|
そのストレスを少しでも解消しようと、今月2日の朝刊に新聞各紙が掲載した甘樫丘東麓遺跡の発掘報道を読み直して見た。以下はその感想である。 |
奈文研の記者発表を報じた新聞各社の温度差
その駐車場の裏手に造園を作る計画が持ち上がり、奈良文化財研究所(奈文研)は平成17年(2005)11月に発掘調査を行なった。今度は7世紀代の6棟の建物跡などが見つけた。マスコミは、「蘇我入鹿の邸宅跡を発見か!」とセンセーショナルに報じた。しかし、建物の築造時期が絞り込めず、蘇我氏との関連ははっきりしなかった。 奈文研は一昨年発掘した場所の北側に約900平米の調査地域を設定して、昨年10月から発掘を行ってきた。そして、7世紀前半の大規模な石垣や建物跡などを発見し、去る2月1日、各報道機関に記者発表した。翌日の新聞各社はその記者発表を受けて、大規模な石垣が出土したことを大々的に報道した。もちろん、テレビのニュースでも取り上げられた。 今回の出土遺構を確認しようと思って新聞各紙の報道記事を読み比べてみて、面白いことに気づいた。紙面の配置や見出しの付け方などから、全国版各紙の報道姿勢にかなり温度差があるのだ。それを以下の表で示そう。
上記は各紙の関東版の紙面割付や見出しの表示である。面白いことに、同じ新聞社でも関東版と関西版では、記事を掲載した紙面上の位置や見出しの付け方まで違っている。例えば、2月2日付け産経新聞の朝刊は、関西版ではこの発掘記事を一面トップに掲げているが、関東版の一面トップは「補正予算 野党欠席 衆院通過へ」であり、発掘記事は1面中央に格下げされている。総じて言えば、各紙は関西版の方が記事の扱いが大きい。
この地域の発掘を委託されている奈文研も、そして考古学を専門とするいずれの学者も、甘樫丘東麓遺跡が「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼ばれた蘇我入鹿の邸宅跡とは誰も断定していない。出土した建物遺構が邸宅と呼ぶにはあまりに小規模であるためだ。入鹿邸の付随した倉庫や武器庫の可能性までは否定していないが、発掘現場の谷は当代随一の権力者の邸宅を築くには余りに狭い。それくらいのことは、現場を訪れた者なら誰でも了解できるはずだ。 筆者が蘇我入鹿だったら、谷の宮門は、現在の調査地域から丘陵を一つ越えた北の深い谷を選んて建てたであろう、と以前から考えている(平成17年11月16日付け橿原日記参照)。だが、その谷は民有地であり、まだ調査のメスが入っていない。現在の甘樫丘東麓遺跡からだと、当時の皇極天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)は、前面に横たわる丘に遮られて見えない。蘇我氏の威信を示すには不適切な場所である。甘樫丘東麓遺跡で見つかった建物跡が谷の宮門に付随するものであったとしても、それは倉庫か兵器庫、兵舎のたぐいにすぎなかっただろう。
明日香は「石の都」と言われるほど、どこを掘っても石敷きの遺構が見つかる。たかだか1m程度の高さの石垣が出土した程度で、調査地域があたかも入鹿の邸宅跡だったという印象を与える報道の仕方は、笑止である。マスメデイアが物事をセンセーショナルに報道しがちな習性から相変わらず脱却していないようだ。もちろん、本当に蘇我入鹿邸が見つかれば、世紀の大発見として大々的に報道されてしかるべきであろう。大規模な造成を行なって石垣を築いただけでは、なにも入鹿邸建設の証(あかし)にはならない。 |
追記:持つべきは、やはり心の通う友橿原市在住の友人T.Y君は本日現地見学会に出かけた。埼玉の自宅にいて参加できず悔しがっている筆者の無念さを察してか、メールで見学会の様子を知らせてくれた。小雨がちらつく天気にもかかわらず、約9千人の見学者が参集したそうだ。発掘現場近くから2列縦隊ぐらいでウネウネと外周道路まで続く形で並ばされ、現場にたどり着くのに1時間を要したとのことだ。 そのT.Y君がデジカメで撮影した現場の写真をメールに添付して送ってくれた。せめて見学会の雰囲気くらいは伝えてやりたいとの心づくしであろう。やはり持つべきは、心の通う友である。
|