根来衆盛衰記
戦国時代、紀州では高野山や根来寺など大寺院の勢力が強く、紀州全土を統治できる強力な戦国大名は出現しなかった。そうした状況下で紀北地方の根来に勢力を張っていたのが、根来寺に所属する武装集団・根来衆である。 その根来寺は、大治元年(1126)に覚鑁(かくばん)上人(1095 -1143 )が、平為里(たいらのためさと)から法会供物料(ほうえくもつりょう)として寄進された紀州石手庄(いわでのしょう)に、神宮寺を建てたのが始まりとされている。 覚鑁上人は、真言宗団を中興(ちゅうこう)とされている高僧である。承元年(1132)には鳥羽上皇の庇護で高野山の境内に「大伝法院(だいでんぼういん)」という道場と、住房としての「密厳院(みつごんにん)」を建立し、「大伝法会(だいでんぼうえ)」を復興した。さらに長承3年(1134)には、大伝法院の座主(ざす)、金剛峰寺(こんごうぶじ)の座主に選任されている。こうして、京都東寺の支配から離れて、高野山の独立を達成した。 しかし、当時の我が国の仏教界はきわめて腐敗堕落していた。それに加えて、金剛峰寺座主の座を奪われた東寺側の憤激や、高野山内の保守派の反発、嫉妬などが上人の一身に集まった。そこで長承4年(1135)、上人は両座主を辞任して、密厳院に隠棲し無言三昧の行(ぎょう)に入った。そのとき著したのが有名な『密厳院発露懺悔文(みつごんにんほっろさんげのもん)』である。
それからおよそ150年後の正応元年(1288)、大伝法院の学頭だった頼瑜(らいゆ)が大伝法院の寺籍を根来に移した。こうして大伝法院の本拠地となった根来寺は、新義真言宗の根本道場として、また真言宗三大学山の1つとして室町時代末期の最盛期には、院坊2700、僧兵1万余を誇る大寺に発展した。根来寺には杉ノ坊・岩室坊・泉識坊(せんしきぼう)などの多数の子院があった。中でも最大の勢力は、上述の津田監物算長が率いる杉ノ坊だった。 算長は鉄砲の製造に成功した後、根来衆の中心的統率者として存在した。ちなみに、算長は監物丞を称して根来小倉荘に居を構えたことから、「津田監物」と呼ばれていた。これは通称であり、世襲われて算長の嫡子算正や次男照算、孫の重長も津田監物と称したようだ。 数千丁単位の数の鉄砲で武装した根来衆はきわめて高い軍事力を持つ傭兵集団としても活躍した。 例えば、織田信長の一向宗の総本山石山寺攻めでは、信長に荷担している。小牧長久手の戦いでは、徳川家康に味方して羽柴秀吉の背後を脅かした。このことが起因となって、天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めを招くことになったとされている。天正13年(1585)年3月10日、秀吉は紀州征伐に向かった。「先に根来寺を焼き払い、続いて太田城と小雑賀中津城を攻めよ」の号令の下、総勢十万三千五百余人の大軍が紀州勢に攻めかかったという。 紀州勢の前線の城(砦)は、泉州の千石堀・積善寺(しゃくぜんじ)・沢の三ヶ所である。これらの前線を突破した秀吉勢は、怒濤の勢いで根来寺に攻め込んだ。津田監物はより抜きの鉄砲衆五百でを率いてこの大軍を迎え撃ったという。最後には、敵兵が乱入して白兵戦となっても戦い抜ぬき、ついには増田長盛に討たれた。 津田監物が討たれた根来寺側には、もはや戦う余力はなく、多数あった堂宇も、大師堂・大塔などの一角を残してほとんどが炎上、焼失した。この炎と共に、戦国をその優れた鉄砲軍団をもって一世を風靡した傭兵集団・根来衆も滅び去った。
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根来寺の堂宇点描
根来寺に来れば、鉄砲集団・根来衆のことが少しは分かることを期待したが、結論からら言えば、その期待は裏切られた。根来寺で見い出したのは、わずかに根来寺大塔(ねごろじだいとう)の床板に残る弾痕(だんこん)だけだった。天正13年(1585)3月、羽柴秀吉の軍勢が怒濤の勢いで根来寺を攻め、根来衆が必死に防戦したときの痕跡である。 期待は裏切られたが、静謐が支配する仏教寺院の奥ゆかしさを心ゆくまで満喫する時間を思いがけず得た。桜の名所、紅葉の名所でもある根来寺は、シーズンともなれば多くの観光客で溢れかえるにちがいない。だが、厳冬のこの時期、しかも平日ともなれば訪れる人影はほとんどない。風もなく穏やかな日差しが降り注ぐ中を、ゆっくりと砂利道を歩きながら視線を上げると、枯れ葉をすべて落とした木々の梢が、青空をバックに細い枝の先までくっきりと見せている。耳に入るのは、小石を踏む己の靴音のみである。 まるで俗世間の塵を洗い去ったような境内を、巡拝路に従って堂宇を渡り歩いていると、己の気持ちまで和んで来る。ふと目にした路傍に並ぶ無縁仏にまで、優しい眼差しを投げたくなるから不思議だ。現在の根来寺には、その数数千とも数万ともいわれる鉄砲集団・根来衆を抱えていた頃の殺伐さは何処にもない。あるのは、明るい冬の日差しが降り注ぐなかに、古色蒼然とたたずむ堂宇だけである。そうした堂宇の概要を以下に示すことにする。
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| 岩出市民民俗資料館 | |
根来衆に関する具体的な資料が展示してあるのでは、と期待したが、鉄砲の由来と僧兵のコーナーはそれほど見るべき資料はなかった。興味深かったのは、市の伝統工芸である根来塗(ねごろぬり)講座の部屋があり、塗師を目指して、あるいは趣味でこの伝統芸能を学んでいる人たちが、独特の朱の漆を一心にお椀に塗っていた。 長い歳月使い込まれれば、上塗りの朱が擦れ、下地の黒漆が浮き上がり、趣ある抽象模様が描き出される根来塗は、近代漆器のルーツと言われている。もともとは、鎌倉期から南北朝時代にかけて隆盛を極めた根来寺で、数千人にも上る僧たちが日常に使う什器として、大量に生産されていた漆器である。豊臣秀吉の根来攻めで、一山が灰燼に帰したため、工人たちは散り散りになり、輪島や薩摩などに行き着いて、根来塗の技法を伝えたとされている。 |
| 大師堂 | ||||||
拝観料を払って境内に入ると、広い境内に3棟の建物がならんで建っている。向かって左から、大師堂、大塔、大伝法堂である。受付所の真後ろに位置する大師堂は、小規模で簡素な堂だが、大塔と大伝法堂はデジカメのファインダからはみ出してしまうほど巨大な建物だ。 大師堂は、真言宗の開祖である弘法大師空海の像を本尊として祀る堂である。桁行(けたゆき)三間・梁間(はりま)三間の四角い建物に、屋根面が頂点の一点に集まる宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根を瓦で葺いている。古色蒼然とした建物だが、建築時期を明らかにする資料は残っていない。しかし、室町時代中期の特色を残していて、大塔とともに天正の兵火を免れた数少ない建物の一つとされ、国の重要文化財に指定されている。 正面の扉が開いていたので中をのぞき込んでいると、受付所の女性が「堂内に入って見学できますよ」と声をかけてくれた。内部の後方に寄せて来迎柱の仏壇を作られ、春日厨子(かすがずし)に弘法大師の像が安置されていた。 |
| 根来寺大塔 | ||||
大塔は、真言密教の教義を形の上で示したものと言われていて、大日如来の三昧耶形である宝塔に裳階(もこし)を付けている。根来寺の大塔は、大塔形式を残す現存唯一の建造物として、仏教建築史上きわめて貴重な遺構とされ、国宝に指定されている。高さ40m、横幅15mの規模を誇る我が国最大の木造多宝塔の内部に入ると、12本の柱で内陣を円形に囲み、中央に4本の柱が建っていて、その間に本尊の大日如来像が安置されている。 この塔の解体修理が昭和14年(1939)に行われた。その際に多くの墨書が発見され、正長2年(1429)に建立が計画され、文明13年(1481)に心柱が建てられたが、完成したのは天文16年(1547)、実に着工から67年を要したことが判明した。
大塔を見上げると、どうしても高野山金剛峰寺の根本大塔と比較したくなる。高野山の大塔は鉄筋コンクリート作りで、昭和2年(1937)に再建されたものだそうだが、朱塗りの大塔は底抜けに明るい。それに比べて、天正13年(1585)の災禍をくぐり抜け、460年もの風雪に耐えてきた根来寺大塔は、自ずから見るものに風格を感じさせる。しかし、最近塗り替えられたのか、漆喰の白さは青空の下では目に眩しい。 天正13年(1585)3月に秀吉の軍勢が根来寺を攻めたとき、大塔はまだ完成して40年を経ていなかった。多くの銃弾が撃ち込まれているのは、根来衆がこの真新しい塔に閉じこもって最後の一戦を試みた証であろう。そのときの激しい銃撃戦を物語る弾痕の跡が、床板や扉に残っている。秀吉軍は堂宇に火を放った。燃えさかる炎の中でこの大塔が類焼を免れることができたのは、あるいは周囲に張り巡らされた漆喰のせいだったかもしれない。 |
| 根来寺大伝法堂 | ||||
大伝法堂は根来寺の本堂である。創建時の建物は天正13年の秀吉の根来攻めの時、兵火を免れたが、秀吉は京都に新たな寺を建立するために、本尊とともに建物を解体して搬出してしまった。しかし、寺の建立は実現せず、部材は積まれたまま朽ちてしまったとのことだ。その後、本尊は根来寺に戻された。現在の大伝法堂は、徳川時代の文政10年(1827)に再建されたものである。
中央が大日如来座像、向かって右側が金剛薩捶((こんごうさった))座像、左側が尊勝(そんしょう)仏頂座像で、いずれも3mを越える仏像である。県の重要文化財に指定されたこれらの仏像は、根来の地で嘉慶年間から応永12年頃(1387〜1405)に造像されたことが分かっている。 |
| 奥の院 | ||||
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拝観受付所の脇の道を一直線に北に延びている道がある。覚鑁(かくばん)上人の墓である御廟所へ続くおよそ300mの参道だ。その中間点あたりまで来ると、参道脇に「興教大師 御廟所」の碑が立ち、地道が石畳に変わる。そのあたりで正面を見ると、赤い建物の御廟所がはっきり見える。 たまたま、御廟所前面の塀の改修工事中だったので、拝所の後の大きな土饅頭が良く見えた。それが、真言宗の中興の祖と仰がれた高僧・正覚坊 覚鑁(しょうかくぼう・かくばん)を埋葬した墓である。上人が波乱に富んだ生涯を閉じたのは、康治2年(1143)12月12日。その年の7月に風邪を引き、それが原因で円明寺の西の庇に端座して示寂されたという。時に数え年の49歳だった。 上人の門弟たちは、仁安3年(1168)に大師号を諡るよう朝廷に奏請した。しかし、金剛峰寺側の反対にあって実現できなかた。室町時代の天文9年(1540)に、自性大師の諡号(しごう)が授けられたが、このときは比叡山の反対にあって取り消された。ようやく江戸時代の元禄3年(1690)になって、興教大師(こうぎょうだいし)の諡号が授けられた。
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| 光明真言殿 | ||||
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光明真言殿は、覚鑁(かくばん)上人を祀る廟で、略して「光明殿」と呼んでいる。桁行五間、梁間四間の外陣(げじん)の背後に奥行五間、梁間二間の内陣(ないじん)がある。享和元年(1801)に建立された建物で、内陣には開山の覚鑁上人の尊像を安置し、左右に歴代座主の位牌や信徒の位牌が祀られ、日夜回向がなされている。 |
| 根来寺庭園 | ||||
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光明真言殿の向かって右側に、渡り廊下で繋がれた本坊があり、新義真言宗の館長を兼ねる当時の座主の住坊に当てられていた。享和元年(1801)に紀州徳川家から拝領した建物である。ここの庭園は国から名勝と指定されているのが、なるほどとうなずけるほどすばらしい眺めである。特に、奥書院の周りに配された庭は、背後に鬱蒼と茂る樹林を負い、奇岩怪石を縦横に配置した池泉式蓬莱庭園として逸品であろう。
渡り廊下から眺めた庭園の一角に、枝振りも見事な柏槇(びゃくしん)の巨木が天高くそびえていた。はなかなか大きくならないが、巨樹となるまで修行を積むことが禅に通じるというので、寺院に植えてあることが多いヒノキ科の木である。 |
| 行者堂 | |
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| 聖天堂 | ||||
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水をたたえた浄土池に浮かぶ聖天堂(しょうてんどう)は一幅の絵になる。そんな光景を期待したが、残念ながら浄土池は水抜きがされて補修の最中だった。聖天堂は、聖天像を祀るお堂である。聖天とは正式には歓喜天またの名を大聖歓喜自在天という仏教の守護神である。一般には、長い鼻をもつ象頭人身の像で、我が国では男女2体の像が向き合って抱擁している形に表わすものが多い。こうした像形のため、普通は秘仏扱いされ公開されない。 この堂内には朱塗りの壇が中央に置かれている。古くから伝わる有名な「根来塗」の壇だそうだ。 |
| 不動堂 | ||
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不動堂は県内唯一の八角円堂で、嘉永3年(1850)の建立である。外廻り柱は八角柱、内廻り柱は円柱、外陣は畳敷き、内陣は一段高い板敷となっているそうだ。この不動堂を有名にしているのが、内陣中央に本尊として祀られている「錐鑽(きりもみ)不動」または「身代(みがわり)不動」呼ばれている不動尊である。 「きりもみ不動」に関しては、次のような伝説が伝わっている。保延6年(1140)12月、荘園の境界の争いに端を発して、金剛峰寺側は徒党を集めて金剛峰寺の境内にあった大伝法院と密厳院を急襲して焼き払い、覚鑁上人を金剛峰寺から追放するという暴挙にでた。そのとき、上人は密厳院の不動堂で不動三昧に入っておられた。 上人の命を狙った高野山の門徒が不動堂を取り囲み中に押し入ると、二体の不動明王があった。一体は上人の姿が不動明王に変化したもので、いずれが上人か見分けがつかなかった。そこで、一人の門徒が一体の不動明王の腿に錐を突き刺すと、二体とも同じ場所から、同時に鮮血が吹き出た。それに驚いた門徒達は、そのまま退散したとのことだ。 このように不動明王が覚鑁の命を救ったとする説話が普及すると、不動堂に安置されている本尊は錐鑽不動または身代不動とも呼ばれるようになり、現在では交通安全や厄よけに御利益があると人気があるそうだ。 |
| 根来寺大門 | |
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現在建っている大門は、嘉永3年(1850)に再建されたもので初重・二重とも桁行5間、梁間2間の大規模な二階二重門である。高さは16.88m、横幅は17.63m、奥行きは6mを測り、左右に仁王像が配されている。正面に立ってこの門を仰ぎ見るとき、秀吉に焼き払われるまでの根来寺が、現在の高野山を彷彿させるような巨大な宗教都市であったことが実感できる。 新義真言宗の根本道場として栄え、最盛時には寺領75万石、堂塔2700と言われたことは、あながち誇張ではなかったであろう。根来寺の背後には緑豊かな葛城連峰がそびえている。その連峰から菩提、大谷、蓮華と呼ばれる三つの谷が流れ下っている。往時、これらの谷に沿って多くの子院が甍を並べ、遠方から眺めれば、さながら城塞都市の景観を呈したであろう。 この巨大都市を外敵から守り警護するには、強大な勢力を持つ僧兵を持つ必要があった。その僧兵たちは、最新の兵器である鉄砲で武装した最強の武装集団である。戦いに明け暮れる戦国大名たちが、彼らを傭兵として雇い大いに利用した。しかし、全国統一を目指す羽柴秀吉の時代になれば、その戦力はかえって驚異になった。秀吉の根来攻めは歴史の当然の帰結であったのだろう。総勢2万とも称された根来の鉄砲集団は、燃えさかる堂宇とともに消えた。 そのとき、初戦はこの大門の二階で対峙する根来衆と寄せ手との間の激しい銃撃戦で火ぶたを切ったはずである。その光景を想像するとき、自分が立っているこの場所は、銃弾が雨あられのように飛び交う戦場のまっただ中だったにちがいない。巨大宗教都市の滅亡は、まさにこの場所から始まったことになる・・・。現在は、大門の前の広場では、午後の日差しを楽しむように数匹の野良猫がたむろしていた。 |