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市尾墓山古墳は、今まで何度も訪れているため所在地は分かっている。近鉄吉野線「市尾」駅の北西約250mのところで、平坦地の水田の中に悠然とその姿を横たえている。だが、新しく見つかった東中谷遺跡の所在は、新聞に示された略図ではよく分からない。橿考研付属博物館の情報コーナーで、受付の女性に聞くと、彼女はすでに市尾駅から説明会会場までのルート図を用意してくれていた。 東中谷遺跡は「市尾」駅から徒歩約25分の所に位置している。ルート図を見て、「あれっ」と思った。昨年の10月末に訪ねていった羽内(ほうち)遺跡に近い(平成18年10月31日付け橿原日記参照)。2つの現地説明会会場は結構離れているようなので、愛用のチャリンコで出かけることにした。古代の紀路(きじ)のルートをたどれば、市尾墓山古墳まで30分ほどで到着できるはずだ。 |
東中谷遺跡: バイパス道路の建設用地で、9世紀の「木炭墓」を発見
現在、高取町の薩摩では、県道の橿原高取線と国道169号線を結ぶバイパス道路の建設が、平成23年度の完成を目指して急ピッチで行われている。この国道169号線の高取バイパスの計画路線上に、竹藪に覆われた丘陵があり、工事で削り取られることになっている。橿考研は、その道路建設工事に先だって、昨年11月から丘陵の表土を剥いで約1000平米の発掘調査を実施している。そして、丘陵の頂上付近の南斜面で、平安時代の初め頃に作られたと思われる古墳群を発見した。
この2号墓は非常に入念な造りがされている上に、唐代に作られた八花鏡(はっかきょう)の破片も副葬されていた。さらに重要なことは、この墓が未盗掘のまま見つかったことだ。律令体制下における墓制の様相を考える上で、重要な資料となると判断された。そこで、橿考研はこの地域名を取って「東中谷」遺跡と命名し、現地説明会を本日の午後2時から開くことを発表した。 市尾墓山古墳の現地説明会に参加した考古学ファンのほとんどは、こちらの会場に足を延ばしてきたはずである。そして、林立するバイパス道路の橋脚の行く手を遮るように立ちはだかっている丘陵を見て驚いたにちがいない。表土を剥がれて、赤土を剥き出しにした山頂付近に古墳群が築かれているため、現場を見るためには、特設の長い階段を上っていかなければならない。
2時ちょうどに橋脚の下で始まった説明会では、2号墓を中心に説明された(2号墓は木棺墓であるが、棺の周囲に木炭が敷き詰められていた特殊性を考慮して、以下では「木炭墓」と呼ぶことする)。丘陵の南斜面に築かれたこの墓は、長さ約2.5m、幅約1.2m、深さ約60cmの穴である。多くの鉄釘が見つかっていることから、長さ約1.8m、幅約40cm、高さ約40cmの木棺が埋葬されていた、と推定されている。
興味深いのは、この墓の盛り土の中に、製鉄の過程で生まれる鉄滓(てっさい)が7点も含まれていたことだ。そのために、発掘調査した橿考研の担当者は、製鉄に関係した人物を埋葬した墓だったかもしれないと推測している。一方、20例ほどしか見つかっていない木炭墓は、平安京の周辺や太宰府周辺に偏在し、しかも冠やバックルを副葬している場合が多い。このため、平安時代の高級官僚の墓の可能性が高いとされている。 東中谷遺跡が発見されたこの地域は、平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を輩出した有力氏族「檜隈忌寸」(ひのくまのいみき)が支配していた。同族の出身者で当時の都・平安京に出仕して高級官僚に出世した者がおり、彼の死後その遺体をその故郷に埋葬したのでは・・・と推論する専門家もいる。 墓の隅には、銅鏡の破片と完形の土師器の壺が納められていたという。鏡の破片は草花の模様が施された「八花鏡」で、中国の初唐末頃から作り始められている。復元すれば直径24cmほどの銅鏡だが、舶載鏡か国産かは、成分を分析してみなければ分からないとのことだ。問題は、出土した鏡の破片が、意図的に割った形跡があることだ。古墳時代には、悪霊を追い払うために鏡が墓に埋納したが、9世紀の平安時代にも同じ風習が継続していたとは思えない。地元出身の和田萃(わだあつむ)京都教育大学教授は、現代の葬儀でも、現世に未練を残さないように故人の茶碗を割る風習があるから、当時も似たようなことが行われたのは・・・、とコメントしておられる。
鏡の破片と並んで、直径約10cm、高さ約15cmの土師器の完形の壺が見つかった。この壺の形式から、墓の築造時期が9世紀の初め、すなわち平安初期と判定された。一方、5号墓からも土器が出土している。この土器の年代から、5号墓は9世紀末から10世紀初めころに作られた一番新しい墓であると推定できる。つまり、この古墳群の墓は、ほぼ1世紀に渡って同じ家系の死者を2世代あるいは3世代続けて埋葬してきたようだ。
長い階段を息を切らしながら登りきったと思ったら、出土した古墳群はさらにその先の南斜面にあった。頭皮を剥いだように赤土をむき出しにした墳丘上に、鉄パイプを組んだ見学路が続いている。それにしても、丘陵の頂上に立つと、周囲の見晴らしがすばらしい。こんな高いところまで登ってくるには親族たちも大変だったと思うが、見晴らしの良い場所で永久の眠りにつきたいという願望は、古今東西を問わず変わらないようだ。
発掘調査が終われば、国道バイパスの建設によって墓の部分を含むこの丘陵地は削り取られる運命にある。完全な形に近い形で出土した「木炭墓」は珍しく、研究者の間ではその消滅を惜しむ声が出ている。なんとかはぎ取ってでも、他の場所に保存する対策を講じてほしいものだ。 |