橿原日記 平成19年2月11日

甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおかとうろくいせき)の発掘報道に見るマスメディアの異常さ



在の時間は2月11日の正午過ぎ。奈良県明日香村の飛鳥京跡では、県立橿原考古学研究所(橿考研)の現地説明会がすでに始まっている。最近、この遺跡から飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)の北端を示す石組み溝が出土した。その発掘現場での説明会である。後1時間もすれば、甘樫丘東麓遺跡でも現地見学会が開かれる。奈良文化財研究所(奈文研)はこの遺跡で大規模な石垣遺構や建物跡を発掘した。所用で自宅に戻っていて、残念ながらいずれにも参加できず、悔しい思いで一杯である。

のストレスを少しでも解消しようと、今月2日の朝刊に新聞各紙が掲載した甘樫丘東麓遺跡の発掘報道を読み直して見た。以下はその感想である。



奈文研の記者発表を報じた新聞各社の温度差

甘樫丘東麓遺跡の所在地
甘樫丘東麓遺跡の所在地(産経新聞より)
成6年(1994)、国営飛鳥歴史公園甘樫丘の東の山麓で駐車場を建設するため事前発掘調査を行なったところ、7世紀中頃の焼けた壁土や炭化した木材などが出土した。そのため、調査された場所は甘樫丘東麓遺跡と命名された。

の駐車場の裏手に造園を作る計画が持ち上がり、奈良文化財研究所(奈文研)は平成17年(2005)11月に発掘調査を行なった。今度は7世紀代の6棟の建物跡などが見つけた。マスコミは、「蘇我入鹿の邸宅跡を発見か!」とセンセーショナルに報じた。しかし、建物の築造時期が絞り込めず、蘇我氏との関連ははっきりしなかった。

文研は一昨年発掘した場所の北側に約900平米の調査地域を設定して、昨年10月から発掘を行ってきた。そして、7世紀前半の大規模な石垣や建物跡などを発見し、去る2月1日、各報道機関に記者発表した。翌日の新聞各社はその記者発表を受けて、大規模な石垣が出土したことを大々的に報道した。もちろん、テレビのニュースでも取り上げられた。

回の出土遺構を確認しようと思って新聞各紙の報道記事を読み比べてみて、面白いことに気づいた。紙面の配置や見出しの付け方などから、全国版各紙の報道姿勢にかなり温度差があるのだ。それを以下の表で示そう。

新聞名紙面上の配置タイトルサブタイトル関連記事
朝日新聞一面左上蘇我入鹿邸石垣か一大拠点、見栄狙う?
毎日新聞28面蘇我氏邸の石垣か7世紀前半、大規模な造成跡確認
読売新聞1面中央蘇我氏邸 要塞化天皇家牽制か38面:「改新」前夜の緊張感 蘇我氏の実像迫る
産経新聞1面中央奈良・甘樫丘 大規模な石垣「豪壮建築」蘇我入鹿邸30面:大規模な石垣 新たなミステリー

記は各紙の関東版の紙面割付や見出しの表示である。面白いことに、同じ新聞社でも関東版と関西版では、記事を掲載した紙面上の位置や見出しの付け方まで違っている。例えば、2月2日付け産経新聞の朝刊は、関西版ではこの発掘記事を一面トップに掲げているが、関東版の一面トップは「補正予算 野党欠席 衆院通過へ」であり、発掘記事は1面中央に格下げされている。総じて言えば、各紙は関西版の方が記事の扱いが大きい。

2月2日付け関西版産経新聞朝刊のトップ
2月2日付け関西版産経新聞朝刊のトップ
れにしても、新聞各社が付けたタイトルはセンセーショナルである。まるで甘樫丘東麓遺跡は蘇我入鹿の邸宅跡で決まりといった扱いだ。そして、出土した大規模な石垣が蘇我氏の権力を示す象徴のように扱っている。

の地域の発掘を委託されている奈文研も、そして考古学を専門とするいずれの学者も、甘樫丘東麓遺跡が「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼ばれた蘇我入鹿の邸宅跡とは誰も断定していない。出土した建物遺構が邸宅と呼ぶにはあまりに小規模であるためだ。入鹿邸の付随した倉庫や武器庫の可能性までは否定していないが、発掘現場の谷は当代随一の権力者の邸宅を築くには余りに狭い。それくらいのことは、現場を訪れた者なら誰でも了解できるはずだ。

者が蘇我入鹿だったら、谷の宮門は、現在の調査地域から丘陵を一つ越えた北の深い谷を選んて建てたであろう、と以前から考えている(平成17年11月16日付け橿原日記参照)。だが、その谷は民有地であり、まだ調査のメスが入っていない。現在の甘樫丘東麓遺跡からだと、当時の皇極天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)は、前面に横たわる丘に遮られて見えない。蘇我氏の威信を示すには不適切な場所である。甘樫丘東麓遺跡で見つかった建物跡が谷の宮門に付随するものであったとしても、それは倉庫か兵器庫、兵舎のたぐいにすぎなかっただろう。

発掘現場付近遠望
甘樫丘東麓の駐車場遠望。
発掘は駐車所の奥で行われている
部の新聞は、今回出土した”巨大な石垣”をもって、「谷の宮門」の所在が確定したような報道の仕方をしている。だが、明日香を知るものにとって、巨大な石垣=入鹿の邸宅に付随した設備とする発想は、無知から来る思いこみでしかない。明日香を一度レンタサイクルして散策してみれば容易に分かることだが、明日香の大地は東から西へ、そして南から北へかなり傾斜している。どの場所に邸宅を建設しようと、造成工事で土地を平坦にすることが不可欠である。宅地の境界に土留めを設けようと思えば、石垣を築くことも必要となる。

日香は「石の都」と言われるほど、どこを掘っても石敷きの遺構が見つかる。たかだか1m程度の高さの石垣が出土した程度で、調査地域があたかも入鹿の邸宅跡だったという印象を与える報道の仕方は、笑止である。マスメデイアが物事をセンセーショナルに報道しがちな習性から相変わらず脱却していないようだ。もちろん、本当に蘇我入鹿邸が見つかれば、世紀の大発見として大々的に報道されてしかるべきであろう。大規模な造成を行なって石垣を築いただけでは、なにも入鹿邸建設の証(あかし)にはならない。



甘樫丘東麓遺跡で今回出土した遺構

上空から見た今回の発掘現場
上空から見た今回の発掘現場(毎日新聞より)
に述べたように、奈文研は一昨年11月に7世紀の建物跡が6棟出土した調査地の北側約900平米を、今回調査地域に指定して発掘してきた。新聞報道によれば、次のような遺構が出土したという。これらの遺構が作られた年代は、出土した土器片の年代から推定して、7世紀前半と7世紀中頃の2つの時期に分けられるとのことだ。

■7世紀前半(600 - 650)
●丘陵の谷筋を大量の土で埋め立て大規模な造成を行なった後に作られた石垣。谷筋に沿って北西から南東方向へ築かれていて、石垣の長さは15mに達する。直径20〜50cmの石を7段から8段積み上げられていて、最高の高さは1mを測る。1段積むごとに石の脇に土砂を入れて固めるという丁寧な作りがなされていて、渡来系の技法が用いられたと思われる。
●石垣の東側約1.6mに石垣に平行して建てられた塀跡。約5mにわたって柱穴4つを確認。
●石垣の東側約11mの所に建てられた縦8m、横3.8mの建物跡
●石垣の西側に建てられた倉庫と思われる建物跡2棟。

出土遺構平面図
出土遺構平面図(現地見学会資料より)
■7世紀中頃(640 - 680)
上記の石垣や建物跡を大規模な造成工事で埋めたて整地後に作られたもの。
建物跡4棟
●長さ18mの大型の塀跡(段差あり)
●特異な石敷きの広場

の他に、調査箇所の北隅にある建物跡のそばで、7世紀後半の藤原京の時期(694 - 710)に築かれたと推定される鍛冶工房の炉の跡も4基見つかっている。


こで、問題になるのは、石垣が築造された時期と埋められた時期である。近くの泥土から640年代の土器が出土しているため、石垣が640年代に築かれたことが分かっている。『日本書紀』は644年11月に蘇我蝦夷・入鹿父子が甘樫丘に邸宅を並べて建て、蝦夷の家を「上の宮門(うえのみかど)」、入鹿の家を「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼んだと伝えている。仮にこの遺跡から見つかった建物跡が、谷の宮門に付随した倉庫や武器庫だったと想定しよう。

44年以前に石垣が築造されたのであれば、谷の宮門が築かれる時大規模な造成が行われ、石垣が築かれたことになる。この場合、石垣を埋めて大造成を行い、その上に建てられた建物群は、645年以後に谷の宮門を破壊して新たに建設された施設となる。しかし、644年以前に石垣が埋められたのであれば、谷の宮門の付属施設をこの場所に築くために、それまでにあった何らかの建物などを壊して埋め立てたことになる。果たして、石垣を築かせたのは入鹿か、それとも石垣を埋めさせたのは入鹿か、結論はそう簡単には出ない。

日本書紀』には、谷の宮門の石垣に関する記述はない。だが、奈文研は次のようにコメントしている。
「石垣や建物跡が入鹿邸にかかわる可能性があり、650年代までに埋められたようだ。飛鳥時代の甘樫丘は、何度も造成されてさまざまな施設が築かれていることから、極めて重要な場所だった」(産経新聞)


古学や古代史の専門家の今回の発掘に関するコメントを、新聞各紙が掲載している。それを拾い読みすると、甘樫丘東麓遺跡から出土した遺構の理解の仕方に、さまざまな温度差があるのが分かる。ほとんどの専門家はこの遺跡が「谷の宮門」の中心部とは認めていない。だが、邸宅に付随した関連施設の可能性は否定していない。参考のために、それぞれのコメントを以下に列記しておこう。面白かったのは、作家の杉本苑子女史のコメントだ。さすがに作家らしく、当時の中大兄皇子の心理まで深く洞察されている。

今回の発掘現場
今回の発掘現場(2007/02/03 撮影)
同上
同上
■和田萃・京都教育大学教授(古代史)
「時期や規模の大きさから石垣は蘇我入鹿邸の一部だろう。大化改新の後、目障りだとして、中大兄皇子の勢力が造成して更地にしたのではないか。ただ蘇我蝦夷・入鹿邸は甘樫丘全体だったと見るべきで、入鹿邸の中心部は「エミシ(エビス)谷」という地名の残る発掘現場の北200mの谷だと思う。今回の石垣は邸宅の南西の境界ではないか」(朝日新聞)
「日本書紀によると蝦夷邸は炎上したが、入鹿邸は”武装解除”されたため燃えなかったとみられる。中大兄皇子らが、蘇我本宗家滅亡を示すため、入鹿邸を壊して更地にしたのかもしれない」(産経新聞)
■猪熊兼勝・京都橘大学教授(考古学)
「蘇我氏が甘樫丘を軍事的に利用することで、天皇家に常ににらみを利かせたことがうかがえる。建物跡は入鹿が暮らした屋敷にしては規模が小さく、日本書紀に記された兵士の宿舎か『兵庫』だったのでは」(産経新聞)
「朝鮮半島の百済は防御的な地形を生かして宮殿を造っており、その影響を受けた蘇我氏にとって甘樫丘の複雑な地形に大きな意味があったのでは。飛鳥に対してにらみを利かし、万一のときは要塞として考えていた。軍事的な警戒心を怠らなかった蘇我氏の姿が見えてくる」(奈良新聞)
■河上邦彦・神戸山手大学教授(考古学)
「自ら宮門(みかど)と呼ばせた蘇我氏の邸宅にふさわしいが、中心部ではない。蘇我氏滅亡後は天皇家が利用したのだろう」(毎日新聞)
「蘇我氏は、石垣を築くなど当時から大規模な土木工事ができた。石垣や建物跡は蘇我入鹿の屋敷の一部だろう。7世紀中頃には石垣を埋めて、宮殿を思わせる石敷き遺構や建物群を築いており、大化改新後に天皇家が蘇我邸を接収し、何らかの施設を建てたのではないか」(産経新聞)
■菅谷文則・滋賀県立大学教授(考古学)
「邸宅は天皇の宮殿を威圧するもののはずだったが、板蓋宮からは死角になって見えない。飛鳥周辺の丘陵地には皇子や豪族の屋敷があったはずで、もっと広く考えた方が良い」(奈良新聞)
■千田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)
「蘇我氏が築いた要塞が姿を現した。いつでも戦闘状態に入るよう防御を固め、丘の上には望楼を築いて、天皇家の動きを見張っていたのではないか」(読売新聞)
■山尾幸久・立命館大学名誉教授(古代史)
「入鹿は政治的見識は高かったが、新たな路線を敷くのに性急だった。邸宅の防御は反対派の襲撃をおそれたからではないか」(読売新聞)
■東野治之・奈良大学教授(古代史)
「飛鳥を中心とした都作りは推古天皇が即位した6世紀末から始まっており、それを主導したのが蘇我氏だった。日本書紀の記述は邸宅の拡張とも考えられ、7世紀前半から甘樫丘を占有していてもおかしくない。石垣の規模は軍事用というより護岸だろう。焼けたのは別の場所とも考えられるが、さらに謎が深まった。今後の調査に期待したい」(奈良新聞)
■杉本苑子(作家)
「天皇家の威信を守ろうとした中大兄は、要塞化した甘樫丘を見上げて焦燥感に駆られ、打倒蘇我氏を決意した」(読売新聞)



追記:持つべきは、やはり心の通う友

橿原市在住の友人T.Y君は本日現地見学会に出かけた。埼玉の自宅にいて参加できず悔しがっている筆者の無念さを察してか、メールで見学会の様子を知らせてくれた。小雨がちらつく天気にもかかわらず、約9千人の見学者が参集したそうだ。発掘現場近くから2列縦隊ぐらいでウネウネと外周道路まで続く形で並ばされ、現場にたどり着くのに1時間を要したとのことだ。

のT.Y君がデジカメで撮影した現場の写真をメールに添付して送ってくれた。せめて見学会の雰囲気くらいは伝えてやりたいとの心づくしであろう。やはり持つべきは、心の通う友である。

見学会に押しかけた見学者の列-1 見学会に押しかけた見学者の列-2
見学会に押しかけた見学者の列-1 見学会に押しかけた見学者の列-2

発掘現場-1 発掘現場-2
発掘現場-1 発掘現場-2


2007/02/11作成 by pancho_de_ohsei
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