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インターネットの検索エンジンは、時には予想もしない情報を提供してくれる。ある古墳の名前を検索していたら、妙に響きの良い、そして字面も綺麗な古墳群を教えてくれた。その名を美旗古墳群(みはたこふんぐん)という。気になって少し調べてみた。名張川(なばりがわ)支流の小波田川(おばたがわ)の上流右岸に営まれた伊賀地方で最大級の古墳群だそうだ。 現在、美旗古墳群には7基の古墳が残っている。そのうち5基は前方後円墳で、それぞれは殿塚、女良塚(じょろうづか)、毘沙門塚、馬塚、貴人塚と呼ばれている。残りの2基は、馬塚古墳の陪塚で小塚と呼ばれる小さな方墳と、赤井塚と呼ばれる円墳である。その他にカブト塚、矢羽塚、玉塚と呼ばれる方墳や円墳もあったようだが、今は消滅している。
今でこそ、江戸時代初めに行われた開拓事業のおかげで、周囲に見事な水田が広がっているが、古代には身野(みの)原と呼ばれた原野だった。その当時、伊賀地方を支配した豪族は、伊賀氏または名張氏だったと言われている。彼らは、この地域を一族の奥津城と見なして首長墓を代々築いてきたのであろう。 美旗古墳群を構成する古墳は、首長層の一世代一墳的な傾向が見て取れるという。すなわち、5世紀から6世紀にかけて、殿塚→女良塚→毘沙門塚→馬塚(陪塚:小塚)→貴人塚→赤井塚の順に順序よく年代を追って継続的に造営されている。しかも各時期の特徴を持った形態が採用されている。そのため、いずれの古墳も昭和53年(1978)10月に、国の史跡の指定を受け、名張市が誇る重要な文化遺産になっている。 このような古墳が点在する美旗古墳群は、古墳に興味をもつ考古学ファンにとっては、史跡探訪の穴場だそうだ。そう聞いた途端、是非訪れてみたくなった。近鉄の「美旗」駅までは、急行を利用すれば、橿原のアパートから1時間で行ける。幸いなことに、本日も雲一つない好天に恵まれた。風もなく、暖かい早春の日差しが降り注ぐ、絶好の探索日和である。
改札を通るとき、付近の観光地図を駅員に所望した。すると、彼は部屋の奥のキャビネットから一枚の地図を取り出して渡してくれた。美旗まちづくり協議会が作成した「美旗古墳群ハイキングマップ」で、カラー刷りの分かり易い仕上がりになっている。裏を見ると、近鉄が作成している「てくてくまっぷ57 美旗古墳群コース」が印刷されている。ありがたいことに、ハイキングコースの要所要所の目印と出発点からの実測距離が示してある。とりあえずは、「てくてくまっぷ」通りに古墳巡りをしてみることにした。
【参考】美旗古墳群を構成する各古墳の規模
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馬塚古墳
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| 全長142nの規模を誇る馬塚古墳 |
史跡探訪の最初のターゲットとして選んだのは、「美旗」駅の東南200mにある馬塚古墳。美旗古墳群のほぼ中央に位置する前方後円墳で、全長142mの墳丘は古墳群の中で最大規模を誇る。駅前の道を真っ直ぐ100mほど進むと、T字路の交差点の先に堂々と横たわる墳丘が見えた。
史跡として整備された墳丘は、冬枯れしたした芝で覆われている。朝日を一杯に受けた墳丘は、目に眩しい。道路脇に建てられた史跡指定記念碑の傍らに立つと、後円部の高さ14mに対して、前方部の高さが6mと、異常に低いように見える。後世、寺院や運動場として利用されたためだそうだ。しかし、前方部の幅が大きく発達し、また前方部と後円部の接合部の両側に造出し(つくりだし)を持ち、古墳時代中期後半の特色をよく示しているそうだ。この古墳が築かれた当時、墳丘の全面が川原石や山石などの葺石(ふきいし)で覆われ、形象埴輪が置かれていた。およそ12m幅の整った周濠が周囲に巡らされていたこともわかっている。
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| 馬塚を南側から望む | 後円部の裾に建てられた馬塚観音堂 |
現在は、空堀になっている周濠の南側が、近くにある保育園の運動場に利用されているようだ。運動場に出て元気に動き回る幼児たちの声が、晴れ渡った空の下で響いていた。また、墳丘の周りには至るところに埴輪の代わりに西国霊場の観音をかたどった石仏が置かれ、後円部の斜面には馬塚観音の小さな堂が建てられている。
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| 墳丘に置かれた石仏@ | 墳丘に置かれた石仏A |
後円部の頂上に登ってみた。四方に展望が開けて、まさにこの場所が美旗盆地のほぼ中央に位置しているのがよく分かる。はるか彼方で周囲を取り巻く低い山並みに囲まれた盆地には田園が広がっている。現在の景観からは、豊かな実りを約束された土地のように思われるが、古代はそうではなかった。付近一帯はコナラや竹などが生い茂る原野だった。この地域に開発の手が入るのは、後述のように江戸時代になってからである。
名張地方は古くから大和の文化が流入し、各地に多くの遺跡が残っている。その一つが美旗古墳群である。この地を奥津城としてきた古代氏族が最初に築いたのが殿塚古墳だとすると、馬塚古墳はその4代目の首長を葬った墓ということになる。彼の時代が一族の最も栄えた象徴として、この巨大古墳が築かれたのかもしれない。
馬塚古墳の東の方角に、1辺が15m、高さが3.5mの小塚(こづか)と呼ばれる方墳が、陪塚として築かれている。馬塚古墳の頂きに立てば、民家の屋根越しに周囲を田んぼに囲まれた小さな盛土を見ることができる。そこが小塚である。一族の首長に忠実に仕えた部下が、首長の死を悲しんで殉死し、その亡骸を埋葬した墓かもしれない。
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| 馬塚古墳の陪塚・小塚 |
美旗古墳群を構成する古墳の名の由来について、名張地方に楽しい伝説が昔話として伝えられている。その要旨を以下に紹介しておこう。
昔、美濃国の土岐氏の奥方が大和の長谷観音に参詣した帰り道のこと、この付近で奥方の乗った馬が突然、前足を上げ暴れだした。家来たちは必死で暴れ馬を押さえようしたが、そのうち、奥方が馬から振り落されてしまった。しかも、馬は奥方にかみついて離さなかった。驚いた家来たちは、刀で馬を切り殺したが、奥方もそのまま死んでしまった。家来たちも、そのまま美濃国へ帰るわけにもいかず、その場で自害して果てた。
村人たちは、一行の思いがけない死を哀れんで、立派な墓を作ってやった。そして、馬を埋めた墓を「馬塚」、奥方を埋めた墓を「女郎塚」、男女の家来たちを埋めた墓を「殿塚」と「貴人塚」と呼ぶことにしたそうだ。また、持っていた宝物を埋めた所を「玉塚」、持っていた仏の毘沙門天を埋めた所を「毘沙門塚」と呼んだ。「小塚」は奥方の子を埋めた墓ともいわれてる。
この伝説が作られたのは、はるか後世のことで、もちろん史実でも何でもない。おそらく古墳の名称の由来が分からなくなって久しく、もっともらしい作り話でその由来を子供たちに説明したのであろう。
毘沙門塚古墳
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| 毘沙門塚古墳遠望 |
毘沙門塚古墳は美波多神社の東およそ250mのところに築かれている。この古墳にアクセスするには、神社の鳥居の前を流れる新田水路に沿った小径しかない。車でのアクセスは無理だ。水田水路を少したどると、蒲(がま)の穂の生えている池があり、その傍らの小径を左に折れると毘沙門塚古墳がある。
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| 一直線に延びる新田水路沿いの小径 | 毘沙門塚古墳の説明版 |
毘沙門塚古墳へ向かう新田水路沿いの小径は、この付近を散策するにはもってこいの自然歩道である。右手には水田が広がり、そのはるか向こうに倶留尊(ぐろそ)山や大洞(おおぼら)山がかすんで見える。左手を見れば、太古そのままの原生林が広がっている。美旗古墳群が築かれた時代、周囲の景観はおそらくこのように雑木林の原野だったのだろう。
西暦689年は、我が国では持統天皇の称制3年にあたる。この年の4月、即位をさせたかった草壁皇子が他界している。同じ年の8月16日、伊勢国伊賀郡の身野二万代(40町歩)に禁漁区を設け、守護人を置いたと、『日本書紀』は伝えている。身野は「みの」または「むの」と読み、この辺り一帯を指すと考えられている。おそらく皇室の狩猟場または薬草採集地として、一般人の立ち入りを禁止したのであろう。そのため、一帯は江戸時代の初めまで原野のまま放置されてきた。
毘沙門塚古墳は、殿塚古墳、女郎塚古墳についで3番目に築かれた前方後円墳である。全長は65mを測るが、その他の計測データは明らかでない。墳丘に葺石が敷かれ、円筒埴輪が置かれていたことが分かっている。その埴輪から、古墳時代中期中頃の築造と推定されている。周囲はもともとは空堀だったようだ。だが、周囲の造成で水のはけ口がなくなり、古墳群の中では唯一水を蓄えている周濠となっている。墳丘上には毘沙門天を祀ったとつたえられる祠(ほこら)の跡や、竪穴式石室の蓋石があるとのことだ。
女良塚塚古墳
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| 跨線橋の向こうに見えてきた女良塚塚古墳 |
毘新田水路沿いの小径は、毘沙門塚古墳からおよそ250m先で近鉄大阪線の線路を跨ぐ。その跨線橋(こせんきょう)まで来ると、杉の木が生い茂った森が前方に見えてくる。そこが女良塚塚古墳である。跨線橋からさらに約130mほど歩くと、古墳の概要を記した説明版が立っている。
女良塚塚古墳は美旗古墳群の中で2番目に築造されたと言われている。全長は100mで、5基ある前方後円墳の中では、馬塚古墳に次いで大きい。後円部に比べて短くて低い前方部を取り付けた帆立貝式の前方後円墳であるとされている。しかし、繁茂する樹木のため、墳丘の形をよく確認できない。
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| 女良塚塚古墳遠望 | 水田として利用されている周濠 |
この古墳が造られたとき、墳丘に葺石が敷かれ、円筒埴輪や形象埴輪が並べられていた。墳丘の周りには整った周濠が巡らされていて、古墳時代中期前半の築造と推定されている。古墳の周りには周濠の跡が残っており、今もも水田として耕作されている。
昭和45年(1970)に、後円部の頂上が荒らされて、埴輪の破片が散乱してしまった。破片はすべて家形埴輪のもので、三棟分はあったという。そのうちの2棟が復元されて、美旗市民センターで展示されている。大きい方は、屋根の形が入母屋造りで高さが95.5cm、小さい方は寄せ棟造りで72cmの高さがあるとのことだ。
女良塚塚古墳は美旗駅から北東に約800m、馬塚古墳からは約1kmのところにある。馬塚古墳の横にある道を真っ直ぐ北東方向に進めば、途中から車道は地道に変わるが、車でもアクセスできる。
殿塚古墳
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| 共同墓地の奥は殿塚古墳 |
近鉄作成の「てくてくまっぷ」には、殿塚古墳が描かれていない。美旗まちづくり協議会作成のハイキングマップには、女良塚の近くに殿塚が示されている。だが、図示された方向を見やっても、民家が数軒建ち並ぶだけで、その背後が雑木林になっていて、どの当たりが古墳か検討がつかない。
こんな時には、近在の住民に確かめるのが一番である。周囲を見渡すと、女良塚古墳の前の田んぼで働いている農夫がいた。ハイキングマップを示して場所を確かめたが、知らないという。仕方がないので民家に立ち寄って確かめようと歩き出したら、途中で犬を散歩させている老婦人に出会った。
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| 共同墓地手前の地蔵菩薩石像 |
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| 名張市教育委員会が立てた説明版 |
突き当たりには、確かに左へ進む道があった。車の轍(わだち)が深く食い込んだ下りの山道がどんどんと林の奥へ続いていく。ずいぶん歩いたが、共同墓地らしいものは何処にもない。そのうち、近鉄電車の線路を見下ろす崖に出て、山道はそこで切れていた。
どうやら道が違っていたようだ。左折して山道に分け入ったところまで戻ると、先程の老婦人が犬を抱いて立っていた。そして、
「どうもすみませんでした。墓地へ行く道の手前にもう一本道があるのを忘れていました。もう少し林の中に入り、突き当たりを左に進んでください」
と、何度も頭を下げて謝った。
彼女に教えられた通りに進むと、今度は共同墓地の前に出た。墓地の後ろの雑木林の丘が殿塚古墳だった。古墳の前に説明版が立っているため、ようやくそこが目指した場所であると確認できた。
殿塚古墳は、美旗古墳群の前方後円墳のうち最初に築かれたもので、5世紀初めの築造と推定されている。全長88mを測る墳丘は葺石が敷かれ、円筒埴輪や形象埴輪があったことが分かっている。また、後円部を中心に不明瞭な周濠が一部分巡らされ、周濠の外堤には陪塚のワキ塚1号墳(方墳)と同2号墳(円墳)が位置していた。
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| 殿塚古墳の説明版 | 殿塚古墳の前方部 |
貴人塚古墳
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| 貴人塚古墳遠望 |
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| 今もこの地域の生命線である水田水路 |
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| 堤防脇にある初瀬街道の常夜燈 |
だが、この区間の水田水路は今までとは違って、高く積まれた堤の上に築かれている。堤の両側は水田である。すべての水田は、この水路から引き込む用水に依存している。
津藩が開発事業の一環として、この地に開墾の鍬を入れたのは承応3年(1654)とされている。開墾を提案したのは、加判奉行(かばんぶぎょう)の加納直盛(かのうなおもり)だった。提案者の彼を中心にして、灌漑用水確保のため上小波田に東ノ狭間(とうのはざま)池と滝之原(たきのはら)に大池を作った。池が完成したのは翌年の承応4年(1655)である。そして、多くの農民を入植させ、原野の開墾が行われた。
入植した百姓たちは苦難の連続であったが、藩は百姓の逃亡を防止し、また新田開発の事業を完遂させるために、百姓を無人足にとりたて、鉄砲組を組織した。無人足とは碌はないが武士の身分をいう。武士の待遇を与えることで開墾農民に誇りをもたせるとともに、鉄砲組を組織して兵力の増強に役立てた。しかし、新開墾地の成績は良好ではなかった。開墾3年目には農家の数は185戸あったが、一戸あたりの収穫高は6俵にすぎなかったという。
延宝3年(1675)6月、豪雨のため大池が決壊した。父加納直盛の後を継いで加判奉行となった加納直堅は、大池の復旧に努めるとともに、これを教訓として高尾出合(たかおであい、現那賀郡青山町)から延々14kmの水路敷設を計画した。この水路の完成で新たな開墾が進んだという。現在もこの水路はこの地域の生命線となっている。
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| 貴人塚古墳を前方部後方から望む | 前方部に立てられた貴人塚の碑 |
貴人塚古墳は、馬塚古墳の南東約500mに位置している。古墳群中最後に築かれた前方後円墳である。周濠部を発掘調査した結果、墳丘の全長は約55m、周囲に浅い周濠が巡らされていたことが確認された。墳丘には葺石が敷かれ、須恵器の埴輪が立てられていたことから、古墳時代後期前半の築造と推定されている。
観阿弥
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| ふるさと公園に建つ福田神社跡碑と観阿弥顕彰碑 |
国道165号(旧初瀬街道)が美旗盆地を東西に貫く一帯には、小波田川(おばたがわ)が潤す水田や畑が広がっている。国道を境にして、小波田川の上流が上小波田(かみおばた)地区、下流が下小波田(しもおばた)地区である。美旗古墳群のうちで最も新しい赤井塚古墳は、上小波田の集落の中に築かれている。小波田川と国道の交差点の東南側に小高い山があり、その中腹に観阿弥(かんあみ)ふるさと公園がある。赤井塚古墳に向かう途中なので、立ち寄ってみることにした。
観阿弥とは言うまでもなく、伝統的な舞台芸能である能楽の大成者として知られるあの観阿弥(1333 - 1384)である。観阿弥と世阿弥(ぜあみ)父子で大成した能は、14世紀の中頃、観阿弥がこの小波田地区で猿楽座(後の観世座)を建てたことに始まるとされている。世阿弥が著した「申楽談儀」にも「伊賀小波田にて座を建て初められし」と記述されているという。
名張市は昭和44年(1969)、小波田地区の鎮守の森である旧福田神社境内に石碑を建立して先人の業績を顕彰した。さらに、平成7年(1995)には能舞台を建立して観阿弥ふるさと公園(約3000平方メートル)として整備した。
ゆったりとした坂道を登り切ると、広場の中央に「観阿弥創座之地」と刻まれた石碑が建っている。その左側にはヒノキ造りの能舞台がある。毎年11月にはこの公園で「観阿弥祭」が開かれ、能楽愛好家でにぎわうとのことだ。
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| ふるさと公園への上り坂 | 観阿弥顕彰碑 |
赤井塚古墳
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| 赤井塚古墳遠望 |
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| 赤井塚古墳の説明板 |
この古墳は、伊賀地方で最大級の全長約12mの横穴式石室をもつことで知られている。巨石を組み合わせた石室の構造から、6世紀後半に築造されたと推察されている。このことは、美旗古墳群で5基の前方後円墳が築かれた後に、赤井塚が築かれたことを意味する。
赤井塚古墳は「美旗」駅から南へ2.5kmの距離にある。馬塚古墳からだと約2km、貴人塚古墳からだと約1.5kmほど離れている。アクセスするには、上小波田集落の中の曲がりくねった坂道を登っていかなければならない。国の史跡に指定されているにもかかわらず、どこにもアクセスのための表示が出ていない。
集落の中程の道路脇に、貴福寺の石碑が建っている。その石碑の横の道を寺の石垣に沿って進むと、上り坂が途中から下りにかかる。そのあたりで前方左手を見ると、丘の麓に緑の金網で囲った一画がある。そこが、露出した赤井塚古墳の石室開口部である。横穴式石室の内部が以前は見学できたようだが、残念ながら今は金網に施錠されていて中へ入ることはできない。金網越しに石室の内部を撮影したが、デジカメの弱いフラッシュでは石室の奥まで光りが届かなかった。
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| 金網に囲まれた横穴式石室 | 石室の内部は見えず |
近鉄作成の「てくてくまっぷ57 美旗古墳群コース」は、約10kmのハイキングコースになるように設定されている。しかし、コースに含まれていない殿塚古墳に立ち寄ったり、逆に滝川氏城跡公園へのアクセスを省いたりしたため、実際に歩いた距離は9km程度だっただろう。明るい日差しが降り注ぎ、風もない暖かい一日だったことは、幸運だった。おかげで、標高200mの高原の史跡探訪を満喫できた。(Feb23 記す)