橿原日記 平成19年4月09日

近江路に車谷と不動寺の磨崖不動明王を訪ねる



然の丘陵の岩壁に彫刻された仏像を、磨崖仏(あるいは摩崖仏)という。一般の石仏は、切り出した石に彫刻したもので、移動が可能である。だが、磨崖仏は大自然の中の岩石そのものに彫られている。巨大な仏像を自然の岩肌に刻むには、多大な労力と時間を要したであろう。

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崖仏の多くは、山岳で修行する行者や修行僧が、自らの手で刻んだとされている。おそらく彼らは自然の岩が持つ霊力に感化され、そこに仏像を刻む決心をしたにちがいない。日々その岩肌に対面して一心にノミをふるうことは、仏法修行そのものだったはずだ。かれらにとって行法即造像の実践だった。

れ故に、磨崖仏は単なる彫像ではない。巨岩の持つ霊位と彫像者の信仰の熱さが立ちこめている。その呪力が、今なお多くの人々を引きつけてやまない。磨崖仏はインドや中国で多く彫られてきたが、日本でも各地に散在していている。よく知られているものに、国東半島の臼杵(うすき)磨崖仏がある。

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前に「万葉の大和路を歩く会」に参加して大野寺の大磨崖仏のことをレポートしたことがあった(平成18年7月23日付け橿原日記参照)。そのレポートを読んだメル友の一人が、近江にもよく知られた磨崖仏があちこちにあるよと、いくつかを紹介してくれた。国東半島まで足を伸ばす余裕はないが、近江なら近い。

の時期を迎えて、陽気もよくなってきたので、メル友が紹介してくれた滋賀県の善水寺と岩根山の不動磨崖仏を思い切って訪れることにした。地図で所在地を調べてみると、近くに十二坊温泉ゆららがある。日帰り温泉にハマっているK君を誘うと、彼はすぐに待ち合わせ場所を指定してきた。  



車谷の巨岩に刻まれた半肉彫りの磨崖不動明王立像

車谷の対岸から仰いだ不動磨崖仏
車谷の対岸から仰いだ不動磨崖仏 (2007/04/09 撮影)


谷の不動磨崖仏は滋賀県湖南市の花園、岩根山不動磨崖仏は同じく湖南市の岩根に所在する。近くには、湖南三山の一つとされ、西国薬師霊場第47番札所でもある岩根山善水寺がある。その善水寺の境内にも巨岩に刻まれた不動明王があるとのことだ。K君との打ち合わせで、この三カ所の不動明王を探訪することにし、途中で「十二坊温泉ゆらら」でくつろごうということになった。

湖南市の磨崖仏付近のマップ
湖南市の磨崖仏付近のマップ
南市は、滋賀県の東南部に位置する甲賀郡石部町と甲西町が、平成16年10月1日に合併して誕生した新制都市である。南端に阿星山系を、北端に岩根山系を望む丘陵地帯に位置し、これらの丘陵地に囲まれて、地域の中央を野洲(やす)川が流れている。

然豊かな湖南市は、古くは近江と伊勢を結ぶ伊勢参宮街道に面していた。江戸時代には石部に東海道五十三次の51番目の宿場がおかれて栄えた。


ち合わせ場所に現れた彼の車を見て驚いた。いつもの愛車に乗ってくるものと思ったのに、ひと頃スモールカーの代名詞となったホンダのフィットだった。愛車が事故ったものと思い、
「車はどうした?」と聞くと、
「車谷の磨崖仏を見るには、麓の花園町から山道を10分ほど歩かなければならないそうだ。でも、ネットで調べたら、どうやら車でのアクセスも可能らしい。道幅が狭いので、普通車より軽自動車かスモールカーがお勧めだそうだ」
そこで、安全のために娘の車を借りてきた、というのが彼の返事だった。

花園集落の中の細い道
花園集落の中の細い道
集落のはずれから続く谷川沿いの山道
集落のはずれから続く谷川沿いの山道
磨崖仏不動明王の案内板
磨崖仏不動明王の案内板
が運転する車は名神自動車道の栗東ICから国道1号線に降りると、そのまま湖南市方面へ向かった。野洲川の左岸を南東方向に向かってほぼ一直線にのびる道は、かっての東海道の一部であるが、周囲の景観が単調な道である。

R草津線の「甲西」駅に近い「平松」交差点で、Kはハンドルを左に切って県道野洲甲西線に入った。すぐに野洲川に架かる甲西大橋があった。橋を渡って少し行くと、「甲西大橋北詰」交差点に出る。Kの話だと、交差点を直進して道なりに進めば、標高405mの岩根山の山腹を駆け上がって「十二坊温泉ゆらら」に行くことができるそうだ。しかし、彼は交差点を右折した。

へおよそ1kmほど行くと、道は野洲川の右岸の堤防に出る。その少し手前で、道が二股に分かれ、左側の道はそのまま花園集落へ続いている。Kは岩根小学校の脇を通って花園集落の狭い生活道路へ分け入った。集落の中程にある三叉路の角に「磨崖仏不動明王」の標識があった。矢印の方向に進めば、0.5kmで磨崖仏に到着できる。

が、そこから先は民家の間の狭い道を抜け、さらに車谷沿いの山道を進まなければならない。通常は、道幅が狭く舗装などの整備もされていないので、車でのアクセスは無理とされている。だから、見学者は徒歩でアクセスすることになる。

道は、バラスを巻いただけの緩やかな勾配の地道である。左側を流れる車谷の瀬音がエンジンの合間に聞こえる。山道にかかるあたりで、道路の左側の民家の庭で一本の若い桜の木が花を付けていた。道路の凹凸で車体を大きく左右に揺らしながら進むと、やがて谷川べりにプレハブ小屋が見えてきた。小屋の少し上流に、町指定の文化財「磨崖不動明王」を解説した白い案内板が立っている。

旧甲西町教育委員会が立てた案内板
旧甲西町教育委員会が立てた案内板
は案内板の前で車を止めた。その先の道路はアスファルト舗装されているが、通行禁止の標識が立っている。車谷を見下ろす巨岩に刻まれた半肉彫りの不動明王立像は、谷川を渡り対岸の階段を登れば、真下まで行くことができる。不動明王を見上げる場所に賽銭箱を置いた小さな祠があった。賽銭箱の前には、ロウソク立てと線香皿が置かれ、その横の古びた花瓶にラッパ水仙が供えてある。

の拝殿を模した建物の前で上を見上げると、二つに割れた巨岩の一方に半肉彫りされた不動明王の立像が、眼下を睨み付けている。案内板の解説によると、不動明王は高さ620cm、幅198cmの自然石に彫られており、車谷不動と通称されているとのことだ。江戸時代の作とされていて、像の高さは425cm、肘幅210cm、顔幅80cmを測る。右手に持つ宝剣の長さ230cmもある。

動明王の「明」は、密教で「真言」を意味し、明王は、真言の力そのものを体現した仏である。五大明王の筆頭とされる不動明王は、密教の根本尊である大日如来の化身、或いはその内証(内心の決意)を表現したもので、その造形は、右手に「降魔(ごうま)の剣」、左手に縄を持つ憤怒の形相で表される。悪魔を降伏し一切の障害を打ち砕き、おとなしく仏道に従わないものを無理矢理にでも導き救済する役目を担っているという。

車谷の対岸から眺めた不動明王 下から見上げた不動明王
車谷の対岸から眺めた不動明王 下から見上げた不動明王

ずいぶん眉の濃い不動明王だな」
これが、車を降りて対岸の不動明王像を見やったKが、最初に口にした印象だった。言われてみれば、眼窩が深いせいか、太陽光線のせいで黒く太い眉が描かれているようにも見える。続いて、彼は言った。
「あまり怖い顔の不動さんじゃないよ」
江戸時代の作とされる不動明王像は、他で見た磨崖仏と違ってそれほど摩滅していない。巨大な彫り物だけに迫力はあるが、顔の表情はどこかおかしみを感じさせる。やはり密教寺院の暗い本堂で拝観する憤怒の不動さんとは、ひと味もふた味も違う。巨岩に怒りの表情を彫り込むのは難しいのだろう。

然、車のエンジンの音がして、山道を一台の軽自動車が駆け上がってきた。車を降りた老婦人と谷川に架かる板橋の上で出会った。挨拶を交わしながらその手を見ると、新しい切り花を持っている。ときどき献花を取り替えるために、夫婦でやってくるのだという。

不動明王像のアップ
不動明王像のアップ
人ずれは麓の花園町に住んでいる老夫婦だそうだ。婦人が献花を取り替えてくるのを待っている老人と立ち話をして、いくつか面白い話を聞いた。

元の花園という地名は、岩根山に十二の坊舎すなわち僧侶の住居があった頃、そこで仏像に供える花を麓の畑で栽培していたことに因むものだという。

た、この磨崖仏をどのように彫ったかも説明してくれた。家を新築するときのように足場を組むか、あるいはビルのガラス拭きのように上からゴンドラをつり下げて彫り込んだと思っていたが、どうもそうではないらしい。老人が郷土史家に聞いた話だと、下から岩の高さまで土の盛り、像を彫り刻むにしたがって上から土を剥がしていったとのことだ。



岩根山の中腹にある十二坊温泉「ゆらら」

十二坊温泉「ゆらら」
十二坊温泉の温泉施設「ゆらら」


谷不動から先の山道は舗装されているが、通行止めの標識が立っている。少し心配になって、老夫婦に大丈夫か、と聞くと、
「この先は十二温泉の源泉の脇を通って林道へ続いている。道は悪いが大丈夫、わしらもこの道を通って何回も十二坊温泉へいっている」
との返事が返ってきた。その言葉を信用して、車で山道を進むことにした。

十二坊温泉の源泉
十二坊温泉の源泉
十二坊温泉の平面
十二坊温泉の平面図
十二坊温泉の正面玄関
十二坊温泉の正面玄関
スファルト舗装されている区間はわずか数十メートルで、その先はまた狭いデコボコ道に戻った。およそ400mほどで源泉の取水施設の前に出た。振り返ると、今来た山道の脇に「磨崖不動明王」方面の標識が立っていて、それには「磨崖不動明王へお参りの方はこれより徒歩でお願いします」と但し書きが付されていた。どうやら、温泉に来て、帰りに磨崖不動明王に立ち寄る客に対する注意書きのようだ。

高405mの岩根山は、別名を十二坊山という。善水寺の十二の僧坊が立ち並んでいたことに由来する名称である。古書によれば、善水寺は3つの尾根にまたがる仏教の修験道場だった。東の清涼山を東尾、西の十二坊山を西尾と呼び、本堂がある地を中尾といった。最盛時には僧坊すなわち坊舎は26あったと伝えられている。

の西尾にあたる十二坊山の中腹から平成6年6月に温泉が湧き出た。泉質は単純弱放射能温泉で、非常にさらりとしていて、経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、慢性消化器病、慢性皮膚病などに効能があるとされている。この温泉を源泉として、平成11年春にリラクゼーション施設がオープンした。それが十二坊温泉「ゆらら」である。

泉から先はしっかり舗装された下りの道で、坂道を下っていくと、林道に合流した。合流地点を右折してすぐのところに、温泉施設「ゆらら」の大駐車場がある。ゆっくりと一風呂浴びて、施設内のレストランで昼食を取る予定で、玄関ホールからエントランスホールに入った。月曜日の正午前とあって、来訪者の姿はほとんどない。受付で確認すると、レストランは改装のため休業中とのことだった。Kは空腹を癒すために温泉まんじゅうを買い込んだ。

形の建物の2階は浴室になっている。階段から2階に登ると、右手が「修験の湯」、左手が「百伝(ももづて)の湯」の浴室があり、男湯と女湯が週単位で入れ替わるとのことだ。さらに中央の渡り廊下を伝って別棟のバーデプールに行くことができる。バーデプールの’バーデ’とは、ドイツ語で「浴場」の意味だそうだ。ドイツの浴場には、一般に水着着用の健康推進用プールが設置されている。当施設はそれにならったもので、水中の歩行運動などで建康維持増進をはかることができる。

日の男湯は「「百伝の湯」だった。百伝の湯は広い大浴槽を備え、眼下に広がる景色を眺められる。しかし、この浴室の楽しみは、露天風呂からの眺めだそうだ。ゆったりと湯船に浸かりながら周囲を見渡すと、森の先に布引山が、さらに遠くに鈴鹿の峰々が見渡すことができる。Kは至福の時を満喫するように、目を細めながら青空を流れる綿雲をみあげていた。



甲賀の里に壮麗な密教本堂が建つ岩根山善水寺(いわねさんぜんすいじ)

岩根山善水寺の正面
岩根山善水寺の正面


車場に止めた車の中で、昼食代わりに温泉まんじゅうを2個ほど頬ばると、Kは車を発進させた。十二坊温泉ゆららから岩根山善水寺(所在 湖南市岩根3518)は近い。距離にしておよそ800m、5分も車を走らせれば、寺の正面に設けられた駐車場に着く。天台宗の善水寺は岩根山の中腹に静かに鎮座する古刹である。

国宝に指定されている善水寺の本堂
国宝に指定されている善水寺の本堂
伝によると、善水寺の創建は奈良時代の初めまでさかのぼる。和銅年間(708〜715年)に元明天皇の勅願によって鎮護国家の道場として創建され、当初は 「和銅寺」と号したという。 「和銅寺」から「善水寺」に寺名が変わったいきさつについては、次のような伝承が伝えられている。

暦年間、伝教大師最澄が比叡山に延暦寺を開くに当たって、伽藍建立の用材を甲賀の地に求められた。切り出した用材は野洲川の河岸で筏に組んで流す手はずになっていたが、あいにくと日照りが続いたため、川の水が少なく思うように筏を流すことができなかった。

こで、最澄が請雨祈祷を行なう場所を探したところ、岩根山の中腹から一筋の光が射し、最澄を当寺に導いた。和銅寺と呼ばれていた寺の本堂の東に、百伝池(ももつてのいけ)があり、その水中から光が発していた。最澄が池水に漂う梶の葉をすくい上げると、「是好良薬今留在此」と経文の一説が記されいる。不思議に思って錫杖で池中を探ると、身の丈一寸八分、閻浮壇金の薬師如来像が出現した。

の薬師仏を本尊として、最澄が7日間にわたる請雨祈祷を行なったところ、満願の日に一昼夜にわたって大雨が降った。そのため、水かさをました野洲川の流れの勢いのままに、用材を組んだ筏を琵琶湖の対岸の比叡山の麓に流すことができたという。

霊水の伝説で知られる百伝池
霊水の伝説で知られる百伝池
の話に後日談が続く。桓武天皇が病に倒れたとき、最澄は百伝池の水を汲みあげて、薬師仏の前で7日間の病気平癒の祈祷を行なった。そして、その霊水を献上されたところ、天皇の病は瞬く間に快癒した。 そこで天皇はこの寺に「医王山善水寺」の名前を与えたという。以来、善水寺は比叡山最初の別院として寺観を次第に整え、最盛時には二十六の僧坊を有するほど栄えた。

身の本堂は、近くの僧坊から出火した火事の延焼で焼失した。延文5年(1360)のことである。しかし、7年後の貞治5年(1366)には、現在の本堂が再建された。元亀2年(1571)には、法難がこの寺を襲う。9月12日の信長による比叡山焼き討ちの3日後、この寺も焼き討ちを受けて、多くの僧坊と堂舎を失った。幸いなことに、本堂、塔、仁王門、六所権現社の四棟は難を免れた。

在の寺の中心は、山林に囲まれ国宝に指定されている本堂である。 桁行7間 梁間5間、入母屋造・桧皮葺の堂々とした荘厳な天台建築で、屋根の美しい曲線は見事としか言いようがない。


正面から見た本堂
正面から見た本堂
本堂の外陣
本堂の外陣
付で拝観料を払おうと思ったら、誰もいない。窓口の隅に小さな押しボタンがあり、「ご用の方はこのボタンを押してください」と書いてある。ボタンを押すと、本堂から一人の寺僧が出てきた。拝観料を受け取ると、「これから本堂の中を案内しますから、本堂の裏からお上がりください」という。

堂の裏手に下駄箱が置かれていて、参拝客はそこから濡れ縁伝いに堂の正面に回るのが順路のようだ。本堂の内部は外陣と内陣に区分され、菱格子で仕切られていた。 堂内に入って先ず目を引くのは、外陣の左右にそそり立つ高さ2.5mの金剛力士立像2躯である。藤原時代の作だそうだ。逞しい筋肉と鋭い目をもったこの仏の番人は、かつては仁王門にあった力士像である。門が崩壊したため、この外陣に安置されたという。

堂の案内役は、受付に出てきた寺僧である。外陣で寺の概略を説明したあと、参拝者を内陣へ導いた。内陣の仏壇中央には入母屋造・柿葺の大きな厨子が置かれていた。本尊の薬師瑠璃光如来坐像1躯を安置している厨子である。本尊は檜一木彫、皆金色、像高102.5cmで、藤原時代前期の作とされている。 しかし、秘仏扱いされていて、普段は拝観できない。

本尊の薬師瑠璃光如来坐像
本尊の薬師瑠璃光如来坐像
治の中頃、この本尊の修理がなされた。その際、胎内から多量の稲籾と正暦4年(西暦993年、癸巳)の造像願文が発見され、本尊の制作年代が確認された。このとき見つかった稲籾は本堂に展示してある。最後に本尊が特別公開されたのは、2001年10月27日〜11月25日で、昭和24年(1949)から52年ぶりだった。

子の左右に梵天・帝釈天立像2躯が、仏壇上の左右に四天王立像4躯が、また仏壇の前面には十二神将の像が並ぶ。いずれも藤原時代初期の古仏像で国の重要文化財に指定されている。裏外陣にまわると、そこにも不動明王坐像1躯、兜跋毘沙門天立像1躯、僧形文殊菩薩坐像1躯、持国天・増長天2躯が安置されている。いずれも国の重要文化財である。さらに裏外陣には、天平時代の作とされる金銅製の誕生釈迦仏立像が安置されている。例年4月8日の花祭りの日のみに公開される誕生仏で、奈良東大寺国宝像を一回り小さくした形の秀作とされている。

堂の外陣から内陣へ移るとき、東の庭に築かれた伝説の百伝池を望むことができる。順路の脇に、1L入りの空のペットボトルが多数置かれていた。薬師の霊水「善水」と書かれたのラベルを張ってある。参拝客はここでペットボトルを買い、百伝池で霊水を汲んで帰るという。ペットボトルには「境内地下60mの岩盤より湧き出た霊水です」と保健所水質検査適合済みの表示がされている。ちなみに一本買って霊水を詰めて帰ったが、味音痴の筆者には市販の水とどこがちがうのかさっぱりわからない。

水寺参拝の目的は、この寺の巨岩に彫られた磨崖不動明王を見ることである。案内が終わって土産物売り場に戻った寺僧に場所を聞くと、駐車場から下ったところに建っている観音堂の横に巨岩があり、その岩に磨崖仏の不動明王が刻まれているという。さっそく言われた通りに駐車場の横の道を下っていくと、左手に観音堂があった。

不動の大岩に彫られた磨崖不動明王 不動の大岩の拡大映像
不動の大岩に彫られた磨崖不動明王 不動の大岩の拡大映像

音堂の東南に、その巨岩はあった。東西方向約6m、南北方向約5.5m、高さ約8.2mの大きさは、まさに巨岩と呼ぶにふさわしい。どこに不動明王が彫られているのかと探すと、北面上部に確かに半肉彫りの小さな像があった。文亀4年(1503)の作を示す銘が刻まれている像である。しかし、あまりに小さい。巨像を期待していたので、なんだかだまし討ちにあった感じがした。期待を裏切られてがっかりしたのか、Kは磨崖像の代わりに、盛りを迎えた観音堂の前の桜をデジカメでさかんに撮影していた。



善水寺に向かう山道脇の不動寺本尊・磨崖不動明王像

不動寺の磨崖不動明王像
不動寺の磨崖不動明王像


不動寺の正面に立てられた観音像
不動寺の正面に立てられた観音像
不動寺の案内板
不動寺の案内板
根山不動寺は、湖南市岩根の里中から善水寺に向かう山道沿いにある。先に善水寺を見学したため、逆方向からのアクセスになったが、善水寺から近年に完成した「十二坊の湯」への道路に戻り、すこし下っていくと右へ折れる道の脇に「大型車通行不可」の標識が立っている。その道を下ると、右手に磨崖仏の刻まれた岩を抱いた舞台作りの本堂が見えてくる。

動寺の正面に最近立てられた観音菩薩の白い石像とその前の灯籠が、やたらと目にまぶしい。その石像の前に、旧甲西町教育委員会が案内板を立てている。それに依ると、不動寺はもともと弘法大師空海が延暦年間(782-805)に創建した寺で、清涼山と号した天台宗の寺だったそうだ。だが、この解説は少しおかしい。弘法大師空海の建立に関わる寺なら真言宗であろう。天台宗の寺だったのなら、創建者は伝教大師最澄のはずだ。

れはともかく、江戸時代の享保18年(1734)に寺は火災にあっている。寛延2年(1749)に再興され、岩根山不動寺と号するようになった。この寺が本尊として祀ってきたのは、巨大な自然の岩に磨崖仏として刻まれた不動明王であり、その本尊の名がそのまま寺の名前となっている。

に刻まれた不動明王は像高150cm、肘幅77cm、顔幅30cmで、「建武元年三月七日、卜部左兵衛入道充乗造之」の銘がある。卜部とは代々次がれてきたこの寺の住職の姓であり、建武元年は西暦の1334年にあたる。鎌倉幕府が滅んだ後を受けて、後醍醐天皇が建武の中興と呼ばれる天皇親政を始めた年である。

本堂に続く石の階段
本堂に続く石の階段
在、不動寺は黄檗宗の無住の寺である。磨崖仏が彫られた巨岩の前面に小さな舞台造りの本堂が建っている。途中に御手洗水がある急な石段を上ると、本殿の入口に達する。無住のためは普段は施錠されているのだろうが、本日はたまたま鍵が掛かっていなかった。無許可だが勝手に本堂に上がらせてもらった。畳8枚ほどの堂内の正面に2段の階段があり、途中に賽銭箱が置かれている。

銭箱後ろは引き戸が閉まっていた。その戸を開くと拝殿があり、正面の格子越しに磨崖仏の姿を拝むことができた。残念ながら拝殿からは格子が邪魔になって、磨崖仏の姿をカメラにおさめることはできない。

豊後の磨崖仏散歩」の作者で知られる渡辺克己氏によれば、磨崖仏は密教の所産が多く、秀作とされるものは平安中期から末期に作られているそうだ。つまり、密教の盛時に作られたと推定されるものがほとんどである。ところが、鎌倉時代になり武士が台頭してくると、寺院は圧迫を受けて衰微の一途をたどるようになる。だが、鎌倉時代以降も磨崖仏は盛んに作られている。

ころが、時代が下がれば下がるほど、その造形は稚拙になり土俗臭が強くなるという。しかし、鎌倉仏教によって仏教は民衆のレベルまで普及した。民衆にしみこんだ信仰心によって、磨崖仏はその地域の人々の信仰の対象とされ、今日まで香華が絶えない。その現実を車谷の磨崖仏で見、また不動寺の拝殿でも見た。

本殿の内部 拝殿から格子窓越しに見た磨崖仏<
本殿の内部 拝殿から格子窓越しに見た磨崖仏

下から仰ぎ見た磨崖不動明王像
下から仰ぎ見た磨崖不動明王像
崖仏を撮影するために、本堂の下に潜り込んでカメラを構えたが、良いアングルは得られない。それ以上接近することもできず、顔の表情もよく確認できなかった。後でパソコンのモニター上で確認すると、長い星霜の果てに顔面が摩滅しいて造作が判然としない。徐々に自然の岩石に戻っていく仏像に対して、地元の人々はどのような愛着で接しているのだろうか。ふと、地域の住民に聞いてみたい衝動に駆られた。




2007/04/12作成 by pancho_de_ohsei return