道には、風車を手にした千体の地蔵菩薩の石像が参道の両脇に並べてある。よだれかけは信徒の寄進によるもので、年に3回かけ替えられるそうだ。8月9日の千日会にはそれぞれの石仏に明かりが入り、幽玄な光の回廊を演出する。
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| よだれかけを掛けた千体地蔵 |
金剛輪寺の本坊である明寿院は、桃山時代から江戸時代にかけて整備された池泉回遊式庭園があり、近江随一の名勝と称されている。桃山中期の庭、江戸初期の庭、江戸中期の庭と書かれた札が立っていて、それぞれ時代の特徴を見せているようだ。だが、素人目にはどこが違うのかよく分からなかった。昭和52年(1977)の火災で明寿院の書院、玄関、庫裏(くり)が焼失した。現在の建物はその後に再建されたものである。
| 名勝庭園のある明寿院 | 桃山中期の庭 |
| 江戸初期の庭 | 江戸中期の庭 |
龍応山 西明寺
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| 西明寺の二天門(重要文化財) |
湖東三山の一番北に位置する西明寺は、龍応山と号する天台宗の寺で、一般には池寺と呼ばれている。金剛輪寺と同じく国道307線沿いにあり、距離にして5kmほどしか離れていない。車で移動する場合は、金剛輪寺から6〜7分で到着できる。国道から分岐するアクセス道路は、金剛輪寺の場合もそうだったように、名神高速自動車道をオーバークロスして駐車場へ導いてくれる。
寺伝では、三修上人が仁明天皇の勅願によって承和元年(834)に創建した寺としている。三修上人は修験道の霊山である伊吹山を開山した上人としても知られる半ば伝説化した行者である。
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| 西明寺の仁王門 |
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| 西明寺の本堂 |
山門をくぐると、目の前に長い参道が続く。秋には朱赤のトンネルをつくるモミジの中を本堂へと向かう。参道は苔むして古色蒼然としており、二天門までひたすら登りが続く。湖東三山では、いずれも長い登り坂の参道を歩かされる。山腹に建てられた寺院だから坂道は致し方ないが、その距離の長さが湖東三山の特徴である。この懐の深さが、最盛時に数多くの僧坊を擁した大寺院だったことを伺わせる。10分近く歩いて、ようやく柿葺(こけらぶき)の八脚門である二天門にたどり着いた。正面両脇に増長天と持国天を祀るこの門は、室町時代初期に建立された建物で重要文化財に指定されている。
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| 西明寺の三重塔 |
高さ23.7mの三重塔は、本堂より少し遅れて鎌倉後期になって、やはり飛騨の匠が建立した総ヒノキ作りの建物である。塔の初層内部には狩野派の画家が描いた極楽浄土の壁画が残っていて一般公開されていると聞いていた。鎌倉時代の壁画としては国内唯一のものとされており、見学を楽しみにしてきた。残念なことに、4月8日から一ヶ月に渡った有料公開は昨日で終わり、次の公開は10月8日からとのことだ。
珍しいことに、西明寺では案内人が本堂の内部を説明しながら案内してくれる。彼の説明によれば、この西明寺も、百済寺や金剛輪寺と同様に平安、鎌倉、室町の各時代を通じて祈願道場、修行道場として繁栄したという。かっては諸堂17、僧坊300、修行僧数百人を抱える大寺院だった。だが、元亀2年(1572)に織田信長が比叡山を焼き討ちしその直後に配下の丹羽長秀に西明寺の焼き討ちを命じたため、これが西明寺衰亡のきっかけになった。
| 三重塔初層内部の壁画(絵葉書より) | 本堂の内陣(絵葉書より) |
この時の焼き討ちの際、僧侶と住民の機知によって本堂と三重塔と二天門だけは何とか火災を免れたとのことだ。だが、その他の堂宇は焼け落ち、寺歴を示す史料も散逸してしまった。僧侶と住民のどのような機知でこれらの建物を守ることができたのか、案内人に聞いてみた。はっきりしたことは分からないが、麓の堂宇すべてに火をつけて、あたかも全山が炎上したように見せかけ、境内の奥に建つこれら3つの建物も灰燼に帰したと織田の軍勢側に思わせたのではないか、とのことだった。
現在の形に復興したのは、江戸時代になってからである。天海大僧正と公海大僧正の尽力によって、望月越中守友閑が祈願、修行道場として復興したとのことだ。
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| 名勝庭園・蓬莱庭の庭に咲いていたツツジ |
実は昨年の9月18日から40日間、秘仏が関係者に公開された。この寺でも秘仏の公開は一代一回とされていて、次に公開されるのは何時になるかわからない。この本堂内陣には、信長焼き討ちで難を逃れた四天王像や十二神将像などの寺宝も拝観できる。面白かったのは十二神将像だ。それぞれの頭に干支に因んだ動物が彫られている。生まれ年の干支の守り本尊とされ、これらの十二神将像があるために参拝者も多く、西明寺は「えと寺」とも呼ばれている。
| 名勝庭園・蓬莱庭の門 | 蓬莱庭の不断桜(絵葉書より) |
西明寺には、蓬莱庭と呼ばれる国指定の名勝庭園がある。庭園の門を入ると、見事に刈り込まれたツツジの庭で、紫と白の花を付けた大きな株が人目を引いた。この庭園には、樹齢250年と推定されている不断桜(ふだんざくら)が庭の隅にある。天然記念物に指定された古木は、例年9月上旬に咲き始め、11月には満開になるという。紅葉の時期と重なり、参拝客の目を楽しませてくれる。
| 蓬莱庭の心字池(絵葉書より) | 蓬莱庭を上から見下ろす |
国の名勝庭園に指定されているのは、こちらの庭園ではなく建物の裏にある心字形をなす池泉鑑賞式の庭園である。百済寺や金剛輪寺の庭園を見た後では、狭苦しい感じがする庭園だが、狭いながらも池には折り鶴の島と亀の島があり、薬師三尊を模した立石や、十二神将を表す石組みが置かれている。
見学を終えて・・・・湖東三山の見学を終えて西明寺を後にしたのが午後4時半。K君が運転する車は史跡探訪の出発点にした八日市ICに向かって国道307号線をひた走った。初夏の陽気をもたらした太陽がようやく西に傾き、田園を渡る風が車窓から吹き込んで来て肌に身持ちが良い。 「ちょっと強行軍すぎたのでは・・・」とK君が言った。4つの寺を車で参拝したにしては、確かに時間もかかった。疲労感も残っている。それぞれの寺院ではゆっくりと新緑の中を散策したし、それぞれの庭園でも十分に時間を取った。それにもかかわらず、脚に疲労がたまって重い。 何故なのだろうと考えたとき、登り勾配の長い参道を歩かされたのが原因だった気がした。見方を変えれば、山門から何百メーターも参道を歩かなければ、本堂に到達できないほど最盛時の寺院は巨大だったということだ、参道を歩きながら感じた奥行きの深さは、そのまま古代寺院の勢力の凄さだったのだ。 滋賀県は「1%の県」だそうだ。県の面積が全国のほぼ1%なら、人口も全国のほぼ1%に相当するという。だが、国宝を含む重要文化財は、平成11年度で790件。全国比で見ると6.54%と高く、東京都、京都府、奈良県に次いで第4位である。国指定の史跡・名勝・天然記念物も全国の2.44%を占めるという。「1%の県」などと言ったら滋賀県民に失礼であろう。 滋賀県の文化の基層のすごいところは、比叡山延暦寺、円城寺、石山寺は例外として、文化財や史跡が特定の都市や地域に偏ることなく県内各地に満遍に分布していることだそうだ。どこの辺鄙な農村へ行っても、寺院の甍を見つけることができる。人口10万人あたりの仏教寺院の数は246.5寺院。もちろん全国第一位である。 筆者は以前から7世紀代はじめの遣隋使節や遣唐使節の大使に、なぜ近江出身の小野妹子や犬上御田鍬が任命されたのか不思議に思っていた。当時の大和朝廷があった飛鳥から見れば、近江は畿内に含まれず、文化が一段落ちる畿外にランクされていた。だが、当時の先進文化や文物は瀬戸内海経由だけでなく、若狭から琵琶湖を経て畿内に入った可能性は十分にある。近江はこうした文化・文物の中継点であり、半島や大陸の情報をいち早く知り得た地域である。いわば畿内よりも文化的には先進地帯であったと解することで、第一級の外交官を輩出した謎も解ける。 7世紀は仏教文化が全国的に普及した時期でもある。古墳時代から近江に盤踞し、半島との交易の仲介で巨万の富を築いたはずの秦氏を筆頭とする渡来氏族は、時流に乗って、その富を一族の祖先を供養する仏教寺院の建立に心血を注いだであろう。湖東であれば、それが依知秦氏を筆頭とする渡来系氏族であったはずだ。こう考えてくると、滋賀県、わけても古代の近江は奥が深い。あるいは深すぎて筆者など歯が立たないのかもしれない。 |