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| 枚方市市民会館大ホールで開かれた歴史フォーラムの第2部 シンポジウム「古代の枚方と継体天皇」 |
上田正昭教授の基調講演「枚方は古代史でなぜ重要か」基調講演で演壇に立たれた上田正昭教授は、まず「枚方」の原義から始められた。”ひらかた”という地名が史書に初めて登場するのは、『日本書紀』の継体天皇24年(530)10月の条に記された近江臣毛野(おうみのおみ・けな)の妻が読んだ歌だそうだ(*)。もっとも当時使用されていたのは万葉仮名であり、今日用いられている「枚方」ではない。「枚方」という表記の例は、霊亀元年(715)3月頃完成したとされる『播磨国風土記』の揖保郡枚方里の条に、「河内国茨田郡枚方里の漢人(あやひと)が到来」したと記しているのがもっとも古いとのことだ。
上田教授も、枚方丘陵の西に位置する枚方の地が、淀川水系を媒体とする水陸交通の要地を占めることが、古代史の重要な舞台となった理由であるとされた。当時は下れば河内湖や住吉津・難波津につながり、さかのぼれば木津川・宇治川・鴨川・桂川と結ばれる淀川水系の枚方は、まさに水陸の便に恵まれた要衝の地だった。そのため、男大迹王が茨田郡の北の樟葉の地を新しい王城の地と定めて即位されたと推測された。 山背から河内の茨田郡にかけて盤踞していた渡来系の茨田連(まんだのむらじ)や、生駒山の西麓から茨田郡を本拠とした河内馬飼(こうちのうまかい)の集団が居住していたことも、宮地撰定の大きな要素だったと考えておられるようだ。茨田連小望(まむたのむらじこもち)の娘(または妹)・関媛は継体大王の妃になっている。河内馬飼首荒籠(こうちのうまかいのおびと・あらこ)は以前からヤマト政権の内情を継体大王に伝え、また継体大王が登極を逡巡していると知って、使者を送り即位を促した人物として知られている。こうした渡来系集団が居住していた枚方周辺は、交通の要衝に加えて当時の先進文化地帯でもあった。
百済王家とは、百済滅亡の時、我が国に亡命した百済王の子の禅広(ぜんこう)一族のことである。天智天皇は、禅広のため、摂津の国に百済郡を創設して、一族をそこに住まわせた。禅広のひ孫にあたる敬福(きょうふく)は天平15年(743)に陸奥守(むつのかみ)に任ぜられた。その敬福が天平勝宝元年(749)、黄金900両を献じた。東大寺大仏に鍍金用の金が不足していたときだったので、聖武天皇はいたく喜んで彼に従三位を授け、宮内卿に任じ、河内守を加えた。このとき、枚方の地が与えられ、一族は摂津の百済郡からこの地に移り住んだ。 百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫である高野新笠(たかののにいがさ)を母とする桓武天皇は、敬福(きょうふく)の孫娘・明信(みょうしん)との関係で、この枚方の地を重視するようになったとのことだ。彼女は、桓武天皇がまだ山部王と呼ばれる日の当たらない皇子だった頃の初恋の女性だったとされている。彼女は桓武天皇の時代、後に右大臣まで昇進した藤原継縄(ふじわらのつぐただ)の妻となっていたが、尚侍(ないしのかみ)として天皇の秘書役とも言うべき重要な役職をこなした。 桓武天皇の世になり平安時代に入ると、百済王家から急に多数の女性が宮中に召されるようになり、そのうちの幾人かは皇子・皇女を儲け、三位以上にも叙せられた。さらに、天皇はしばしば交野に行幸し、山野で狩りを楽んだという。天皇の交野行幸は12回を数える。このように百済王家に繁栄をもたらしたのは、百済王明信の力によるものとされている。現在枚方市域にある百済寺跡や百済王神社は、こうして交野に営まれた百済王氏の繁栄の跡をとどめるものである。 |
シンポジウムの前に行われたさまざまなアトラクション午前中の基調講演の後、休憩時間を挟んで午歴後1時から第二部のシンポジウムが開催された。シンポジウムに先立って、次の3つのアトラクションが行われ、会場の雰囲気を盛り上げた。 まず樟葉宮歴史懇話会が復元した古代衣装が紹介された。大阪樟蔭女子大学の酒野晶子講師の助言で、女性会員が手作りで仕立てたとのことだ。大王と王妃を中心に、左右にそれぞれ3人ずつの男性((役人)、女性(巫女)、子供の衣装をまとった古代人がならび、それぞれの衣装を考案するにあたってのエピソードが紹介された。豪華な緞帳(どんちょう)をバックに一列に並んだ古代人の姿は壮観だった。
以前に、甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)で盟神探湯(くがたち)の神事を見学したことがあるが、その神事に色とりどりの衣装をまとった古代人が登場した(平成15年4月6日付け橿原日記参照)。その時の古代人の衣装は、京都橘大学の猪熊教授がもう10年以上も前に、中宮寺の天寿国繍帳に描かれた人物などの衣装をヒントに復元されたと聞いたことがある。継体大王の時代とは1世紀の開きがあるが、今回紹介された復元衣装の方があか抜けているようで楽しかった。
続いて、地元の樟葉のコーラスグループ「樟葉杜コーラス」が作詞・作曲したオリジナル曲「樟葉宮賛歌」など、さらには日本の古歌である「越天楽」を披露した。ちなみに、「樟葉宮賛歌」の作詞は片岡佐保子さん、作曲は下村正彦氏で、歌詞は次のようだった。
継体大王が育ったとされる福井県の坂井市からも「越の大王祭り保存会」がアトラクションに参加し、女子学生を中心とした「即位の舞」を披露した。『日本書紀』によれば、継体天皇元年2月の条に「大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡(みかがみ)剣(みはかし)の璽符(みしるし)を上りてまつる」とある。男大迹王は、樟葉宮で即位するに当たって、大連の大伴金村(おおとものかなむら)が献上した二種の神器(鏡と剣)受け取って、正統なる大王として皇位を継承した。「即位の舞」はその時の様子を踊りで再現している。 ちなみに、上田教授の基調講演によれば、古代に大王の璽符すなわちレガリアとされたのは、剣と鏡の二種だけであり、これに玉が加わって三種の神器となるのは、鎌倉時代の終わり頃からだそうだ。
シンポジウム「古代の枚方と継体天皇」でパネリストの先生方がそれぞれ短い講演を行った後、共同討議に入る前の休憩時間にも、アトラクションがあった。福井県永平寺町の「越の国・里づくりの会」が、越の国伝説のイメージソング「越の国から、いにしえにあしたを」を披露した。若い女性ボーカルの透き通った声が館内に響き渡った。
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シンポジウム「古代の枚方と継体天皇」
●石野博信氏・・・古墳から見た継体大王即位の政治状況 − 横穴式石室の導入と継体大王
今までの例だと、枚方歴史フォーラムは後日その内容が刊行物として市販されるはずである。諸先生の講演の詳細はそちらに譲るとして、興味を引いた話だけを以下にピックアップしておこう。
大型前方後円墳に関して言えば、雄略天皇の墓あたりから、それまでの陪塚を伴う巨大前方後円墳と一線を画し、陪塚を伴わない、しかも横穴式石室を採用した古墳が、6世紀初頭頃から出現する。石野教授によれば真の継体天皇陵とされている高槻市の今城塚古墳は、初期の横穴式石室を採用した王陵と位置づけられるとのことだ。 今城塚古墳の横穴式石室には、3種類の家型石棺が納められている。熊本県の馬門(まかど)産の阿蘇ピンク石、播磨の竜山(たつやま)石、および大和の二上山石で作られた石棺である。どの石棺に継体大王が埋葬されていたかと問われれば、教授は阿蘇ピンク石の石棺を候補にあげたいとのことだ。 石野教授の話で、3種類の石棺が埋葬されていたことを初めて知った。このことは、継体大王の他に2体の亡骸が埋葬されていたことを意味し、大王の関係者が後日追葬されたのか、それともほぼ同時期に埋葬されたのか、気になるところだ。と言うのは、継体紀の最後に、「聞くところによると、日本の天皇および太子・皇子が揃って亡くなったということである」という内容の『百済本記』からの引用文が付記されている。天皇と太子・皇子が同時に死亡したとなると、重大な政変があったことを予感させるが、我が国にはそうした記録が残されていない。『日本書紀』の編者は、この一文の意味が理解できなくて、その判断を後世の学者にゆだねている。
男大迹王が樟葉宮で継体大王として即位した後、筒城宮(つつきのみや)、弟国宮(おとくにのみや)と転々と宮地を変え、20年目にしてやっと大和の地に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)を築いたとされている。その理由として、彼の大和入りを妨げる抵抗勢力があったとする説があるが、千田教授は、そうではなくて、大和に入る必要がなかったからだ、と話された。 当時の東アジアの国際環境を重視すれば、日本列島を押さえる上で日本海−琵琶湖ー淀川水系を確保することは必須の政治的課題であったはずである。継体大王は古い大和朝廷とは違って、そうした新しい国際感覚で淀川中流の水運の要衝に都を築いたはずだ、と千田教授は説かれる。そして、朝鮮半島に使節や水軍を派遣するためにも淀川水系を押さえ、巨椋池(おぐらいけ)を朝鮮半島からの舟だまりとしていたのでは、と推測される。 千田教授によれば、巨椋池は太古から存在したのではなく、古墳時代に出現した池である。木津川から運ばれてきた花崗岩質の砂が堆積して京都盆地の出口を塞いでしまったことで、巨椋池が形成されたとのことだ。教授はさらに面白い話も付け加えられた。西暦350年から550年頃にかけて、日本列島は多雨期で、河川の水量は現在よりはるかに豊かだったようだ。陸路よりも水路が交通手段の中心であった古墳時代、こうした自然現象の特性も頭の隅においておかなければ、当時の生活はイメージできない。
『日本書紀』の継体紀には、継体6年(512)冬12月、百済が朝貢の使節を派遣してきて、天皇の直轄地であるミヤケ(官家)として支配・経営していた任那4県の割譲を要求してきたという。任那4県とは、現在の韓国全羅北道から全羅南道にあったとされる上タリ(オコシタリ)(タリの表記は口扁+多、口偏+利)、下タリ(オロシタリ)、娑陀(サダ)、牟婁(ムロ)の四つの国をいう。その比定地については、現在まで定説はない。 当時の大和朝廷を主導していたのは、継体大王の登極に尽力した大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)である。彼は百済の要求を入れて、任那4県を百済に譲ることを決めてしまった。すると、翌年の継体7年(513)6月、百済はまた使節を派遣してきて、「伴跛(ハヘ)国(大加耶)が領有している己文(コモン)と帯沙(タサ)は百済の領土だから、元通り返すよう取りはからって欲しいと願い出た。そこで、継体大王は詔によって、己文と帯沙を百済に与えることを宣言したという。 これらの歴史的事件は、実は『日本書紀』の中だけで語られているにすぎない。そこで、文献史学者である田中教授は、『日本書紀』は言うに及ばず、『三国史記』などの朝鮮側史書や『南史』、『梁書』などの中国側史書の記述を史料として、記述の信憑性に細かい考察をなされた。そして、2つの歴史的事件について次のように結論づけられた。 ”大和王権が任那4県をミヤケ(官家)として支配・経営していた事実はなく、したがって、これを百済へ割譲したという記録は史実ではない。むしろ百済が南進して全羅南道の地域を領有化していった事実を伝えるものである。その後、百済が己文や多沙の領有を倭に求め、大和王権がそれを了承したというのも虚構である。百済が半島の南西部へ進出し、さらに加耶諸国を蚕食していった歴史的事実が、『日本書紀』編纂時点での我が国の独自の史観に基づいて書き換えられているにすぎない。。その史観とは、『日本書紀』編纂時点で我が国に台頭してきた小中華思想がある。” 毎月一回大阪の森ノ宮で開かれる「日韓古代文化研究会」で、田中教授が同じ内容のテーマで講演されたのを、昨年の7月に拝聴していた(平成18年7月2日付け橿原日記参照)。だから、こうした田中教授の講演の結論はすでに承知していた。 しかし、『日本書紀』の継体紀については、以前から一つの疑問を持っていた。継体紀を一読した者なら誰でも承知しているように、その記述のほとんどは、上記の朝鮮半島との外交記事と磐井の乱の記事で占められている。しかも、朝鮮半島との外交記事は、我が国独自の記録に基づかず、なぜか百済三書の中の『百済本記』を下敷きにして編纂されている。百済三書とは、『日本書紀』に引用されている『百済記』、『百済新撰』および『百済本記』をいう。 昨年の暮れに拝聴した成城大学/中央大学講師の加藤謙吉氏の講演で、これらの史書は、百済本国で撰述された原記録をもとに、7世紀末に亡命百済人が大幅に手を加えて『書紀』の編纂に資する目的で上進されたものであることを知った(平成18年12月16日付け橿原日記参照)。しかも、加藤氏の推論によれば、朝廷から史書編纂の協力要請を受けた百済王氏が、亡命百済人を動員して、百済の日本に対する奉仕と忠誠の由来を史書としてまとめたものらしい。 その推論の当否は別として、我が国の小中華思想の形成に一役買うために、百済王族の末裔たちが自国の歴史を矯(た)めたのであれば、それは悲しいことだ。
三国にいた男大迹王と、北河内を根拠とする荒籠が、かねてからよく知り合う間柄だった背景として、和田教授は現在宮内庁が継体陵に治定している太田茶臼山古墳を男大迹王の曽祖父にあたるオホホド王の墓と推定しておられる。すなわち、祖祖父の代から男大迹王の出身氏族である息長王家は、淀川流域の北河内・北摂の諸勢力と関わりを持っていた、とされる。 和田教授によれば、その当時存在した河内湖の周辺には、5世紀代に百済から渡来した馬飼集団が住み着いたとのことだ。河内馬飼部はそうした渡来集団の中心だったのだろう。この渡来系氏族の族長だった荒籠は、当時の河内湖の東岸に広がる巨大な牧を支配していたにちがいない。牧で飼育される膨大な馬匹を支配するとともに、馬の提供を介して築かれた情報網によって、彼はそれぞれの氏族の動向を知ることができたはずである。その情報を男大迹王に提供することで、彼は継体天皇を背後から支えるスポンサーだったことは十分にあり得る。 各パネリストの講演の後、休憩時間を挟んで、共同討議に入った。討議の中心課題は、古代の枚方が重視された理由の解明だった。パネリストの意見を総合すれば、やはり枚方が淀川水系の中流に位置し、水利交通の要衝の地であったことが最大の理由のようだ。 ただ、田中教授の任那4県割譲など朝鮮半島との継体外交の理解に関しては、コーディネータの水野正好氏からも異論が出された。それぞれの反論を聞いていると、歴史の理解の仕方が専門家それぞれに温度差があって、それなりに楽しかった。 |