橿原日記 平成19年3月18日

筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)の墓・岩戸山古墳(いわとやまこふん)の石人たち

岩戸山古墳遠望
岩戸山古墳遠望 (2007/03/18 撮影)


岩戸山古墳の標識
 八女(やめ)茶で知られる福岡県八女市八女には、岩戸山古墳という知名度の高い前方後円墳がある。この古墳を有名にしている理由は2つある。一つは、筑紫君磐井(つくしのきみ いわい、? - 528年)が生前に造らせた墓であることが古書で伝えられており、築造者が判明している古墳であることだ。筑紫君磐井こそ、継体天皇の時代、古代最大の内乱とされる「磐井の乱」を戦った一方の当事者である。

 もう一つの理由は、磐井が己を権勢を誇示するため、埴輪とは別に、多数の石人・石馬などの石製品で墳丘を飾っていた点である。特に、裁判の模様を石製品で表していた方形の区画が、古墳の北東隅に存在することはよく知られている。このため、岩戸山古墳は昭和30年(1955)12月に国の史跡の指定を受けている。

 磐井の乱が勃発したのは、継体天皇の治世21年目にあたる西暦527年。今から1480年も昔のことである。今年は継体天皇即位1500年の節目の年であり、天皇ゆかりの地ではさまざまな催しが計画されている。その継体王朝を向こうにまわして武力蜂起した筑紫君磐井という人物に、以前から個人的な関心を抱いてきた。

 しかし、なぜか岩戸山古墳を訪れる機会がなかったが、昨日たまたま大野城跡の発掘調査現地説明会に参加するため太宰府まで来た。せっかくの機会なので、久留米市で一泊し、本日バスで八女市を訪れることにした。以下は、この著名な古墳を訪れたときの雑感である。



『日本書紀』が伝える磐井の乱

 磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』の逸文や『古事記』、『国造本紀』にも簡潔な記録が残っている。先ず、『日本書紀』に基づいて磐井の乱の概要をみておこう。

 継体天皇21年(527)6月、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するために、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)は6万の兵を率いて任那へ向かって出発した。この計画を知った新羅は、反逆の機会をうかがっていた筑紫君磐井に賄賂を贈り、渡海を阻止するように依頼した。

岩戸山古墳から出土した石馬
岩戸山古墳から出土した石馬
 磐井はこれを受けて官軍に戦いを宣言し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して、朝鮮半島諸国からの朝貢船を自領に引き入れた。さらに、近江毛野軍と交戦してその進軍を阻んだ。

 そこで、大和政権では平定軍の派遣について協議し、天皇が大伴金村(おおとものかなむら)、物部麁鹿火(もののべのあらかい)、許勢男人(こせのおひと)らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が大将軍に任命された。麁鹿火の出陣にあたって、天皇は斧鉞(おのまさかり)を授け、こう言ったという。
「長門から東は自分が統治しよう。筑紫から西はお前が統治し、思いのままに賞罰を行え。いちいち奏上する必要はない」

 麁鹿火が率いる官軍と磐井の軍の戦闘は1年あまり続いた。翌年の11月11日、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)で激しい戦闘が行われ、遂に磐井は斬られ、官軍が勝利した。同年12月、磐井の子・筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座して処罰されるのを逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉を大和政権へ献上し、死罪を免ぜられた。


岩戸山古墳から出土した石人
岩戸山古墳から出土した石人
 『日本書紀』は、このように磐井が物部麁鹿火の軍に斬られたと記述している。だが、『筑後国風土記』逸文は、別の伝承を伝えている。磐井は斬り殺されたのではなく、豊前の上膳県(かみみつけのあがた、現在の豊前市付近)へ逃亡して、その山中で死んだというのだ、磐井に逃げられた官軍の兵士たちは、その怒りを静めることができず、磐井が築いた墓の石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち落としたという。

 『日本書紀』に記された磐井の乱が、果たして史実だったか疑問視する専門家がいる。たとえば龍谷大学非常勤講師の水谷千秋(みずたにちあき)氏は、著書「謎の大王 継体天皇」の中で、”磐井が先に兵を動かしたのではなく、戦いを仕掛けたのは大和政権の軍である”とし、その目的は、大和政権が地方勢力の自立化を武力で制圧することにあった、と強調しておられる。

 確かに、石人石馬という独自の文化を築き上げた九州北部・中部勢力は、5世紀半ば以降次第に大和政権の干渉から離れ、自立化の動きを見せてきていた。この勢力を武力で制圧することで、大和政権は北部九州の直接的な支配を一層進めた。その証は、九州統治と対外交渉・軍事のための出先機関としての那津官家(なのつのみやけ)の設置であろう。

 筑紫君磐井と新羅が内通していて、新羅からの賄賂を受け取って毛野臣の軍の進路を阻んだとする『日本書紀』の所伝は、信憑性が疑われている。磐井が本拠とした八女地方の考古学的遺物の中からは、他の地方と比べて際だって新羅的特徴を持つものは見つかっていないそうだ。



死後の政治的権威を知らしめるため別区を造らせた磐井の権勢欲

岩戸山古墳の別区に並べられたレプリカの石人石馬
岩戸山古墳の別区に並べられたレプリカの石人石馬

 今日の久留米地方は、朝から実によく晴れ渡った。駅前のビルの間から見上げると、刷毛で掃いたような薄雲がいくつか浮かんでいる。だが、ビルの陰ではさすがに空気は冷たかった。8時20分、西鉄久留米駅から出る八女方面行きのバスに乗った。日曜日の朝とあって、さすがに乗客は少ない。駅前を出発したバスは、国道3号線に入ると、ほとんど一直線に南へ向かう。

 福岡県の西南部に位置する久留米市は、筑後川によって形成された広大な沖積平野の平坦地に発展した町だ。国道3号線を走るバスの車窓を流れるのは、筑後川が作り上げた筑後平野の豊かな大地である。左手側からの朝日の光を受けて輝く宅地や畑が目路の果てまで広がり、山らしい山は、はるか遠くに青く霞んでいる。

バス停近くの標識
バス停近くの標識
岩戸山古墳遠望
岩戸山古墳遠望
 東から西に向かって緩やかに傾斜している丘陵地帯に、バスがようやく差しかかった。遠くの山並みがぐっと近づいてきたと思うころ、「福島高校」バス停に着いた。久留米駅前からの所要時間はほぼ30分だった。バスを下りると、交差点の角にコンビニがあった。

 立ち寄って岩戸山古墳への道順を聞こうと思ったが、その必要はなかった。コンビニの駐車場の脇からから続く坂道の石垣に、「岩戸山古墳歴史資料館」と書かれた巨大な標識が取り付けてあった。

 緩やかなスロープを上ると、すぐに丘の頂きに着き、下り坂の先に鬱そうと木立が茂った森が見える。誰かに確認するまでもなく、それが宮崎県西都原の女狭穂塚(めさほづか)古墳に次いで九州で2番目に大きい岩戸山古墳であることが分かる。

 この前方後円墳の規模は、全長が約135mで、後円部の径約60m、高さ約18m、前方部の幅約92m、高さ約17mを測る。墳丘の周囲には幅20mの周堀と外堤が築かれ、外堤を含めると全長は約170mに達するとのことだ。この古墳の東北隅には、外堤につづく一辺約43mの方形の別区(べっく)がある。

 墳丘の内部には横穴式石室が築かれていると推定されているが、現時点まで発掘調査は行われていない。しかし、墳丘と別区から多量の石製品や埴輪が出土しており、古書によって築造者が特定できる数少ない古墳の一つだ。

墳丘の北側(西→東方向) 墳丘の前方部(南→北方向)
墳丘の北側(西→東方向) 墳丘の前方部(南→北方向)

 『筑後風土記』逸文によれば、この古墳は筑紫君磐井が生前に己のために築造させた墓である。だが、大和政権の立場からすれば、磐井は国家に対する反逆者だった。最後の決戦で斬り殺されたとしても、その屍を埋葬することは許されなかったかもしれない。

 古墳の近くで枯れ草を燃やしている老人がいた。資料館への道を聞くと、後円部の先を指さしながら、
「この道を行くと別区があるから、そこから古墳の反対側に下りれば、資料館は近い」
と教えてくれた。老人に勧められた遊歩道を進むと、だだっ広い空き地に出た。そこが一辺約43mの四角い別区だった。

古墳の東北隅にある別区 別区に並べられた石人石馬(レプリカ)
古墳の東北隅にある別区 別区に並べられた石人石馬(レプリカ)

 『筑後風土記』逸文は、この別区が衙頭(がとう)という政所(まんどころ)であると説明している。そこには解部(ときべ)という石人が従容として立っていて、その前に丸裸で地に伏している石人がいる。生前に猪を盗んだ偸人(ぬすびと)で、その傍らに盗んだ石猪が4頭置かれていて、裁判の模様を表現しているという。さらに、この広場には石馬3匹、石戸3間、石蔵2間が置かれていたとのことだ。

 この方形の広場に置かれた石人石馬は、磐井の政治的権力を誇示するために、現実の政庁の様子をミニチュア的に表現したものと考えられている。死後の世界にあっても、生前の政治的権威を持ち続けていることを一族に知らしめようとした執念の所産である、と言い換えても良い。現在の別区には、レプリカの石人石馬が一列に並べられている。



岩戸山歴史資料館で、三度相まみえた鶴見山古墳出土の武装石人

岩戸山古墳の別区に並べられたレプリカの石人石馬
上空から見た岩戸山古墳  (岩戸山歴史資料館パンフより)

岩戸山歴史資料館
岩戸山歴史資料館
(所在:福岡県八女市大字吉田1396−1)
岩戸山歴史資料館のチケット
岩戸山歴史資料館のチケット
 岩戸山歴史資料館(所在:福岡県八女市大字吉田1396−1 tel. 0943-22-6111)は、岩戸山古墳の南に道路を挟んで建てられている。この資料館は、「八女地方の歴史と文化」をテーマに、八女丘陵の遺跡から出土した遺物を展示している。

 八女丘陵は東西約10数キロからなり、この一帯に5世紀中頃から6世紀後半にかけての古墳群が集中している。現在150から300の古墳があり、その中には現在11基の前方後円墳が含まれている。この古墳群の盟主的存在は、やはり国指定史跡となっている岩戸山古墳である。

 資料館の受付で応対してくれた女性は、物静かな話しぶりをされる方だった。彼女には、親切にも展示室の中を詳しく説明しながら案内していただいた。驚いたことに、展示室の入口に見覚えのある石人像が立っていた。平成17年8月に、八女古墳群の中の鶴見山古墳から出土した「武装石人(せきじん)」の全身像である。

 この武装石人は、文化庁主催の「発掘された日本列島2006(新発見考古速報展)」で全国各地で巡回展示されていた。筆者は昨年の6月に江戸東京博物館で、さらに今年1月に大阪府立弥生文化博物館で、この石人を見ている(平成18年6月20日付け橿原日記、および平成19年1月8日付け橿原日記参照)。受付の女性の話だと、やっと最近里帰りしてくれたとのことだ。

岩戸山歴史資料館の展示ホール 鶴見山古墳出土の武装石人
岩戸山歴史資料館の展示ホール 鶴見山古墳出土の武装石人

 ちなみに、鶴見山古墳は八女古墳群の中で4番目に大きい、6世紀半ばに築造された前方後円墳で、全長は89mを測る。磐井の息子・葛子(くずこ)の墓の可能性が指摘されている。このように、磐井の乱以後も、八女古墳群では、連続して大形墳墓が造営されている。そのため、筑紫君一族が滅びることなく存続したとされている。

岩戸山古墳から出土した石製品−1 岩戸山古墳から出土した石製品−2
岩戸山古墳から出土した石製品−1 岩戸山古墳から出土した石製品−2

 展示室に入ると、左手に八女地方の遺跡分布をしめすジオラマが置かれている。その前で、彼女は旧石器時代から古墳時代までの主要な遺跡をランプで表示させて説明された。その後、壁際に並べられた出土品のそれぞれについて、説明を加えながら案内していただいた。ここには、八女地方の古墳で見つかった埴輪や土器、環頭大刀の柄頭、武器・武具なども展示されているが、やはり圧倒的なのは岩戸山古墳出土の石製品である。大小さまざまな石製品が所狭しと並べられている。

岩戸山古墳から出土した武装石人の頭部 岩戸山古墳から出土した石馬
岩戸山古墳から出土した武装石人の頭部 岩戸山古墳から出土した石馬

 展示室の中央には、岩戸山古墳から出土した石馬武装石人が展示されている。石馬は背に鞍などの装具をつけた飾り馬を表したもので、手綱には赤塗りの痕跡が見られるとのことだ。武装石人は頭部だけしか残っていなかったが、半球形の眉庇付きの冑(かぶと)でしっかりと頭を覆っている。

 これだけ多くの石製品を一堂に見せつけられると、他の博物館では味わうことがない一種独特の雰囲気が漂ってくる。おおかたの博物館の古墳時代の展示は、埴輪や土器などの遺物が中心である。だが、八女地方では、そうした文化を受け入れながらも、石人石馬文化とでも呼びたいような骨太の異相の文化を生み出した。中央の大和政権がその独自性に恐怖したのが、なんとなく分かるような気がする。磐井の乱は、いわば歴史の必然の流れの中で生じた武力衝突だった、と解したい。



その名の起こりともなった武装石人が立っている石人山古墳

武装石人を安置した覆い屋
武装石人を安置した覆い屋


「4キロほど西になりますが、石人に由来して石人山と名付けられた前方後円墳があります。ついでにご覧になって行かれますか?」
一通り展示室を案内してくれた後に、彼女が聞いた。
「歩きだと大変でしょうから、もし見学されるなら、タクシーを呼んであげますよ」
せっかく奈良くんだりから出向いてきたのだから、是非見て行きなさい、といった口ぶりだ。その古墳の概略を彼女から聞いて、立ち寄ることにした。
「八女の茶畑の中を行きますから、周囲の景色もいいですよ」
タクシー会社に電話しながら、彼女は付け加えた。

石人山古墳の墳丘上に築かれた道
石人山古墳の墳丘上に築かれた道
 タクシーはすぐ来た。歴史資料館を後にしてしばらくすると、道の左右に茶畑が広がる丘陵地帯を車は走った。確かに、深い緑に色づいた茶畑がうねるように続く景観は、眺めていても楽しかった。車は茶畑の中をハンドルを右に左に切りながら進んでいく。歩きだと大変だと言った彼女の意味が分かった。古墳までの距離ではない。途中で何カ所も道を右折・左折しなければならず、よそ者には道に迷うのでは、という心づくしだったようだ。

 突然、車が止まった。車を降りると、路傍に古びた標識が立っていて、そこから古墳へ上る階段が続いている。運転手に待つように頼んで、その階段を上っていった。階段の先は、両側にヤブツバキの生け垣が続く地道が長く続いていた。石人山古墳は、全長が約107m、前方部正面の幅が約63m、高さが11m、後円部の直径が約53m、高さが約12mの前方後円墳である。したがって、この道は、墳頂を前方部から後円部に続いていることになる。

覆い屋の中の武装石人 広川町教育委員会が掲げた案内板
覆い屋の中の武装石人 広川町教育委員会が掲げた案内板

 古墳の前方部と後円部のくびれの部分に、石人の覆い屋は立っていた。前の鉄柵から中を覗き込むと、コンクリートの四角い覆い屋の中で、短甲の鎧を身につけ、靫(ゆき)と呼ばれる矢入れを背負って武装した石人が、すっくと立っていた。背丈が1.8mもあるそうだ。まるで主体部の石棺に埋葬された被葬者を一人で守っているかのように勇ましい。

 江戸時代の中頃、この石人は地面に倒れたままになっていた。貞享元年(1684)、地面を平坦にして基壇を築き、小さな堂と建てて、その中に引き起こした石人を安置した。 この武装石人が立っていることで、それ以来、古墳は石人山と呼び習わされてきた。

石人山古墳の石柱 石室の中の石棺
石人山古墳の石柱 石室の中の妻入り横口式家形石棺

 広川町大字一條字人形原1435に所在する石人山古墳は、標高35m前後の丘陵の一部を利用して築造された前方後円墳である。築造時期は5世紀前半ころと推定され、筑紫君磐井の何代か前の先祖を埋葬した墓と推定されている。

 広川町教育委員会が石人像の横に掲げた案内板によれば、江戸時代にはすでに後円部のほぼ中央地下2mに石棺の前面が露出していたいたという。おそらく盗掘を受けていたのであろう。副葬品については分かっていないとのことだ。昭和11年3月15日、県の史跡調査が行われ、石棺を覆っていた土を取り除き、石棺および石槨の内部を部分的に発掘した。

 その結果、石棺は阿蘇溶結凝灰岩を加工して作られた「妻入り横口式家形石棺」であり、石棺の装飾文様として重圏紋直弧紋が浮き彫りされていることが判明した。この石室を保存するため、昭和13年に覆い屋が設けられた。覆い屋は昭和29年に補修されたが、昭和39年3月に改築された。




2007/03/24作成 by pancho_de_ohsei return