柿本人麻呂の歌塚と柿本寺跡
櫟本(いちのもと)駅前の道路を少し南に向かうと、住宅街を抜けてすぐに高瀬川にぶつかる。今でこそコンクリートで護岸され住宅地を流れる用水路のようは川だが、後で述べるように、古代には有名な暴れ川だった。これから向かう和爾下(わにした)神社の創建は、この高瀬川の治水と大いに関係がある。
高瀬川に沿って400mも東に向かって歩いていくと、国道169号線の「和爾下神社前」の交差点にぶつかる。名阪国道の高架からおよそ100mほど北側の交差点である。交差点の先に和爾下神社の赤い鳥居が建ち、その両脇に狛犬が置かれている。鳥居は補修中なのか、緑のネットが懸けられていた。鳥居の先の舗装された参道を進むと、まもなく左手にゲートボール場が見え、その奥に柿本人麻呂の「歌塚」が建っている。
ワニ氏は、6世紀後半に春日、小野、柿本、粟田などに分かれたとされている。万葉集屈指の歌人・柿本人麻呂はその枝氏の一つである柿本氏の出身である。彼の生地は、現在の天理市の櫟本であると伝えられている。現在なお人口を膾炙する歌を多く残した人麻呂は、任地の石見国で死んだ。妻の依羅娘女(よさみのおとめ)が人麻呂の遺髪を持ち帰り、和爾下神社の西に塚を築いて葬ったとされている。人麻呂崇敬が盛んになるにつれて、この塚は歌塚として有名になった。享保17年(1732)には、後西天皇(ごさいてんのう)の皇女・宝鏡尼の筆によるに碑が建てられた。
4年ほど前、「万葉の大和路を歩く会」でこの場所を訪れたことがある(平成15年3月16日付け橿原日記参照)。当時は塚の上に生い茂った樹木の傍らに石碑が一つポツン建っているにすぎなかった。今は、周囲に柿本人麻呂の石像や、やたらに蛙の石像が置かれ雑然としている。 人麻呂像の横の小さな石碑に「人麿の御霊六蛙(みたまむかえる)蛙かな 詰まった詩歌(うた)もよみ蛙」と詠んだ戯れ歌が彫られている。出来の悪い歌でも、人麻呂に願かければ「よみガエル」という駄洒落のつもりか。
このあたりは、柿本氏の氏寺だった柿本寺(しほんじ)の跡とされている。 柿本寺は和爾下神社の神宮寺で、創建は奈良時代まださかのぼると考えられている。寺跡を見るには、不動明王の石像の脇にある和爾下神社の参道を北に進めばよい。
柿本寺跡へ続く参道の左手に大きな歌碑が建っている。碑に刻まれているのは、『日本書紀』の武烈紀に記載された影媛の悲恋の歌である。 ”石の上 布留を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ 物多(ものさわ)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯さへ盛り 玉もひに水さへ盛り 泣き沽(そほ)ち行くも 影媛あはれ” 【大意】石上の布留を過ぎて、高橋(今の杏町の辺り)を過ぎて、大宅(白毫寺の辺り)を過ぎて、春日(奈良公園の辺り)を過ぎて、小佐保(佐保川町の辺り)を過ぎて、(亡くなった人に供えるため)美しい食器には飯まで盛り、美しい椀に水まで盛って、泣きぬれて行く影媛はああ(全く可哀そうだ)(岩波書店 「日本古典文学大系 日本書紀 下」より)
影媛は物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじ・あらかひ)の娘で、平群大臣真鳥(へぐりのおおおみ・まとり)の息子・ 鮪(しび)と愛し合っていた。ところが、小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかさざき)皇子(即位前の武烈天皇)が影媛に求婚してきた。皇子の求めに影媛が応じなかったため、皇子は鮪を乃楽山(ならやま)で攻め殺させてしまう。そのことを知った影媛は、鮪の後を追って乃楽山へ行き、恋人が殺されてしまったことを見届けて、泣きながらこの歌を詠んだという。
創建時の柿本寺は、規模も大きく立派なお寺だったようだ。現在も礎石の一部が残り、奈良時代の古瓦も出土している。柿本寺の初見は、延久2年(1070)の「興福寺雑役免帳東諸郡」で、そこには「柿本寺田一町百廿歩、・・・・」と書かれている。「東大寺要録」によれば、当時は東大寺の末寺だった。寿永3年(1184)に顕昭が筆写した「柿本朝臣人磨勘文」にも「春道社の杜の中に寺あり、柿本寺と称す」と書かれているという。
ここに記された春道(はるみち)社とは治道(はるみち)天王社、つまり和爾下神社のことである。寺跡の中央に大きな平たい石が置かれている。石棺の蓋ではないかとする説もある。
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前方後円墳の後円部の墳頂に建てられた和爾下神社
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| 和爾下神社古墳を南から遠望 |
東大寺山丘陵の西の端に近い位置に築かれた前方後円墳がある。前方部を北に向けた全長約120mの古墳で、後円部の直径は約70m、前方部の幅は約40mを測る。前方部が短く、その端が両側へバチを開いたような特異な形をしている。後円部に和爾下神社が祀られていることから、和爾下神社古墳と呼ばれている。この古墳は、東大寺山古墳、赤土山古墳、およびシャープ開発センター内にある古墳などとともに東大寺山古墳群を構成している。
古墳の墳丘はかなり変形しているため、以前には前方後方墳とする説もあった。実測調査の結果、前方後円墳であることが判明した。ただし、後円部の墳頂が削平され神社の社殿が建てられていて、埋葬施設や副葬品などは明らかでない。
ただ、昭和59年(1984)の防災工事に伴う小規模な調査で、くびれ部付近から埴輪円筒棺が1基見つかっている。円筒棺には4本の突帯が付けられ、また対向方向に交互に方形の透かしが配されていた。さらに縦ハケの後に横ハケが施されていた。円筒棺のこうした形状から判断して、古墳の築造時期は4世紀末から5世紀初め頃と推測されている。
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| 和爾下神社正面の急な石段 |
和爾下神社の本殿にたどり着くには、柿本寺跡に至る参道を右に折れて、後円部の急な斜面に築かれているかなり長い石段を上らなければならない。石段を上り切ると、まるで深山のような森厳な気の漂う神域の中央に、拝殿が聳えている。平日の午前中、かってのワニ一族によって奉斎されていた鎮守の森を訪れる人影はない。ただ一人、年老いた氏子が拝殿の賽銭箱の周りを掃除していたので、彼と少し立ち話をした。
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| 和爾下神社の拝殿 |
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| 和爾下神社の本殿 |
その氏子が、面白い話をしてくれた。案内板によれば、この神社の本殿は三間社流れ造りで、檜皮葺一間の向拝が付いていて、桃山時代の様式を備えているため、古建築として重要文化財に指定されている。だが、戦前の昭和13年(1938)に国宝に指定されたことがある。それが、現在はワンランク下げて国の重要文化財になっている。氏子はその理由について、内部に書かれたきれいな画が消えてしまったことによるらしい、と教えてくれた。そうであれば、文化庁の杜撰な管理ですっかり駄目になってしまった高松塚古墳の壁画も、国宝の指定を外すべきかもしれない。
氏子はさらに、この神社の創建の事情についても話してくれた。奈良時代の神護景雲3年(769)、東大寺領だった櫟庄(いちのしょう)へ水を引くため、当時暴れ川だった高瀬川を今の参道に沿った線に移し変え、竜田道(横田道)も新しく改修したという。この道が高瀬川の氾濫で壊されないよう、川の氾濫を治めるための祈願所として、神社をこの場所に建てたのが始まりとのことだ。そのため、当初は治道宮(はるみちぐう)と呼ばれたという。
和爾下神社は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、稻田姫命(いなだひめのみこと)の3神を本殿に祀る旧村社である。本殿は昭和46年(1971)に国の補助金と氏子の寄付で屋根の葺き替えが行われた。
新興住宅の外れに位置する赤土山古墳
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| 赤土山古墳を南から遠望 |
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| 名阪国道そばのシャープ開発センター |
和爾下神社の氏子は、親切にも赤土山古墳へ行く道順を教えてくれた。高瀬川に沿う参道をまっすぐ東に向かって進めば、道は緩やかな上りとなって新興住宅の中に入っていく。目指す古墳は、新興住宅の中の一番の高見にあるという。彼に教えられた通りに進んだら、確かに住宅街の外れに、その古墳は、シャープ開発センターの社宅か独身寮にきびすを接するように位置していた。
赤土山古墳は高瀬川に面した東大寺山丘陵の南面尾根筋上に築かれている。丘陵の南を走る名阪国道から見ると、丘陵に築かれたシャープ開発センターの進入路の左手に赤茶けた肌を曝している小山が、赤土山古墳である。住宅街からアクセスしたので、古墳の北西部つまり前方部の左端に行き着いた。だが、古墳の登り口が何処にあるのかわからない。あるいは、無断で古墳に登ることが禁じられているのかもしれない。仕方なく、金網の裾に築かれた排水溝のブロックを伝って、古墳の墳丘にたどりつき、そのまま墳頂に登った。
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| 赤土山古墳を北西の側から望む |
赤土山古墳は、東から西に延びる尾根の東と西を切断して築かれ、前方部を西に向けている。以前から、墳丘の頂き付近に竪穴式石室の石材の割石などが散乱していた。石釧(いしくしろ)や滑石製の玉杖なども出土していた。そのため、4世紀後半から5世紀初頭の頃に築かれた古墳と推定されている。
この古墳は長らく前方後方墳として認識されてきた。、しかし、昭和62年(1987)に実施された古墳整備のための発掘調査によって、全長107m規模の前方後円墳であることが判明した。この調査では、墳丘が葺石で覆われ、二段築成の墳丘の上段と中段および下段の一部に埴輪が巡らされていたことも判明した。さらに、平成元年(1989)の第2次調査では、家型埴輪や囲形埴輪などが、当時の豪族居館を表現するように整然と並べてあった状態で造出し部から出土した。
平成13年(2001)の調査で、墳丘の各所に不自然な不整合面が見つかり、それが地震によって生じた地滑りによることが判明した。このときの調査では、墳丘の南側で朝顔形円筒埴輪3基と円筒埴輪9基が、樹立したままの状態で見つかった。埴輪はいずれも口縁部までほぼ完存しており、古墳築造後まもなく地震による大規模な地滑りで、そのまま滑り落ちて埋没したものと推測されている。
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| 赤土山古墳の頂きから奈良盆地を望む |
赤土山古墳は平成3年(1992)12月に、史跡の指定を受けている。その墳頂に立って西の方角を見ると、奈良盆地を一望に見渡すことができる。東大寺山古墳群の中の3基の大型前方後円墳の築造時期は、東大寺山古墳が4世紀中頃〜4世紀後半、赤土山古墳が4世紀後半〜5世紀初め、和爾下神社古墳が4世紀末〜5世紀初め、と推定されている。したがって、この古墳は東大寺山古墳に次いで古い。東大寺山古墳群=ワニ氏の奥津城という推定が正しければ、おそらく4世紀に栄えたワニ一族の首長3代の墓だったかもしれない。
天理教城法大教会の裏手に横たわる東大寺山古墳
和爾下神社古墳の東側の小高い丘に、天理教城法大教会の巨大な建物が聳えている。その背後に南北方向に横たわる竹藪の小山が、古墳群の盟主的存在である東大寺山古墳だ。この古墳にアクセスするには、教会の中の敷地を通らなければならない。教会の事務所に立ち寄って裏山に登る許可を求めると、快く許してくれたくれた。
東大寺山古墳は、奈良盆地を見下ろす東大寺山丘陵の西端部の一番高いところに北向きに築かれた前方後円墳で、最も好位置を占める。自然の丘陵地形を巧みに利用し、盛り土を行なって墳丘を整えてあり、全長約140m、前方部幅50m、後円部直径84m、高さ約15mを測る。
墳丘への登り口に天理市教育委員会が立てた説明板がある。それによると、墳丘の中腹と裾に円筒埴輪の列が並び、墳頂には形象埴輪が並んでいたそうだ。昭和36年 (1961)初めに発掘調査が行われ、多数の副葬品を伴った埋葬施設が確認された。埋葬施設は粘土槨で、南北12m、東西8m、深さ3.7mの墓壙の底に砂礫と粘土で丁寧に棺台が設けられ、その上に長さ7.4mの木棺が安置されていた。この時の調査では、鍬形石27、車輪石26など多数の碧玉製品や滑石製品、鉄刀などが掘り出された。
その年の9月から翌年1月にかけて行われた調査でも、鉄刀20(うち素環頭6・銅製環頭5)、鉄剣9、鉄槍10、銅鏃、皮製短甲、巴形銅器、玉類など多くの遺物が棺の外側から出土した。なかでも鳥形の飾りがある銅製環頭をもつ長さ約110cmの鉄刀には、次の24文字の銘文が刻まれていた。
「中平」は中国後漢末の年号(184〜190)である。古墳の被葬者は、邪馬台国の卑弥呼が魏に遣使する以前の後漢末製作の鉄刀を所有していた。そのため、俄然この古墳が関係者の注目を集めるようになった。鉄刀の銘文は我が国で最も古い違例であるだけではない。邪馬台国論争にも一石を投じたためである。もっとも、この古墳の被葬者が生きた時代は4世紀中頃から後半である。鉄刀の伝来時期とは約200年近い開きがある。鉄刀はその間、一族の祖先から伝世してきたのであろう。祖先伝来の中国製鉄刀を身につけていた被葬者は、当時の政権の一翼の担う重要な地位にいたワニ氏の首長だったと思われる。
墳丘に立てられた標識に従って竹藪に分け入り、後円部の墳頂にたどり着いた。しかし、50年以上も前に行われた発掘調査の跡は、堆積した笹の落ち葉に埋もれてどのあたりだったか見分けられない。墳頂には、壊れて錆びたベンチが3脚置かれていた。竹の間から漏れてくる春の日差しが、そのベンチに柔らかく注いでいた。 |
和爾坐赤坂比古神社
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| 和爾町へ向かう途中に鎮座する鬼子母神社 |
現在の天理市の北部にあたる櫟本(いちのもと)町から和爾(わに)町は、古代豪族ワニ氏の本拠地だったとされている。和爾の集落の中には和爾坐赤坂比古神社が鎮座している。ワニ氏の奥津城とされる東大寺山古墳群を見学したついでに、ワニ氏が住んでいたあたりの景観を確かめたくて、和爾町まで足を延ばしてみることにした。天理教城法大教会の正門前に、赤坂比古神社方面への標識が出ている。その標識が指し示す方向に田舎道を進むと、途中に鬼子母神社があり、その近くに櫟本高塚公園(いちのもとたかつかこうえん)がある。
櫟本高塚公園は平成13年(2001)3月に完成した近隣公園である。事前の発掘調査で、この場所から古墳時代の掘立柱の建物跡(柱穴)が見つかった。掘立柱跡の形態や規模の大きさから、特殊な扱いを受けた建物跡と推定されている。奈良盆地を見下ろす丘陵の上に築かれている立地条件を考慮すると、古代の祭祀場だった可能性が高い。
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| 櫟本高塚公園の案内図 | 櫟本高塚遺跡発掘時の現場写真 |
櫟本高塚公園を過ぎると、和爾町の集落に入る。民家が建て込んだ狭い坂道を上っていくと、不意に赤坂比古神社の前に出る。神社は櫟本町を西南に望む標高約90メートルの台地に鎮座する。石の鳥居をくぐると、正面に拝殿が、その左に公民館の建物があり、いかにも村の中の旧村社という雰囲気である。主祭神として阿田賀田須命(あたかたすのみこと;赤坂比古命)と市杵嶋比賣命(いちきしまひめのみこと;宗像三女神の一人)を祀っている。
口碑に依れば、神社の本殿は横穴式古墳の上に鎭座している。数十年以前までは石郭をみることができたが、今は入口を閉さされているとのことだ。神社の由来によると、もとは推古21年(613)に作られた和爾池の南に位置する天神山にあったという。
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| 赤坂比古神社の鳥居 | 赤坂比古神社の本殿 |
赤坂比古はワニ氏の祖神だったのでは、と推察されている。この神社が成立したのは相当古く、奈良時代の神亀元年(724)以前にすでに神戸の施入があったことが記録に残っている。また、平安時代の初めには、從五位下の神階が与えられていたが、『三代實録』 によれば、貞観元年(859)正月に從五位上に進められたという。
和爾庄が、東大寺尊勝院根本所領の一庄として既に康保4年(967)には成立していた。そのため、この神社は東大寺守護神として和爾庄の鎭守的性格を帯びるようになったとされている。
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| 「和珥坂下伝承地」の標識 |
神社の横にある善福寺の前に「和珥坂下伝承地」方面の標識が立っている。標識が指し示す方向に歩いて行くと、集落のはずれに出、田舎道が西の方角に下っていく。何があるのだろうと、好奇心にかられて狭い地道をたどると、左手の雑草の中に「和珥坂下伝承地」の石碑が立ち、その横に案内板があった。しかし、案内板はずり落ち、何が書かれているのか読めないほど痛んでいた。おそらくこの付近が古代の和珥坂下に比定される根拠を書き記してあったのであろう。
ワニ氏は、第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)を始祖と仰ぐ古代豪族で、もともとの本拠地は現在の天理市和爾や和爾下神社のある一帯だった。やがて、本拠地を少し北の春日のあたりに置き、春日氏を称するようになる。さらにその後、六世紀に入ると、大宅、栗田、小野、高橋、柿本、櫟井、和仁などの多くの氏族を分立させ、更に非血縁の氏族をも同族化して、巨大豪族の一つへと成長していった、とされている。
その発展のきっかけとなったのが、記紀に記す武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱ではなかったか。崇神天皇10年9月、当時南山城に勢力を持っていた武埴安彦が反乱を企てたので、崇神天皇は伯父にあたる大彦命(おおひこのみこと)とワニ氏の彦国葺(ひこくにぷく)を迎撃に向かわせ、反乱を起こした武埴安彦を討たせた。その時、彦国葺は和珥(わに)の「武すき坂」(たけすきのさか)で、祭祀用の甕(かめ)である忌瓮(いわいべ)をすえて神を祀ったとある。その「武すき坂」が和珥坂として伝承されている。
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| 「和珥坂下伝承地」へ下っていく田舎道 | 「和珥坂下伝承地」の石碑 |
神祭りが終わると、彦国葺は精兵を率いて奈良山に登り、現在の木津川で埴安彦と戦い、これを討ち滅ぼした。こうして、南山城に橋頭堡を築いたワニ氏は、次第にその勢力を山城国に拡大していったと言われている。当時の南山城には多くの渡来人が住み着いて養蚕や織物、鋳銅などさまざまな技術を伝えていた。ワニ氏はこうした渡来人を配下におさめることで、その経済力を強めたにちがいない。
その後、応神王朝が興ると、ワニ氏の武振熊(たけふるくま)はいち早く新王朝に荷担して、前王朝の忍熊(おしくま)を宇治の渡りで破り、更に敗走する忍熊を近江の琵琶湖に追い詰めて入水自殺をさせてしまう。ワニ氏の近江進出はこの時から始まったものと思われる。
ワニ氏は歴代天皇に后妃を入れることで勢力を維持してきた皇親氏族の印象が強い。だが、こうして一族の発展の軌跡をたどると、王権に敵対する勢力を武力で駆逐する力を十分に備えた勇族であったことが分かる。その証が東大寺山古墳群に築かれた全長100mを越す複数の前方後円墳の存在であろう。