橿原日記 平成19年1月28日

高取町の市尾墓山古墳(いちおはかやまこふん)東中谷遺跡(ひがしなかたにいせき)で行われた現地説明会



日広陵町で行われた巣山古墳の現地説明会に続いて、本日は高取町の2カ所で現地説明会が行われた。市尾墓山古墳東中谷遺跡である。市尾墓山古墳では一昨年、鳥の形をした木製品が出土して話題を呼んだ(平成17年11月27日付け橿原日記参照)。

市尾墓山古墳と東中谷遺跡の位置図
市尾墓山古墳と東中谷遺跡の位置図
中谷遺跡は、高取町の薩摩地区で奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が9世紀の木炭墓を発見した遺跡で、その存在は今まで知られていなかった。遺跡の名称は、橿考研が今回新たに命名したものである。

尾墓山古墳は、今まで何度も訪れているため所在地は分かっている。近鉄吉野線「市尾」駅の北西約250mのところで、平坦地の水田の中に悠然とその姿を横たえている。だが、新しく見つかった東中谷遺跡の所在は、新聞に示された略図ではよく分からない。橿考研付属博物館の情報コーナーで、受付の女性に聞くと、彼女はすでに市尾駅から説明会会場までのルート図を用意してくれていた。

中谷遺跡は「市尾」駅から徒歩約25分の所に位置している。ルート図を見て、「あれっ」と思った。昨年の10月末に訪ねていった羽内(ほうち)遺跡に近い(平成18年10月31日付け橿原日記参照)。2つの現地説明会会場は結構離れているようなので、愛用のチャリンコで出かけることにした。古代の紀路(きじ)のルートをたどれば、市尾墓山古墳まで30分ほどで到着できるはずだ。



市尾墓山古墳:盾か杖か? 出土した最大級の「木の埴輪」

日の奈良県中部の天気予報は晴れ。弱い冬型の気圧配置のせいで、北西が吹き幾分寒く感じるだろうとの予報だ。歩いていてはそれほど感じない冷気も、自転車で疾走すれば、顔面が引きつるほど冷たく感じる。外見など気にしないで、完全な防寒対策の身なりで出かけることにした。

地説明会は、市尾墓山古墳が午後1時から、東中谷遺跡が午後2時から予定されている。昨年10月羽内遺跡を見学に行ったときも、自転車で古代の「紀路」を利用した。森カシ谷遺跡薩摩遺跡の傍を通り、1時間足らずで「市尾」駅に着いたのを覚えている。本日は少し余裕を見て、正午少し前にアパートを出た。


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市尾墓山古墳を南側から遠望 (2006/01/28 撮影)

尾墓山古墳は、当時の紀の国と大和を結ぶ紀路を扼する格好の場所に築かれている。紀路が南の巨勢谷(こせだに)へ続くちょうど入口付近である。この古墳の規模は、全長が66m、高さは9mであるが、周濠と外堤が巡らしてあり、それらを含めると長さは100mに達する。しかも、丘陵の先端部を削り出して成形された前方後円墳ではく、平地にしっかりと盛土して築かれている。

穴式石室が古墳の後円部に築かれている。その中に安置されているのは、凝灰岩製の巨大な刳抜式(くりぬきしき)家型石棺がである。この石棺は長さ2.6m、幅1.3m、高さ1.4mを測り、大和の古墳の中では最大級の規模を誇る。石室内から武器や馬具、玉類、土器などが見つかっていて、こうした遺物から築造は6世紀の初め頃と推定されている。

世紀の初め頃といえば、継体天皇の治世と重なる。継体天皇は西暦507年の春2月4日、河内国交野郡の樟葉(くすは、現大阪府枚方市楠葉)で即位した大王である。今年は継体天皇即位1500年目の節目の年にあたる。

市尾墓山古墳の前方部
市尾墓山古墳の前方部

の頃、紀路を押さえ巨大古墳を築くことができた人物が、この墓に埋葬されたことは間違いない。その人物は、当然この地方を支配した有力豪族の首長だったはずである。そこまで被葬者を絞り込むと、思い浮かぶ人物がいる。その名を許勢(=巨勢)男人(こせのおひと)という。継体天皇の時代に大臣(おおおみ)の要職にあった人物で、彼を市尾墓山古墳に被葬者に想定している専門家もいる。

日本書紀』によれば、巨勢男人は、武烈天皇亡き後、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)が推す男大迹(ほほど)王を、物部麁鹿火(もののべのあらかい)と一緒に支持した人物で、継体天皇の代に大臣(おおおみ)として仕えた。527年に筑紫で磐井の乱が起こると、物部麁鹿火とともに将軍の一人として筑紫に下り、乱の鎮定に活躍した。没年はその2年後の529年と伝えられている。

際には、巨勢男人以外の人間が埋葬された墓かもしれない。しかし、継体天皇に関心を抱く筆者にとって、この天皇の治世に活躍した巨勢男人の墓であると見なすことで、他の墓とは全然違った古墳に思えてくる。被葬者のイメージまでが思い描けそうな気がしてくるから、不思議なものである。


すでに完成している石室へのアクセス
すでに完成している石室へのアクセス
2005年度に出土した鳥形木製品
2005年度に出土した鳥形木製品
取町は、平成11年度から3カ年でこの古墳全体を公有化し、16年度からは3カ年をかけて歴史公園として整備するために発掘調査や整備事業を行ってきた。今年の春過ぎには歴史公園がオープンするとのことだが、後円部の南西方向に開口した横穴式石室のアクセス階段がすでに完成している。整備事業の2年目にあたる平成17年11月、石室の真下にあたる周濠部分を発掘調査したところ、鳥形の木製品が出土して話題になった。

成18年度は整備事業の最終年にあたる。墳丘の裾や周濠、外堤を確認するため、高鳥町の教育委員会は昨年の11月から第5次発掘調査をおこなっている。今回の調査では、墳丘の南西にあたるくびれ部から造り出しにかけて第一トレンチを、また後円部の真南にあたる箇所に第二トレンチを設定して調査してきた。調査の面積はトレンチ2カ所をあわせて180平米になるとのことだ。

の教育委員会が、去る1月24日、高さ2mを越える最大級の「木の埴輪」が見つかった、と発表した。木の埴輪とは、すでに削平されてしまったが、奈良県の磯城郡三宅町にあった石見遺跡から出土した盾または儀仗の形象埴輪を模して作られた木製品を言う。この盾または儀仗を表した土の形象埴輪は、れっきとした型式名称を持ち、その名もずばり石見形埴輪と呼ばれている。全国で約80の古墳や遺跡から見つかっているという。

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新聞発表で提示された写真
右、木の埴輪。左笠形木製品と支柱
の石見形埴輪を真似た木製品は、土の埴輪とは区別され、一般には「木の埴輪」と通称されている。したがって、様々な形の形象埴輪を模倣して作った木製品を、木の埴輪と呼んでいるのではない。あくまで石見形と呼ばれる形象埴輪を真似た木製品を指す専門用語である。「木の埴輪」は、奈良県を中心に全国で約20の古墳から出土している。高取町でも、近くの薩摩遺跡の3号墳から発見されている。

聞の報道だけではよく分からなかったが、「木の埴輪」が出土したのは第一トレンチからである。第二トレンチからも別の木製品が出土している。貴人に差し掛ける蓋(きぬがさ)を模倣し貴人の権威を示しているとされる笠形の木製品と、それを支えたと思われる柱状の木製品である。

土した木製品が古墳の近くの高取町歴史研修センターに展示されているので、現地説明会の会場へ行く前に立ち寄った。玄関を入ったエントランスホールの真ん中に大きな木箱が置かれていて、その中に「木の埴輪」が入っていた。笠形の木製品と柱状の木製品は、その奥のトレーに水に浸されていた。

「木の埴輪」の展示 笠形の木製品と柱(?)
展示された「木の埴輪」 笠形木製品と柱状木製品

土したいずれの木製品も、コウヤマキで作られている。「木の埴輪」は長さ2.04m、最大幅36cm、厚さ1〜2cmを測る。一方、笠形木製品の楕円形の直径は約35cm、高さが15cm。笠を支えたと思われる柱状木製品の残存の長さは約60cmで、縦方向に面取りがされている。


説明会に参集した大勢の考古学ファン
説明会に参集した大勢の考古学ファン

日は高取町の2カ所で現地説明会が催されるとあって、午後の1時には大勢の考古学ファンが市尾墓山古墳の説明会会場に参集していた。定刻に、発掘責任者が黄色いハンドマイクを通して、11月20日から行われてきた発掘調査の経緯を説明した。やはり興味があったのは「木の埴輪」を発見したときの様子と、出土したさまざまな木製品の解釈である。

「木の埴輪」が見つかった第一トレンチ 笠形木製品が見つかった第二トレンチ
「木の埴輪」が見つかった第一トレンチ 笠形木製品が見つかった第二トレンチ

掘調査で掘削されたトレンチでは、古墳の墳丘に敷かれていた葺石や墳丘に並べられていた埴輪が、長い歳月の間に周濠に崩れ落ちた様子がはっきりと見て取れる。木の埴輪と呼ばれる石見形木製品や笠形木製品、柱状木製品は、墳丘部の裾の周濠の中から見つかった。おそらく墳丘に並べられていたものが、葺石が崩れたとき、土の埴輪などと一緒に周濠に埋まってしまったものと思われる。

大型の石見形木製品
大型の石見形木製品
見形木製品は、通常80cmから120cmくらいの大きさらしい。ところが、奈良県では長さが2m前後の大型のものが三カ所で出土している。説明会の資料にはそのイラストが示されていて、大和郡山市の水晶塚古墳からの出土品は形象部(形をかたどったところ)の長さが1.99cmを測る。天理市の御墓山古墳出土のものは基底部分を除いた長さが約2mである。そして、今回市尾墓山から出土したものは、基底部や先端部が腐ってしまっているが、それでも2.04mの長さを測る。製作当初の状態なら、おそらく3mの長さはあったと推測され、全国的にみても最大級のものだったと思われる。

明員の話を総合すると、これらの木製品は、前回出土した鳥形木製品と一緒に墳丘の裾の部分に立てられていたようだ。鳥、笠、石見で3点セットとされ、葬送儀礼用に作られ、被葬者の権威を示すと同時に、墳丘の内外を分け、聖域を示す結界の役割があったのでは・・・とのことだ。

製品自身にもそれぞれの役割があったようだ。鳥は古墳の被葬者の霊魂を来世に運んで行き、笠は被葬者の権威を示つために差し掛けられ、石見形は外部から侵入してくる邪悪なものを追い払うものと理解することができるという。

「木の埴輪」の出土状況 木製品の配置イメージ<
「木の埴輪」の出土状況 木製品の配置イメージ

の墓山古墳の被葬者が巨勢男人と仮定したとして、彼は529年の何月に物故したかは分かっていない。だが、彼の居宅の近くで盛大な殯(もがり)が営まれ、それと平行して一族総出で紀路沿いの一番目立つ平坦部に墓の造営が日に夜をついで行われたであろう。何しろ、継体王朝の創始者と目される継体大王の朝廷でNo.1ともNo.2とも目される大臣(おおおみ)の位にあった人物である。

体を納めた柩(ひつぎ)が殯の場からこの墓まで運ばれた日、親交のあった大勢の氏族の族長たちが葬儀の列に加わったに違いない。葬儀の先頭を行くのは、あるいは巣山古墳で見つかったような柩を載せた「喪船」だったかもしれない。紀路の沿道には多くの住民たちがはせ参じて、偉大な族長との最後の別れに涙したであろう。その日、葺石に飾られた墓を取り巻く外堤では、葬送儀礼が盛大に執り行われた。

体が石室の石棺に移され、多くの副葬品が埋納されて石室が閉じられた後、日没を控えた墓の外堤には、あちこちにかがり火が焚かれたと思われる。墳丘の裾に新たに立てられた鳥や盾、笠の形をした木製品は、かがり火に照らされて、ほの暗い影を周濠の水面に映していたにちがいない。説明会の後、墳丘の頂きに立ってそうした光景を想像するのは楽しい。



東中谷遺跡: バイパス道路の建設用地で、9世紀の「木炭墓」を発見

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バイパスの橋脚が向かう前方の丘陵上で見つかった東中谷遺跡


在、高取町の薩摩では、県道の橿原高取線と国道169号線を結ぶバイパス道路の建設が、平成23年度の完成を目指して急ピッチで行われている。この国道169号線の高取バイパスの計画路線上に、竹藪に覆われた丘陵があり、工事で削り取られることになっている。橿考研は、その道路建設工事に先だって、昨年11月から丘陵の表土を剥いで約1000平米の発掘調査を実施している。そして、丘陵の頂上付近の南斜面で、平安時代の初め頃に作られたと思われる古墳群を発見した。

東中谷遺跡の位置
東中谷遺跡の位置
つかったのは火葬墓1基(1号墓)、土こう墓1基(3号墓)、木棺墓3基(2・4・5号墓)のあわせて5基だが、その中の2号墓は木棺を埋めるにあたってその周囲に木炭を充填していたことが分かった。すなわち、穴の底に木棺を据えた後、木炭と土を交互に敷き詰めて木棺を覆い、その上に盛り土を盛って、低い塚を形成していたようだ。

の2号墓は非常に入念な造りがされている上に、唐代に作られた八花鏡(はっかきょう)の破片も副葬されていた。さらに重要なことは、この墓が未盗掘のまま見つかったことだ。律令体制下における墓制の様相を考える上で、重要な資料となると判断された。そこで、橿考研はこの地域名を取って「東中谷」遺跡と命名し、現地説明会を本日の午後2時から開くことを発表した。

尾墓山古墳の現地説明会に参加した考古学ファンのほとんどは、こちらの会場に足を延ばしてきたはずである。そして、林立するバイパス道路の橋脚の行く手を遮るように立ちはだかっている丘陵を見て驚いたにちがいない。表土を剥がれて、赤土を剥き出しにした山頂付近に古墳群が築かれているため、現場を見るためには、特設の長い階段を上っていかなければならない。

発掘現場へアクセスするための長い階段
発掘現場へアクセスするための長い階段


時ちょうどに橋脚の下で始まった説明会では、2号墓を中心に説明された(2号墓は木棺墓であるが、棺の周囲に木炭が敷き詰められていた特殊性を考慮して、以下では「木炭墓」と呼ぶことする)。丘陵の南斜面に築かれたこの墓は、長さ約2.5m、幅約1.2m、深さ約60cmの穴である。多くの鉄釘が見つかっていることから、長さ約1.8m、幅約40cm、高さ約40cmの木棺が埋葬されていた、と推定されている。

木炭がびっしり詰まった2号墓
木炭がびっしり詰まった2号墓
炭を棺の周囲に敷き詰めたのは、吸湿や防臭のためだったと考えられている。墓に炭を入れるのは特殊で、全国で約20例しか見つかっていないらしい。似たような形状の墓は、巨勢山室古墳(御所市、9世紀初め)や、『古事記』の撰者だった太安万侶の墓が知られている。今回の墓は未盗掘だったため、詳しい構造が分かるという。

味深いのは、この墓の盛り土の中に、製鉄の過程で生まれる鉄滓(てっさい)が7点も含まれていたことだ。そのために、発掘調査した橿考研の担当者は、製鉄に関係した人物を埋葬した墓だったかもしれないと推測している。一方、20例ほどしか見つかっていない木炭墓は、平安京の周辺や太宰府周辺に偏在し、しかも冠やバックルを副葬している場合が多い。このため、平安時代の高級官僚の墓の可能性が高いとされている。

中谷遺跡が発見されたこの地域は、平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を輩出した有力氏族「檜隈忌寸」(ひのくまのいみき)が支配していた。同族の出身者で当時の都・平安京に出仕して高級官僚に出世した者がおり、彼の死後その遺体をその故郷に埋葬したのでは・・・と推論する専門家もいる。

の隅には、銅鏡の破片と完形の土師器の壺が納められていたという。鏡の破片は草花の模様が施された「八花鏡」で、中国の初唐末頃から作り始められている。復元すれば直径24cmほどの銅鏡だが、舶載鏡か国産かは、成分を分析してみなければ分からないとのことだ。問題は、出土した鏡の破片が、意図的に割った形跡があることだ。古墳時代には、悪霊を追い払うために鏡が墓に埋納したが、9世紀の平安時代にも同じ風習が継続していたとは思えない。地元出身の和田萃(わだあつむ)京都教育大学教授は、現代の葬儀でも、現世に未練を残さないように故人の茶碗を割る風習があるから、当時も似たようなことが行われたのは・・・、とコメントしておられる。

出土した「八花鏡」の破片と鏡の完形 完形の土師器の壺
出土した「八花鏡」の破片と鏡の完形 完形の土師器の壺

の破片と並んで、直径約10cm、高さ約15cmの土師器の完形の壺が見つかった。この壺の形式から、墓の築造時期が9世紀の初め、すなわち平安初期と判定された。一方、5号墓からも土器が出土している。この土器の年代から、5号墓は9世紀末から10世紀初めころに作られた一番新しい墓であると推定できる。つまり、この古墳群の墓は、ほぼ1世紀に渡って同じ家系の死者を2世代あるいは3世代続けて埋葬してきたようだ。


鉄パイプを組んだ見学通路 正面から見た2号墓
鉄パイプを組んだ見学通路 正面から見た2号墓

い階段を息を切らしながら登りきったと思ったら、出土した古墳群はさらにその先の南斜面にあった。頭皮を剥いだように赤土をむき出しにした墳丘上に、鉄パイプを組んだ見学路が続いている。それにしても、丘陵の頂上に立つと、周囲の見晴らしがすばらしい。こんな高いところまで登ってくるには親族たちも大変だったと思うが、見晴らしの良い場所で永久の眠りにつきたいという願望は、古今東西を問わず変わらないようだ。

他の墓
他の墓の集まり
炭を敷き詰めた2号墓は、思ったより小さかった。しかし、穴の底に残っていた木炭の色は黒々としていた。2号墓から少し離れた位置に他の4基の墓が覆い被さるように築かれていた。火葬墓の1号墓はその位置が分かったが、他の3基は白線でそれらしい場所が赤土の上に描かれているだけだった。

掘調査が終われば、国道バイパスの建設によって墓の部分を含むこの丘陵地は削り取られる運命にある。完全な形に近い形で出土した「木炭墓」は珍しく、研究者の間ではその消滅を惜しむ声が出ている。なんとかはぎ取ってでも、他の場所に保存する対策を講じてほしいものだ。



2007/01/29作成 by pancho_de_ohsei
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