橿原日記 平成19年3月29日

知人の依頼で横浜にある国指定名勝・三渓園(さんけいえん)を訪れる

旧燈明寺から移築した三重塔
三渓園のシンボル的存在は旧燈明寺から移築した三重塔 (2007/03/29 撮影)

探訪の動機は、知人から受けた写真撮影の依頼

 京都府の相楽郡加茂町在住のF君は大学時代の同期生である。そのF君から数日前の夜、携帯に電話がかかってきた。開口一番、彼は「今どちらにいる?」と聞いた。どうやら、橿原のアパートを根城にして相変わらず近くの史跡探訪に熱中していると思いこんでいたようだ。自宅だ、と答えると、
「それは好都合だ、是非一つ頼まれごとを引き受けて貰いたい」と、奇妙な依頼を持ちかけられた。

 その依頼というのは、横浜の三渓園に行って、三重塔の写真を撮ってきてほしい、というものだった。理由を聞くと、彼は次のように話した。
「先日、近くに住む古老から聞いた話では、昔加茂町に燈明寺という寺があったが、その寺の三重塔が大正の初めころ、生糸貿易で財をなした原某という人物に売られ、現在三渓園に建っているそうだ。どんな塔だったのか是非見てみたいが、横浜まで出かける暇がない。君が自宅にいるなら、塔の写真を撮って5月に予定されている同窓会に持ってきてくれ」

 最近は郷土史にも興味を持ち始めたF君である。昨年の夏は、弥勒磨崖仏を本尊に祀る鹿鷺山笠置寺を紹介してくれた。諸般の事情ですぐには上京できない残念さが、電話口の彼の声ににじみ出ていた。インターネットで三渓園のホームページにアクセスすれば簡単に見れるよ、と教えてやると、残念ながら俺はインターネットはやらないとのことだった。

アクセスマップ
アクセスマップ (三渓園のHPより)
 筆者も三渓園の名前は聞いていたが、今まで訪れたことがない。そこで、喜んで彼の依頼に受けることにして、その著名な庭園を訪れることにした。三渓園を訪れるには、JR根岸線の「根岸」駅を利用するのが便利なようだ。幸い自宅のある川口からは京浜東北線を利用すれば、乗り換えなしで行ける。根岸駅からは市営バスで10分、「本牧」バス停で下車して徒歩7分で三渓園に到着する。それだけのアクセス情報を手に入れると、本日さっそく三渓園にでかけてきた。  



原三渓の美意識が創り上げた三渓園の見事な景観

 久しぶりに横浜市の磯子区に来た。サラリーマン時代に何度か訪れたきりで何十年ぶりである。電車が「山手」駅の次のトンネルを抜けて海岸線に出ると、以前の記憶とはまったく異なった景色が車窓を流れた。石油精製工場の巨大な石油備蓄タンクが海岸に並び、線路のすぐ脇を首都高速湾岸線の橋脚が続いている。11時30分、自宅からバスと電車を乗り継いでおよそ2時間かけて、ようやく「根岸」駅に降り立った。明るい太陽の光が降り注ぐ駅前広場は、すっかり初夏を思わせるなま暖かい南風が、時折砂塵を巻き上げながら吹いていた。

 駅前の1番乗り場から出る市バスでおよそ10分、バス停「本牧」で下りると、少し先の交差点のに「三渓園」方面への看板が出ている。そこから目的地までの距離が600mであると示されていた。矢印で示されたアクセス道路を「桜道」という。両側に桜の木が並び、昨日と本日の陽気で一気に開花が進んだ。枝を張った桜を愛でながら桜道を歩いて行くと、その行き止まりに三渓園の扉のない正門があった。国指定の名勝として知られた庭園の入口としては、意外と簡素な門だった。

バス停から続く600mの桜道 意外と簡素な三渓園の正門
バス停から続く600mの桜道 意外と簡素な三渓園の正門

 受付を通って一歩園内に足を踏み入れると、原三渓(はらさんけい、1868 - 1939)が理想郷としての思いを込めて創り上げた17万5千平米の広大な日本庭園が眼前に広がる。朱塗りの観心橋で結ばれた中之島に涵花亭(かんかてい)がたたずみ、その後方の小高い丘の頂きに、旧燈明寺の三重塔が青空に向かってすっくと建っている。この三渓園は関東の桜の名所としても知られている。園内の桜はこの陽気で五分咲きまで進み、静かな庭園に荘厳な雰囲気を添えている。

大池越しに臨む涵花亭(かんかてい) 大池の向こうの丘に聳える旧燈明寺三重塔
大池越しに臨む涵花亭と観心橋 大池の向こうの丘に聳える旧燈明寺三重塔

三渓園マップ
三渓園マップ (見学のしおりより)
 三渓園一帯の土地は、明治元年(1968)に原三渓の養祖父・原善三郎(1827 - 1899)が購入したものである。原善三郎は江戸後期から明治にかけての実業家・政治家で、明治の初期に急速に発展した生糸(きいと)の取り扱いで財をなした。彼は明治20年(1887)、三渓園の南端の本牧海岸寄りに、山荘を建て「松風閣」と名付けた。これが三渓園の始まりである。

 原三渓の幼名は青木富太郎と言い、岐阜県厚見郡佐波村(現在の岐阜市柳津(やないづ)町)で代々庄屋をつとめた青木家の長男として生まれた。明治18年(1885)に、現在の早稲田大学の前身である東京専門学校に入学し、政治・法律を学び、明治21年(1888)、跡見女学校の助教授になる。そこで、教え子だった原善三郎の孫娘の屋寿(やす)と知り合い、明治25年(1892)、請われて原家に婿養子として入籍した。

 原家の家業を継いだ富三郎は、それまでの個人会社を合弁会社に改め、生糸輸出を始めるなどして経営の近代化に力を入れ、実業家として成功した。明治35年(1902)になって原家の本宅を三渓園に移し換えたが、その外観が鶴が羽根を広げた姿に似ていたことから、自ら「鶴翔閣」(かくしょうかく)と名付けた。さらに、付近の地名が”本牧・三之谷”であったことから、富三郎はこの頃から雅号に”三渓”を用いるようになった。また、この頃から古建築の移築を熱心に始めるようになった。

 ちなみに、原三渓が移築してきた古建築を列挙してみよう。
●明治35年(1902)、神社「皇大神宮」を移築する(昭和20年、焼失)。茶室「寒月庵」を移築する(昭和26年、他地へ移築)。住宅「待春軒」を移築する(消失)。「旧天瑞寺寿塔覆堂」を移築する。
●明治40年(1907)、鎌倉山之内から「東慶寺仏殿」を移築する。
●大正3年(1914)、京都相楽郡加茂の燈明寺から三重塔を移築する。
●大正5年(1916)、鎌倉から「天授院」を移築する。
●大正7年(1918)、「月華殿」、「春草庵」を移築する。
●大正11年(1922)、「聴秋閣」の移築を開始する。(翌年、工事完了。三渓による古建築移築の最後)
この間、古建築の移築だけでなく、「横笛庵」や「蓮華庵」、「金毛窟」、「白雲邸」などさまざまな建物も園内に新築している。

原三渓(本名富太郎)の肖像
原三渓(本名富太郎)の肖像
 原三渓のすごいところは、「明媚なる自然の風景は創造主の領域に属する。みだりに私有すべきではない」として、明治39年(1906)に現在の外苑部分にあたる庭園を無料で一般に公開している。さらに近代日本画家の支援・育成にも熱心だった。前田青邨の「御輿振り」や横山大観の「柳陰」、下村観山の「弱法師」など、近代日本画を代表する多くの作品が、三渓の存命中に園内で制作された。


 大正12年(1923)の関東大震災で、園内の「松風閣」など一部の建物が倒壊・損壊の被害を受けた。三渓はそれらを修理するとともに、横浜市復興会長に就任し、それまでの美術品収集や作家支援を止めて、荒廃した横浜の復興に力を注いだ。彼の死後、三渓園は昭和20年(1945)の空襲でも大きな被害を受けた。昭和28年(1953)、原家から庭園の大部分を譲り受けて財団法人三渓園保勝会が設立されると、復旧工事に着手し、現在に至っている。

 三渓園の維持管理が三渓園保勝会に移った後も、次のような移築が行われた。
●昭和35年(1960)、岐阜県白川郷から「旧矢箆原家住宅」が移築される。
●昭和45年(1970)、宗偏流林洞会から茶室「林洞庵」が寄贈される。
●昭和57年(1982)、「燈明寺本堂」の移築が開始される(工事完了は1987年)

 なお、原三渓が自邸の庭園を一般公開してから昨年で100年目にあたり、今年の1月、三渓園が「国の名勝」に指定された。現在、園内には17棟の古建築が点在し、そのうち10棟が国の重要文化財に、3棟が横浜市の有形文化財に指定されている。



かって原家本宅だった鶴翔閣(かくしょうかく)は現在は「利用できる市の有形文化財」

大池の端から対岸の鶴翔閣を望む
大池の端から対岸の鶴翔閣を望む


 三渓園の正門を入り、大池に沿って園路を進むと、その先に大きな茅葺きの建物が見えてくる。原三渓が本宅として建てた建物である。明治35年(1902)に着工し明治42年(1909)に竣工した邸宅は、床面積が約950平米(290坪)と広大である。さらに、その外観が鶴が飛翔する姿に似ていることから、三渓はみずから”鶴翔閣”と名付けた。

 鶴翔閣は、家族の住まいとしての居住棟と、来客用のさまざまな機能を備えた棟から構成されている。大実業家が邸宅として建てたにしては、装飾がほとんどなく非常に簡素な和風建築である。横山大観や下村観山など新進気鋭の日本画家たちが、三渓に招かれて鶴翔閣に滞在し創作活動を行ったことはよく知られている。

 古建築を移築して園内のあちこちに配置している三渓園にしては、茅葺きの屋根を載せていても、鶴翔閣は比較的新しい建物に見えた。そのはずである。かっての建物は創建から100年近くたって損傷がひどくなってしまった。そのため、平成12年(2000)に整備・復元され、創建当初の姿に戻された。現在は会議やパーティ、茶会などさまざまな利用に対応できる貸出施設として、幅広く利用されている。

鶴翔閣の玄関 鶴翔閣の間取り
鶴翔閣の玄関 鶴翔閣の間取り



古建築で構成された瀟洒な庭造りの内苑を楽しむ

 原三渓は明治35年(1902)に原家本宅の築造に着工すると、翌年には庭師を関西方面に派遣して、本格的な造園を開始した。そして、上述したように、明治39年(1906)には現在の外苑を無料で一般に公開している。しかし、私庭であった内苑が一般公開されるのは、昭和33年(1958)になってからである。

 自然の起伏をそのまま活かして上り下りする苑路を進むと、重要文化財に指定されたさまざまな建造物を巡ることができる。順路に従って、主な古建築を紹介しよう。

三渓記念館 御門
三渓記念館 御門

 展示や映像で原三渓の業績やゆかりの美術品を紹介している三渓記念館は、平成元年(1989)に建てられた。その正面に、内苑の入口となる「御門」が建っている。京都東山にあった西方寺の薬医門(本柱の後方に控柱を建て、前へ桁を持ち出し、棟は本柱寄りにある門)を移築したもので、宝永5年(1708)頃の建築とされている。

 三渓園では、移築された主な古建築の知識を深める仕掛けがあちこちに施されている。他でもない、「三渓園 昔むかし」と題する解説パネルである。建物の前に設置された解説パネルには、目の前の建物を概説するだけでなくて、古い建物の外観を写真で示してある。

 大正初め頃の御門の写真には、現在みられる脇のくぐり戸は見あたらないが、左側に受付所のような建物が付設されている。当時は、「桃山御殿門」とか「桃山御門」と呼ばれていたそうだ。御門の奥にある臨春閣(りんしゅんかく)が聚楽第の遺構とされていたための呼称である。しかし、臨春閣が江戸時代初期に建てられた紀州徳川家の別荘「巌出御殿」(いわでごてん)と判明したため、今では単に「御門」と呼ばれている。

 御門を入ると、右手の松の並木の奥に白い土壁の塀が続く、塀の向こうには、三渓が隠居所として大正9年(1920)に建てた数寄屋風の「白雲邸」(市指定有形文化財)がある。亡くなるまでの20年間、三渓はここに住んでいたという。苑路は「臨春閣」の門に突き当たって、左に折れる。

臨春閣−1 臨春閣−2
臨春閣−1(重要文化財) 臨春閣−2

 苑路から眺めると、広大な芝と池の向こうに数寄屋風書院造りの建物が3棟連なって建っている。紀州徳川家初代の頼宣(よりのぶ)が慶安2年(1649)に紀ノ川沿いに建てた別邸・巌出御殿(いわでごてん)を、大正6年(1917)に三渓園に移築したものである。徳川8代将軍は、幼児の頃この巌出御殿で育ち、享保元年(1716)に将軍職に就いた、と言われている。

 巌出御殿は宝暦14年(1764)に取り壊され、泉佐野の長者・飯野左太夫など何人かの手に渡った。明治39年に、三渓がそれを譲り受けて現在の地に移築すると、あらためて「臨春閣」と命名した。襖絵は狩野探幽、狩野安信などが描いている。臨春閣は御三家の別荘の様子を今に伝えるの建築として、我が国の住宅史上、宮家の別荘だった桂離宮と並ぶ双璧とされている。

旧天瑞寺寿塔覆堂 天授院
旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財) 天授院(重要文化財)

 臨春閣の庭に広がる池に橋が架かっている。その橋を渡り、前面の小高い丘を登ると木立の間に、かっての天瑞寺寿塔の覆堂(おおいどう)が建っている。寿塔とは、長寿を祝って生存中に建てる墓のことである。豊臣秀吉は、母の大政所が大病を患ったとき、京都大徳寺の寺域に天瑞寺を建てた。その功徳によって大政所の病気が治ったのを喜び、天正20年(1592)に長寿を祝って寿塔を建てたとされている。三渓園にあるのはその寿塔の覆堂で、明治35年に移築された。寿塔は大徳寺内の竜翔寺にある。

 覆堂の先を小川沿いに上っていくと、右手に「天授院」が建っている。鎌倉の建長寺付近にあった心平寺という廃寺の跡に建っていた地蔵堂である。三渓園には大正5年(1916)に移築された。室町時代後期の禅宗様の建築手法が残っている建物で、近年行われた補修の際に墨書銘が見つかった。その銘によって、慶安4年(1651)に再建された建物であることが判明した。

月華殿 聴秋閣
月華殿(重要文化財) 聴秋閣(重要文化財)

「天授院」の先に「月華殿」がある。もとは徳川家康が慶長8年(1603)に将軍宣下を受けるために伏見城内に建てたもので、その後は伏見城内の大名伺候の際の控室に当てられていたと言い伝えられている。大正7年(1918)に、奈良の骨董商を通じて原家に移築された。

 「月華殿」から苑路を下ってくると、途中に2層の楼閣建物がある。「聴秋閣」である。徳川三代将軍・家光が元和9年(1623)に上洛したとき、京都二条城内に造営させた建物で、その後乳母の春日局(かすがのつぼね)に賜ったと伝えられている。三渓園には大正11年(1922)に移築された。

月華殿 蓮華院
春草盧(重要文化財) 蓮華院

 「聴秋閣」から苑路をさらに下ると、途中に古墳の石棺が置かれている。石棺の身の部分は奈良県の海竜王寺付近から出土したもので、5〜6世紀ごろの家型石棺の一部とされている。石棺の蓋は奈良県法華寺付近から出土した舟形石棺のもので、3〜4世紀のものと表示されている。

古墳の石棺の身と蓋<
古墳の石棺の身と蓋
 瀟洒な日本式庭園には場違いな印象を受ける古墳出土品だが、その場所の奥に「春草盧」(しゅんそうろ)が建っている。織田信長の弟・織田有楽斉(うらくさい)の作と伝えられている三畳台目の茶室である。大正7年(1918)にが三渓園に移築された。三渓は雅客を招いて、ここで茶会を催したとされている。

 「春草盧」の下の方に、竹藪に囲まれた別の茶室が建っている。三渓自身が大正16年(1917)に建てた田舎屋風の建物で、「蓮華院」と名付けた。6畳と2畳中板の茶室があり、土間と壁には宇治平等院鳳凰堂に使われていた太い円柱と格子が用いられている。



四季折々の花が楽しめる外苑のランドマークは三重塔

大池のほとりで桜を満喫する入園者たち
大池のほとりで桜を満喫する入園者たち
 原三渓が明治39年(1906)に一般に公開した外苑は、内苑の瀟洒な庭とは異なり、古建築の間を散策しながら四季折々の花が楽しめる工夫がされている。横浜の桜の名所としても知られる三渓園には方々に桜の木が植えられていて、この時期五分咲き程度の花びらを付けている。大池の周りに植えられた桜の木の下では、大勢の入園者が陽光を一杯に浴びながら、南風にあおられて揺れる枝に咲き誇る花びらを愛でていた。

 外苑の中心的存在は、ランドマークとして小高い丘の上に建つ旧燈明寺の三重塔である。池の端から仰ぎ見る塔は、先端の五輪を天に突き刺すように聳えている。それだけで十分に一幅の絵になるが、友人のF君に頼まれたのは、遠景の写真だけではない。

 池の端にある売店の横から、塔が建つ丘に登る地道が続いている。頂きに近づくに連れて、道の両脇から竹とも笹ともつかぬ植物が覆い被さってくる。途中で道は二股に分かれた。左へ行けば三重塔がある。右へ行けば「松風閣」の建物の前に出る。左に行く園路を選んで出世観音が鎮座する前を通り過ぎると、樹木の間から優美な三重塔がその姿を現した。

丘の上に建つ三十塔 三重塔の全容
丘の上に建つ三重塔(重要文化財) 三重塔の全容

 この三渓園の象徴的な建物は、京都府相楽郡加茂町に所在していた燈明寺にあった仏塔である。燈明寺はすでに廃寺となっていて、現在は存在しない。しかし、天平7年(735)に聖武天皇の勅願によって創建されたことが知られている。平安時代、弘法大師の弟子の真暁(しんぎょう)僧都が中興し、真言宗の寺とした。その後、室町時代の康正3年(1457)に天台宗の忍禅(にんぜん)が寺を修復し、寺号を「東明寺」に改称した。三重塔はこのとき再建されたと言われている。

 江戸時代になって、寛文元年(1661)日蓮宗の日便(にちべん)が檀家の協力を得て荒廃していた寺を修復し、寺号を本光山燈明寺と改めた。しかし、建築様式は室町時代の特徴をそのまま残し、巴瓦も「東明寺」と刻印されている。大正3年(1914)3月、燈明寺にあった塔が三渓園に移築され、庭園の象徴としてその全域から塔の姿が見ることができるように丘の上に建てられた。

巴瓦に東明寺の文字 軒の端に取り付けられた風鐸
巴瓦に東明寺の文字 軒の端に取り付けられた風鐸

 塔の総高は約26m。奈良県で多くの古刹の塔を見てきた筆者には、それほど高いとは思えないが、塔に下に建って三層の屋根を仰ぎ見ると、なぜか不思議な安堵感のような安らぎを覚えた。どの角度から見上げても、屋根裏の組み物の木々が歴史の重みを感じさせる。関東で最古の塔と言われている由縁である。三渓がどのようないきさつで、この仏塔を手に入れたのかは知らない。だが、彼もおそらく塔のもつ気品さに深い感銘を受けたにちがいない。だからこそ、己の庭園のどこからでも仰ぎ見る場所に、この塔を建てた。

下から見上げた三重の屋根 軒先の組み物
下から見上げた三重の屋根 古色を滲ませる軒先の組み物


 三重塔から道を戻って、分岐点から反対方向に進むと「松風閣」がある。と言っても、三渓の養祖父・原善三郎が明治20年(1887)頃に東京湾の絶景を望むことができる本牧海岸寄りに築造した建物ではない。当時の建物は玄関部分が煉瓦造りで、窓などに中国風の意匠が見られた。「松風閣」という名称は、伊藤博文が命名したものである。三渓の代になって、鶴翔閣が建てられると、松風閣は重要な客をもてなすゲストハウスとして増築されたが、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊してしまった。

現在の松風閣< 松風閣から眺めた景観
現在の松風閣 松風閣から眺めた景観

 現在のものは、その後に展望台として造られたものである。以前と同じく東京湾の絶景を望むことができる断崖の上に建っているが、現在は周囲の樹木が生長して見通しは良くない。


林洞庵 旧東慶寺仏殿
林洞庵 旧東慶寺仏殿(重要文化財)

 旧燈明寺の三重塔が建っている丘の麓に、「林洞庵」という名の茶室がある。昭和45年(1970)に 宗偏流林洞会から寄贈された茶室で、八畳の広間と四畳の小間からなっている。近くには「横笛庵」という田舎屋風の草庵もある。

 「林洞庵」から見て南の木立の中に、禅宗様の「旧東慶寺仏殿」が建っている。この建物は、鎌倉の東慶寺にあった仏殿を明治40年(1907)に移築したものである。東慶寺は弘安8年(1285)、北条時宗の妻だった覚山尼が創建した寺で、室町時代の永正6年(1509)ごろに再建された。駆け込み寺あるいは縁切り寺として知られた寺だった。


旧矢箆原家住宅 旧燈明寺本堂
旧矢箆原家住宅(重要文化財) 旧燈明寺本堂(重要文化財)

 「旧東慶寺仏殿」の左手に、合掌造りの巨大な建っている。矢箆原(やのはら)家の旧住宅である。この建物は岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にあった江戸時代からの庄屋の家だった。しかし御母衣(みぼろ)ダムの建設によって湖底に沈むようになったので、所有者の矢箆原家から三渓園に寄贈された。移築は昭和35年(1960)に行われた。園内で唯一内部を公開している古建築で、半分が普通の農家の板張りの床、半分が来客用の畳敷き屋敷という構造になっている。囲炉裏では、毎日薪がくべられているそうだ。

 京都符相楽郡加茂町の燈明寺から移築されてきた建物が、三重塔以外にもう一点ある。外苑の大池に面して建てられている寺の本堂である。燈明寺は日蓮宗の寺院だったが、上に述べたように奈良時代の天平7年(735)に聖武天皇の勅願によって創建された由緒ある寺院である。しかし、様式からみて、室町時代初期の頃に建て替えられたものと推測されている。

 昭和22年(1947)の台風で、燈明寺の本堂が被害を受けた。そこで、2年後の昭和24年に本堂を解体して修理することになり、工事に着手した。しかし、寺内部でさまざまな問題を抱えていたため、保存小屋に解体部材が格納されたままとなっていた。昭和57年(1982)になって所有者が移ったのを機会に、部材を三渓園に運搬して組み立てることになった。5年がかりで移築・保存作業が行われ、昭和62年(1987)に30年ぶりで中世密教寺院姿がよみがえった。

 旧燈明寺から本堂から苑路をさらに北に取ると、三渓園天満宮があり、その前に「観心橋」という朱塗りの橋が架かっている。このあたりは、桜の木が満開の時期を迎えようとしていて、携帯電話のカメラで撮影している見学者が多い。観心橋を渡ると、大池の中に築かれた「涵花亭」(かんかてい)がある。そこでも、ベンチに腰を下ろして周囲の景観を堪能している見学者の姿が目立つ。三渓園の外苑は、本当に四季折々の花を楽しめるように造られているようだ。

 
観心橋と涵花亭
観心橋と涵花亭



2007/03/31作成 by pancho_de_ohsei return