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それ故に、磨崖仏は単なる彫像ではない。巨岩の持つ霊位と彫像者の信仰の熱さが立ちこめている。その呪力が、今なお多くの人々を引きつけてやまない。磨崖仏はインドや中国で多く彫られてきたが、日本でも各地に散在していている。よく知られているものに、国東半島の臼杵(うすき)磨崖仏がある。
桜の時期を迎えて、陽気もよくなってきたので、メル友が紹介してくれた滋賀県の善水寺と岩根山の不動磨崖仏を思い切って訪れることにした。地図で所在地を調べてみると、近くに十二坊温泉ゆららがある。日帰り温泉にハマっているK君を誘うと、彼はすぐに待ち合わせ場所を指定してきた。 |
岩根山の中腹にある十二坊温泉「ゆらら」
車谷不動から先の山道は舗装されているが、通行止めの標識が立っている。少し心配になって、老夫婦に大丈夫か、と聞くと、
標高405mの岩根山は、別名を十二坊山という。善水寺の十二の僧坊が立ち並んでいたことに由来する名称である。古書によれば、善水寺は3つの尾根にまたがる仏教の修験道場だった。東の清涼山を東尾、西の十二坊山を西尾と呼び、本堂がある地を中尾といった。最盛時には僧坊すなわち坊舎は26あったと伝えられている。 その西尾にあたる十二坊山の中腹から平成6年6月に温泉が湧き出た。泉質は単純弱放射能温泉で、非常にさらりとしていて、経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、慢性消化器病、慢性皮膚病などに効能があるとされている。この温泉を源泉として、平成11年春にリラクゼーション施設がオープンした。それが十二坊温泉「ゆらら」である。 源泉から先はしっかり舗装された下りの道で、坂道を下っていくと、林道に合流した。合流地点を右折してすぐのところに、温泉施設「ゆらら」の大駐車場がある。ゆっくりと一風呂浴びて、施設内のレストランで昼食を取る予定で、玄関ホールからエントランスホールに入った。月曜日の正午前とあって、来訪者の姿はほとんどない。受付で確認すると、レストランは改装のため休業中とのことだった。Kは空腹を癒すために温泉まんじゅうを買い込んだ。 円形の建物の2階は浴室になっている。階段から2階に登ると、右手が「修験の湯」、左手が「百伝(ももづて)の湯」の浴室があり、男湯と女湯が週単位で入れ替わるとのことだ。さらに中央の渡り廊下を伝って別棟のバーデプールに行くことができる。バーデプールの’バーデ’とは、ドイツ語で「浴場」の意味だそうだ。ドイツの浴場には、一般に水着着用の健康推進用プールが設置されている。当施設はそれにならったもので、水中の歩行運動などで建康維持増進をはかることができる。 本日の男湯は「「百伝の湯」だった。百伝の湯は広い大浴槽を備え、眼下に広がる景色を眺められる。しかし、この浴室の楽しみは、露天風呂からの眺めだそうだ。ゆったりと湯船に浸かりながら周囲を見渡すと、森の先に布引山が、さらに遠くに鈴鹿の峰々が見渡すことができる。Kは至福の時を満喫するように、目を細めながら青空を流れる綿雲をみあげていた。 |
甲賀の里に壮麗な密教本堂が建つ岩根山善水寺
駐車場に止めた車の中で、昼食代わりに温泉まんじゅうを2個ほど頬ばると、Kは車を発進させた。十二坊温泉ゆららから岩根山善水寺(所在 湖南市岩根3518)は近い。距離にしておよそ800m、5分も車を走らせれば、寺の正面に設けられた駐車場に着く。天台宗の善水寺は岩根山の中腹に静かに鎮座する古刹である。
延暦年間、伝教大師最澄が比叡山に延暦寺を開くに当たって、伽藍建立の用材を甲賀の地に求められた。切り出した用材は野洲川の河岸で筏に組んで流す手はずになっていたが、あいにくと日照りが続いたため、川の水が少なく思うように筏を流すことができなかった。 そこで、最澄が請雨祈祷を行なう場所を探したところ、岩根山の中腹から一筋の光が射し、最澄を当寺に導いた。和銅寺と呼ばれていた寺の本堂の東に、百伝池(ももつてのいけ)があり、その水中から光が発していた。最澄が池水に漂う梶の葉をすくい上げると、「是好良薬今留在此」と経文の一説が記されいる。不思議に思って錫杖で池中を探ると、身の丈一寸八分、閻浮壇金の薬師如来像が出現した。 この薬師仏を本尊として、最澄が7日間にわたる請雨祈祷を行なったところ、満願の日に一昼夜にわたって大雨が降った。そのため、水かさをました野洲川の流れの勢いのままに、用材を組んだ筏を琵琶湖の対岸の比叡山の麓に流すことができたという。
前身の本堂は、近くの僧坊から出火した火事の延焼で焼失した。延文5年(1360)のことである。しかし、7年後の貞治5年(1366)には、現在の本堂が再建された。元亀2年(1571)には、法難がこの寺を襲う。9月12日の信長による比叡山焼き討ちの3日後、この寺も焼き討ちを受けて、多くの僧坊と堂舎を失った。幸いなことに、本堂、塔、仁王門、六所権現社の四棟は難を免れた。 現在の寺の中心は、山林に囲まれ国宝に指定されている本堂である。 桁行7間 梁間5間、入母屋造・桧皮葺の堂々とした荘厳な天台建築で、屋根の美しい曲線は見事としか言いようがない。
本堂の裏手に下駄箱が置かれていて、参拝客はそこから濡れ縁伝いに堂の正面に回るのが順路のようだ。本堂の内部は外陣と内陣に区分され、菱格子で仕切られていた。 堂内に入って先ず目を引くのは、外陣の左右にそそり立つ高さ2.5mの金剛力士立像2躯である。藤原時代の作だそうだ。逞しい筋肉と鋭い目をもったこの仏の番人は、かつては仁王門にあった力士像である。門が崩壊したため、この外陣に安置されたという。 本堂の案内役は、受付に出てきた寺僧である。外陣で寺の概略を説明したあと、参拝者を内陣へ導いた。内陣の仏壇中央には入母屋造・柿葺の大きな厨子が置かれていた。本尊の薬師瑠璃光如来坐像1躯を安置している厨子である。本尊は檜一木彫、皆金色、像高102.5cmで、藤原時代前期の作とされている。 しかし、秘仏扱いされていて、普段は拝観できない。
厨子の左右に梵天・帝釈天立像2躯が、仏壇上の左右に四天王立像4躯が、また仏壇の前面には十二神将の像が並ぶ。いずれも藤原時代初期の古仏像で国の重要文化財に指定されている。裏外陣にまわると、そこにも不動明王坐像1躯、兜跋毘沙門天立像1躯、僧形文殊菩薩坐像1躯、持国天・増長天2躯が安置されている。いずれも国の重要文化財である。さらに裏外陣には、天平時代の作とされる金銅製の誕生釈迦仏立像が安置されている。例年4月8日の花祭りの日のみに公開される誕生仏で、奈良東大寺国宝像を一回り小さくした形の秀作とされている。 本堂の外陣から内陣へ移るとき、東の庭に築かれた伝説の百伝池を望むことができる。順路の脇に、1L入りの空のペットボトルが多数置かれていた。薬師の霊水「善水」と書かれたのラベルを張ってある。参拝客はここでペットボトルを買い、百伝池で霊水を汲んで帰るという。ペットボトルには「境内地下60mの岩盤より湧き出た霊水です」と保健所水質検査適合済みの表示がされている。ちなみに一本買って霊水を詰めて帰ったが、味音痴の筆者には市販の水とどこがちがうのかさっぱりわからない。 善水寺参拝の目的は、この寺の巨岩に彫られた磨崖不動明王を見ることである。案内が終わって土産物売り場に戻った寺僧に場所を聞くと、駐車場から下ったところに建っている観音堂の横に巨岩があり、その岩に磨崖仏の不動明王が刻まれているという。さっそく言われた通りに駐車場の横の道を下っていくと、左手に観音堂があった。
観音堂の東南に、その巨岩はあった。東西方向約6m、南北方向約5.5m、高さ約8.2mの大きさは、まさに巨岩と呼ぶにふさわしい。どこに不動明王が彫られているのかと探すと、北面上部に確かに半肉彫りの小さな像があった。文亀4年(1503)の作を示す銘が刻まれている像である。しかし、あまりに小さい。巨像を期待していたので、なんだかだまし討ちにあった感じがした。期待を裏切られてがっかりしたのか、Kは磨崖像の代わりに、盛りを迎えた観音堂の前の桜をデジカメでさかんに撮影していた。 |
善水寺に向かう山道脇の不動寺本尊・磨崖不動明王像
不動寺の正面に最近立てられた観音菩薩の白い石像とその前の灯籠が、やたらと目にまぶしい。その石像の前に、旧甲西町教育委員会が案内板を立てている。それに依ると、不動寺はもともと弘法大師空海が延暦年間(782-805)に創建した寺で、清涼山と号した天台宗の寺だったそうだ。だが、この解説は少しおかしい。弘法大師空海の建立に関わる寺なら真言宗であろう。天台宗の寺だったのなら、創建者は伝教大師最澄のはずだ。 それはともかく、江戸時代の享保18年(1734)に寺は火災にあっている。寛延2年(1749)に再興され、岩根山不動寺と号するようになった。この寺が本尊として祀ってきたのは、巨大な自然の岩に磨崖仏として刻まれた不動明王であり、その本尊の名がそのまま寺の名前となっている。 岩に刻まれた不動明王は像高150cm、肘幅77cm、顔幅30cmで、「建武元年三月七日、卜部左兵衛入道充乗造之」の銘がある。卜部とは代々次がれてきたこの寺の住職の姓であり、建武元年は西暦の1334年にあたる。鎌倉幕府が滅んだ後を受けて、後醍醐天皇が建武の中興と呼ばれる天皇親政を始めた年である。
賽銭箱後ろは引き戸が閉まっていた。その戸を開くと拝殿があり、正面の格子越しに磨崖仏の姿を拝むことができた。残念ながら拝殿からは格子が邪魔になって、磨崖仏の姿をカメラにおさめることはできない。 「豊後の磨崖仏散歩」の作者で知られる渡辺克己氏によれば、磨崖仏は密教の所産が多く、秀作とされるものは平安中期から末期に作られているそうだ。つまり、密教の盛時に作られたと推定されるものがほとんどである。ところが、鎌倉時代になり武士が台頭してくると、寺院は圧迫を受けて衰微の一途をたどるようになる。だが、鎌倉時代以降も磨崖仏は盛んに作られている。 ところが、時代が下がれば下がるほど、その造形は稚拙になり土俗臭が強くなるという。しかし、鎌倉仏教によって仏教は民衆のレベルまで普及した。民衆にしみこんだ信仰心によって、磨崖仏はその地域の人々の信仰の対象とされ、今日まで香華が絶えない。その現実を車谷の磨崖仏で見、また不動寺の拝殿でも見た。
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