天の一廓に開けた天野
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| 県道志賀三谷線の山の高みから紀ノ川を遠望 |
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| 山道を下ってきて最初に視界に入った上天野の集落 |
2台の対向車とすれ違ったが、幸い相手は軽自動車だった。無事に三谷橋を渡りきり、すぐに県道109号線(志賀三谷線)に入った。天野の里に出るには、峠を二つ越えて行かなければならない。山肌に沿って築かれた県道は細く曲がりくねって、どんどんと高度を増していく。上り坂の途中で車を止めて、ツクシを取っている夫婦がいた。ちょうど展望が効く場所なので、K君も車を止めた。外に出ると、眼下はるか遠くに紀ノ川の流れが見えた。
県道109号線はカーブの多い道幅の狭い車道である。いちいちミラーで対向車がいないことを確認しながら、K君はハンドルを右や左に切った。通い慣れた道と本人が自負するだけあって、さすがにハンドルさばきも見事である。峠を越えると、急に見通しの悪い坂道に変わった。だらだらと続く山道を下っていくと、突然視界が開けた。
道路脇に車を止めると、K君がフロントガラス越しに見える山村を指さして言った。
「あそこが、高野山の麓、四方を山に囲まれた標高約500mの盆地の中にある天野の里だ。 評論家・エッセイストとして知られる白州正子は、「天の一廓に開けた夢の園」と感嘆したという。彼女は著書の「かくれ里」でも、老後はここに住みたいと書いているほど、この天野の里が気に入ったようだ」
目線の先にあるのは、のどかな風情を漂わせる山里である。この山里が平成元年(1989)、環境庁の「ふるさといきものの里」に認定された。初夏になれば、夜空に源氏ボタルの幻想的な光の舞が見られるという。その村里のはずれに、天野社・天野大社・天野四所明神とも称される丹生都比売神社が鎮座している。
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| 参道正面の鳥居 |
車を降りると、正面に吉野川産の緑色結晶片岩を積み上げた石段があり、その先に朱塗りの鳥居が建っている。鳥居をくぐると正面に見えてくるのが太鼓橋である。初めての参詣者の目を驚かせるのは、おそらく水面に影を落とす優雅なこの橋の姿だろう。草深い山里の神社にしては一見場違いとも見える太鼓橋を渡ってみて、初めて丹生都比売神社がただならぬ神社であることを知る。この神社の旧社格は官幣大社、現在でも神社本庁の別表大社にランクされている。
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| 優雅な曲線を描く太鼓橋 |
太鼓橋は淀君の寄進と伝えられている。その橋が影を落としている池を「鏡池」という。名前の由来について、面白い話が伝えられている。その昔、長寿伝説で知られる八百比丘尼(やおびくに)は、病気の人を治し、貧しい人を助け、行く先々で椿を植えながら旅したそうだ。その比丘尼がこの神社に立ち寄ったとき、太鼓橋を渡りながら水面に映った自分の姿を見て嘆いた。
「八百歳を生きてきたにしては、私はあまりに若々しい」
そして、懐中から鏡を取り出すと、水面の影に向かって投げつけたという。その事があってから、この池が鏡池と呼ばれるようになったとのことだ。
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| 重層の楼門 |
太鼓橋を渡って一歩境内に足を踏み入れると、正面に国の重要文化財に指定された楼門がそびえている。入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)の三間一戸の大きな門で、室町時代中期の様式を示していると言われてきた。平成5年(1993)12月に完成した解体修理で墨書が発見され、それによって明応8年(1499)の建立であることが判明した。紫の垂れ幕を巡らした朱塗りの門が、境内の緑の神木に映えて美しい。
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| 楼門から見た本殿−1 |
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| 楼門から見た本殿−2 |
向かって右から、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ。丹生明神)を祀る第一殿、 高野御子大神(こうやみこのおおかみ。狩場明神)を祀る第二殿、大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ。気比明神)を祀る第三殿、市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ。厳島明神)を祀る第四殿である。
現存する本殿は、第一殿が正徳5年(1715)、第二殿と第四殿が文明元年(1469)、第三殿が明治34年(1901)に建立されたとのことである。
K君の話では、以前は楼門を通って神域に入ることができたそうだ。それが、現在は禁止されている。禁止するには、神社側にもそれなりの理由があったのであろう。たまたま社務所におられた権禰宜(ごんねぎ)のNさんにお願いすると、カメラ撮影はしないことを条件に、楼門から中に入って本殿の前でいろいろ説明していただいた。
当社の創建は詳しくはわかっていないが、相当古いことは確かなようだ。Nさんの説明によると、天平時代に書かれた『丹生大明神告門』(にゅうだいみょうじんのりと)という祝詞(のりと)が残っている。その祝詞では、生都比売大神(にうつひめのおおかみ)は天照大神(あまてらすおおみかみ)の妹神とされ、稚日女命(わかひるめのみこと)とも呼ばれている。
稚日女命の名は『日本書紀』の神話にも登場する。彼女が高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。驚いた彼女は機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。それを知った天照大神は弟のスサノオの狼藉ぶりに嫌気がして天岩戸に隠れてしまったとされている。
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| 側面から見た太鼓橋 |
一方、『播磨国風土記』にも次のような伝承が記されている。神宮皇后が新羅に出兵の折、播磨で諸神に戦勝を祈願された。そのとき、丹生都比売大神が衣服だけでなく武具や船も朱に塗って戦ったら勝利するであろうと託宣された。その通りにすると、たちまち新羅を平らげて凱旋することができた。そこで、皇后の息子の応神天皇が、託宣に感謝して社殿と広大な土地を神領として寄進したという。
丹生都比売の名前の「丹」(に)は、水銀をつくる鉱石の辰砂のことである。ただし辰砂は産地に絡んだ固有名詞で普通名詞としては丹砂(たんしゃ)という赤い鉱石であると言う。そのままで朱色の顔料となり、熱すると水銀の蒸気が発生し、蒸気を冷やすと水銀(液体)が得られる。全国の丹砂が取れるところに「丹生」という地名がある。
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| 道ばたで見つけた草花 べにばなあせび |
丹砂の鉱床は中央構造帯上にあり、三重、和歌山、四国と連なっている。丹生津比売は丹砂と関係があることは一目瞭然である。昔から丹生と呼ばれる一族が存在し、山で丹砂を採集することを生業としていたらしい。おそらく、その一族が各地で丹生津比売を祭神として祀ったのであろう。都府県別に丹生都比売を祀る神社の数を調べてみると、和歌山県はもっとも多く、昔から紀伊半島が丹砂の生産量が頭抜けて多かったことがわかる。
現在全国にある丹生神社は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社、摂社や末社を含めると180社余りもあるという。天野の里に鎮座する丹生都比売神社は、これらの神社の総本社である。皇室の崇敬も厚く、延喜式神名帳では明神大社に列し、神階も元暦2年(1184)には正一位の極位に進められている。
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| 境内から見た太鼓橋 |
不思議に思ってその理由をたずねると、Nさんは楼門の右手にある古い建物を指さした。その建物は明治に建てられた拝殿で、第一主祭神の本殿の正面に位置している。よく見ると、本殿に面した側の大きな板戸が閉じられている。以前はこの板戸を開いて、拝殿でさまざまな神事が行われたそうだ。
第二殿に祀られている高野御子大神(こうやみこのおおかみ)は丹生都比売の子とされ、母神の偉業を輔けて神功著るしかった。空海が高野山を開いたとき、高野御子大神が狩人の姿の狩場明神(かりばみょうじん)として現れ、白・黒二匹の犬に高野山まで案内させたと伝えられている。そして、丹生都比売大神から高野山を譲り受けた空海は、丹生明神・高野明神を高野山一山の鎮守神として祀ったとされている。
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| 道ばたで見つけた草花 ふくじゅそう |
丹生都比売神社が北条政子の助成によって四社明神として整備されると、これまでの高野山との関係に加え、鎌倉幕府との関係が急速に深まった。そして、その名が全国的に知らしめるきっかけとなったのは、文永11年(1274)と弘安4年(1281)の蒙古軍の来襲だった。丹生都比売はその昔、神功皇后の三韓出兵に際して、赤土を献じ皇后を勝利に導いた。そのため軍神として崇められていた。蒙古来襲という未曾有の国難に際しても、この神社は鎌倉幕府の要請を受け、多くの神仏の先頭にたって異国降伏の大護摩祈祷を行なった。その結果、神風が吹いて国難を免れることができた。その神風はこの神社からカラスの大群が飛び立って起こしたとされている。鎌倉幕府は、その神恩に感謝して、当社を紀伊一宮に指定したという。
明治の廃仏毀釈によって丹生都比売神社の構成は大幅に変わってしまったが、それでも神仏習合の信仰で栄えた往時の面影を色濃く残している。そもそものきっかけは、空海が高野山を開くにあたって、この神社の神領の一部が寄進され、それに感謝して空海がこの神社の神を守護神として祀ったことにある。鎌倉時代以降は、高野山上の僧が厳冬期の避寒のための当社に帯在したり、高野山で火災があったときに仮執務が行われたりなど、高野山との関係がより深くなった。高野山では勤行のときに「南無大師遍照金剛」の宝号とセットで「南無大明神」と唱える。このことで、丹生都比売明神と高野明神への帰依を表明している。
中世には、この神社は56人の僧侶で守られており、僧侶が神主と一緒に祭神を拝んでいた、そのため、周囲には多くのお堂が建っていた。明治の神仏分離で高野山から独立し、仏教関連施設はすべて壊されてしまった。しかし、今日でも多くの僧侶が当社に参拝しており、神前での読経も行われている。本殿の前に高野山の僧侶が奉納したお札が掛けてあった。修行のときこの神様に助けて貰い、修行の最後に一人一人がお札を奉納しているという。
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| 道ばたで見つけた草花 ほとけのざ |
装飾部分はしょっちゅう手入れする必要があるようだ。仏教的色彩が強い象や竜の顔が江戸時代に彫られて彩色されている。しかし、彩色の補修が行われたのは昭和9年だそうで、それ以後の補修はなされていない。Nさんは最後に本殿の両サイドの脇障子に舞楽の絵が描かれているのを紹介してくれた。舞楽の衣装をまとった人物が描かれているようだが、こちらも痛んでいて遠目には判然としない。天野の舞楽は仏教的な法会の場で奉納された神仏習合の農耕神事であるとされてきた。その舞楽奉納も明治に途絶えてしまった。そう語るNさんの表情が、こころなしか寂しそうだった。
八町坂を上り詰めて町石道にある二つ鳥居へ
高野山町石道とは、1町おきに石造りの卒塔婆が置かれた、九度山の慈尊院から高野山の奥の院にある霊廟までの約24kmの道のりをいう。慈尊院から伽藍まで180基、伽藍から霊廟まで36基の町石と、36町ごとに4基の里石が建てられている。高野山に上る道は、高野七口といって七街道あるが、町石が建てられている道が高野山参詣のための表参道である。昔の信者は1丁ごとに建つ卒塔婆に、ただ一心にお経を唱えながら高野山に上った。
案内板を見ると、丹生都比売神社の近くに八町坂という坂道があり、そこを上り詰めると町石道に出るように描かれている。その交点に「二つ鳥居」がある。弘法大師空海が高野山を開いた翌年、高野山の守護神としている丹生明神と高野明神を遙拝するため建てたのが始まりとされている。時間があったので、二つ鳥居を見学することにした。八町坂というからには、せいぜい900m弱の山道にすぎない。Nさんに所要時間を聞くと、 有王丸(ありおうまる)の墓丹生都比売神社の前に、八町坂方面への標識が出ている。標識が指し示す方向に、村の中の舗道を300mほど歩いて行くと、道ばたの桜の木の下に数基の碑が並んで立っていた。横に置かれた案内板によって、そこが有王丸の墓であることがわかった。
治承元年(1177)、世にいう鹿ヶ谷事件が起きた。俊寛僧都の鹿ヶ谷の山荘で、後白河院をはじめ、西光、藤原成親・成経親子、平康頼らが平家討伐の陰謀を企てたが、その密謀が発覚して後白河院以外の関係者が処罰された事件である。俊寛は、藤原成親、西光らと鬼界ケ島に流された。そのうち二人は数年後に赦されて京に戻るが、俊寛だけは赦されず、治承3年(1179)鬼界ケ島で寂しくその生涯を閉じた。 生前に鬼界ケ島に俊寛を訪ねた弟子の有王丸は、亡くなった俊寛の遺骨を持ち帰って治承3年5月に高野山に納め、その後は蓮華谷で法師となって天野に住み、主の菩提を弔いながら一生を終えたという。俊寛の娘も、十二歳で天野の別所で尼となったことが「源平盛衰記」に記されている。路傍に建てられたこれらの石碑は、何が刻印されていたかも判読できないが、あるいは彼らの墓標として建てられたのであろう。 院の墓
”願わくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月の頃”で知られる西行の「山家集」には、中納言の局が、待賢門院の喪に服した後、京都の小倉の住まいを捨てて、天野の隠れ里に移り住んだと記す。その時期は、久安5年(1149)の頃だそうだ。彼女はこの地に庵を結び、入寂した後、里人がその遺骸を葬ったのがこの墓とされている。 中納言の局と共に待賢門院に仕えた帥の局が、中納言の庵を訪ねたとき、高野山に移り住んだ西行と天野で会い、西行が粉河・吹き上げを案内したことも「山家集」に記されている。その西行の妻と女が住まいとした庵が、院の「墓のすぐ下の県道沿いにある。「西行堂」という。 金剛童子杖の跡
また、道ばたに「金剛童子杖の跡」と書かれた標識が立ち、その近くに苔むした平らな石が埋まっている。よく見ると、杖の跡のような凹みがあちこちについている。金剛童子とは密教の護法童子の一つで、童形をした憤怒の相をしている。左手に三鈷(さんこ)を持ち、左足を揚げて蓮華を踏む造形が一般的だが、金剛杖を持っていたかどうかは定かではない。 八町道の両脇にはヤブツバキの巨木が目立ち、山道に散乱した落ち葉の上に赤い花弁を落としている。坂の途中には「二つ鳥居」の標識がいくつも建てられていて、道を誤ることはない。「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたため、新しく設けられたものだろう。外国人の来訪も考慮して、ローマ字の表記も付け加えられている。
標識の一つを見ながら、K君がつぶやいた。 丹生都比売神社を遙拝する場所に建てられている二ツ鳥居
坂道を上り切ると、高野山町石道(こうやさんちょういしみち)にぶつかった。その角に百二十町石が建っている。町石には正面に「百二十町沙門了心」、右側には「為父母」、左側には文永七年二月「忍辱波羅蜜菩薩」と刻まれている。文永七年といえば西暦1270年、蒙古軍が対馬・壱岐を侵し、次いで肥前・筑前に上陸した文永の役の4年前のことである。
『紀伊続風土記』によれば、弘仁10年(819)5月3日、空海がこれら2神を高野山上に勧請した時に鳥居を建てたそうだ。空海が初めて高野山に上った翌年のことである。当初は木造の鳥居だった。だが、木の鳥居は朽ちてしまうため、しばしば改修を繰り返してきた。そこで、江戸時代の初めの慶安2年(1649)、補陀洛院(ふだらくいん)の叟遍(そうへん)という僧侶が、自費で石造に建て変えたそうだ。 二つ鳥居はいずれも高さが1丈7尺(5.6m)、幅が2間(4.7m)の大型の両部鳥居である。両部鳥居は、柱の前後に稚児柱(控え柱)を設け、笠木の上に屋根がある形の鳥居で、四脚鳥居、権現鳥居ともいう。神仏習合で栄えた神社に多く見られる形式で、日本の三大鳥居に数えられる厳島神社、春日大社、気比神宮は、いずれも両部鳥居である。 二つ鳥居の横に格好の東屋があった。そこで一休みして眼下に広がる天野の里を眺めた。Nさんの話では、天野の里には民家が100軒ほどあるとのことだ。横に座りながら、K君は五條市犬飼町にある犬飼山転法輪寺の話をしてくれた。法輪寺は奈良・平安の時代には大和と紀伊の国境だったまつち山の近くに建てられた高野山真言宗の寺で、俗に犬飼寺とも呼ばれている。
だが、空海の伝記によれば、空海が修禅の道場として高野山の下賜を請うたのは弘仁7年(816)6月である。翌7月には、はやばやと高野山を下賜する旨の勅許を得ている。明けて弘仁8年(817) 、空海は泰範や実恵といった弟子を派遣して高野山の開創に着手した。しかし、空海自身が初めて高野山に上ったのは、弘仁9年(818)11月である。空海は弘仁10年(819)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。したがって、転法輪寺の寺記が史実であるためには、弘仁6年(815)ではなく弘仁9年(818)でなければならない。 |
野半の里
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| 野半の里「蔵乃湯」 |
和歌山県北部に位置する「かつらぎ町」の産業観光課が配布している観光情報マップによれば、かつらぎ町は夢見る懐かしい風景と出会う「癒(いや)しの国」だそうだ。天野の里はおそらくその代表の一つであろう。かつらぎ町には癒しの自然の他に、身体の疲れを癒してくれる温泉もあちこちにある。天野の里からの帰り道、その一つである「野半の里」に立ち寄った。
江戸時代創業の老舗蔵元・野半酒造は、平成8年に和歌山で初めての地ビール「木の国野半ビール」を誕生させた。それを機に、老舗蔵元は大きく様変わりした。構内に花と緑をふんだんに植え込み、くつろぎの空間を作り上げた。
平成15年10月には「天然温泉 蔵乃湯」を開業した。開業にあたり、廃業した海南市の老舗「老鶴酒造」の酒蔵(大正6年築)を譲り受け、建物部材のすべてを移して大浴場を完成させた。それが、酒蔵の情緒をたっぷり味わえる「老鶴館」である。こうして野半の里は、癒しの地として新しく生まれ変わった。
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| 「蔵乃湯」の老鶴館 |
老鶴館では、野半の里の中にある次の4つの源泉井から湧出する温泉及び鉱泉を利用している。そのため、地層別に異なる成分を持つ4種類の湯を楽しむことができる。
・第一源泉(地下741m)は、高張泉と分類される極めて高濃度な成分をを含んでいて美容・薬用効能に対する評判が高い。第四源泉水と混合して大浴槽へ供給している。
・第二源泉(地下135m)は、炭酸水素ナトリウムと鉄分が多く含まれている。鉄分の取り除いた後、露天風呂へ供給している。
・第三源泉(地下50m)は鉄・マンガンを除去して小浴場・かけ湯・洗面シャワー・あがり湯に供給している。
・第四源泉(地下350m)は木炭層付近から揚水した淡白濁色で、肌あたりの軟らかな湯である。大浴場の第一源泉混合用、ビール・酒・水風呂用として供給している。
「蔵乃湯」は豊富な湯量のおかげで、湯の再利用、いわゆる湯の使い回しは一切行っていないとのことだ。毎朝およそ4時間をかけて全浴槽の湯を抜きすてて浴槽の殺菌清浄と館内の清掃を入念におこない、それと同時に、それぞれに成分の異なった4カ所から湯水の汲み上げを開始して、湯張りをしているという。天然温泉「蔵乃湯」は、豊富なミネラルを含む現代の湯治湯である。
濁り湯にどっぷりと身体を沈めて、立ち上がる湯気の行方を目で追うと、かっての酒蔵の大きくて高い天井が頭上を覆っている。天井屋根の下を縦横に走る梁も古色蒼然としていて、野趣の雰囲気が充満している。こうした癒し空間の中に身を置くことで、心も体もリフレッシュしてくるのが感じられるから不思議だ。K君が日帰り温泉巡りにハマっている理由も納得できるというものだ。