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| 平和台野球場跡地に建つ鴻臚館跡展示館 (2007/03/18 撮影) |
古代アジアの国際交流の玄関口にあった鴻臚館
福岡城の跡地には、豊田泰光、中西太、大下弘、稲尾和久などを擁して黄金時代を築いた西鉄ライオンズのホームグランウンド平和台球場があった。いまだに、日本シリーズで3連敗の後の雨による中止が引き金となって奇跡の4連勝で読売ジャイアンツを下した稲尾投手の活躍は、記憶の隅に残っている。昭和33年(西暦1958)のことである。 平成4年(1992)に多目的ドーム球場(福岡ドーム)が完成し、プロ野球公式戦の開催球場としての平和台球場の使命は終わった。それに先だって昭和62年(1987)の末に球場の改修工事を行ったとき、「古代アジアの玄関口」とされる鴻臚館遺跡が発見された。そのため、球場閉鎖後に遺跡の発掘を進めるとともに同所を歴史公園として再整備された。球場の跡地には外野スタンド跡が今も残されている。 鴻臚館遺跡の発掘調査は、調査範囲を広げながら現在も進行中である。鴻臚館は大宰府(福岡県太宰府市)の諸機関のひとつとされているが、まだその全容は明らかになっていない。2021年まで続く発掘調査は、徐々に在りし日の姿を明らかにしてくれるはずだ。フェンスに囲われた以前の球場グラウンドには、重機が入ってあちこちが掘り返されている。そのフェンスの向こうに、寄せ棟の屋根を載せた鴻臚館跡展示館の建物が見えた。
ところが、受付の男性から「もしよろしかったら、発掘の成果を簡単に説明しましょうか」と申し出があったので、喜んで受けることにした。他に来館者もおらず、おそらく退屈していたのだろう。彼は、発掘された主な遺構を示した航空写真のパネルの前で、鴻臚館の変遷の概略を要領よく説明してくれた。 今までの発掘調査によって、鴻臚館の遺構は5つの時期に区分されるという。ただし、建物の遺構が検出されたのは、第1期〜3期までで、第4期(9世紀後半〜)・第5期(10世紀後半〜11世紀前半)のものは、福岡城建築による破壊を受けたため建物遺構は検出されていない。その代わり、陶磁器などが大量に出土しているとのことだ。第一期は飛鳥・藤原時代、第二期は奈良時代前半、そして第三期は奈良時代後半で、その礎石建物跡が、色分けして写真パネルに表示されている。 大宰府の機関の一つとして機能した鴻臚館は、大宰府と直線的な官道で結ばれていた可能性が高い。奈良時代までは鴻臚館は筑紫館と呼ばれていて、唐や新羅からの外交使節の饗応や、日本から唐や新羅へ向かう遣唐使・遣新羅使・留学生の宿泊施設として利用されていたようだ。平安時代になると筑紫館から鴻臚館と名前が変えられたが、菅原道真の献策によって894年に遣唐使が廃止された後も、唐の商人の接待・外国人の検問や貿易などに用いられる外交の場として機能していた。
興味深かったのは、飛鳥時代の当初から谷を挟んで北と南にそれぞれ建物が建てられていた点だ。あるいは、一方は宴会場など饗応を目的とした建物で、もう一方は宿泊施設だったのかもしれない。北館・南館ともに東側に門があった。法隆寺の東大門とほぼ同じ大きさの八脚門という格式の高い門だったことが確認されている。また、北館と南館を隔てる堀から橋脚の柱穴が発掘されたことから、鴻臚館の南北の建物は濠を挟んで橋で結ばれていたと推測されている。
推定復元された朱塗りの柱の宿坊を眺めていると、ある光景が空想されてくるから面白い。推古天皇15年(西暦607)7月に隋に派遣された遣隋使たちは、翌年の4月に帰国した。予想もしなかったことに、彼らは文林郎・裴世清(はいせいせい)のほか12名からなる隋の答礼使節を伴っていた。この使節団を受け入れる館(むろつみ)が難波には存在しなかったため、急いで新築することになり、その間かれらは筑紫のに留め置かれた。一行が小野妹子たちと一緒に逗留していたのは、おそらく筑紫館の宿坊だっただろう。 小野妹子と裴世清は毎日のように筑紫館の中で顔を合わせ、裴世清は何時になったら大和へ入れるのかと、妹子を責め立てたであろう。彼らが、難波津に着いたのは6月15日である。したがって、少なくとも1ヶ月以上は、この土地のこの館で無為な日々を送ることを余儀なくされたことになる。 |