橿原日記 平成19年4月11日

再び天野(あまの)の里を訪れ、伝説の宝庫を巡る


天野の里<
県道109号線(志賀三谷線)を下ってきて最初に目にする天野の里 (2007/04/11 撮影)


人のK君の運転する車で丹生都比売(にうつひめ)神社が鎮座する天野の里を訪れたのは、先月の初めである(平成19年3月8日付け橿原日記参照)。そのK君から、もう一度天野の里に行こうとの誘いを受けた。前回は時間の都合で見て回ることができなかったが、天野の里にはまだまだ興味深い旧跡が幾つもあるという。

天野の里史跡マップ
の誘いに応じて、前回と全く同じルートで丹生都比売神社の駐車場へ向かった。白州正子が「かくれ里」の中で書いているように、世間から隔絶したような天野の里は、伝説の宝庫である。このかくれ里で生涯を終えた、ほとんど無名に近い歴史上の人物の墓が、村落の畑の中や周囲の山の杉林の中で、今にも崩れそうになりながら、なんとかその存在を保っている。

の柔らかい日差しの下でこれらの旧跡を巡るのは、ちょっと他の土地では味わえない至福の時と言えよう。白州正子はすばらしい隠れ里の存在を教えてくれた。彼女には感謝しなければならない。

【探訪ルート】
貧女お照の墓 →  一之沢(奥之沢)明神 →  脇の宿石厨子・光明真言板碑・大峰修験者の碑 →  西行妻娘の宝筺印塔と鬼王の墓 →  西行堂 →  横笛の恋塚 →  八幡神社 →  子の日権現誕生地 →  一の滝不動 →  柳沢明神  



天野の里に点在する旧跡

 貧女お照の墓 − 高野山奥の院の「貧者の一燈」を献じたお照の墓地

aaaaa
路傍に立てられたお照の墓方面への標識
生都比売(にゅうつひめ)神社の駐車場から県道109号線を少し峠の方に歩いて戻ると、天野の里の入口に近い路傍に、お照の墓への標識が立っている。その傍らには碑が建っていて、次の歌が二首刻まれている。
●この道を のぼりてゆかば わが山の 貧者の一燈 お照のみ墓 こりゆ
●待たるるも 待つこともなく 暮れ行きて 靄にうるめる 山のともし灯 千恵子

照の墓は標識から139mほど山に分け入ったところにある。だが、標識が示す方向の道は、湿り気を含んだ杉の枯れ葉が散乱する細い山道である。足元に注意しながら、山道を登っていくと、山腹から滑り落ちそうな場所に、その墓はあった。

野山奥の院の最奥部にある燈籠堂には、信者が寄進した数万基の燈籠が掲げられ、中央の簾越しに弘法大師の廟を望むことができる。その簾の正面左手前に、平安時代から消えることな火を灯す燈籠がある。「貧者の一燈」と呼ばれており、和泉国坪井(現在の大阪府岸和田市)の里に住んでいた農家の一人娘、お照が寄進したと伝えられている。

お照の墓(左)と浄意の行満碑(右) お照の実父母の墓
お照の墓(左)と浄意の行満碑(右) お照の実父母の墓

照は子宝に恵まれない夫婦が、子宝祈願で槇尾山に参った帰り道、辻堂の前で拾った捨て子である。夫婦は仏の授かりものと喜んで、その赤子を連れて帰り、お照と名付けて育てた。お照が16歳になったとき、両親が相次いで病死した。孝行娘のお照は、養父母の菩提を弔うため、冥土の道を照らすという燈籠を、高野山の奥の院に献じることを思い立った。貧乏な彼女は、髪を切って売り、その金で求めた一燈を献じたという。

の後、お照は天野の里の丹生都比売神社近くの山裾に小さな庵を建て、尼となって養父母の菩提を弔いながら生涯を終えた。生前のある日、庵の近くで行き倒れている老人を助けたところ、実父とわかり、親子の対面を実現したと伝えられている。

お照の墓のある山麓に咲く桜
お照の墓のある山麓を彩る桜
者の一燈には後日談がある。高野山の祈親上人が万燈会の法要を営んだとき、長者が見事な万燈の中に貧しい燈籠があるのを見つけ、それを取り払うように命じた。すると、一陣の風が吹き万燈の火は消されたが、お照が寄進した貧しい燈籠だけは明るく輝いていたという。

蔵を彫り込んだお照の墓の横に、半ば傾きかけた石碑が並んで建っている。浄意という僧が30年間一切の衆生のために行なってきた代受苦という行を終わった記念に建てたものである。さらに、お照の墓から10mほど登ると、2基の石碑がある。お照の実父母の墓と伝えられている。向かって右側の碑には夫婦の戒名が刻まれ、天和2年の年号が刻まれている。その横の碑には、妙春尼道春と刻まれていて、この二人を供養した碑であると考えられている。


 一之沢(奥之沢)明神 − 丹生明神が初めて天野の地を踏んだ所

稲作の水源の一つ奥の沢明神 ああああ
稲作の水源の一つ・一之沢(奥之沢)明神 一之沢神社旧蹟の碑と一之沢明神の祠

照の墓がある山の麓を、谷の奥へ続く村道が走っている。その脇の草地に桜の若木がピンクの花を付けていた。天野の里まで来て花見ができるのラッキーと、少し早いが桜の木の下でコンビニで買ってきた弁当で昼食をすませた。谷の奥を見やると、民家のそばに標識が立っているのが見える。「天野の里 史跡マップ」で確認すると、その先に一之沢明神の旧蹟がある。

之沢明神は、別名を奥之沢明神という。天野には、稲作の水源にあたる箇所が三カ所あり、そこに三沢明神と総称されている神が祀られている。その一つが一之沢明神である。『日本書紀』や『古事記』と同じ頃書かれたという丹生告門(にふのりと)によれば、この場所が丹生明神が狩場明神とともに初めて天野にやってきた所とされている。

そらく谷の奥に水源があるのだろう。杉木立を通して落ちてくるこぼれ日が濡れた地表を照らしており、散乱した杉葉が湿っぽい。ぬかるみに並べられた板を踏んで進むと、その先に「一沢神社旧蹟」と彫られた古い石碑が建ち、横に小さな祠ががあった。


 脇(しゅく)の宿石厨子・光明真言板碑・大峰修験者の碑

脇の宿石厨子・光明真言板碑・大峰修験者の碑
脇の宿石厨子・光明真言板碑・大峰修験者の碑

之沢神社旧蹟から丹生都比売神社の境内に戻ってくると、境内の左奥に多宝塔跡と御影堂跡があった。明治初めの廃仏毀釈以前の神仏習合の時代、丹生都比売神社の周囲には多くの寺院の堂宇が甍を並べていた。多宝塔跡と御影堂跡はその名残である。

大峰修験者の碑
大峰修験者の碑
光明真言板碑
光明真言板碑
脇の宿石厨子
脇の宿石厨子
の場所に建っていた二層の多宝塔は、一辺が2間3尺5寸(約4.65m)で周りに縁が付いていた。内部に胎蔵界大日如来を安置していた。10世紀の中頃、高野山が最初の荒廃を喫したとき、復興にあたった雅真僧都(がしんそうず)が建立した。御影堂と同じく、神社に向かって正面に建てられたという。

影堂は北条政子によって建暦元年(1211)に建立された。政子が熊野詣の帰りに丹生都比売神社に立ち寄り、神社の第三、第四の社殿の建立寄進を行った。その折、女人禁制で高野山に登れない女性のためと、夫の頼朝の菩提を弔うため、御影堂を建てたと言われている。

れらの堂宇跡の奥に三つの史跡が並んでいる。向かって右から大峰修験者の碑、光明真言板碑、脇の宿石厨子である。

い石柱が4基ならぶ大峰修験者の碑は、山伏が大峰山に入る際に建てた碑で、県の文化財に指定されている。もとは神社の輪橋を渡った所に建っていたが、明治の神仏分離令によって現在の所に移されたとのことだ。一番古い一号塔は正応6年(1293)に、二号塔は正安4年(1302)に、三号塔は文保3年(1319)に、そして四号塔は延元元年(1336)に、それぞれ建てられたものである。

明真言板碑は、正式には光明真言曼荼羅碑という。寛文2年(1662)に建立された板碑で、この頃から光明真言講が形成され、この形の碑が建てられるようになった。正面の円形部には中央下から時計の針が進む方向に、梵字で光明真言が刻まれ、背面には、多くの僧名が刻まれている。

の宿石厨子は、内部に葛城修験の本尊である「役の行者」の石像が安置されている。もともと脇(しゅく)の宿にあったため、脇の宿石厨子と呼ばれている。現在の場所に移されたのは明治になってからである。


 西行妻娘の宝筺印塔と鬼王の墓

西行妻娘の宝筺印塔・鬼王の墓の標識
西行妻娘の宝筺印塔・鬼王の墓の標識

生都比売神社から車で上天野の集落に入っていくと、すぐの所に2つの標識が立っている。丹生都比売神社が世界遺産に登録された御陰で、天野の里の旧蹟の表示は、すべて新しく作り替えられて分かりやすい。標識の根本に黄水仙が咲き、標識の矢印の通り丘を登ると、民家の前に菜の花畑が広がっていた。

西行妻娘の宝筺印塔 曾我兄弟の郎党鬼王・団三郎の墓
西行の妻と娘の供養のために建てられた宝筺印塔 曾我兄弟の郎党鬼王・団三郎の墓

の中の道を進むと、その先に杉木立の林がある。西行の妻と娘の供養のために建てられたという宝筺印塔は、その木立の中にあった。宝筺印塔は全部で4基あり、案内板の説明によると、向かって右の2基は応安5年(1372)に建てられ、左の2基は文安6年(1449)に建てられたとのことだ。当初は西行堂下の妻娘の墓に建てられていたが、ここに移したという。右の2基は和歌山県の文化財の指定を受けている。

西行妻娘の宝筺印塔の裏側に複数の五輪塔がある。曽我兄弟の郎党だった鬼王と団三郎を供養した碑とされている。曽我兄弟の兄・十郎祐成と弟・五郎時致の二人は、源頼朝の重臣・工藤祐経を親の敵と狙って16年間苦労し、建久4年(1193)5月、頼朝が行なった富士の裾野の巻狩りでようやく敵を討ち取った。

かし、兄十郎は討ち取られ、弟五郎も捕らえられて斬首に処せられた。曽我兄弟に仕えていた郎党の鬼王と団三郎は、主人の骨を高野山に納め、天野に下って菩提を弔っった。二人はこの地で天命を終わったと伝えられている。

西行妻娘の宝筺印塔の前にも、曽我兄弟の郎党の供養塔の前にも、新しい切り花が供えてあった。天野の里人の優しい心根を見た思いがした。


 西行堂 − 西行の妻と娘が庵を結んで生涯を終えた場所

西行堂
西行堂の標識と昭和61年に再建された堂

●ねがはくは 花のしたにて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃

れは、「山家集」の載っている平安末期の吟遊歌人・西行(1118 - 1190)の辞世の歌である。西行は生前にこの歌を詠み、そして希望通り桜の季節に73で入寂した。

西行は、俗名を佐藤義清(さとう のりきよ)という北面の武士だった。鳥羽院に仕えていたが、保延6年(1140)、突然北面を辞して出家し、仏道と和歌の世界に入った。23歳のときである。出家の動機は諸説ある。一説には、白河院の愛妾で鳥羽院の中宮でもあった待賢門院璋子への恋着のゆえであったと言われている。別の説では、親しい友の死を理由に北面を辞したとのことだ。

家してしばらくは、鞍馬などの京都北麓に隠棲していたが、天養初年(1144)ごろ陸奥の平泉へ歌枕を訪ねる旅に出た。久安4年(1148)に陸奥の旅から戻っると、高野山に居を移し、仏門修行に入った。以後30年、高野山を拠点に諸国を遍歴し、各地で数々の歌を詠んでいる。

正面から仰ぎみた西行堂 西行堂の下に建つ妻娘の墓
正面から仰ぎみた西行堂 西行堂の下に建つ妻娘の墓

野の集落の中程にある西行堂は、彼の妻と娘がともに出家して庵を結んで住んだ場所に建っている。「吾妻鏡」によれば、西行の妻が尼になってこの地に庵を結んだのは、西行が出家して2年後の康治元年(1142)だった。西行の娘も、15歳になった仁平2年(1152)に尼になり、天野の里で母とともに住んだ。

西行の妻と娘が亡くなくなると、その庵は朽ちはてたが、建長2年(1250)頃、西行とその妻娘の徳を偲んで里人が西行堂を建て、その霊を祀った。それが西行堂の始まりとされている。室町時代の応安5年(1372)に、比丘尼の覚念と立澄は西行堂の下にある妻娘の墓に宝筺印塔を建てたが、現在、これらの塔は上記の場所に移されている。

西行堂は明治までは残っていたが、昭和の頃には朽ち果て、この場所は妻娘の墓だけが眠る静かな丘になっていた。しかし、昭和61年(1986)、天野の住民の努力と高野山の協力で、再び庵が建てられた。それが現在の西行堂である。


 横笛の恋塚 − 悲恋の内に没した女官横笛を弔う塚

横笛の恋塚
民家の裏にひっそりと築かれた横笛の恋塚

西行堂から県道を少し南に下ったところで「横笛の恋塚」の標識を見つけた。この付近は天野の峰と呼ばれ、源平時代のかくれ人が庵を結んで住んだ所とされている。近くには上記の西行堂の他に、先月訪れた院の墓や有王丸の墓もある(平成19年3月8日付け橿原日記参照)。

笛の恋塚は標識から50mほどの距離にある。坂を登り、民家とその横の畑の間を進むと、民家の裏側に木立に囲まれた一角がある。そこが横笛の恋塚と伝えられている場所で、恋の思いを募らせながら若くして死んだ横笛を供養する石碑が幾つも苔むして積まれている。その横には最近建てられたのか新しい供養塔も建っている。

横笛の恋塚方面への標識 苔むして積み重なった供養の石碑
横笛の恋塚方面への標識 苔むして積み重なった供養の石碑

礼門院の雑仕だった横笛という女性と、彼女に恋をした斎藤時頼の物語は、「平家物語」でも語られている。平重盛の家臣時頼は横笛と恋仲になるが、父に反対されて結婚できず、19歳で出家し滝口入道と名乗った。横笛は自分を捨てて出家した時頼を恨めしく思い、彼が修行している嵯峨の往生院を訪ねたが、時頼は意は固くして会わなかった。

頼はともすれば自分の心が横笛に傾くことをおそれて、女人禁制の高野山に登り、多聞坊浄阿と称して仏道に専心した。一方、横笛も髪をおろし尼となったが、時頼を慕う気持ちが強く、高野山の近くに住めば恋しい人に会えることもあろうと、天野に庵を結んだ。しかし、会うことも叶わず、恋に身を焦がして19歳で亡くなってしまった。里人は彼女を哀れに思い、この地に彼女を葬り、横笛の恋塚と呼ぶことにしたという。

日談では、彼女は死後ウグイスに身を変え、時頼が修行している高野山大円院の梅の木に止まり、じっと時頼が気づくのを待った。何かを感じた時頼もウグイスを見つめた。そこで、ウグイスは時頼に向かって飛び立ったが、二〜三度羽ばたいただけで傍の井戸に落ちてしまったとのことだ。

笛の恋塚の前に置かれた案内板には、時頼と横笛のやりとりした歌が記されている。
横笛が尼となって奈良の法華寺に入ったことを知って、時頼が送った歌
●そるまでは 恨みしかども 梓弓 まことの道に 入るぞうれしき
横笛が返した歌
●そるとても 何か恨みん 梓弓 引きとどむべき 心ならねば


 八幡神社 田舎の社にしては驚くほど華麗な本殿を持つ神社

八幡神社
八幡神社の鳥居と拝殿

天野集落の中程に八幡神社がある。県道わきに大きな石の鳥居が建っているので車で通っても見過ごすことはない。社名から応神天皇を祭神として祀っている社とみたが、詳しいことを聞こうと思って拝殿横の空き地に車を止めた。車を降りると、拝殿に覆い被さるように聳えている椿の巨木が目に入った。その根元を見ると、落花した無数の赤い花が鮮やかな模様を作っていた。

見ただけでは、古びた村社との印象を受けたが、拝殿に立ってみて驚いた。一段高くなった山の斜面に、朱塗り彩色の一間社春日造(いっけんしゃかすがづくり)の本殿が、燦然と建っている。最近建て直したのか、屋根は銅板葺きで、朱塗りに彩色を施した柱が目にまぶしい。

本殿を正面から見る 横から見た本殿あ
本殿を正面から見る 横から見た本殿

殿から受ける印象は、丹生都比売神社の5つ並んだ本殿に似ていて、その類似性が気になった。しかし、確かめようにも、受付もなければ周囲に人影もない。後日調べることにして、その場を立ち去った。


【注】後日、かつらぎ町観光協会に八幡神社の由緒を電話で問い合わせた。応対してくれた職員は、親切にもいろいろ調べてくれたようだが、結論からいうと、詳しいことは分からなかった。ただ、神社の創起に関して、この付近に荘園があった平安時代に産土(うぶすな)神を祀ったのが始まりではなかったか、とのことだ。もう一つ、面白いことを聞いた。神社の紋章、すなわち社紋が丹生都比売神社のものと同じであるという。だが、丹生都比売神社とどのような関係にあったか詳しいことは分からないらしい。

生都比売神社に電話して、八幡神社との関係を聞いたが、こちらでも詳しいことは分からなかった。ただ、本殿が似ている点に関しては、興味深い話を聞いた。和歌山県には天野番匠と根来番匠という2つの大きな大工集団があり、天野番匠はもっぱら高野地域の神社仏閣の建設に従事してきたという。そうした関係で、天野番匠が八幡神社を建てるとき、伝統的に受け継いできた丹生都比売神社の社殿様式を踏襲したようである。


 子の日権現誕生地 − 「子の日権現」「子の聖」が誕生した場所

廃屋の脇を通って子の日権現誕生地へ 天龍寺が建てた碑
荒れた民家の脇を通って子の日権現誕生地へ 飯能市の天龍寺が建てた碑

玉県の飯能市に、天台宗別格本山・子の権現(ねのごんげん)天龍寺という寺がある。開祖は子の聖( ねのひじり)とされ、延喜11年( 911)6月13日、初めてこの地に十一面観音像を祀り、天龍寺を創建したと伝えられている。

の聖とされる人物が生まれた場所が、天野の里にある。天野小学校前から天野トンネル方面へ向かう県道高野口野上線を車を走らせ、右手を見ると山麓に民家が軒を並べている。その集落の外れに立てられた標識の矢印に従って集落の中に入っていくと、一軒の民家の脇を通って山腹に続く草道がある。「子の権現誕生地」と書かれた碑はそのその道の傍らにが建っている。思いの外、立派な碑である。

の傍らに立てられた案内板には、次のような説明がなされていた。
"約千年前、長者屋敷に住んでいた「阿字の長者」という夫人が、尊い仏様の子を宿したと言われている。大切な子であるので、日当たりの良いこの地に居を移し、胎内一年の後、子(ね)の年、子の月、子の日、子の刻に男児を男子を出産したのが、この場所と伝えられている。
七歳になり、延命寺で得度、その後関東へ「子の信仰」を広め、子の聖、天野の聖と呼ばれる足跡を残し、最終、飯能市の北部、秩父に天龍寺を建立し、子の権現社として祀られている。 この碑は天龍寺より建てられた。”

の聖は、子の年、子の月、子の日、子の刻に生まれたため、天野では「子の日権現」と呼ばれている。


 一の滝不動 − 狩場明神と弘法大師空海の出会いの地

一の滝不動
一の滝不動

の日権現誕生地から県道高野口野上線の方へ戻ってくると、田んぼの中を一本の細い川が流れている。現在は付近の田んぼに水を引く用水として利用されて程度の細流だ。その途中に「一の滝」と呼ばれる場所がある。そこに、今では摩耗して判然としないが、不動明王を刻んだ自然石の碑が周囲の雑木に囲われて建っている。

一の滝不動
一の滝不動
の場所は、葛城修験の天野駆け出しの行場とされてきた。しかし、弘法大師空海が高野山を開くため天野の里に立ち寄った際、狩人姿の高野御子に出会った場所ともされている。高野御子は、丹生都比売の息子で狩場明神のことである。空海の頼みを受けて、狩場明神は丹生明神(丹生都比売)に会わせ、丹生明神は神社の神領であった高野山を真言密教の修行の地として空海に授けることにした。そこで、狩場明神は白と黒の2匹の犬に案内させて、空海を無事に鈷杵のある高野山の土地に導いたとされている。

たような話は、大和街道沿いにある犬飼山転法輪寺でも聞いたことがある。転法輪寺の開創は弘法大師空海である。寺の縁起によれば、弘仁6年(815)、空海が高野山を開くため当地に立ち寄った際、この地で狩場明神と出会われた。そのとき狩場明神は、大師の道案内に白黒二匹の犬を授けられた。その二匹に犬に案内されて空海は無事に高野山に行く着くことができ、金剛峰寺を開くことができた。そこで、この不思議な霊場を後世に伝え、末世の衆生を救済しようと誓って一寺を建立した。それが当寺で、それ以来、高野山発祥の霊場として護持されているという。


 柳沢明神 − 狩場明神ゆかりの地で、空海を丹生明神と会わせた所

柳沢明神の鳥居 柳沢明神の社
柳沢明神社の鳥居 柳沢明神の社

沢明神社は、一の滝不動から見て西にある集落の裏山の中に鎮座している。その鎮座地付近は、昔大きな柳の木があり、柳沢と呼ばれていた。柳沢明神社の古文書には、狩場明神がこの前方の一の滝不動あたりから空海を案内して、ここで丹生明神(丹生都姫)に会わせた、と記されているとのことだ。 つまり、この地は空海と丹生明神が初めての出会った由緒ある場所である。

立に囲まれた神社の境内は比較的広いが、山陰にあたるのか大地がジメジメと湿っている。杉の葉や樫の葉が散乱する境内の奥に小さな鳥居が立ち、その奥に小さな社がある。見るからに、古代の神々が密談をしていた雰囲気が周囲に漂っている。

場明神は一の滝で空海と出会い、この地に案内して丹生明神に会わせた。そこで、空海は両明神頼み込んで高野山の土地を借りることになったという。こうした伝承が伝えられているため、高野山は柳沢明神を竪義(りゅうぎ)の神としてあがめられてきた。


【参考文献】天野歴史文化保存会発行「天野の里の旧蹟」


2007/04/12作成 by pancho_de_ohsei
return