橿原日記 平成19年1月21日

桃太郎伝説の舞台となった古代山城・鬼ノ城(きのじょう)を訪れる


朝鮮式山城と神籠石(こうごいし)系山城

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屏風折れの石垣(突出部)遠望 (2007/01/21 撮影)


日、関津(せきのつ)遺跡を見学した帰り道、車が渋滞に巻き込まれた。焦っても仕方がない、のんびり行こうと、運転席の友人A君と雑談しているうち、なぜか話題が古代の山城(やまじろ)の話になった。以前に、韓国の史跡見学旅行に参加して、古代朝鮮の山城を何カ所か見学した経験がある(韓国西海岸の島々をめぐる史跡見学旅行参照)。そのときの様子を話していると、A君が突然、話の腰を折った。
「我が国の古代山城には、朝鮮式山城神籠石(こうごいし)系山城の2種類があるんだってね」
「何だって?」
思わず私は絶句した。

龍蔵山城
高麗時代、三別抄軍が居城
として築いた龍蔵山城
かつにも私は、西暦663年の白村江(はくすきのえ)の敗戦の後、唐・新羅連合軍の侵攻に対する備えとして、時の朝廷が北九州や瀬戸内の各地に築かせた山城を古代山城と言うのだとばかり思っていた。そのために朝廷が起用したのは百済からの亡命貴族たちだった。『日本書紀』よると、665年の8月に長門に長門城を、また筑紫に大野城基肄(きい)城を築かせている。2年後の667年には、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城を築かせている。

君の話だと、古代山城は西日本におよそ30カ所存在し、そのうち23カ所が現在までに確認されているそうだ。そして、『日本書紀』や『続日本紀』などの歴史書に城の名が記載されている山城を「朝鮮式山城」といい、それ以外の文献に載っていない山城は「神籠石式山城」と呼んで区別しているそうだ。

同じ山城なのに、史書に記載されているかいないかで名前を変えているなんて、変な話だね。築造技術とか築造時期に、両者の間でどんだ違いがあるの?」
「神籠石系山城は、神籠石と呼ばれる列石を巡らせその上に版築工法で土塁を築いている。朝鮮式山城に比べて、築造時期がもっと古いようだ。それに対して、天智天皇が築造させた朝鮮式山城には神籠石の列石が見つかっていない。また、版築工法も用いていないようだ。したがって、城壁は土塁ではなく石塁でできている。朝鮮半島では、王宮あるいは里の背後の山上に城を築かれ、いざ戦いとなればこの城へ民衆も含めてみな城の中に避難したという。だから、朝鮮では古代山城を「逃げ城」とも呼んでいる。

鬼城山の山頂に築かれた鬼ノ城
鬼城山の山頂に築かれた鬼ノ城
(「古代山城鬼ノ城−展示ガイド」より)
005年10月の始めに、橿原考古学研究所の友史会が主催する一泊研修旅行「吉備路を訪ねる」 に参加した(コスモスが咲き乱れる「吉備路」を行く参照)。そのとき、吉備路を歩きながら、北方にそびえるひときわ高い山が気になった。吉備高原の南端に位置する標高397mの鬼城山(きじょうざん)である。その山頂付近には、石垣の上に土塁を積んだ全長2.8kmにも達する城壁が鉢巻状に築かれている。要所には、東西南北4ヶ所に門が築かれ、城外への排水機能を持つ水門も6カ所確認されている。古代の山城として知られる「鬼ノ城」(きのじょう)である。だが、研修旅行では鬼ノ城見学は含まれていなかった。

ノ城は何時、誰が、何のために築造したのか、一切不明である。白村江の敗戦の後、唐・新羅の連合軍が本土に侵攻するのではないかと危機感を抱いた当時の政権が、西日本各地に築かせた防衛施設の一つであろうと推測されている。だが、なぜか古代の正規の史書に一切触れられていない。そのため、一般には朝鮮式山城ではなく神籠石式山城と呼ばれている。

史には示されていないが、朝鮮から来た百済の王子・温羅(うら)がこの山に居城を構え、西国から都を送る物資をうばったり、婦女子を略奪したりしたため、人々は彼の居城を「鬼ノ城」と呼んだという説話が、地元では語り伝えられてきた。この温羅伝説は、その後「吉備津彦の温羅退治」伝説に発展し、やがて桃太郎伝説へと形を変えていくことで知られている。

の話をすると、A君の目の色が変わって、興味深げな眼差しを向けた。
「ウーム、興味深い場所だな。一度見てみたいな。どうだ、一緒に行かないか?」
こうした話になると、お互いにすぐ乗ってしまう性格である。すぐに、次の日曜日に天気が良ければという条件で、一緒に出かけることで話がまとまった。だが、問題があった。A君の車で出かけるにしても、岡山はいささか遠い。しかし、A君の決断は早かった。
「新幹線を利用すれば、新大阪駅から1時間たらずで岡山に着く。後は、駅前でレンタカーを借りるなり、タクシーを時間でチャーターすればよい」

日がその当日である。インターネットで岡山地方の天気を調べると、数日前には雨や曇りのマークだったのが晴れマークに変わっている。出かけにA君に電話すると、予定通りとの返事が返ってきた。



鬼ノ城への途中、日本三大稲荷の一つ最上稲荷(さいじょういなり)に立ち寄る

鬼ノ城の復元された西門
鬼ノ城の復元された西門を遠望


桃太郎
岡本錦朋氏製作の「桃太郎」
時30分に山陽新幹線の新大阪駅のホームで落ち合い、8時46分発の新大阪発の「ひかり」号に乗った。岡山までは52分の乗車時間で到着する。A君が用意してくれた旅行ガイドをめくりながら雑談しているうちに、列車は岡山駅に到着した。旅行ガイドによれば、JRを利用した場合、岡山駅で吉備線に乗り換えて総社駅まで行き、そこからタクシーで約20分で鬼ノ城の駐車場に到着できる。

かし、桃太郎伝説に因んで昭和46年(1971)に故岡本錦朋氏が製作した「桃太郎」の銅像がJR岡山駅の正面に据えられていると聞いていた。その銅像をデジカメで撮影したかったので、岡山駅前でレンタカー会社かタクシー案内所を探すことにした。

君が目ざとく駅前広場の隅にあるタクシー案内所を見つけて、鬼ノ城まで往復でチャーターした場合の料金を聞き出した。鬼ノ城までバスの便はない。マイカーで来るか、徒歩で登るか、それともタクシーを利用する以外にアクセスの手段はない。往復の時間と鬼ノ城を一周するのに要する時間を含めて4時間もあれば、また岡山駅まで戻って来れるという。料金を聞くと、それほど高くない。早速、配車の手配をして貰うことにした。

ると、車が到着するまで、駅前のグランビア・ホテルのロビーで待つように指示された。ほどなく、案内所の老人がタクシーの運転手をロビーまで連れてきた紹介した。K.Yという地元タクシー会社の運転手だった。腰の低い、実直そうな中年男性だった。彼が運転する車は10時20分にホテル前を出発した。

最上位経王大菩薩
最上位経王大菩薩
前を出発して、国道180号線に入り、岡山自動車道の下を通り抜けて真っ直ぐ鬼ノ城へ向かうものと思ったら、K.Yさんはなかなか話好きのようだ。問いもしないのに、観光ガイドよろしく吉備路の名所をいろいろ説明してくれる。そのうち、最上稲荷(さいじょういなり)は行かれたことがありますか、と聞いてきた。伏見稲荷、豊川稲荷と並ぶ日本三大稲荷の一つだそうだ。参拝したことがない、と答えると、通り道筋だからちょっと立ち寄っていきましょうと、ハンドルを切って国道から脇道へ入った。

最上稲荷の仁王門
最上稲荷の仁王門
最上稲荷の本殿(霊光殿)
最上稲荷の本殿(霊光殿)
最上」と書いて、「もがみ」ではなく「さいじょう」と読む。最上位経王大菩薩を本尊として祀る稲荷だそうだ。天平勝宝4年(752)に報恩大師が開いた妙教寺(天台宗のちに日蓮宗)が始まりとされている。その後、稲荷神社を合祀した珍しい神仏混合の寺である。初詣は商売繁盛、交通安全、家内安全等を祈願する参拝客で毎年大いにぎわいを見せる。そのため、国道180号線は大渋滞に陥るとのことだ。

道の両脇にみやげもの店が軒を連ねている門前町を抜けて駐車場近くまで車を乗り入れたが、どこも満杯である。仕方なく、我々は根本大堂近くで車を降りて参拝することにし、その後携帯電話で連絡を取りながら適当な場所に車を着けてもらうことにした。初詣はとっくに過ぎたが、日曜日とあって大変な混みようである。

上稲荷の仁王門は奇妙な形をした石造りの門である。しかし、稲荷を祀っているだけに、左右にお狐様が控えている。石段を登ると、正面に巨大な本殿が見えてくる。霊光殿と呼ばれるこの建物は「最上三神」(最上位経王大菩薩、八大龍王尊、三面大黒尊天)を祀る中心的な建物である。開口、奥行、棟高いずれも24mであるという。正面には巨大な注連縄(しめなわ)が渡してある。後でK.Yさんは総重量が1.5トンもあると教えてくれた。

巨大な釜
巨大な釜
上稲荷を後にした車は、山中に分け入り最上稲荷の奥の院の近くを通って、鬼ノ城へ向かった。途中、旧足守藩の陣屋町だった古いたたずまいを見せる通りを通った。大坂で「適塾」を開き、明治維新前後に活躍した多彩な人材を育てた教育者・緒方洪庵(おがたこうあん)は、この地の出身である。緒方洪庵生誕地の標識が車中から見えた。

ャンプ地で知られる砂川公園をすぎるあたりから、道が狭くなり、急坂が続く。この車道が舗装されたのはつい最近のことだそうだ。鬼ノ城は、偶然の山火事の後に民間の熱心な研究家によって昭和46年(1971)に発見された。本格的な学術調査が始まったのは昭和53年(1978)。国の史跡の指定を受けたのは昭和61年(1986)。したがって比較的新しい史跡であると言えよう。現在は総社市教育委員会が平成13年(2001)から史跡整備を行っている。それまでは地道の大変なアクセス道路だったそうだ。

ノ城がある一帯は岩山で、赤松が繁殖している。そのため、あちこちに侵入禁止の場所が設けてある。K.Yさんは、危険だから立ち入りを禁止しているのではなくて、無断で山に入って松茸を取るのを防いでいるのでは、と冗談っぽい表情で話してくれた。山の中腹の民家が4〜5軒あるところで、K.Yさんは車を止めた。鬼ノ城まで500m手前の道路脇である。
鬼の釜釜を見ていきましょう」
という。道路近くに巨大が釜が屋根付きの東屋に据え付けてある。伝説では、温羅が旅人をこの釜で煮て食べたという。鬼の釜は直径およそ1.8m、深さ1.4mの鉄釜だが、中を覗くと底が抜けていた。鎌倉時代の勧進僧俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が庶民の入浴に使用させた湯釜だったとする伝承もある。

鬼城山ビジターセンター
鬼城山ビジターセンター
1時30分、「鬼ノ城駐車場」に到着した。途中で最上稲荷に立ち寄ったため、少し予定より遅れたが、ほぼ1時間で到着することができた。駐車場の横に「鬼城山ビジターセンター」がある。その展示室では、写真パネルや模型、映像ガイダンスで鬼ノ城の概略を説明している。一通り見学して、鬼ノ城の概略を頭にたたみ込んで、鬼ノ城を巡ることにした。駐車場から鬼ノ城までは約300mの遊歩道を歩いて登らなければならない。



鬼ノ城の観光スポットを見て回る

鬼ノ城マップ
鬼ノ城マップ(「古代山城鬼ノ城−展示ガイド」より)
ノ城が築かれた標高約400mの鬼城山(きじょうざん)は、四方が切り立った絶壁なのに、その頂き部分は比較的なだらかな平原をしている。こうした地形を蒜峰形(さんぽうけい)といい、築城にとって最適の自然条件の一つとされている。

ノ城の城塁は、この山の八合目から九合目あたりの絶壁の端と準平原の境界に、数メートルの高さで延々と連なり、6つの谷を抱いて鉢巻き状に巡っている。この延長2.8キロにわたる城塁には4つの城門と6つの水門が作られ、城内の広さは約30ヘクタールに達するという。城内には複数の倉庫と見られる礎石建物跡も見つかっている。

ノ城は国指定史跡である。指定は昭和61年(1986)3月になされた。総社市教育委員会は平成13年度から史跡整備に着手し、平成16年度までに西門と角楼を復元した。その際、城壁の復元に全国初の試みとして古代の版築工法を用いた。築き上げられた城壁は、ここを訪れる者を圧倒する。

鬼ノ城の遺構復元地区整備イメージ
鬼ノ城の遺構復元地区整備イメージ(パンフ「鬼ノ城」より)

 城の背面側の要地に築かれた角楼

車場から遊歩道を300mほど登ってくると、最初に迎えてくれるのが復元された角楼である。かつてここには,裏門的な門跡の存在が推定されていたが,平成8年度の発掘調査で、城門ではなくて特殊な遺構であることが判明した。それが角楼跡である。角楼は城の裏側、すなわち搦手(からめて)を守るために築かれた。

角楼
復元された角楼
石敷
平石を敷き詰めた石敷

の場所は、南北両方から入り込んだ谷の頭部にあたる城の背面側の要地である。調査によって、正面側が約13m,奥行側が約4mの長方形の張り出し部が城壁から前方へ突出していたことが判明し、角楼の跡と名付けられた。下部には高さ約3mの石垣が積まれ、その上部は土積みだったようで、角楼本来の高さは5m以上だったと推測されている。

垣の間には、一辺約50cmの角柱がほぼ4m間隔で建てられていた。これらの角柱に支えられた展望台のような施設が築かれていたようだ。背面からの攻撃に備えるとともに、近くの西門防備をも意図した重要な防御施設だったと考えられている。その遺構が発見された場所に、角楼が復元されている。近代城郭とは趣がいささか異なるが、鬼ノ城の見学入口にそびえるこの復元遺構は、城壁の巨大さを感じさせて余りある。

楼から西門に向かって延びる城壁が築かれている。城壁の両側の基部を神籠石状に列石で固め、その上に版築工法によって突き固めた厚さ数センチから十数センチの土塁が復元されている。このようにして築かれた城壁の高さは、5〜7mもはり、幅も7m前後だったという。簡単に乗り越えられる高さではない。

うした土塁が城壁の9割を占めるという。版築工法では、壁となる位置に型枠をつくり、内部に土を入れて、一層ごとに突き固める。大変な労働力を必要とする作業である。試算によると、2.8mの城壁を築くのに、延べ10万人が動員されたという。土塁には版築の層がはっきりの残っている。その土壁を指で押してみた。まるで石のような硬さである。発掘調査では、しばしば鍬(くわ)の先に火花が散ったとのことだ。

壁の外側には、通路のような幅1.5mの敷石が巡らされている。この平石を敷き詰めた石畳の「犬走り」は、城壁の外側だけでなく内側にも築かれている。こうした犬走りが付設されている城壁が見つかった例は、国内では鬼ノ城が初めてだそうだ。

 推定復元された西門

復元された西門
復元された西門


発掘時の西門跡
発掘時の西門跡
西門付近から眼下に総社平野を望む
西門付近から眼下に総社平野を望む
ノ城には東西南北の4カ所に城門が築かれていた。城門は城の内外との連絡に利用される通用口であるばかりでなく、城を攻められた時には攻撃の標的とされる。そのため、古今東西を問わずとりわけ堅固に作られているのが通例だ。

西門の跡は、平成8年度の調査で新たに発見された。12本の柱で構成される掘立柱城門で、正面3間(12.3m)、奥行き2間(8.3m)の規模たったことが確認された。掘立柱のすべてに、角柱を使用されており、門扉が付く柱は一辺が最大60cmもあった。門道の床は平石を並べた石敷きで、城内側には4段の石段があった。さらに、城外から内部が見えないように、4本柱からなる目隠し塀が城内側に設置されていた。

の西門跡が、平成14年度から2年をかけて推定復元された。現在は、正面12.3m、奥行き8.2m、高さ12.8mの木造3階建ての門がそびえている。復元された西門の前に立つと、眼下に雄大な総社平野を望むことができる。視線を左に転じれば、児島半島や小豆島、四国山脈の山並みも晴れた日であれば遠望できるという。

在の岡山の市街地付近は、かって吉備穴海と称された内海が内陸奥深く入り込んだ入江だった。その入江に面して、吉備の港すなわち吉備津があった。吉備津は当時の河内にあった難波津と北九州にあった那の津を結ぶ瀬戸内海航路のちょうど中間点にあたる海上交通の要衝だった。吉備津彦(きびつひこ)とは、この要衝の地を支配し、豊かな吉備王国を築き挙げた百済の王子・温羅(ウラ)に対する尊称だったような気がする。

手な想像だが、その温羅が大和朝廷から派遣されてきた皇族将軍との戦いに敗れて殺されるとき、吉備津彦の名を将軍に進呈したにちがいない。皇族将軍はその後、吉備津彦と名乗って吉備の中山の麓に茅葺宮(かやぶきのみや)を作って住み、吉備王国の統治したのであろう。

 城内に点在する礎石建物群

きれいに並んだ建物跡の礎石<
きれいに並んだ建物跡の礎石


々が城壁を一巡りしてくる間、運転手のK.Yさんは駐車場に止めた車の中で休息しているものとばかり思っていた。でも、二時間近く何もしないで待機しているのも退屈なのだろう。頼みもしないのに、城内の案内を買って出てくれた。城壁はあちこちで整備工事の最中であり、遊歩道が通行止めになっている箇所もあるらしい。K.Yさんの道案内を信用して、彼について行くことにした。

礎石建物跡の標識
礎石建物跡の標識
倉庫跡の一つ
倉庫跡の一つ
西門から角楼に戻ると、K.Yさんは北門の方向へ続く遊歩道を歩き出した。北門へ向かうものと思ってついて行くと、途中から城内へ続く遊歩道へ折れた。北門あたりは工事中でおそらく通行止めになっているとのことだ。城内の赤松の林を縫って続く道は、ところどころにアップダウンがあったが、それほど急な坂道ではない。松葉が散乱する遊歩道は心地よい散歩道である。

歩道の途中に礎石建物跡の標識が立っていた。矢印の方向に進むと、松林の中に建物の礎石が露出していた。礎石の列をたどると、かなり大きい建物跡のようだ、現在までに、7棟の礎石建物跡が見つかっている。食料や武器を備蓄した建物の跡と推定されている。東門近くからは、鍛冶工房跡も見つかっているとのことだ。

ノ城は、朝鮮式山城ではなく神籠石系山城分類されている。神籠石系山城は九州地方に多く、磐井の反乱が起きた6世紀初めを前後する時期に築かれたとする説があるようだ。だが、鬼ノ城の築城時期をそれほど遡らせることは無理だなと、これらの建物跡を見て感じた。当時の建物は掘立柱を用いて立てられていた。礎石を置いてその上に柱を建てるという建築様式は、仏教寺院が建立される時期まで待たなければならない。つまり、蘇我馬子が我が国最初の本格的寺院・法興寺を建立した6世紀末以前には、礎石建築はこの国にはなかったはずだ。鬼ノ城に倉庫として礎石建築が作られていた以上、この山城が築かれたのは7世紀に入ってからということになる。

城時期はさらに絞り込むことができる。城門の柱の直径や倉庫の柱間の距離を測定した結果、26.8cmを一尺とする「古韓尺」ではなくて、29.7cmを一尺とする「唐尺」が使用されていたことが判明した。「古韓尺」から「唐尺」へ変わるのは、朝鮮半島でも日本でもだいたい7世紀の中頃とされている。

城時期の解明に決定的に重要な遺物も出土している。第二水門跡の集水口付近から出土した須恵器の甕の破片から、この須恵器は7世紀末葉から8世紀初頭に作られたとされている。その他に城内のあちこちで見つかった須恵器の破片の中で一番古いものでも7世紀第2四半期または第3四半期のものだそうだ(葛原克人著「鬼ノ城と東アジア」、『古代を考える 吉備』所収)。

うした事実は、天智天皇の時代に築造されたとされる他の「朝鮮式山城」とほぼ同じ時期に、鬼ノ城も造られたことを物語っている。単に史書の記載があるかないかで当時の山城を分類するのは、あまりに形式主義すぎて、意味をなさないのではないだろうか。鬼ノ城だけではない。九州北部から中国・四国の瀬戸内海沿岸にも、史書に記載されていないかなりの数の山城が見つかっている。これらの中にも「朝鮮式山城」と同じ頃築城されたと見なしてよいものが、いくつもあるという。

 防御正面に築かれた石垣の突出部

屏風折れの石垣を遠望
屏風折れの石垣を東門跡近くから遠望


石建物跡から松林の中の遊歩道をさらに進むと、突然林が切れて岩山の端に出た。そこから総社平野や岡山平野を一望に見下ろすことができる。山城の防御の点からいうと、平野を見下ろすこちら側が、城の防御の正面ということになる。岩山の上から左手、すなわち北の方向を見ると、谷の部分に第五水門が築かれており、その先が城外へグイと突き出た石垣になっている。俗に屏風折れの石垣と呼ばれている突出部だ。

第3水門と第4水門の間の突出部
第3水門と第4水門の間の突出部
御正面になる総社平野側の城壁は、6カ所に石垣が築かれている。鬼ノ城の城壁のほとんどは版築で固めた土塁だ。だが、石を積んで石塁とした城壁も全体の1割程度あるとのことだ。土塁は長い年月の間に崩れ去ったが、自然の巨岩を巧みに取り込んで築かれた石塁は、本来の形状を今に伝えている。石塁の中には、城外に対して目立つ場所を意識的に選んで高石垣を築いた場所がある。

た、通常の城壁幅から外へコの字状に突き出した突出部も2カ所ある。その一つは、上に示した屏風折れの石垣である。もう一つは第3水門と第4水門の間にある。突出部に立つと、視野が広がり多方面への監視ができる。さらに、床面積も広いため多くの城兵が詰めることが可能で、おそらく守りの要だったのだろう。

イカーたちが三々五々と散らばって休息している屏風折れの石垣を眺めながら、A君がつぶやいた。
「屏風折れの石垣とは、言い得て妙だね」
詳しくは知らないが、直線的に築かれる城壁は接続部で「」(おれ)を形づくる。敵兵のいる城外へ向かう区間を「敵折」(てきおれ)と呼び、逆に城を守る味方がいる方向に向かう区間を「味方折」(みかたおれ)と呼ぶそうだ。城外へ飛び出した敵折の所は、敵兵を射るのに便利である。逆に味方折は水の勢いに耐える必要がある水門石垣の構築法として優れている。屏風折れとは、屏風を立てたときのように、凹凸の折れ目が繰り返されている状態を指すのだろう。

 鬼ノ城に築かれた4つの門の中ではもっとも規模が小さい東門

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東門跡


御正面に当たる城壁に沿って道を西に取れば、すぐのところに東門の跡がある。東門跡は平成6年度に最初に発掘調査され、4つある山城の門の中では一番小さい門だったことが判明している。正面は1間(3.3m)、奥行きは2間(5.6m)の計6本の掘立柱で構成されていた。他の城門では角柱が使用されているのに、なぜか東門の本柱は丸柱だった。

城門跡の板塀に掲げられた説明文
城門跡の板塀に掲げられた説明文
城内側にある20x15mの一枚
城内側にある20x15mの一枚岩
の東の城門はかっての登城門だったのかもしれない。山麓の阿弥陀原から尾根を伝って登ってくる登山道はこの門に通じている。城外側の列石の上に立つと、総社や岡山平野が視界一杯に広がっている。鬼ノ城ゴルフクラブや岡山国際ゴルフクラブなども眼下に見える。運転手のK.Yさんはよほどのゴルフ好きのようだ。それぞれのゴルフ場のレイアウトを説明し、こう付け加えた。
「今度はゴルフをやりに岡山に来てください。連絡頂ければ、マイカーでお迎えし、一緒にプレーさせていただきます」
だが、ゴルフのために大阪から高速道路を200km以上も車で飛ばしてくるのは、いささかきつい。

門跡には、4カ所の柱穴に木柱が立てられ、門道の片側に土嚢が積まれている。門道の板壁には、説明文が掲げてあった。その説明を読みながら、築城当時の門の様子を想像で復元してみると、次のようになる。

な尾根道を登ってきて城外側の列石にたどり着くと、正面に間口3.3mの城門が行く手を遮る。門道の床には平たい石が整然と敷き詰められ、門道の両壁は板壁である。奥行き5.6mの門道の中ほどに、内開きの門扉が取り付けてある。開門を待って城内に向かうと、門道の板壁が逆ハの字城に開く石壁に変わる。城内に一歩足を踏み入れると、そこに待ち構えているのは、20m x15mの一枚岩の巨岩である。

 西門と同じ設計に基づいて築かれた南門

両側に土嚢を積んだ南門跡
両側に土嚢を積んだ南門跡


成6年(1994)から開始された発掘調査で発見された4つの城門のうち、南門と西門は同一設計に基づいて築かれたと考えられている。。細部での若干の違いはあるものの、いずれの門も、正面3間(12.3m)、奥行き2間(8.1m)の合計12本の掘立柱(すべて角柱)で構成されていた。

門跡の開口部は西門跡とほぼ同じ大きさである。ただし、門扉の柱は一辺最大58cmでわずかに小さい。さらに、城内側に高低差があるため,7段の石段がつけられている。こういった点が西門との相違点である。

西門跡は、平成14年度から2年をかけて推定復元されている。だが、南門跡は発掘調査の後に、門の両側に土嚢を積んで門道(出入りのための通路)に敷かれた平石の状態や7段の階段の状態が分かるように整備されただけである。築造当時の城門の様子は、城門跡に立って心の目で想像する以外にない。この門の端から下を覗くと、正面は急斜面になっていて、当時の人々がどのようにこの門にアクセスしたのかよく分からない。

 排水機能を持った6カ所の水門

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第4水門跡


麓に居住していた人々が敵の襲撃を受けてこの山城へ逃げ込み、一定期間籠城するとなると、食料の備蓄と共に水の確保が最大の関心事となる。当然のことながら、それぞれの谷に堤を築いて、谷に流れ込む雨水を溜める溜池が造られていた。山城の地下に水脈もあるのだろう。山頂近くでは自然の湧水を利用した溜井も発見されている。城内の遊歩道を歩いていて、何カ所に湿原のような場所があった。

水池から溢れた水は谷を伝い、排水機能を持った水門へ導かれる。鬼ノ城では、水門跡が合計で6カ所見つかっている。いずれも各谷の流れと直角に堅牢な水門石垣を3mほどの高さに積み、その上に石築の通水口を備え、さらにこれを覆うように版築土塁が3m近く積み上げてあったようだ。こうした構造の水門は4カ所に築かれていた。残り2つの水門は通水口をもたないで、水門石垣の隙間から水がしみ出る浸透式構造を採用していたようだ。

ずれの構造の水門も、下側の水門石垣と上側の版築土塁の高さは6mに達し、城壁の一部として十分な高さである。また、水門の石垣の両側の城壁は城外の方向に延び、水門石垣は例外なく味方折に築かれていた。激しい水流を受け止めるに十分な構造を採用していたことになる。



意外に新しい「吉備津彦の温羅退治」伝説をモデルにした「桃太郎」

りの車が新山集落の巨大な「鬼の釜」の近くを通り過ぎたとき、A君が運転手のK.Yさんに聞いた。
「あの鬼の釜はいつ頃のものなんだろうね?」
K.Yさんも、釜の製造時期までは押さえていないようだった。どうやら、A君はこの新山集落付近が鬼ノ城の築城に従事した人々の飯場だったのでは・・・と勝手に想像しているようだ。版築作業や石積み作業に毎日多数の作業員が駆り出されたはずである。麓の村から毎日急な尾根道を登ってきて作業を行なっていたのではあるまい。彼らが毎日寝泊まりし、食事を給する場所が城の中か、あるいは城の近くに存在したはずである。この新山集落は山頂まで500mほどしか離れていない。これだけ大きい釜だと、一度に何百人もの食事を作れたはずだ、というのが彼の推論のようだ。

題が釜の話になったので、K.Yさんは、
「もう一つの釜の話をしましょうか?」
と、話を切り出した。吉備津彦神社に伝わる鳴釜神事の起源の話である。


、異国から空を飛んでこの吉備国に来た者がいた。一説には、彼は百済の皇子で、名を温羅(うら)といい、目は狼のように爛々と輝き、髪は赤々と燃えるが如く、そして身長は一丈四尺、腕力は人並みはずれて強く、性格は荒々しく凶悪そのものだった。温羅は新山に城を築き都へ向かう船や婦女子を襲っていたので、人々は温羅の居城を鬼ノ城と呼び、恐れおののいた。

鳴釜神事に使われる釜
鳴釜神事に使われる釜
マト朝廷もこれを憂い、名のある武将を遣わして討伐しようとしたが、変幻自在の温羅を誰も討伐できず都に逃げ帰る有り様だった。そこで武勇の誉れ高いキビツヒコを派遣することになった。大軍を率いて吉備国に下ったキビツヒコは吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築き戦いの準備をした。

いにキビツヒコは温羅と戦うことになったが、不思議なことに彼が射た矢と温羅が投げた石が悉く空中で衝突し海に落ちてしまい苦戦を強いられた。そこでキビツヒコは考えをめぐらし、一度に二矢を射ることができる強弓を準備させ、一度に二つの矢を射ることにした。すると、一つの矢はいつものように海に落ちたが、もう一つの矢はみごとに温羅の左目に突き刺ささった。

羅は驚愕し雉に姿を変え山中に逃げるが、キビツヒコはたちまち鷹となって追いかける。温羅は捕まりそうになると、今度は鯉に姿を変え、自分の左目から流れ出た血で川となった血吸川(ちすいがわ)に逃げ込む。キビツヒコは鵜に変化し血吸川を逃げる温羅を見つけ噛み上げ、ついに捕まえることに成功する。

ビツヒコは捕えた温羅の首をはねて曝したが、不思議なことに温羅は大声をあげて唸り響いて止まなかった。そこで困ったキビツヒコは家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしたが、それでも唸り声は止まず、ついには吉備津彦神社のお釜殿の釜の下に埋めたが、それでも唸り声は止むことなく、近郊の村々に鳴り響いたという。キビツヒコが困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて
「釜で神にささげる食物を炊け。釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴り、禍が訪れるなら荒々しく鳴るだろう」
と告げたため、キビツヒコはその通りにした。
これが鳴釜神事の起源であり、現在も随時行われているという。

に述べた「吉備津彦の温羅退治」伝説は、やがておとぎ話の「桃太郎」へと形を変えていったことで知られている。桃から生まれた男児を主人公にした「桃太郎」は、英雄譚を昔話化したものである。基本的には、老婆が川で桃を拾い、その桃から男の子が生まれるという異常誕生を語る発端と、異常な成長をとげて鬼ヶ島征伐にでかけて、犬、猿、雉(きじ)に出会う展開部分、そして鬼を退治して宝物を持ち帰る結末の部分から構成される。一般に知られている「桃太郎」は江戸時代の中期以後に型を整えて五大おとぎ話として流布してきたと言われている。明治28年(1895)に、巌谷小波(いわやさざなみ)が編纂した「日本昔噺」(にほんむかしばなし)に登場して、一躍脚光を浴びた。

岡山駅前の「桃太郎」像
岡山駅前の「桃太郎」像
田浩二氏が責任編集された『日本昔話通観』(同朋舎出版)によれば、「桃太郎」のバリエーションは全国で約680話にのぼるとのことだ。そんな中で、「桃太郎」と言えば岡山が発祥の地だと思っている人が多い。たしかに、岡山は桃の産地であり、家来の犬、猿、雉(きじ)に与えた吉備団子の「吉備」は、この地方の古い国名である。だが、桃太郎が鬼退治に出かけたのは鬼ヶ島であって、鬼ノ城ではない。

となく違和感を感じて、アパートに戻って調べてみると、意外な事実がわかった。岡山と桃太郎を結びつけた桃太郎伝説が生まれたのは、そんなに古い昔のことではない。おかやま桃太郎研究会会長の立石憲利(たていしのりとし)氏が編纂された『桃太郎話』によれば、岡山市の彫刻家だった故難波金之助(1897 - 1973)氏が、吉備津彦の温羅退治伝承は、昔話「桃太郎」のモデルであるとする説を『桃太郎の史実』で発表された。それが皓歯のようだ。昭和5年(1930)のことだった。



参考・引用文献
・総社市教育委員会作成「古代山城 鬼ノ城 −展示ガイド−」 ・河出書房新社刊 「図説岡山県の歴史」 ・山川出版社刊 「岡山県の歴史」 ・吉川弘文館刊 「古代を考える 吉備」 ・門脇禎二著 「吉備の古代史」 ・立石憲利編著 「桃太郎話」 ・参詣のしおり「最上稲荷」

2007/01/24作成 by pancho_de_ohsei
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