橿原日記 平成19年4月22日

雨に降られた四天王寺の精霊会舞楽大法要(しょうりょうえぶがくだいほうよう)

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すっかり準備が整った六時堂前の石舞台 (2007/04/22 撮影)

精霊会舞楽大法要は、四天王寺で最も重要な法要の一つ

四天王寺
塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ四天王寺
石舞台
飾り付けが終わった日本三大舞台の一つ石舞台
日の4月22日は、大阪四天王寺で精霊会舞楽大法要が執り行われる日である。

天王寺の開祖とされる聖徳太子は、推古天皇29年(西暦622年)春2月5日に亡くなった、と『日本書紀』は記す。だが、天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)や法隆寺金堂の釈迦像、法起寺塔婆露盤などに刻まれた銘は、いずれも太子の薨日を2月22日と伝えている。

こで、四天王寺は新暦の4月22日を太子の命日とさだめ、毎年この日に太子の霊を慰めるために、法要と舞楽が一体となった舞楽大法要を開催している。舞楽法要は、平安時代以降、宮廷(京都)、南都(奈良)と同じく四天王寺の雅楽の伝承を受け継ぎ守ってきた「天王寺楽所雅亮会(がりょうかい)」の協力によって行われる。

えてみると、聖徳太子の治世に関心を抱きながら、この精霊会舞楽大法要を見たことがない。この日、六時堂には聖徳太子摂政像と金堂の仏舎利、精霊院の太子像が祀られ、曼珠沙華をイメージした赤い仏花を四隅に飾った石舞台では、四箇法要(しかほうよう)と古式ゆたかな舞楽が交互に行われる、と聞いて出かけてきた。

石舞台の下の亀池
石舞台の下で亀が甲羅を干している亀池
が、本日の大阪地方の天気は曇りのち雨、昼前から雨になると、せっかくの行事に水を差すような予報が出されていた。予報が外れて、曇り空でも一日持ってくれればよい、と祈るような気持ちで近鉄阿倍野行きの電車に乗った。午後12時30分頃、舞楽法要に出仕する僧侶・楽人の行列が本坊より石舞台・六時堂へ向けて出発し、舞楽法要は午後1時から始まるとのことだった。

念ながら天気予報は的中した。12時少し前から小さnな雨粒が落ち始めた。大した降りではないが、石舞台の下の亀池の水面に無数の水の輪が描かれ始めた。亀池は以前は一面を蓮の葉が覆っていたため蓮池とよばれていた。しかし、何時の頃か亀が放生され亀池と呼ばれるようになった。池の周りに集まってきた見物人も、色とりどりの傘を広げ始めた。主催者側としては、衆僧による法要や舞人による舞楽を石舞台で行うかどうかの決断に苦慮したに違いない。

楽舎に向かう楽人たち−1 楽舎に向かう楽人たち−2
楽舎に向かう楽人たち−1 楽舎に向かう楽人たち−2

後12時半、舞楽法要に出仕する僧侶や楽人が本坊より石舞台・六時堂へ向けて本坊から出て、所定の位置に着く”道行”が始まった。いずれも雨傘をさしての出仕である。この頃には雨脚が強くなっていた。そのため、石舞台上での法要と舞楽は取りやめ、場所を六時堂の中に移して行なうことが決定していた

吉大社の石舞台、厳島神社の板舞台と並んで日本三舞台の一つとされる石舞台で披露される聖霊会の舞楽は、三方楽所天王寺方の伝統を受け継ぐものであり、重要無形民俗文化財である。集まってきた見学者は、石舞台上での古式ゆかしい舞を期待していただけに、残念そうだった。六時堂の中の様子は亀池の周囲からは、ほとんど見えない。

楽人たち 六時堂
楽舎に並んだ楽人たち 儀式が執り行われた六時堂

時堂とは不思議な名前のお堂だが、ここで昼夜6回 にわたってさまざまな礼讃が行われることから六時礼讃堂の名がつき、それを略して六時堂と呼んでいる。薬師如来や四天王などを祀っており、回向(供養)、 納骨等などを行なう四天王寺の中心道場である。午後1時、衆僧が六時堂に入堂し、楽舎の幕が上がって、精霊会は始まった。

ず管弦だけの演奏があり、次いで振鉾(えんぶ)と呼ばれる最初の舞楽が舞われる。天地の神と祖先の霊に祈りを捧げ、舞台を清めるという宗教的な意味を持つ舞楽だそうだ。左右の舞人が一人ずつ出て、鉾を上下に打ち振り我なら、口に「天長地久、政和世理、国家太平、雅音成就」と鎮歌を唱えて舞う。残念ながら、六時堂の暗い堂内で繰り広げられる舞は、見学者には見えない。

晴れていれば見学できたはずの「獅子」
晴れていれば見学できたはずの「獅子」
いて、四天王寺の精霊会舞楽大法要では欠かすことができない「蘇利古」(そりこ)が、舞台で舞われる。太子の目覚めを供養する供養舞である。この舞が舞われている間に、堂内では太子の御影を安置す宮殿の帳(とばり)を上げる儀式と、御水を捧げる秘技が行われる。

付で渡された精霊会目録によれば、その後に桃里花(とうりか)、菩薩(ぼさつ)、獅子(しし)、迦陵頻(がりょうびん)、胡蝶(こちょう)、綾切(あやぎり)、太平楽(たいへいらく)と供養舞が続く。最後は、入調(にゅうちょう)の後に納蘇利(なそり)が演じられるようになっている。しかし、石舞台上ではなく六時堂の堂内で演じられる舞楽は、見学できなければ何の楽しみにもならない。来年のこの日が晴天であることを期待して、早々を亀池を後にした。



雅楽は古代アジア大陸から伝来した器楽と舞が日本化した「生ける正倉院」

「天王寺舞楽」のしおり
「天王寺舞楽」のしおり
もそも雅楽(ががく)とは何なのか? 昨年の8月、四天王寺の講堂の前で演じられた「篝の舞楽」を、友人の紹介で初めて鑑賞したとき、まずそうした初歩的な疑問を持った。我が国の古典芸能をじっくり味わうこともなく過ごしてきた筆者にとって、「左方(さほう)とか右方(うほう)、あるいは左舞(さまい)、右舞(うまい)といったキーワードすら初耳だった。

れらのキーワードの意味を教えてくれたのは、四天王寺で配布している「天王寺舞楽」のしおりだった。その中に「舞楽豆知識」というコラムがあり、次のような説明があった。

舞楽は、日本古来の歌舞と平安時代初期までにアジアの諸国から伝来した音楽を統合した舞曲。平安時代中期に、渡来の系統によって、左方、右方に整理された。左方は中国・中央アジア・インドなどから伝わったもので、唐楽(とうがく)。右方は朝鮮・満州から渡来したもので高麗楽(こまがく)とした。唐楽の舞は左舞と呼び赤系統の装束、高麗楽は右舞で緑系統の装束を着ける。また、舞には優雅な所作で舞う平舞(ひらまい、文(ぶん)の舞とも)、武具を持って舞う武(ぶ)の舞、活発で一人で舞う走舞(はしりまい)、子供が舞う童舞(わらびまい)などがある。”

別冊太陽「雅楽」
別冊太陽「雅楽」
らに、別冊太陽「雅楽」で、清水淑子女史から雅楽鑑賞のイロハを教わった。まず、一般的な雅楽の公演は二部構成になっていて、第一部では管弦が、第二部では舞楽が行われるようだ。管弦では、最初に音取(正式には「調子」という曲)で、使用する楽器が一つずつ演奏される。楽器紹介のようなもので、太鼓と鉦鼓(しょうこ)を除いた笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、横笛(よこぶえ)、鞨鼓(かっこ)、琵琶(びわ)、箏(そう)といった楽器が順番に演奏され、各楽器の音色を知ることができる。

いで、舞楽では左舞と右舞が一曲ずつ行われることが多く、その順番では最初に左舞が行われるそうだ。左舞と右舞かは、次のことを知っていれば素人でも判別できる。
●使用される楽器から、笙(しょう)が使用されていれば左舞、使用されていなければ右舞(ただし、例外として右舞の「抜頭」、「還城楽」、「陪臚」では笙が使われる)
●舞人(まいびと)が舞台正面から向かって左側から出てくれば左舞、右から出てくれば右舞
●舞人が段を登り朱の高欄で囲まれた敷舞台に踏み込むとき、左足からならば左舞、右足からならば右舞
●襲(かさね)装束の色が赤系ならば左舞、緑系ならば右舞(ただし、蛮絵装束では、左は茶色、右は淡い紺色。また、抜頭」、「還城楽」、「陪臚」では右舞でも左舞でも同じ赤系の装束を用いる)


ころで、一方で「舞楽」(ぶがく)といい、一方で「雅楽」(ががく)という。その違いは何なのか。気になって少し調べて見た。雅楽では、楽器のみによる合奏である「管絃」に対して、「舞」を伴うものを「舞楽」と呼んでいる。つまり、舞踏と音楽で構成されたものを舞楽と定義している。そして、舞を舞う者を「舞人(まいびと)」、演奏する者を「管方(かんかた)と呼んでいる。

が、雅楽そのものの定義は少し分かりにくい。「雅」は「正」の意味で、古代中国では、春秋戦国の昔から「俗楽」に対して正統の音楽を「雅楽」と呼んでいたようだ。春秋時代に、伝説上の聖王とされた舜(しゅん)が制定した「韶」(しょう)のような古楽を理想とする概念が生まれ、そうした正統派の楽舞を雅楽と呼んだようだ。しかし、「韶」が具体的にどのような音楽だったかは分かっていない。「雅楽」と称される楽舞は、中国のそれぞれの王朝で制定され、尊ばれて長く継承された。それのみならず、雅楽の概念は朝鮮半島や東南アジア、日本列島など東アジアの各地に広まったとされている。

弾琴人物埴輪
弾琴人物埴輪
(埼玉県舟山古墳出土)
陸で生まれた楽舞が直接あるいは朝鮮半島経由で伝えられる以前、日本列島にも太古の昔から祭祀や饗宴、葬送の場で歌いかつ舞われた歌舞があった。その証左として、弥生時代の遺跡からは、和琴のルーツとされる琴の形をした楽器が出土しているし、埼玉県舟山古墳などから弾琴人物埴輪も見つかっている。

本列島各地で伝承されてきた歌舞は「国風歌舞」(くにぶりのうたまい)の名で呼ばれている。奈良県の吉野地域の先住土着民だった国栖(くず)が、応神天皇の吉野行幸の際に酒を献じて奏でた「国栖奏(くずそう)」や、大和王権に従属した久米部の伝承歌舞を起源とする「久米舞」(くめまい)など、いくつかの国風歌舞の名が知られている。

風歌舞の他に、神事芸能に古い起源を持つとされる「神楽」(かぐら)や、東国地方の風俗舞踊を起源とし平安中後期に盛行した「東遊」(あずまあそび)も、日本古来の歌舞とされている。

伎楽面の金剛
伎楽面の金剛
鮮半島からの雅楽の伝来は、『日本書紀』などの史書からも確認することができる。
●允恭天皇42年(453)正月、天皇崩御の知らせを聞いて、三国時代の新羅の国王が種々の楽人80人を派遣し、殯の宮に参列させた。
●欽明天皇15年(554)2月、百済から施徳三斤(せとく・さんこん)・季徳己麻次(きとく・こまし)・季徳進奴(しんぬ)・対徳進陀(たいとく・しんだ)の4人の楽人が、五経博士、僧、易博士、暦博士、医博士、採薬博士らと共に、交替のために来朝した。
●推古天皇20年(612)、この年百済の味摩之(みまし)が「伎楽の舞」を伝えた(伎楽は滑稽な身振りなどを伴う無言の仮面音楽劇で、古代ギリシャ、西域、チベット、中国などに起源を持つ仮面劇である。伝来以来、川原寺や橘寺などの大寺で寺院芸能として盛んに演じられたという)
●天武天皇12年(683)正月、飛鳥浄御原の宮庭で、古来の楽舞の系統をひく小墾田(おはりだ)舞とならんで、高句麗・百済・新羅の三国楽が演奏された。
●中国大陸で唐が成立すると、我が国から派遣された遣唐使によって、高度に体系化された唐楽がもたらされた。『続日本紀』は藤原京時代の大宝2年(702)、唐楽の「五常楽」と「太平楽」を奏したと伝えている。
●8世紀のはじめに制定された「大宝令」やそれに続く「養老令」では、治部省のもとに「雅楽寮」(うたまいのつかさ)が置かれ、舞人と管方を合わせて500人を超える職員がいた。

うして、5世紀から9世紀にかけて朝鮮三国や唐などから伝来した種々の楽舞は、平安時代初期に隆盛を極め、日本人の手によって改作や新作が盛んに行われた。そして、大陸系の楽舞に対する深い理解を背景に、中国系の楽舞を左方、朝鮮半島系の楽舞を右方とする両部制が成立し、音楽に関しても左方を唐楽(とうがく)、右方を高麗楽(こまがく)と呼ぶようになった。

住吉物語絵巻に描かれた管弦の遊び
鎌倉時代の住吉物語絵巻に描かれた管弦の遊び

安中期には、雅楽は宮廷芸能として大成し、四季折々に宮廷年中行事で演奏されるようになった。それは、我が国古来からの上代歌舞、外来の管弦・舞楽、および日本の宮廷貴族による催馬楽(さいばら)・朗詠(ろうえい)など集合である。東大寺の正倉院はシルクロードによって運ばれた貴重な宝物でしられるが、雅楽も8世紀以前の古代アジアのの音楽と舞踊を今に伝えている。その意味では、上田正昭教授がいみじくも命名されたように、歌舞音曲の「生ける正倉院」と言い換えてよい。

0世紀になると、雅楽は内裏に設置された楽所(がくそ)によって様々な折に奏楽されるようになった。ついで、神事や法要を必要とした南都(なら)や天王寺でも楽所が成立し、世襲化が進んだ。近代以前においては、最古の様式を伝える四天王寺の天王寺楽所(大阪)、宮中の大内楽所(京都)、春日大社の南都楽所(奈良)が、三方楽所(さんぽうがくそ)とされた。

かし、応仁の乱を端緒とする室町戦国時代の動乱で、京都の楽人は四散してしまい、宮廷雅楽は南都や天王寺の楽人らによって細々と行われる程度に衰退した。安土桃山時代になると、南都や天王寺の楽人の一部に京都移住が命じられ、四散していた京都の楽人も次第に京都へ帰還するようになった。江戸時代、徳川幕府は雅楽を保護し、雅楽は第二の盛期と呼ばれる時代を迎えた。現在の雅楽の型は、徳川260年の太平の時代に深められ洗練されたとされている。

治になって、皇居が京都から東京に遷されると、東京での奏楽に従事するために、太政官の中に新たに雅楽局が設けられ、京都・奈良・天王寺の楽所に所属していた楽人が一同に集められ、現在の宮内庁の楽部の基礎となった。しかし、各楽所の伝統は、それぞれの地で受け継がれて続いている。天王寺楽所の伝統を引き継いだ「雅亮会」(がりょうかい)は、重要無形民俗文化財の指定を受けている天王寺舞楽の伝承団体である。四天王寺では、「雅亮会」の協力によって、一千数百年の歴史を誇る舞楽法要が行われている。


(参考文献・引用文献)
天王寺舞楽協会作成『天王寺舞楽』、平凡社発行『別冊太陽 雅楽』(2004年8月30日刊)


2007/04/23作成 by pancho_de_ohsei
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