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| すっかり準備が整った六時堂前の石舞台 (2007/04/22 撮影) |
雅楽は古代アジア大陸から伝来した器楽と舞が日本化した「生ける正倉院」
これらのキーワードの意味を教えてくれたのは、四天王寺で配布している「天王寺舞楽」のしおりだった。その中に「舞楽豆知識」というコラムがあり、次のような説明があった。 ”舞楽は、日本古来の歌舞と平安時代初期までにアジアの諸国から伝来した音楽を統合した舞曲。平安時代中期に、渡来の系統によって、左方、右方に整理された。左方は中国・中央アジア・インドなどから伝わったもので、唐楽(とうがく)。右方は朝鮮・満州から渡来したもので高麗楽(こまがく)とした。唐楽の舞は左舞と呼び赤系統の装束、高麗楽は右舞で緑系統の装束を着ける。また、舞には優雅な所作で舞う平舞(ひらまい、文(ぶん)の舞とも)、武具を持って舞う武(ぶ)の舞、活発で一人で舞う走舞(はしりまい)、子供が舞う童舞(わらびまい)などがある。”
次いで、舞楽では左舞と右舞が一曲ずつ行われることが多く、その順番では最初に左舞が行われるそうだ。左舞と右舞かは、次のことを知っていれば素人でも判別できる。 ところで、一方で「舞楽」(ぶがく)といい、一方で「雅楽」(ががく)という。その違いは何なのか。気になって少し調べて見た。雅楽では、楽器のみによる合奏である「管絃」に対して、「舞」を伴うものを「舞楽」と呼んでいる。つまり、舞踏と音楽で構成されたものを舞楽と定義している。そして、舞を舞う者を「舞人(まいびと)」、演奏する者を「管方(かんかた)と呼んでいる。 だが、雅楽そのものの定義は少し分かりにくい。「雅」は「正」の意味で、古代中国では、春秋戦国の昔から「俗楽」に対して正統の音楽を「雅楽」と呼んでいたようだ。春秋時代に、伝説上の聖王とされた舜(しゅん)が制定した「韶」(しょう)のような古楽を理想とする概念が生まれ、そうした正統派の楽舞を雅楽と呼んだようだ。しかし、「韶」が具体的にどのような音楽だったかは分かっていない。「雅楽」と称される楽舞は、中国のそれぞれの王朝で制定され、尊ばれて長く継承された。それのみならず、雅楽の概念は朝鮮半島や東南アジア、日本列島など東アジアの各地に広まったとされている。
日本列島各地で伝承されてきた歌舞は「国風歌舞」(くにぶりのうたまい)の名で呼ばれている。奈良県の吉野地域の先住土着民だった国栖(くず)が、応神天皇の吉野行幸の際に酒を献じて奏でた「国栖奏(くずそう)」や、大和王権に従属した久米部の伝承歌舞を起源とする「久米舞」(くめまい)など、いくつかの国風歌舞の名が知られている。 国風歌舞の他に、神事芸能に古い起源を持つとされる「神楽」(かぐら)や、東国地方の風俗舞踊を起源とし平安中後期に盛行した「東遊」(あずまあそび)も、日本古来の歌舞とされている。
●允恭天皇42年(453)正月、天皇崩御の知らせを聞いて、三国時代の新羅の国王が種々の楽人80人を派遣し、殯の宮に参列させた。 ●欽明天皇15年(554)2月、百済から施徳三斤(せとく・さんこん)・季徳己麻次(きとく・こまし)・季徳進奴(しんぬ)・対徳進陀(たいとく・しんだ)の4人の楽人が、五経博士、僧、易博士、暦博士、医博士、採薬博士らと共に、交替のために来朝した。 ●推古天皇20年(612)、この年百済の味摩之(みまし)が「伎楽の舞」を伝えた(伎楽は滑稽な身振りなどを伴う無言の仮面音楽劇で、古代ギリシャ、西域、チベット、中国などに起源を持つ仮面劇である。伝来以来、川原寺や橘寺などの大寺で寺院芸能として盛んに演じられたという) ●天武天皇12年(683)正月、飛鳥浄御原の宮庭で、古来の楽舞の系統をひく小墾田(おはりだ)舞とならんで、高句麗・百済・新羅の三国楽が演奏された。 ●中国大陸で唐が成立すると、我が国から派遣された遣唐使によって、高度に体系化された唐楽がもたらされた。『続日本紀』は藤原京時代の大宝2年(702)、唐楽の「五常楽」と「太平楽」を奏したと伝えている。 ●8世紀のはじめに制定された「大宝令」やそれに続く「養老令」では、治部省のもとに「雅楽寮」(うたまいのつかさ)が置かれ、舞人と管方を合わせて500人を超える職員がいた。 こうして、5世紀から9世紀にかけて朝鮮三国や唐などから伝来した種々の楽舞は、平安時代初期に隆盛を極め、日本人の手によって改作や新作が盛んに行われた。そして、大陸系の楽舞に対する深い理解を背景に、中国系の楽舞を左方、朝鮮半島系の楽舞を右方とする両部制が成立し、音楽に関しても左方を唐楽(とうがく)、右方を高麗楽(こまがく)と呼ぶようになった。
平安中期には、雅楽は宮廷芸能として大成し、四季折々に宮廷年中行事で演奏されるようになった。それは、我が国古来からの上代歌舞、外来の管弦・舞楽、および日本の宮廷貴族による催馬楽(さいばら)・朗詠(ろうえい)など集合である。東大寺の正倉院はシルクロードによって運ばれた貴重な宝物でしられるが、雅楽も8世紀以前の古代アジアのの音楽と舞踊を今に伝えている。その意味では、上田正昭教授がいみじくも命名されたように、歌舞音曲の「生ける正倉院」と言い換えてよい。 10世紀になると、雅楽は内裏に設置された楽所(がくそ)によって様々な折に奏楽されるようになった。ついで、神事や法要を必要とした南都(なら)や天王寺でも楽所が成立し、世襲化が進んだ。近代以前においては、最古の様式を伝える四天王寺の天王寺楽所(大阪)、宮中の大内楽所(京都)、春日大社の南都楽所(奈良)が、三方楽所(さんぽうがくそ)とされた。 しかし、応仁の乱を端緒とする室町戦国時代の動乱で、京都の楽人は四散してしまい、宮廷雅楽は南都や天王寺の楽人らによって細々と行われる程度に衰退した。安土桃山時代になると、南都や天王寺の楽人の一部に京都移住が命じられ、四散していた京都の楽人も次第に京都へ帰還するようになった。江戸時代、徳川幕府は雅楽を保護し、雅楽は第二の盛期と呼ばれる時代を迎えた。現在の雅楽の型は、徳川260年の太平の時代に深められ洗練されたとされている。 明治になって、皇居が京都から東京に遷されると、東京での奏楽に従事するために、太政官の中に新たに雅楽局が設けられ、京都・奈良・天王寺の楽所に所属していた楽人が一同に集められ、現在の宮内庁の楽部の基礎となった。しかし、各楽所の伝統は、それぞれの地で受け継がれて続いている。天王寺楽所の伝統を引き継いだ「雅亮会」(がりょうかい)は、重要無形民俗文化財の指定を受けている天王寺舞楽の伝承団体である。四天王寺では、「雅亮会」の協力によって、一千数百年の歴史を誇る舞楽法要が行われている。 |