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| 腰鼓(ようこ)を持って9番目に登場してきた虚空蔵菩薩 (1807/05/04 撮影) |
「万部おねり」とは・・・・
ついでに、大念佛寺で最も重要な「万部おねり」についても少し調べてみた。そもそもお練り(おねり)とは、祭礼の神輿や山車(だし)を神事の奉納や観衆への披露のために動かす様子を表した言葉である。御輿や山車を移動することを「市中を練り廻す」「参道を練り歩く」などと表現する。伝統芸能においても、襲名披露や公演の宣伝などで役者たちが一定の距離を関係者らと行列して歩くことを「お練り」と呼んでいる。 仏教儀式としての「練供養(ねりくよう)」は、浄土教信仰が浸透した平安時代後期から鎌倉時代頃にルーツがあるようだ。我が国で初めて極楽浄土の思想を説いて「往生要集」を著した恵心僧都・源信(げんしん、942 - 1017)は、阿弥陀如来を念じ生きながら接したいと願って、横川の華台院で阿弥陀仏迎接会を始めた。これが二十五菩薩練供養の始まりとされている。練供養は全国各地で行われているが、中将姫が極楽へ往生する様を再現した葛城市當麻寺の聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)は、寛弘2年(1005)に始められ、最も古い練供養とされている。
聖聚来迎会は、無量寿経の中の「その人、寿(いのち)が終わるときにあたって、私は極楽浄土から二十五菩薩を従えて、その人を迎えに来るであろう」という阿弥陀如来の願いを具体的に表現した儀式である。正平14年(1349)に中祖・法明上人が當麻寺の儀式を参考にして始めたとされている。その後中断していたが、元禄9年(1696)に大通上人がこれを復活した。 一方、阿弥陀経万部会は江戸時代の第49世・尭海(ぎょうかい)上人の頃、「阿弥陀経を一万部読誦(どくじゅ)することで極楽往生と檀信徒の祖先供養をすることを願って始められたという。 したがって、「万部おねり」は他の寺院で行われる練供養とはひと味違う。期間中は毎日午後1時から、詠讃歌舞(えいさんかぶ)、踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)、稚児行列などを先頭に開始され、その後、雅楽の音に先導されて二十五体の菩薩が練り歩く。最後に本尊の十一尊天徳阿弥陀如来の掛け軸と法要を行う僧侶集団が来迎橋を渡っていく。ここまでを入御(にゅうぎょ)という。 その後、極楽浄土を模した本堂内で、菩薩が手渡しで本尊に献華を供える荘厳な「菩薩伝供(ぼさつでんぐ)」が行われる。続いて、「阿弥陀経万部法要」が行われ、檀家や信徒、参詣者の先祖に対する追善回向がとり行われる。毎日一万部の読誦を行うという。最後に、菩薩が再び来迎橋を渡って極楽浄土の世界から娑婆世界の戻る還御(かんぎょ)のお練りがある。 もともと、阿弥陀経を一万部読誦することを主とする万部会という法要と、来迎会の儀式は別のものだった。元禄時代に大通上人が来迎会を復活した際には、来迎会のみだったそうだ。ところが明和年間(1764〜72)頃に万部法要が開始され、現在のようなかたちになったという。つまり、万部法要の中の一儀式として来迎会が取り入れらていることが、万度おねりの重要な特色である。 |
大念佛寺を初めて訪れるGW中でどこも出かける予定がなかったので、本日、「万部おねり」を見学することにした。橿原在住の友人T.Y君を誘うと、彼も手持ち無沙汰だったのか、一緒に行くという。練供養は午後1時10分から開始されるが、見学する場所取りが肝要だというので、正午に近鉄南大阪線で阿倍野橋に出て、JR大和路線で平野駅に向かった。大念佛寺は平野駅から徒歩5分ほどのところにある。
境内に一歩足を踏み入れて、所狭しと軒を並べた屋台の多さに先ず驚かされた。縁日などであちこちの神社仏閣で見かける風景であるが、神社仏閣の境内は”聖”なる場所であり、一般にはこうした屋台は参道に並んでいる。もっとも参道が短く両脇に空き地がないため、境内での営業を認めているのかもしれない。 次いで驚いたのは、巨大な本殿の建物である。昭和13年(1938)に再建された総欅(けやき)造りのこの建物は、屋根を銅版で葺いている。正面から建物を仰ぎ見ると、その大きさには圧倒されてしまう。そのはずである。大阪府下最大の木造建築であり、平成15年には国の重要文化財の指定を受けている。 その本堂の向かって左側面から正面左半分に、「万部おねり」のクライマックスとされる練供養のための来迎橋が築かれている。この寺に到着したとき、本堂のスピーカから布教のための説法が聞こえていた。本堂の中に入ると、多くの聴衆を前に、一人の僧侶がユーモアを交えながら説法を行っていた。
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午後1時過ぎから始まった来迎場面の再現本堂の周り縁に座って、練供養のうちの入御(にゅうぎょ)場面の開演(?))を待った。午後1時頃には、周り縁の上も来迎橋の下も、見物人でいっぱいになった。そして、定刻の1時10分に、マイクの声が二十五菩薩練供養の入御の開始を告げた。
といって、最初から二十五体の菩薩がぞろぞろ出てくる訳ではない。先ず詠讃歌舞(えいさんかぶ)の一団が、”ま〜んぶ〜おえしき〜さなえづき”(万部お会式 早苗月)と万部和讃を唱えながら来迎橋を渡って行く。続いて踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)が、そして稚児行列などが続く。その他にも様々な講の関係者が顔見せ興業のように来迎橋を通りすぎる。しかし、彼らはただ渡り歩くだけある。演技しながら過ぎていったのは、最初の詠讃歌舞と踊躍念仏だけにすぎない。
しかし、期待はいささか裏切られたと言わざるを得ない。筆者はこれでも浄土真宗の檀家の出である。幼い頃から床の間に掛けられた二十五菩薩来迎図などを見慣れている。そのイメージが強かったのか、阿弥陀如来が大勢の菩薩を引き連れて登場するものとばかり思っていた。しかし、現実は違っていた。 最初に登場したのは、「阿弥陀経万部法要」を執り行う法主とそれに続く楽役たちである。この後、本日のハイライトである二十五菩薩が次々と登場する段取りになっている。まず、前かがみの姿勢で紫蓮台を持った観世音菩薩が登場し、足早に通り過ぎていった。続いて、勢至菩薩をはじめ様々な菩薩がそれぞれの持ち物を持って登場してきた。それぞれの菩薩の衣装と持ち物を、以下の写真と表で紹介することにしよう。
だが、「お練り」という言葉から受ける印象とはほど遠く、彼らは普通の早さで来迎橋を歩いていく。しかもかなりの間隔を開けて登場し歩き去って行く。ファッションショウでも何らかの仕草をしながら、観客の目を意識してゆっくりと歩いてくれる。だが、二十五体の菩薩は、この後本堂で執り行われる「菩薩伝供(ぼさつでんぐ)」に遅れまいとして、足早に通りすぎて行っただけである。 二十五菩薩が通り過ぎた後、融通念仏宗特有の画像本尊である十一尊天得如来の掛け軸を胸に抱いた僧侶が登場し、最後に万部法要で読誦を行う僧侶たちが続いた。
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本堂で執り行われた菩薩伝供
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| 菩薩伝供が行われる直前の本堂内部 |
娑婆世界から極楽浄土に二十五菩薩が出現する様子を再現する「入御」の儀式の後、舞台を本堂内に移して、「菩薩伝供」と「阿弥陀経万部法要」のおつとめがある、というので本堂の中に入った。本堂内部は極楽浄土である。浄土宗の各派は本堂を出来うるかぎり荘厳に飾り立てるのが好きなようだ。内陣の仏壇はもちろん、その周囲の円柱や天井からぶら下がる幡まで金泥を塗りたくって、目にまばゆいばかりの世界を演出している。
その中で、献華を菩薩から菩薩へリレー式に手渡して仏壇の前に並べる菩薩伝供という儀式が、大勢の僧侶の読経の声が鳴り響く中で行われた。その後、信者や参拝者の先祖を追善回向するため阿弥陀経を一万部読誦する「阿弥陀経万部法要」が行われる。残念ながら、時間の制約がり、法要の途中で二人は本堂を辞した。
| 菩薩が献花する菩薩伝供の儀式 | 唱名が堂内に響き渡る阿弥陀経万部法要 |
式次第では、阿弥陀経万部法要の後、午後3時から二十五菩薩が極楽浄土の世界から娑婆世界に還る「還御」の儀式が行われる、とある。「入御」とは逆に、来迎橋を渡って戻っていく様を再現した行事のようだ。
帰り道、この仏教儀式の流れを振り返ってみて、冒頭に記した友人の話に疑問を持った。友人ならずとも、筆者も、来迎会式というものは人が臨終の際にあるとき、西方極楽浄土から阿弥陀如来が二十五菩薩を引き連れて娑婆世界に来迎し、死者の魂を極楽浄土へ導いてくれる様子を再現したものと思っていた。だが、大念佛寺の練供養では、方向性が逆になっているようだ。「万部おねり」に栞で確認しても、「入御」の段階では”菩薩たちが娑婆(しゃば)世界から極楽浄土に出現する”と表し、「還御」では逆に”菩薩たちが極楽浄土から娑婆世界に還っていく”となっている。
おそらく「万部おねり」の主体は、本堂内すなわち極楽浄土で行われる追善回向の阿弥陀経万部法要であるはずだ。この儀式に二十五菩薩の練供養を抱き合わせたため、本来の練供養とは方向性が逆転してしまったのではあるまいか。極楽浄土で行われる回向に菩薩が極楽から出現するのはおかしい。やはり娑婆世界からはせ参ずるようにしないことには、話にならない。
ちなみに、5月14日に行われる當麻寺の聖衆来迎練供養会式では、入御の際は25菩薩が極楽堂を模した曼荼羅堂(本堂から)から娑婆堂へ渡られ、還御の際は娑婆堂から曼荼羅堂へ還られる(5月14日付けフォトアルバム参照)。