![]() |
| 岩戸山古墳遠望 (2007/03/18 撮影) |
|
もう一つの理由は、磐井が己を権勢を誇示するため、埴輪とは別に、多数の石人・石馬などの石製品で墳丘を飾っていた点である。特に、裁判の模様を石製品で表していた方形の区画が、古墳の北東隅に存在することはよく知られている。このため、岩戸山古墳は昭和30年(1955)12月に国の史跡の指定を受けている。 磐井の乱が勃発したのは、継体天皇の治世21年目にあたる西暦527年。今から1480年も昔のことである。今年は継体天皇即位1500年の節目の年であり、天皇ゆかりの地ではさまざまな催しが計画されている。その継体王朝を向こうにまわして武力蜂起した筑紫君磐井という人物に、以前から個人的な関心を抱いてきた。 しかし、なぜか岩戸山古墳を訪れる機会がなかったが、昨日たまたま大野城跡の発掘調査現地説明会に参加するため太宰府まで来た。せっかくの機会なので、久留米市で一泊し、本日バスで八女市を訪れることにした。以下は、この著名な古墳を訪れたときの雑感である。 |
死後の政治的権威を知らしめるため別区を造らせた磐井の権勢欲
今日の久留米地方は、朝から実によく晴れ渡った。駅前のビルの間から見上げると、刷毛で掃いたような薄雲がいくつか浮かんでいる。だが、ビルの陰ではさすがに空気は冷たかった。8時20分、西鉄久留米駅から出る八女方面行きのバスに乗った。日曜日の朝とあって、さすがに乗客は少ない。駅前を出発したバスは、国道3号線に入ると、ほとんど一直線に南へ向かう。 福岡県の西南部に位置する久留米市は、筑後川によって形成された広大な沖積平野の平坦地に発展した町だ。国道3号線を走るバスの車窓を流れるのは、筑後川が作り上げた筑後平野の豊かな大地である。左手側からの朝日の光を受けて輝く宅地や畑が目路の果てまで広がり、山らしい山は、はるか遠くに青く霞んでいる。
立ち寄って岩戸山古墳への道順を聞こうと思ったが、その必要はなかった。コンビニの駐車場の脇からから続く坂道の石垣に、「岩戸山古墳歴史資料館」と書かれた巨大な標識が取り付けてあった。 緩やかなスロープを上ると、すぐに丘の頂きに着き、下り坂の先に鬱そうと木立が茂った森が見える。誰かに確認するまでもなく、それが宮崎県西都原の女狭穂塚(めさほづか)古墳に次いで九州で2番目に大きい岩戸山古墳であることが分かる。 この前方後円墳の規模は、全長が約135mで、後円部の径約60m、高さ約18m、前方部の幅約92m、高さ約17mを測る。墳丘の周囲には幅20mの周堀と外堤が築かれ、外堤を含めると全長は約170mに達するとのことだ。この古墳の東北隅には、外堤につづく一辺約43mの方形の別区(べっく)がある。 墳丘の内部には横穴式石室が築かれていると推定されているが、現時点まで発掘調査は行われていない。しかし、墳丘と別区から多量の石製品や埴輪が出土しており、古書によって築造者が特定できる数少ない古墳の一つだ。
『筑後風土記』逸文によれば、この古墳は筑紫君磐井が生前に己のために築造させた墓である。だが、大和政権の立場からすれば、磐井は国家に対する反逆者だった。最後の決戦で斬り殺されたとしても、その屍を埋葬することは許されなかったかもしれない。
古墳の近くで枯れ草を燃やしている老人がいた。資料館への道を聞くと、後円部の先を指さしながら、
『筑後風土記』逸文は、この別区が衙頭(がとう)という政所(まんどころ)であると説明している。そこには解部(ときべ)という石人が従容として立っていて、その前に丸裸で地に伏している石人がいる。生前に猪を盗んだ偸人(ぬすびと)で、その傍らに盗んだ石猪が4頭置かれていて、裁判の模様を表現しているという。さらに、この広場には石馬3匹、石戸3間、石蔵2間が置かれていたとのことだ。 この方形の広場に置かれた石人石馬は、磐井の政治的権力を誇示するために、現実の政庁の様子をミニチュア的に表現したものと考えられている。死後の世界にあっても、生前の政治的権威を持ち続けていることを一族に知らしめようとした執念の所産である、と言い換えても良い。現在の別区には、レプリカの石人石馬が一列に並べられている。 |
岩戸山歴史資料館で、三度相まみえた鶴見山古墳出土の武装石人
八女丘陵は東西約10数キロからなり、この一帯に5世紀中頃から6世紀後半にかけての古墳群が集中している。現在150から300の古墳があり、その中には現在11基の前方後円墳が含まれている。この古墳群の盟主的存在は、やはり国指定史跡となっている岩戸山古墳である。 資料館の受付で応対してくれた女性は、物静かな話しぶりをされる方だった。彼女には、親切にも展示室の中を詳しく説明しながら案内していただいた。驚いたことに、展示室の入口に見覚えのある石人像が立っていた。平成17年8月に、八女古墳群の中の鶴見山古墳から出土した「武装石人(せきじん)」の全身像である。 この武装石人は、文化庁主催の「発掘された日本列島2006(新発見考古速報展)」で全国各地で巡回展示されていた。筆者は昨年の6月に江戸東京博物館で、さらに今年1月に大阪府立弥生文化博物館で、この石人を見ている(平成18年6月20日付け橿原日記、および平成19年1月8日付け橿原日記参照)。受付の女性の話だと、やっと最近里帰りしてくれたとのことだ。
ちなみに、鶴見山古墳は八女古墳群の中で4番目に大きい、6世紀半ばに築造された前方後円墳で、全長は89mを測る。磐井の息子・葛子(くずこ)の墓の可能性が指摘されている。このように、磐井の乱以後も、八女古墳群では、連続して大形墳墓が造営されている。そのため、筑紫君一族が滅びることなく存続したとされている。
展示室に入ると、左手に八女地方の遺跡分布をしめすジオラマが置かれている。その前で、彼女は旧石器時代から古墳時代までの主要な遺跡をランプで表示させて説明された。その後、壁際に並べられた出土品のそれぞれについて、説明を加えながら案内していただいた。ここには、八女地方の古墳で見つかった埴輪や土器、環頭大刀の柄頭、武器・武具なども展示されているが、やはり圧倒的なのは岩戸山古墳出土の石製品である。大小さまざまな石製品が所狭しと並べられている。
展示室の中央には、岩戸山古墳から出土した石馬と武装石人が展示されている。石馬は背に鞍などの装具をつけた飾り馬を表したもので、手綱には赤塗りの痕跡が見られるとのことだ。武装石人は頭部だけしか残っていなかったが、半球形の眉庇付きの冑(かぶと)でしっかりと頭を覆っている。 これだけ多くの石製品を一堂に見せつけられると、他の博物館では味わうことがない一種独特の雰囲気が漂ってくる。おおかたの博物館の古墳時代の展示は、埴輪や土器などの遺物が中心である。だが、八女地方では、そうした文化を受け入れながらも、石人石馬文化とでも呼びたいような骨太の異相の文化を生み出した。中央の大和政権がその独自性に恐怖したのが、なんとなく分かるような気がする。磐井の乱は、いわば歴史の必然の流れの中で生じた武力衝突だった、と解したい。 |
その名の起こりともなった武装石人が立っている石人山古墳
「4キロほど西になりますが、石人に由来して石人山と名付けられた前方後円墳があります。ついでにご覧になって行かれますか?」 一通り展示室を案内してくれた後に、彼女が聞いた。 「歩きだと大変でしょうから、もし見学されるなら、タクシーを呼んであげますよ」 せっかく奈良くんだりから出向いてきたのだから、是非見て行きなさい、といった口ぶりだ。その古墳の概略を彼女から聞いて、立ち寄ることにした。 「八女の茶畑の中を行きますから、周囲の景色もいいですよ」 タクシー会社に電話しながら、彼女は付け加えた。
突然、車が止まった。車を降りると、路傍に古びた標識が立っていて、そこから古墳へ上る階段が続いている。運転手に待つように頼んで、その階段を上っていった。階段の先は、両側にヤブツバキの生け垣が続く地道が長く続いていた。石人山古墳は、全長が約107m、前方部正面の幅が約63m、高さが11m、後円部の直径が約53m、高さが約12mの前方後円墳である。したがって、この道は、墳頂を前方部から後円部に続いていることになる。
古墳の前方部と後円部のくびれの部分に、石人の覆い屋は立っていた。前の鉄柵から中を覗き込むと、コンクリートの四角い覆い屋の中で、短甲の鎧を身につけ、靫(ゆき)と呼ばれる矢入れを背負って武装した石人が、すっくと立っていた。背丈が1.8mもあるそうだ。まるで主体部の石棺に埋葬された被葬者を一人で守っているかのように勇ましい。 江戸時代の中頃、この石人は地面に倒れたままになっていた。貞享元年(1684)、地面を平坦にして基壇を築き、小さな堂と建てて、その中に引き起こした石人を安置した。 この武装石人が立っていることで、それ以来、古墳は石人山と呼び習わされてきた。
広川町大字一條字人形原1435に所在する石人山古墳は、標高35m前後の丘陵の一部を利用して築造された前方後円墳である。築造時期は5世紀前半ころと推定され、筑紫君磐井の何代か前の先祖を埋葬した墓と推定されている。 広川町教育委員会が石人像の横に掲げた案内板によれば、江戸時代にはすでに後円部のほぼ中央地下2mに石棺の前面が露出していたいたという。おそらく盗掘を受けていたのであろう。副葬品については分かっていないとのことだ。昭和11年3月15日、県の史跡調査が行われ、石棺を覆っていた土を取り除き、石棺および石槨の内部を部分的に発掘した。 その結果、石棺は阿蘇溶結凝灰岩を加工して作られた「妻入り横口式家形石棺」であり、石棺の装飾文様として重圏紋と直弧紋が浮き彫りされていることが判明した。この石室を保存するため、昭和13年に覆い屋が設けられた。覆い屋は昭和29年に補修されたが、昭和39年3月に改築された。 |