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| 三渓園のシンボル的存在は旧燈明寺から移築した三重塔 (2007/03/29 撮影) |
探訪の動機は、知人から受けた写真撮影の依頼
京都府の相楽郡加茂町在住のF君は大学時代の同期生である。そのF君から数日前の夜、携帯に電話がかかってきた。開口一番、彼は「今どちらにいる?」と聞いた。どうやら、橿原のアパートを根城にして相変わらず近くの史跡探訪に熱中していると思いこんでいたようだ。自宅だ、と答えると、
その依頼というのは、横浜の三渓園に行って、三重塔の写真を撮ってきてほしい、というものだった。理由を聞くと、彼は次のように話した。 最近は郷土史にも興味を持ち始めたF君である。昨年の夏は、弥勒磨崖仏を本尊に祀る鹿鷺山笠置寺を紹介してくれた。諸般の事情ですぐには上京できない残念さが、電話口の彼の声ににじみ出ていた。インターネットで三渓園のホームページにアクセスすれば簡単に見れるよ、と教えてやると、残念ながら俺はインターネットはやらないとのことだった。
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かって原家本宅だった鶴翔閣
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| 大池の端から対岸の鶴翔閣を望む |
三渓園の正門を入り、大池に沿って園路を進むと、その先に大きな茅葺きの建物が見えてくる。原三渓が本宅として建てた建物である。明治35年(1902)に着工し明治42年(1909)に竣工した邸宅は、床面積が約950平米(290坪)と広大である。さらに、その外観が鶴が飛翔する姿に似ていることから、三渓はみずから”鶴翔閣”と名付けた。
鶴翔閣は、家族の住まいとしての居住棟と、来客用のさまざまな機能を備えた棟から構成されている。大実業家が邸宅として建てたにしては、装飾がほとんどなく非常に簡素な和風建築である。横山大観や下村観山など新進気鋭の日本画家たちが、三渓に招かれて鶴翔閣に滞在し創作活動を行ったことはよく知られている。
古建築を移築して園内のあちこちに配置している三渓園にしては、茅葺きの屋根を載せていても、鶴翔閣は比較的新しい建物に見えた。そのはずである。かっての建物は創建から100年近くたって損傷がひどくなってしまった。そのため、平成12年(2000)に整備・復元され、創建当初の姿に戻された。現在は会議やパーティ、茶会などさまざまな利用に対応できる貸出施設として、幅広く利用されている。
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| 鶴翔閣の玄関 | 鶴翔閣の間取り |
古建築で構成された瀟洒な庭造りの内苑を楽しむ原三渓は明治35年(1902)に原家本宅の築造に着工すると、翌年には庭師を関西方面に派遣して、本格的な造園を開始した。そして、上述したように、明治39年(1906)には現在の外苑を無料で一般に公開している。しかし、私庭であった内苑が一般公開されるのは、昭和33年(1958)になってからである。 自然の起伏をそのまま活かして上り下りする苑路を進むと、重要文化財に指定されたさまざまな建造物を巡ることができる。順路に従って、主な古建築を紹介しよう。
展示や映像で原三渓の業績やゆかりの美術品を紹介している三渓記念館は、平成元年(1989)に建てられた。その正面に、内苑の入口となる「御門」が建っている。京都東山にあった西方寺の薬医門(本柱の後方に控柱を建て、前へ桁を持ち出し、棟は本柱寄りにある門)を移築したもので、宝永5年(1708)頃の建築とされている。 三渓園では、移築された主な古建築の知識を深める仕掛けがあちこちに施されている。他でもない、「三渓園 昔むかし」と題する解説パネルである。建物の前に設置された解説パネルには、目の前の建物を概説するだけでなくて、古い建物の外観を写真で示してある。 大正初め頃の御門の写真には、現在みられる脇のくぐり戸は見あたらないが、左側に受付所のような建物が付設されている。当時は、「桃山御殿門」とか「桃山御門」と呼ばれていたそうだ。御門の奥にある臨春閣(りんしゅんかく)が聚楽第の遺構とされていたための呼称である。しかし、臨春閣が江戸時代初期に建てられた紀州徳川家の別荘「巌出御殿」(いわでごてん)と判明したため、今では単に「御門」と呼ばれている。 御門を入ると、右手の松の並木の奥に白い土壁の塀が続く、塀の向こうには、三渓が隠居所として大正9年(1920)に建てた数寄屋風の「白雲邸」(市指定有形文化財)がある。亡くなるまでの20年間、三渓はここに住んでいたという。苑路は「臨春閣」の門に突き当たって、左に折れる。
苑路から眺めると、広大な芝と池の向こうに数寄屋風書院造りの建物が3棟連なって建っている。紀州徳川家初代の頼宣(よりのぶ)が慶安2年(1649)に紀ノ川沿いに建てた別邸・巌出御殿(いわでごてん)を、大正6年(1917)に三渓園に移築したものである。徳川8代将軍は、幼児の頃この巌出御殿で育ち、享保元年(1716)に将軍職に就いた、と言われている。 巌出御殿は宝暦14年(1764)に取り壊され、泉佐野の長者・飯野左太夫など何人かの手に渡った。明治39年に、三渓がそれを譲り受けて現在の地に移築すると、あらためて「臨春閣」と命名した。襖絵は狩野探幽、狩野安信などが描いている。臨春閣は御三家の別荘の様子を今に伝えるの建築として、我が国の住宅史上、宮家の別荘だった桂離宮と並ぶ双璧とされている。
臨春閣の庭に広がる池に橋が架かっている。その橋を渡り、前面の小高い丘を登ると木立の間に、かっての天瑞寺寿塔の覆堂(おおいどう)が建っている。寿塔とは、長寿を祝って生存中に建てる墓のことである。豊臣秀吉は、母の大政所が大病を患ったとき、京都大徳寺の寺域に天瑞寺を建てた。その功徳によって大政所の病気が治ったのを喜び、天正20年(1592)に長寿を祝って寿塔を建てたとされている。三渓園にあるのはその寿塔の覆堂で、明治35年に移築された。寿塔は大徳寺内の竜翔寺にある。 覆堂の先を小川沿いに上っていくと、右手に「天授院」が建っている。鎌倉の建長寺付近にあった心平寺という廃寺の跡に建っていた地蔵堂である。三渓園には大正5年(1916)に移築された。室町時代後期の禅宗様の建築手法が残っている建物で、近年行われた補修の際に墨書銘が見つかった。その銘によって、慶安4年(1651)に再建された建物であることが判明した。
「天授院」の先に「月華殿」がある。もとは徳川家康が慶長8年(1603)に将軍宣下を受けるために伏見城内に建てたもので、その後は伏見城内の大名伺候の際の控室に当てられていたと言い伝えられている。大正7年(1918)に、奈良の骨董商を通じて原家に移築された。 「月華殿」から苑路を下ってくると、途中に2層の楼閣建物がある。「聴秋閣」である。徳川三代将軍・家光が元和9年(1623)に上洛したとき、京都二条城内に造営させた建物で、その後乳母の春日局(かすがのつぼね)に賜ったと伝えられている。三渓園には大正11年(1922)に移築された。
「聴秋閣」から苑路をさらに下ると、途中に古墳の石棺が置かれている。石棺の身の部分は奈良県の海竜王寺付近から出土したもので、5〜6世紀ごろの家型石棺の一部とされている。石棺の蓋は奈良県法華寺付近から出土した舟形石棺のもので、3〜4世紀のものと表示されている。
「春草盧」の下の方に、竹藪に囲まれた別の茶室が建っている。三渓自身が大正16年(1917)に建てた田舎屋風の建物で、「蓮華院」と名付けた。6畳と2畳中板の茶室があり、土間と壁には宇治平等院鳳凰堂に使われていた太い円柱と格子が用いられている。 |
四季折々の花が楽しめる外苑のランドマークは三重塔
外苑の中心的存在は、ランドマークとして小高い丘の上に建つ旧燈明寺の三重塔である。池の端から仰ぎ見る塔は、先端の五輪を天に突き刺すように聳えている。それだけで十分に一幅の絵になるが、友人のF君に頼まれたのは、遠景の写真だけではない。 池の端にある売店の横から、塔が建つ丘に登る地道が続いている。頂きに近づくに連れて、道の両脇から竹とも笹ともつかぬ植物が覆い被さってくる。途中で道は二股に分かれた。左へ行けば三重塔がある。右へ行けば「松風閣」の建物の前に出る。左に行く園路を選んで出世観音が鎮座する前を通り過ぎると、樹木の間から優美な三重塔がその姿を現した。
この三渓園の象徴的な建物は、京都府相楽郡加茂町に所在していた燈明寺にあった仏塔である。燈明寺はすでに廃寺となっていて、現在は存在しない。しかし、天平7年(735)に聖武天皇の勅願によって創建されたことが知られている。平安時代、弘法大師の弟子の真暁(しんぎょう)僧都が中興し、真言宗の寺とした。その後、室町時代の康正3年(1457)に天台宗の忍禅(にんぜん)が寺を修復し、寺号を「東明寺」に改称した。三重塔はこのとき再建されたと言われている。 江戸時代になって、寛文元年(1661)日蓮宗の日便(にちべん)が檀家の協力を得て荒廃していた寺を修復し、寺号を本光山燈明寺と改めた。しかし、建築様式は室町時代の特徴をそのまま残し、巴瓦も「東明寺」と刻印されている。大正3年(1914)3月、燈明寺にあった塔が三渓園に移築され、庭園の象徴としてその全域から塔の姿が見ることができるように丘の上に建てられた。
塔の総高は約26m。奈良県で多くの古刹の塔を見てきた筆者には、それほど高いとは思えないが、塔に下に建って三層の屋根を仰ぎ見ると、なぜか不思議な安堵感のような安らぎを覚えた。どの角度から見上げても、屋根裏の組み物の木々が歴史の重みを感じさせる。関東で最古の塔と言われている由縁である。三渓がどのようないきさつで、この仏塔を手に入れたのかは知らない。だが、彼もおそらく塔のもつ気品さに深い感銘を受けたにちがいない。だからこそ、己の庭園のどこからでも仰ぎ見る場所に、この塔を建てた。
三重塔から道を戻って、分岐点から反対方向に進むと「松風閣」がある。と言っても、三渓の養祖父・原善三郎が明治20年(1887)頃に東京湾の絶景を望むことができる本牧海岸寄りに築造した建物ではない。当時の建物は玄関部分が煉瓦造りで、窓などに中国風の意匠が見られた。「松風閣」という名称は、伊藤博文が命名したものである。三渓の代になって、鶴翔閣が建てられると、松風閣は重要な客をもてなすゲストハウスとして増築されたが、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊してしまった。
現在のものは、その後に展望台として造られたものである。以前と同じく東京湾の絶景を望むことができる断崖の上に建っているが、現在は周囲の樹木が生長して見通しは良くない。
旧燈明寺の三重塔が建っている丘の麓に、「林洞庵」という名の茶室がある。昭和45年(1970)に 宗偏流林洞会から寄贈された茶室で、八畳の広間と四畳の小間からなっている。近くには「横笛庵」という田舎屋風の草庵もある。 「林洞庵」から見て南の木立の中に、禅宗様の「旧東慶寺仏殿」が建っている。この建物は、鎌倉の東慶寺にあった仏殿を明治40年(1907)に移築したものである。東慶寺は弘安8年(1285)、北条時宗の妻だった覚山尼が創建した寺で、室町時代の永正6年(1509)ごろに再建された。駆け込み寺あるいは縁切り寺として知られた寺だった。
「旧東慶寺仏殿」の左手に、合掌造りの巨大な建っている。矢箆原(やのはら)家の旧住宅である。この建物は岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にあった江戸時代からの庄屋の家だった。しかし御母衣(みぼろ)ダムの建設によって湖底に沈むようになったので、所有者の矢箆原家から三渓園に寄贈された。移築は昭和35年(1960)に行われた。園内で唯一内部を公開している古建築で、半分が普通の農家の板張りの床、半分が来客用の畳敷き屋敷という構造になっている。囲炉裏では、毎日薪がくべられているそうだ。 京都符相楽郡加茂町の燈明寺から移築されてきた建物が、三重塔以外にもう一点ある。外苑の大池に面して建てられている寺の本堂である。燈明寺は日蓮宗の寺院だったが、上に述べたように奈良時代の天平7年(735)に聖武天皇の勅願によって創建された由緒ある寺院である。しかし、様式からみて、室町時代初期の頃に建て替えられたものと推測されている。 昭和22年(1947)の台風で、燈明寺の本堂が被害を受けた。そこで、2年後の昭和24年に本堂を解体して修理することになり、工事に着手した。しかし、寺内部でさまざまな問題を抱えていたため、保存小屋に解体部材が格納されたままとなっていた。昭和57年(1982)になって所有者が移ったのを機会に、部材を三渓園に運搬して組み立てることになった。5年がかりで移築・保存作業が行われ、昭和62年(1987)に30年ぶりで中世密教寺院姿がよみがえった。 旧燈明寺から本堂から苑路をさらに北に取ると、三渓園天満宮があり、その前に「観心橋」という朱塗りの橋が架かっている。このあたりは、桜の木が満開の時期を迎えようとしていて、携帯電話のカメラで撮影している見学者が多い。観心橋を渡ると、大池の中に築かれた「涵花亭」(かんかてい)がある。そこでも、ベンチに腰を下ろして周囲の景観を堪能している見学者の姿が目立つ。三渓園の外苑は、本当に四季折々の花を楽しめるように造られているようだ。
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