橿原日記 平成19年4月29日

五年ぶりに談山神社の蹴鞠祭を見学する

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権殿石段下の総社拝殿前斎庭で行われた春の蹴鞠祭 (2007/04/29撮影)

法興寺の蹴鞠会(けまりえ)に因んだ、平安朝絵巻を見るような優雅な祭

年巡ってくるGW(ゴールデンウイーク)は、筆者にとって特に楽しいものではない。民族の大移動のように人も車も動くこの期間、遠出するのも億劫である。自宅にいれば、打ちっ放しの”鳥かご”に出かけ、ゴルフ仲間と半日を過ごすことぐらいが唯一の楽しみだ。だが、今年は橿原のアパートに居続ける羽目になった。GW明けに大学時代の同窓会が高野山で予定されているためだ。

秋の蹴鞠祭
秋の蹴鞠祭(談山神社のポスターより)
て、何をして時間を潰そうかと考えたとき、近鉄が駅に張り出している観光ポスターで、4月29日に談山神社で春の蹴鞠(けまり)祭が行われるのを知った。初めて談山神社を訪れ蹴鞠祭を見学したのは、平成14年の春である。もう5年も前のことだ(平成14年4月29日橿原日記参照)。

空の下で、鳥棺子(えぼし)をかぶり、鞠水干(まりすいかん)と鞠袴(まりばかま)の華麗な衣装をまとい、権殿石段下の斎庭を鞠庭に見立てて奉納される蹴鞠は、その艶やかさがいつまでも印象に残っている。京都の蹴鞠保存会の会員が本殿前で執り行う祭典で、以前は秋にだけ催されたが、数年まえから春にも行われるようになった。

日、朝から雲一つない晴天に見舞われた。部屋の中に閉じこもって読書三昧で時間を費やすには、惜しい天気である。インターネットで検索すると、蹴鞠祭は午前11時から行われるとのことだ。近鉄電車で「桜井」駅まで行き、そこから談山神社行きのバスを利用すれば、1時間ほどで到着することができる。愛用のリュックにコンビニで買った弁当を詰め込んで出かけてくることにした。



"蹴鞠祭"はスポーツや遊技にあらず、祭事なり

蹴鞠”は古式に則った遊技あるいはスポーツと思われがちだが、決してそうではない。談山神社においては、蹴鞠祭は主な祭典の一つであり、年中行事として春は4月29日、秋は11月3日に奉納される儀式である。烏帽子(えぼし)に水干(すいかん)の鞠装束を着けた8人の競技者によって奉納されるこの雅な儀式は、昭和2年に始まったと聞いている。途中の中断を挟んで、昭和33年から、現在の場所で行うようになった。

鞠の儀式が行われる鞠庭は広さがおよそ14平米程度で、斎場の中央の四隅に松・桜・柳・楓の木を立ててを鞠庭を作っている。その鞠庭で、今年は蹴鞠の儀式が始まる前に、イラン女性が琴に似た多弦の古代楽器を、木琴のマレットのような棒で叩いて演奏しイランの音楽を奉納した。午前11時の定刻になると、鞠装束をまとった「蹴鞠保存会」(京都市)のメンバーが、神主に導かれて鞠庭に入ってきた。

蹴鞠をはさんだ楓の枝 蹴鞠競技の開始
蹴鞠をはさんだ楓の枝 蹴鞠競技の開始

式は、まず特設の祭壇の前で祓いが行われ、続いて祝詞が読み上げられた。その後、競技者のチーフと思われる人物が、鹿皮でつくった白い鞠をはさんだ楓の枝を祭壇から外し、恭しく鞠庭の中央に運んで置いた。古式に則った作法で儀式が執り行なわれ、その後、競技者によって鞠の試し蹴りが行われた。こうして、蹴鞠が開始された。

の競技で使われる鞠は、円形に切り取った鹿の皮2枚を裏返しにして、独特の半なめしの状態にし、互に縫い合せたものである。球形に張りふくらませて形を整え、表面に膠を塗り、その上に鉛白で化粧してある。直径は17〜18cm、重さは約150g。手作りのため形の大小や軽重は避けられない。

時には鞠が観覧席へ うまく鞠が蹴れたヨ
時には鞠が観覧席へ うまく鞠が蹴れたヨ

鞠は約1400年前に中国から伝えられた競技で、6人とか8人とかの偶数のメンバーで行なう。足で鞠を蹴るという点では、現代のサッカーに似ているが、蹴り方に独特の制約があるようだ。まず、蹴る場所は右足の甲だけに限定されている。膝を曲げて蹴ってはいけない。足の高さも足裏の見えない程度にあげ靴の裏を見せてはいけない。

鞠は技のうまさや得点を争う競技ではなく、参加者が足で鞠を蹴って楽しむ遊技である。蹴り易い鞠を相手に与えるのが蹴鞠の道とされている。競技者は神の名にちなんだ「アリ」「ヤア」「オウ」の掛け声をしながら鞠を蹴る。だが、柔らかい鞠では、ラリーを長く続けることは難しい。鞠は時には予想もしない場所に飛んでいく。普通は10分から15分で一回の競技を終える。競技の始めや終り、途中の動作にも作法がある。見ている人々の見苦しく感じられない作法が定められているようだ。

珍しくラリーが続く 競技の終わりは作法通りに大地に感謝
珍しくラリーが続く 競技の終わりは作法通りに大地に感謝



法興寺の蹴鞠会で初めて相まみえた中大兄皇子と中臣鎌足

談山神社本殿の裏山にある御相談所 御破裂山の山頂に築かれた中臣鎌足の墓
談山神社本殿の裏山にある御相談所
(鎌足と中大兄が密談を交わした談所の森)
御破裂山の山頂に築かれた中臣鎌足の墓


鞠祭は、「大化改新」の発端となった故事に因んで行われる祭事である。後に「乙巳(いっし)の変」と呼ばれるクーデターの中心人物である中臣鎌足(なかとみのかまたり)と中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が最初に接触したのは、蹴鞠が取り持つ縁だった。その故事を『日本書紀』は次のように記述している。

神廟拝所に安置された鎌足神像
神廟拝所に安置された鎌足公神像
「多武峰縁起絵巻」が描く談所の森での密談場面
「多武峰縁起絵巻」が描く談所の森での密談場面
我本宗家を打倒するクーデターを計画していた鎌足は、中大兄を盟主にすることを心に決め、密かに皇子と接触する機会を狙っていた。その機会が皇極天皇3年(645)の春に訪れた。法興寺(飛鳥寺)の槻(つき)の木の下で行われた蹴鞠の催しで、鞠を蹴った中大兄の皮鞋(くつ)が、蹴られた鞠と一緒に抜け落ちた。これを見ていた鎌足は皮鞋を拾って、両手に捧げ進むと、跪いて恭しく中大兄にたてまつった。中大兄もこれに対して、跪いてうやうやしく受けとられた。このことが契機となって、二人は親しく会い、一緒に心中を隠すことなく語り合ってクーデターを計画したという。

人は、唐から帰国した南淵請安(みなみぶちのしょうあん)に儒学を学ぶことを口実に、請安の私塾への往復の路上で肩を並べながら計画を練ったとされている。だが、今日の談山神社本殿の裏山であり、談山(かたらいやま)、談所の森(だんしょのもり)とも呼ばれている場所で密談を交わしたとする記述は、『日本書紀』にはない。どうやら、そうした逸話は江戸時代に住吉如慶と住吉具慶の合筆で描かれたとされる「多武峰縁起絵巻」によるようだ。

「多武峰縁起絵巻」が描く蘇我入鹿誅殺の場面
「多武峰縁起絵巻」が描く蘇我入鹿誅殺の場面
極3年の6月12日(旧暦)、飛鳥板蓋宮の大極殿で三韓(高句麗・百済・新羅)の貢ぎ物を献上する儀式が行われた。鎌足たちはこの日をクーデター決行の日と決めた。同志の蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)が三韓の上表文を読み上げる最中に、仲間が蘇我入鹿に斬りかかり、これを倒した。折から、明日香地方は猛烈な夕立に見舞われた。筵(むしろ)で覆われた入鹿の屍は、庭の片隅で雨に打たれていたという。翌日、法興寺に立てこもったクーデター側の軍勢を見て、蘇我蝦夷は邸宅に火を放って自刃した。

鎌足の正妻・鏡王女
鎌足の正妻・鏡王女
巳(いっし)の変に続く「大化改新」政治では、中臣鎌足は内臣として、常に中大兄皇子を支えた。鎌足の正妻の鏡王女(かがみのおおきみ、? - 683)は中大兄皇子の妃だった女性である。鎌足との紐帯を一層強めるため、中大兄から譲られたとされている。

の鏡王女を祀る神社が談山神社の境内にある。談山神社の大きな石の鳥居をくぐり、長い石段の参道を登ってくると、右手に「恋神社」という社がある。鏡王女とその子供の定慧(じょうえ)・不比等(ふひと)の3人を合祀する摂社で、若宮ともいう。元和5年(1619)造営の談山神社本殿を、寛文8年(1668)に移築したもので、重要文化財の指定を受けている。鏡王女はなぜか縁結びの神として信仰が篤い。

談山神社の摂社・恋神社a
談山神社の摂社・恋神社
足は天智8年(669)に死去する。そのとき、唐に留学していた長男の定慧の夢枕に父が立ち、「自分を大和の多武峯に奉ったなら、一族を守護する」と告げたという。定慧は帰国後、摂津の阿威山(あいやま、現在の大阪府茨木市)の墓から遺骸の一部を多武峯に移し、十三重塔を建立し、御破裂山(ごはれつやま)に墓を築いたとされている。



2007/05/01作成 by pancho_de_ohsei return