橿原日記 平成19年1月20日

1個の鍬形石(くわがたいし)の出土が話題を呼んだ平等坊・岩室遺跡(びょうどうぼう・いわむろいせき)

集落遺跡から意図的に打ち欠いた鍬形石が出現!!

第29次発掘調査現場
平等坊・岩室遺跡の第29次発掘調査現場を東側から望む (2006/01/20 撮影)


理市内の遺跡から、土器とともに鍬形石(くわがたいし)が一個出土した。しかも半分に割られ、下端の鍬先部分を欠いた状態で見つかった。場所は、天理市教育委員会が現在発掘調査中の平等坊・岩室遺跡の第29次調査地域。マスコミはこの発見を大きく報道した。しかし、正直なところ、何故それほど話題になるのかよく理解できなかった。

鍬形石
鍬形石(くわがたいし)
ゴホウラガイ
ゴホウラガイ
物館で見かける鍬形石は、実に奇妙な形をしている。鍬から柄の部分を抜き取った形に似ているところから付けられた名称だろうが、その用途が今ひとつ良く分からない。鍬形石はゴホウラガイの腕輪に似せて作られたとする説がある(同志社大学の森浩一教授)。

生時代には、沖縄でしか取れない大型の巻貝ゴホウラガで作られた腕輪は、権力の象徴として珍重された。ゴホウラガイは、肉厚で、腕輪に加工する際、磨くほどに緑色の光沢が出て美しい光を放つ。 輪切りにもするが、縦に削っていたときに現れる巻貝独特の渦巻き模様は、呪術的であるという。

が、加工しやすい緑色凝灰岩で作られた鍬形石は、石製品である。権威の象徴である腕輪または威信財として両腕に付けるには、すこし重すぎるのではないだろうか。また、鍬形石は今まで古墳に納められた棺の中や周りから出土するのが通例だった。場合によっては、青銅鏡と同じように、悪霊を払う呪術的な力があると古代人は考えていたのかもしれない。

墳時代の首長層の古墳から鍬形石は、複数で見つかるケースは多い。2〜3個どころか、磯城郡川西町に所在する島の山古墳では、車輪石(しゃりんせき)80個、石釧(いしくしろ)31個と共に鍬形石が21個も出土している。天理市柳本町に所在する櫛山古墳では、多数の鍬形石が車輪石や石釧、土製品、土師器片などと一緒に出土している。

等坊・岩室遺跡から出土したのは、たった1個の鍬形石で、しかも鍬先部分を欠落していた。それにもかかわらずマスコミの話題になった。理由はどうやら出土地にあったようだ。今までに出土した鍬形石は、古墳の埋葬施設の中で発見された。今回発見されたものは、弥生時代から古墳時代にかけて存在した環濠集落の川縁で見つかった。墓の中ではなくて、環濠集落の中に埋められていたのだ。今までにこのような出土例は一件もなかった。

鍬形石の変化 平等坊・岩室遺跡から出土した鍬形石
鍬形石の変化 平等坊・岩室遺跡から出土した鍬形石

まり、集落での出土例として特記すべき事例ということになる。その点に今回の発見の話題性があった。しかも鍬形石の破片は古墳時代前期の布留敷き土器と一緒な穴に埋められていた。そのため、埋められた時期がほぼ特定できた。

らに、鍬形石が埋まっていた穴の近くには、炭と焼けた土が埋まった穴や、土器を大量に埋めた穴もあった。そこで、天理市教育委員会は、こう判断した。
「集落のはずれ川沿いで火を使った祭祀が行われたとき、この鍬形石は意図的に打ち欠かれて埋められたにちがいない」
そうした推測が妥当かどうか判断できるバックグラウンドは、筆者にはない。しかし、どのような場所から出土したかは興味があった。本日午後1時から現地説明会が行われるというので、出かけてきた。以下はそのレポートである。



弥生時代から古墳時代に向かって変革していった拠点集落遺跡

出土した土器類
出土した土器類


平等坊・岩室遺跡付近の地図
平等坊・岩室遺跡付近の地図
(現説資料より転記)
等坊・岩室遺跡は天理市の平等坊町と岩室町の一帯に広がる弥生時代の大集落遺跡である。市内を流れる布留川によって形成された扇状地の下方の沖積平野の中にあり、水利に恵まれた農耕に適した土地柄だったため、弥生時代の前期から集落が定着し、拡大していった。

れまでに実施されてきた発掘調査や分布調査によって、この遺跡は東方のヒライ池から現在の岩室町まで及んでいて、その規模は東西約400m、南北約600mと推定されている。この場所に弥生時代の前・中・後期の全期間を通じて周囲に大溝を巡らした環濠集落が存在した。その集落は奈良盆地の東半部における拠点的な集落だったとされている。

等坊・岩室遺跡は古墳時代前期にも継続して存続していた。それを示す証拠が遺跡の北東部の微高地で見つかっている。弥生時代後期の後半になると、1辺30mほどの方形の区画がこの微高地に形成され、集落内に首長層が誕生してきたようだ。この区画を囲む大溝から弥生時代後期後半から古墳時代前期の土器が多量に出土している。


現地説明会会場入口の案内
現地説明会会場入口の案内
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平等坊・岩室遺跡 (西→東)
地説明会の会場へ行くのに、近鉄天理線の「前栽」駅で降りた。布留川に沿って真っ直ぐに南に延びる道を10分ほど歩くと、国道25号線の「富堂町」交差点にでる。右折して国道を西に進むと、天理ファッションモールがあり、説明会会場はその裏手にあった。「前栽」駅から徒歩15分ほどの距離だった。

理市教育委員会は、長年にわたって平等坊・岩室遺跡の発掘調査を行ってきた。第29回目となる今回の調査は、民間の土地区画整理事業に伴う事前調査で、昨年の10月から実施している。調査対象となったのは、遺跡内部の方形区画から南西方向に50mほど離れた約1000平米の長方形の土地である。

付のテントで来訪者名簿に記帳し、説明会の資料を受け取ると、発掘現場を見てみた。今回の現場は、すでに調査が完了した後に建てられた高層マンションの前にあった。この現場も、いずれ埋め戻された後に同じような建物が建つのだろう。

だ時間が早かったせいか、見学者の数はそれほど多くなかった。畦(あぜ)道で正確に区切られた田んぼのような発掘現場の淵に立って、見学者たちは発掘跡の様子を思い思いにカメラにおさめていた。


各時期の環濠と自然河道
各時期の環濠と自然河道(NR)・方形区画・
区画溝の位置関係(説明会資料より転記)
布された説明会資料の末尾に、一枚の図面が挿入されていた。そこには、弥生時代の各時期における環濠と自然河道(NR)の変遷が描かれている。自然河道を取り込んだ集落地域が時代とともに拡張し、それに従って環濠が何回も作り替えられ外側に押し出されていった様子がよく分かる。

後1時ちょうどに現場説明が開始された。ハンドマイクを片手に、発掘現場の中央に立たれたのは、天理市教育委員会の発掘責任者である技術吏員・青木勘時(あおきかんじ)氏である。青木氏は見学参加者を飽きさせない話しぶりで、今回の調査の成果で得られた知見を、次の3点に集約して説明された。


の弥生集落で最初に築かれた環濠と思われる弥生前期の大溝が、これまで考えられていた弥生時代前期の環濠よりもさらに内側で見つかった。また時期的にも先行して出現したことが判明した。この周濠は第26次調査区で見つかった北東から南西に流れる自然河道から出土した弥生時代前期前半の土器群が捨てられた時期には、すでに機能していたと考えられる。これが、新しく得られた知見の第一である。

回の調査区の中央から東よりの地区で、南北と北東方向に弧状に巡る複数の区画溝が検出されたが、これらの溝が方形区画よりも時期が遡る前身的な区画部分を区切る溝であることが判明した点だ。つまり、弥生時代後期末に環濠集落内の微高地に出現する首長の居宅区域よりも以前に、弥生時代中期末ごろから集落内の微高地を囲む区画部分が形成されていった。このことは、とりもなおさず古墳時代に向けての社会変革を示す現象として理解できるという。これが新しい知見の第二である。

弥生時代前期の溝 方形区画が出現する前段階の区画溝
弥生時代前期の溝 方形区画が出現する前段階の区画溝



破壊された鍬形石は、”権力者の葬送儀礼に関わる貴重な資料”(?)

河岸の古墳時代前期の土器集積と土坑群 鍬形石が出土した土坑
河岸の古墳時代前期の土器集積と土坑群 鍬形石が出土した土坑


模型を片手に説明する青木氏
模型を片手に説明する青木氏
後に青木氏が強調されたのは、河岸時代前期の土坑の中から出土した鍬形石と出土土坑の意義付けである。調査区北辺の河岸にはうち捨てられた土器が集積しており、また円形の土坑群が列をなしている。その土坑の一つから鍬形石が出土した。青木氏は、模型の鍬形石を片手に、当時の発掘状況を克明に説明された。

土した緑色凝灰岩製鍬形石は、表面に石理方向に縞模様を装飾的に残されていて、鍬形石が盛行していた段階に製作された形式である。しかし、鍬先に当たる下端の板状部分を欠いていた破片だった。その大きさは幅9cm、高さ11.5cm、厚さ3cmである。製作途中の失敗品として廃棄されたものと思われたが、どうもそうは言い切れないらしい。

形石の破片は、わざと割った形跡がある留式土器片と一緒に、川縁の同じ土坑(直径約50cm、深さ約50cm)に埋まっていた。これらの布留式土器は4世紀前半のものであり、したがって鍬形石が埋められた時期が特定できる。それだけではない。周辺遺構から炭化材や焼土を伴う複数の皿状の土坑や、土器集積遺構なども見つかっている。そこで、青木氏は、北方の方形区画にあった居宅で権力者が死んだとき、その居宅を望むこの河岸で普通は古墳に納める鍬形石を使って葬送の儀式を営み、鍬形石を壊して埋めたのではないかと推定された。

古墳前期の土坑群 鍬形石と布留敷き土器の共伴出土状況
古墳前期の土坑群 鍬形石と布留敷き土器の共伴出土状況

まり、青木氏の想定によれば、この場所は住宅地域にあった祭祀の場であり、土器や鍬形石を祭祀の一環として打ち欠いて埋葬したことになる。石野博信・徳島文理大教授(考古学)は、野辺の送り的に川縁で夜に火を焚いて、鍬形石を割る儀式が行われた可能性を指摘しておられる。今回の鍬形石は、古墳からの出土品ではなくて、学術調査によって明らかに集落跡から出土した。集落跡からの出土事例は、今回が奈良県はもちろん全国的に見ても初めてだそうだ。しかも、青木氏の想定が正しければ、当時の権力者の葬送儀礼を解明する今後の貴重な資料になる。

後に青木氏はマスコミに公表されなかった新事実を明らかにされた。鍬形石の板状部分を綺麗に割るための工夫として、切れ目が入れてあり、一撃で割れるようにしてあったとのことだ。その板状部分はまだ見つかっていない。現地説明会の後に、土坑をさらに掘り下げて見るそうだ。ひょっとしたら、同じ場所からまた出てくるかもしれない。



2007/01/22作成 by pancho_de_ohsei
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