わずか1.5kmの距離を隔てて存在する2つの継体天皇陵の背景現在、摂津市に隣接する茨木市の太田三丁目に、宮内庁が継体天皇陵として管理する太田茶臼山古墳がある。真の継体天皇陵とされている今城塚古墳から西へ直線距離で1.5kmも離れていない。一人の天皇を埋葬した墓が指呼の距離に2つも並んで築かれているとは、まことに異常である。この異常事態が出現した背景には、実は次のようないきさつがある。
『日本書紀』によれば、継体天皇は治世25年目(西暦531年)の2月に病気に倒れ、その月の7日、磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)で崩御された。時に数え年の82歳だったという。そして、その年の12月5日、藍野陵(あいのノみささぎ)に埋葬された。一方、『古事記』は天皇は43歳で崩御、御陵は三島の藍の御陵(みささぎ)である、と記している。 両史書の間に、崩御年齢に大きな差があるが、埋葬された墓はいずれも三島の藍野陵で一致している。平安時代は『延喜式』(927年完成)によって御陵に幣帛を奉る儀式を行っていた。したがって、当時は全ての天皇陵が治定されていたと思われる。その延喜諸陵式には、三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)は摂津国の嶋上郡にあると記されている。 江戸時代の末期、徳川幕府は天皇家に誠意を示すため、御陵の修理を行った。その際、古墳の記憶が曖昧になっていたにも関わらず、当時の学者の説に従って、それぞれの御陵に祀られている天皇を治定した。その治定のベースとなったのが延喜諸陵式である。 その当時、摂津国には三嶋藍野陵として治定してもおかしくない2つの巨大古墳があった。太田茶臼山古墳と今城塚古墳である。だが、今城塚古墳が戦国時代に出城を築くために破壊されていた。そこで、尊王の立場から保存が良く格好の良い太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定し、修理を行った。明治政府は江戸幕府の治定をそのまま踏襲し、以後宮内庁が太田茶臼山古墳を三嶋藍野陵として管理してきている。 ところが、その後の研究で太田茶臼山古墳を継体天皇陵とするにはさまざまな矛盾がでてきた。まず、古代の条里制の研究から、この治定に疑問を抱いて現在の継体天皇陵の治定は誤りであると指摘した歴史学者がいる。故天坊幸彦である。氏は付近の古代条里制を研究し、摂津国の嶋上・嶋下両郡の郡境を明らかにした。そして、嶋下郡にある太田茶臼山古墳は継体天皇陵ではなく、嶋上郡にある今城塚古墳こそ、延喜諸陵式にいう継体天皇三嶋藍野陵(みしまあいのりょう)であるとした。
さらに、両古墳の墳丘を飾っていた埴輪は、近くのハニワ工場公園として保存されている新池埴輪製作所遺跡で焼かれたものである。茶臼山古墳に並べられた埴輪は、西暦450年頃にこの遺跡のA群と称される窯で焼かれ、今城塚古墳のものは、530年頃に追加されたC群の窯で焼かれたことがすでに判明している。こうした考古学的知見から、現在では、99.9%の確率で今城塚古墳が「真の継体天皇陵」と考古学会では認識されている。 太田茶臼山の「被葬者は別人」とする考古学会の定説が実証されているにもかかわらず、宮内庁は「継体天皇の墓ではないという決定的な証拠はない」として、従来の見解を変えていない。こうした宮内庁の態度は二重の誤りを犯していると指弾されても致し方ない。 まず、皇室の系図に繋がらないかもしれない人物の墓を、宮内庁は国民の税金を無駄使いして管理していることになる。国費の引き締めが声高に叫ばれている現在、このような浪費が許されてよい訳がない。次に、真の継体天皇陵とされる古墳が、学術調査という名目で盗掘以上にひどい破壊を受けている。早稲田大学の故水野祐教授の三王朝交替説が正しいとすれば、現在の天皇家の始祖ともいうべき人物の墓が、である。本来ならば架空の初代天皇かもしれない神武天皇の墓よりも尊崇も持って維持管理されるべき墓を、なすがままに見過ごしているとは、皇室に対する最大の不敬ではあるまいか。 |
計画的で入念な工法で築かれた石室の基礎が語ること
今城塚古墳は、6世紀前半に築造された全長約190mの前方後円墳である。墳丘の形状や出土した埴輪の製作時期などから、上に述べたように専門家は継体天皇の御陵であることは99.9%間違いないと指摘するが、今ひとつ確たる証拠に乏しかった。大王陵と呼ぶには、墳丘が2段築成で低く、肝心の埋葬設備が破壊されて見つかっていないためだ。 今城塚古墳に石室があったことは、文献上では確かめられている。鎌倉時代の貴族の日記「公衡公記」(きんひらこうき)には、正応元年(1288)、古墳から鏡などが盗掘され、犯人が捕まったと記録されているという。その時期までは石室が存在したことは間違いない。だが、この古墳が「今城塚」と呼ばれてきたように、戦国時代、古墳の上に出城が築かれたため、墳丘の頂きが平らに均(なら)され、石室は解体されてしまったようだ。 そして、文禄5年(1596)閏7月13日未明,畿内地方に甚大な被害をもたらした大地震が発生した。伏見の大地震と呼ばれるこの自然災害で、今城塚古墳も墳丘のあちこちが地滑りの被害を受けた。
昨年12月になって、後円部の北半分にあたる崩落崖の裾の部分で、花崗岩や川原石を用いた「コ」の字状の石組み遺構が見つかった。最初は戦国時代に築かれた出城の石積みかと思われたが、どうも構造が違う。そこで、調査期間を今年3月まで延長して詳しく調べたところ、横穴式石室の基礎となる大規模な石組み遺構であることが判明した。
この石組み遺構は、伏見大地震の際の地滑りで、後円部の中央から北に向かって約4m近く滑落したものと思われる。後円部上面で行った第8次調査でも、南へ滑落した礫の固まりが見つかっていて、どうやら石組み遺構は南北に別れて崩落したと考えられる。
基盤工の発見の意義は大きい。新聞各紙で報じられた考古学の専門家のコメントを総合すると、以下の3点に集約できる。 1.大規模な石組みが確認されたことで、横穴式石室が存在したことが明らかになり、大王陵クラスに関する埋葬施設の一部が初めて学術的に明らかにされた。
その一つは、明日香村にある桧隈大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ)、すなわち天武・持統合葬陵。この古墳には、南向きの全長7.6mの横穴式石室が築かれていることが分かっている。鎌倉時代の文暦2年(1235)に盗掘されたが、その盗掘の様子を調査・記録した阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)」という資料が残っていて、そこに陵墓内の石室・棺の大きさ・形状などを詳しく記している。
もう一つは、近鉄岡寺駅近くにある見瀬丸山古墳。陵墓参考地に指定されているこの古墳は、その埋葬施設に関する文献資料はいくつか残っているが、学術調査は長い間拒否されてきた。ところがひょんなことから、その埋葬施設が明らかにされた。平成3年(1991)12月26日、ある会社員が横穴式石室に入り込み、内部をカラー写真で撮影した。その写真がテレビで放映され、結果として文献史学的知見が確認されるとともに、2基の家形石棺が直交して置かれている様子が白日のもとに曝された。 だが、両古墳の埋葬施設は学術調査によって確認されたものではない。大王陵クラスで、その内部構造の一部が学術調査で判明したのは、この今城塚古墳が最初である。しかも、石組み遺構は、その上に巨大な横穴式石室が築かれていたことを想定する明白な根拠となった。
しかも、東西17m、南北11.2mとされる規模は半端な大きさではない。ちなみに、1世紀後の628年に生涯を終えた蘇我馬子の墓とされる明日香の石舞台古墳の玄室内部はの大きさは、長さ約7.6m、幅約3.5m、高さ約4.7m である。これに側壁の石の厚みを加えても、今回出土した基盤工の大きさに達しないのではないか。
出土した石組み遺構は伏見大地震で滑落した状態で発掘された。滑落以前の状態に復元すれば、後円部の二段目テラスのほぼ中央に位置していたものと思われる。しかし、その状態は、戦国時代に出城を築くために、後円部の墳丘を平坦化し、さらに横穴式石室が解体された後の状態である。
(3)奇しくも、伏見大地震の規模のすごさを今に伝える重要な資料が見つかった 文禄5年(1596)閏7月13日未明、活断層による直下型の大地震が畿内を襲い、甚大な被害をもたらした。地震の規模を示すマグニチュードはM8弱で、阪神大地震のM7.3をはるかに上回った。豊臣秀吉のいた京都伏見城では、天守閣が大破し圧死者600人を出し、秀吉は命からがら外へ避難したという. 今城塚古墳もこの直下型地震の直撃をまともに受け、あちこちで地滑りが発生した。約1.5kmほど西に築かれている太田茶臼山古墳では、地震の痕跡は確認されていないという。したがって、今城塚古墳はピンポイントで襲う直下型地震の影響をもろに受けたことになり、墳丘から滑落した石組み遺構は、その凄さをまざまざと今に伝えている。したがって、過去の地震の証跡としての学術的評価も高く、このままの状態を残しながら公園整備すべきである、との専門家の意見が出されている。 |
2つの点に関心をもって訪れた現地説明会
今年は、継体天皇即位1500年の節目の年にあたる。継体天皇ゆかりの地域では、シンポジウムや歴史フォーラムなどさまざまな催しが行われている。その節目の年に合わせるように、今城塚古墳で石室基盤工が出土したことが、一昨日、新聞などのメディアで大々的に報道された。本日、近畿地方の気温は20度を超え、初夏を思わす陽気となった。したがって、この陽気に誘われて、大勢の考古学ファンや古代史ファンが説明会に訪れることは十分予想された。 説明会は午前10時から開始されると報道されていた。通例では、こうした類の説明会では、開始前から大勢の見学者が参集して長蛇の列を作る。余り長時間並んで待たされるのは億劫だったので、1時間ほど時間をずらして、11時過ぎに今城塚古墳に到着した。それでも延々と見学者の列が続き、最後尾は埴輪祭祀場が見つかった内堤の区画の中だった。
見学者の列を整えているボランティアの男性に、
だが、よくよく記事を読んでみると、どうもそうではないらしい。石室基盤工は石室の床の下の盛り土の中に特別に設けられた石組みで、三段築成の3段目に築かれた巨大な石室の重量をうまく分散させて地盤沈下を防ぐ仕掛けらしい。こうした遺構は、これまで京都府の宇治二子塚古墳と奈良県高取町の市尾墓山古墳で一部が確認されているだけだという。しかも、今回出土したものは規模が大きいだけでなく、石室基盤工の具体的状況をよく示している。そうであれば、一見の価値がある。 第2の理由は、今回も石棺の破片と思われる3種類の凝灰岩(二上山の白石、阿蘇のピンク石、高砂の竜山石)が出土したと聞いたからである。つまり、「石室基盤工」の上に構築されていた横穴式石室には、それぞれ異なる地域から調達した3つの石棺が納められ、3人の遺体が埋葬されていたことになる。
『日本書紀』の継体紀は、その末尾に奇妙な文章を載せている。書紀の編者は、継体天皇の死亡時期に関して複数の説がある中で、治世25年目(531年)を崩御年としたが、その理由は『百済本記』の記述に依ったためであると断っている。そして、『百済本記』には「聞くところによると、日本の天皇および太子、皇子が共に亡くなった」と記述されていたという。3種類の石棺とこの『百済本記』の記事との関わりが、筆者は以前から引っかかっている。
1時間は待つものと覚悟していたが、意外と早く20分ほどで発掘現場の端に立つことができた。崩落した石室基盤工の上で、調査員がハンドマイクを片手に要領よく出土遺構の概要を説明してくれた。その要領の良い短い説明が、行列の進行を早めたものと思われる。
■第10次調査は、後円部北側墳丘の遺存状態や盛り土の状態を探るため、約300平米を対象に平成18年12月1日から実施してきた。
■石組みの外縁部は、方形や長方形の石を揃えて一直線に並べてあった。各辺の形状は次の通り。
■内側には、大きさが20〜40cmほどの川原石や板石がびっしりと敷き詰められていた。北側の並べられた板石には割れているものがあった。これは地震によるひび割れではなく、上部に載せられた石室の石の重みで割れたものと推察される。 ■これらの石の大部分は、花崗岩類とホルンフェルス(変成岩の一種、砂岩や泥岩などの堆積岩)で、5.5kmほど北の摂津峡やその周辺から運ばれてきたと思われる。
■石組みの外側の土層を観察して、石組みの進行に合わせてその都度盛り土を寄せていたことが分かり、石組みは露出せずに、盛り土の中に構築されていたことが判明した。
帰り道の途中で、今回の発掘で出土した石棺の破片や副葬品を展示していた。なかでも、朱が塗られた阿蘇ピンク石には興味を抱いた。これが、1500年前に崩御した継体天皇の棺の一部かもしれないないのだ。 副葬品を展示したテントの横に、石棺の模型が置かれていた。係の女性に聞くと、蓋の部分は茨城県の耳原遺跡で見つかった石棺を模したものだそうだ。身の部分は、宮内庁が公表した資料に基づいて見瀬丸山古墳の石棺のものを再現したという。
鎌倉時代には盗掘で石棺が破壊され、戦国時代には墓土を削り取られたばかりか、残っていた横穴式石室や石棺も解体され、16世紀末には伏見の大地震の地滑りで墓の形が大きく崩れてしまった。そして、21世紀の現在、その石棺を安置する石室を支えていた石組みすら白日のもとに曝されてしまった。嗚呼! |