橿原日記 平成19年3月18日

史跡鴻臚館跡(しせきこうろかんあと)で、いにしえの那津(なのつ)を偲ぶ

鴻臚館跡展示館
平和台野球場跡地に建つ鴻臚館跡展示館 (2007/03/18 撮影)

史跡鴻臚館跡を訪ねる

 この日、午前中に岩戸山古墳石人山古墳を見学した後、西鉄電車天神大牟田線の特急で久留米から福岡の天神に戻ってきた。時計を見ると、正午を少し過ぎている。山口市の湯田温泉での同窓会は宴会が午後6時から。それまでに旅館へ到着すれば良い。久しぶりの福岡で自由な時間ができたので、鴻臚館跡展示館に立ち寄ってみることにした。

福岡城の外堀
福岡城の外堀
福岡城の3号堀沿いの明示通り
福岡城3号堀沿いの明示通り
 鴻臚館跡展示館は舞鶴公園内の平和台球場跡地にある。舞鶴公園は国指定史跡である福岡城の城跡を整備した公園で、福岡市の繁華街・天神からも近い。地下鉄空港線で「天神」駅から一つ目の「赤坂」駅まで行き、そこから10分も歩けば展示館に到着できる。春の柔らかい日差しが降り注ぐ午後なので、散歩がてらに福岡城の3号堀を左手に見ながら明治通りを西に歩くのも悪くない。

 福岡市教育委員会が作成したパンフレット「史跡 鴻臚館跡」の解説によれば、鴻臚館とは、我が国の古代に中国の唐や朝鮮半島の新羅などの外交使節をもてなした迎賓館であり、我が国の遣唐使や遣新羅使の送迎の施設だった。飛鳥時代や奈良時代には筑紫大郡、筑紫小郡、筑紫館(つくしのむろつみ)など、時に応じてさまざまな名で呼ばれたが、平安時代になって、中国の外交使節である「鴻臚寺」(こうろじ)にならって「鴻臚館」という名称に統一した。

 発掘調査によって、鴻臚館は7世紀の後半に博多湾に突き出た丘陵上に築かれたことが判明している。大きな谷を南北から挟んでいる丘陵の尾根を利用して南館と北館を造成し、谷を濠として取り込んでいたという。

 その鴻臚館が平安時代の永承2年(西暦1047)に放火され、歴史資料からはその名が姿を消してしまう。だが、7世紀後半から11世紀前半までのおよそ400年間、対外交渉の窓口として重要な役割を果たした国家の施設だった。

鴻臚館の所在地
鴻臚館の所在地 (*)
 上記のパンフレットの表紙には、鴻臚館が所在した場所を航空写真で示している。その場所には、かってプロ野球球団の西武ライオンズが本拠地として利用した平和台球場が築かれていた。平和台球場は平成9年(1997)に閉鎖されたが、その10年前の昭和62年、鴻臚館の遺跡が球場改修工事中に発見された。そのため、球場閉鎖後に遺跡の発掘を進めるとともに、同所を歴史公園として整備された。発掘調査は現在も進行中である。

 古代、明治通り付近まで博多湾が迫っていたと思われる。現在の史跡鴻臚館跡の北に位置する西公園は、万葉時代は唐津崎と呼ばれた半島の先端だった。また湾の入江に浮かぶ能古島は、防人(さきもり)が置かれた歴史ある島であるが、その東端は也良崎(やらさき)と呼ばれていた。万葉集の第十六巻「有由縁并雜歌」の3866に次の歌が詠まれている。
沖つ鳥 鴨とふ船の帰り来ば 也良の防人 早く告げこそ (巻16−3866)


 筆者が思いを馳せているのは、7世紀初頭の博多湾の光景である。推古天皇15年(西暦607)、小野臣妹子(おののおみ・いもこ)は遣隋使節の大使を拝命して、その年の7月始め、難波の津を船出した。ほぼ1ヶ月の瀬戸内の船旅の後に、一行は那津(なのつ)に到着した。那津は当時博多湾にあった港である。

鴻臚館跡展示館に飾られた遣唐使船の模型
鴻臚館跡展示館に飾られた遣唐使船の模型
 玄界灘を越えて船出していくための良風を得るため、遣隋使の一行は何日も港で足止めされた。その間、妹子は毎日のように那津の浜辺に出て、前方に広がる大海原を眺めたにちがいない。浜辺に立つと、前方左手には能古島が、前方右手には志賀島がこんもりとした影を落としている。その先に洋々たる玄界灘が広がっていて、荒れた海の白い波濤が望見できた。

 妹子の任務は大役だった。己の行く手に待ち受けている運命を見定めるように、彼の視線は玄界灘のさらにその先を見ていたにちがいない。そのとき、彼はどのような感慨を抱いていたであろうか。平成13年4月に壱岐・対馬を旅行したとき、筆者は夕暮れが迫る博多港の岸壁に長時間たたずんで、当時の妹子の心境を勝手に想像したことがあった。そのとき、筆者の周囲にあったのは、間違いなくタイムスリップした7世紀初頭の博多湾の光景だった。

 小野妹子が遣隋大使として大陸の超大国・隋に赴いた年の2年後、筑紫大宰(つくしのおおみこともちのつかさ)から、「百済の僧俗85人を乗せた船が肥後国の葦北津(あしきたのつ)に漂着した」との知らせが、大和朝廷に伝えられた。筑紫大宰とは、後の律令制度では大宰帥(だざいのそち)と呼ばれた大宰府の長官に相当する政府高官である。

博多湾を臨む鴻臚館のイメージ地
比恵遺跡の倉庫群
 筑紫大宰に関係すると思われる記述が、『日本書紀』の宣化紀に載っている。宣化天皇元年(西暦536)、大和朝廷は、非常に備えて各地から集めた食料を保管する官家(みやけ)を那津(なのつ、現在の博多付近)に造らせた。これが那津官家(なのつのみやけ)と呼ばれるものである。古代の史料では、官家は「屯倉」「屯家」「御宅」などとも表記される。その実態は、大和朝廷の経済的基盤で、直轄地を意味すると理解してよい。

 那津官家はおそらく、九州統治と外交交渉、および軍事のための出先機関として設置されたもので、後に大宰府に発展した機関だったと言われている。那津官家は、現在の福岡市南区の三宅(みやけ)周辺にあったものと推定されてきた。ところが、博多区博多駅南にある比恵遺跡(ひえいせき)を1984年に調査したところ、6世紀後半から7世紀後半の時期の、官衙の跡と見られる掘立柱建物群や柵に囲まれた多数の倉庫跡が見つかった。その後、早良区の有田遺跡でも同様の遺構が発見された。

 このため、那津官家は博多湾に広がる広い範囲で考えられるようになった。西暦663年に白村江の海戦で我が国の水軍が惨敗すると、唐・新羅の連合軍が北九州に侵攻してくる恐怖が現実のものになった。そこで、時の政府は、官衙などの主要な施設を現在の大宰府に移転させて、それを守るために水城大野城などを築造したと言われている。

博多湾を臨む鴻臚館のイメージ地
博多湾を臨む鴻臚館のイメージ (**)
 福岡市教育委員会は、「筑紫大宰と呼ばれた中央派遣の官人がこの那津官家に常駐していた可能性が高い」としている。那津官家の中心的組織・機関はその後大宰府政庁に発展し、ついには“遠の朝廷(とおのみかど)”と呼ばれるようになったのであろう。その場合、筑紫館と呼ばれた後の鴻臚館との関係が気になるが、一般には、後者は外国使節をもてなす迎賓館として、博多湾を見下ろす丘陵上に営まれた営まれた関連施設だったと推測されている。



古代アジアの国際交流の玄関口にあった鴻臚館

展示館に推定復元された鴻臚館の建物
展示館の内部に推定復元された鴻臚館の建物の一部


発掘調査中の表示
発掘調査中の表示
外野スタンド跡
保存されている外野スタンド跡
 濠の向こうに聳える福岡高等裁判所の建物を左に見ながら進むと、やがて「平和台球場前」の交差点に出る。そこを左に折れ濠を渡ると、かって九州最大の規模を誇った筑前福岡城の跡地に築かれた舞鶴公園に入る。

 福岡城の跡地には、豊田泰光、中西太、大下弘、稲尾和久などを擁して黄金時代を築いた西鉄ライオンズのホームグランウンド平和台球場があった。いまだに、日本シリーズで3連敗の後の雨による中止が引き金となって奇跡の4連勝で読売ジャイアンツを下した稲尾投手の活躍は、記憶の隅に残っている。昭和33年(西暦1958)のことである。

 平成4年(1992)に多目的ドーム球場(福岡ドーム)が完成し、プロ野球公式戦の開催球場としての平和台球場の使命は終わった。それに先だって昭和62年(1987)の末に球場の改修工事を行ったとき、「古代アジアの玄関口」とされる鴻臚館遺跡が発見された。そのため、球場閉鎖後に遺跡の発掘を進めるとともに同所を歴史公園として再整備された。球場の跡地には外野スタンド跡が今も残されている。

 鴻臚館遺跡の発掘調査は、調査範囲を広げながら現在も進行中である。鴻臚館は大宰府(福岡県太宰府市)の諸機関のひとつとされているが、まだその全容は明らかになっていない。2021年まで続く発掘調査は、徐々に在りし日の姿を明らかにしてくれるはずだ。フェンスに囲われた以前の球場グラウンドには、重機が入ってあちこちが掘り返されている。そのフェンスの向こうに、寄せ棟の屋根を載せた鴻臚館跡展示館の建物が見えた。


鴻臚館跡展示館の正面
鴻臚館跡展示館の正面
発掘された主な遺構
発掘された主な遺構(**)
 鴻臚館跡展示館は、すでに調査が終了した建物遺構を発掘時の状態のまま保存するために建てられた。見学は無料である。玄関脇で受付で、福岡市教育委員会が作成した「史跡 鴻臚館跡」というパンフレットを渡された。来館者は各自が自由に見学するシステムになっており、鴻臚館の概要は、展示館の壁に貼られた写真や解説パネルで理解できるように配慮されている。

 ところが、受付の男性から「もしよろしかったら、発掘の成果を簡単に説明しましょうか」と申し出があったので、喜んで受けることにした。他に来館者もおらず、おそらく退屈していたのだろう。彼は、発掘された主な遺構を示した航空写真のパネルの前で、鴻臚館の変遷の概略を要領よく説明してくれた。

 今までの発掘調査によって、鴻臚館の遺構は5つの時期に区分されるという。ただし、建物の遺構が検出されたのは、第1期〜3期までで、第4期(9世紀後半〜)・第5期(10世紀後半〜11世紀前半)のものは、福岡城建築による破壊を受けたため建物遺構は検出されていない。その代わり、陶磁器などが大量に出土しているとのことだ。第一期は飛鳥・藤原時代、第二期は奈良時代前半、そして第三期は奈良時代後半で、その礎石建物跡が、色分けして写真パネルに表示されている。

 大宰府の機関の一つとして機能した鴻臚館は、大宰府と直線的な官道で結ばれていた可能性が高い。奈良時代までは鴻臚館は筑紫館と呼ばれていて、唐や新羅からの外交使節の饗応や、日本から唐や新羅へ向かう遣唐使・遣新羅使・留学生の宿泊施設として利用されていたようだ。平安時代になると筑紫館から鴻臚館と名前が変えられたが、菅原道真の献策によって894年に遣唐使が廃止された後も、唐の商人の接待・外国人の検問や貿易などに用いられる外交の場として機能していた。

発掘された奈良時代後期の建物遺構 展示館の外に復元されている建物遺構
発掘された奈良時代後期の建物遺構 展示館の外に復元されている建物遺構

 興味深かったのは、飛鳥時代の当初から谷を挟んで北と南にそれぞれ建物が建てられていた点だ。あるいは、一方は宴会場など饗応を目的とした建物で、もう一方は宿泊施設だったのかもしれない。北館・南館ともに東側に門があった。法隆寺の東大門とほぼ同じ大きさの八脚門という格式の高い門だったことが確認されている。また、北館と南館を隔てる堀から橋脚の柱穴が発掘されたことから、鴻臚館の南北の建物は濠を挟んで橋で結ばれていたと推測されている。

実物大に復元された平安時代の宿坊
実物大に復元された平安時代の宿坊(**)
 展示館の中には、平安時代の南館にあった宿坊が一部実物大に推定復元されている。残りの部分は展示館の庭に礎石建物跡として整備されているが、その南の端にトイレがあった。そのトイレ穴の寄生虫を分析したところ、豚や猪を常食とする外国人専用のトイレと、日本人のトイレが別々だったと、だいぶ前に新聞で報道されていた。

 推定復元された朱塗りの柱の宿坊を眺めていると、ある光景が空想されてくるから面白い。推古天皇15年(西暦607)7月に隋に派遣された遣隋使たちは、翌年の4月に帰国した。予想もしなかったことに、彼らは文林郎・裴世清(はいせいせい)のほか12名からなる隋の答礼使節を伴っていた。この使節団を受け入れる館(むろつみ)が難波には存在しなかったため、急いで新築することになり、その間かれらは筑紫のに留め置かれた。一行が小野妹子たちと一緒に逗留していたのは、おそらく筑紫館の宿坊だっただろう。

 小野妹子と裴世清は毎日のように筑紫館の中で顔を合わせ、裴世清は何時になったら大和へ入れるのかと、妹子を責め立てたであろう。彼らが、難波津に着いたのは6月15日である。したがって、少なくとも1ヶ月以上は、この土地のこの館で無為な日々を送ることを余儀なくされたことになる。



(*) 福岡市教育委員会作成パンフ「史跡 鴻臚寺跡」より転記
(**) 展示館の説明パネルよりコピー

2007/03/26作成 by pancho_de_ohsei return