圃場
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| 関津遺跡付近のマップ |
木津町を過ぎて、木津川にかかる泉大橋を渡ると山城町に入る。泉大橋と呼ばれるゆえんは、木津川が昔は泉川と呼ばれていたからである。「開橋」の交差点を過ぎたあたりで、国道は木津川の右岸の堤防を走るようになる。木津川の流れも、その向こう岸の彼方に連なる山並みも、川霧や山霧に隠れて単調なモノトーンの景色を見せていた。
国道24号線の脇にあるウワナベ古墳付近から計測して約15kmで、城陽市の南の外れにある山城大橋の「橋東詰」交差点に着く。Aはハンドルを右に切って国道307号線に入った。北東に延びるこの国道は、街道沿いの古びた家並みの間を抜けて、徐々に山道にかかっていく。山霧のため視界はあまり効かないが、この付近ではまだそれほど高い山は無いようだ。
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| 関津遺跡の近くを流れる瀬田川 |
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| 発掘調査事務所 |
現地説明会が行われた発掘現場はすぐには分からなかった。幸い、瀬田川の河岸で車を止めた場所の近くで、工事車両の交通整理をしている若者がいた。発掘のことは知らなかったが、トラックが何台も隊列をなして停まり、ショベルカーなどが置かれている場所を指さして、多分あそこでしょう、と教えてくれた。
若者が教えてくれた場所は、滋賀県農政水産部が行っている圃場(ほじょう)整備事業の現場だった。関津遺跡の発掘調査は、この圃場整備に伴い平成15年4月から今年までの予定で実施されてきた。調査で見つかった道路跡や掘立柱建物跡の現場説明が行われたのは、昨年10月7日である。2ヶ月も過ぎているため、予想した通り、調査地域はすでに埋め戻され、整備事業が進められていた。目の前の光景を見ただけでは、どの当たりに幅18mの官道が走っていたのか見当もつかない。
ちょうど昼休み時で、駐車場に止めた車で休息していた作業員に声をかけると、駐車場脇の発掘調査事務所へ案内してくれて、一人の人物を紹介してくれた。事務所には彼一人しか居らず、名前も役職も聞くのを忘れた。仮にYさんとしておこう。
「どのあたりに、田原道があったのか知りたいのですが・・・」
と、迷惑がられないかと訝りながら話を切り出すと、Yさんは親切にも資料を揃えてくれて、現場まで案内してくれた。
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| 発掘現場から南を望む | 発掘現場から北を望む |
雨は上がっていた。だが、圃場整備で掘り返された水田地帯の中の道はぬかるんでいた。Yさんは道路跡が見つかった付近までくると、遠方の目印になる建物などを指し示して、道路が築かれていた方向などを説明してくれた。彼がいなかったなら、埋め戻された跡地に立っても、発掘時の様子など想像できなかっただろう。彼の説明は本当に有り難かった。
付近は、瀬田川左岸の平野部から田上山系北麓の低丘陵地にかけて広がる水田地帯である。発掘現場にたって四方を見渡すと、遠方に低い山並みが続く盆地の中心にいるような印象を受ける。一通り周囲の景観を確認した後で、最初の質問を彼にぶつけてみた。
「なぜ、このような場所に幅が18mもある直線道路が築かれたのでしょう?」
Yさんは、つぎのように簡単な前置きをした。
「まず、前回の発掘で出土したのは70mほどに過ぎません。過去の発掘で検出された部分も含めて約250mの直線道路が見つかっています」
そして、次のように続けた。
「この道をまっすぐ北へ延ばすと4.5km先のあの丘陵にぶつかります」
Yさんは、ぼんやり霞んでみえる瀬田丘陵を指さした。
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| 見つかった道路跡と掘立柱建物跡 | 関津遺跡の遺構分布図(部分) |
「あの丘陵には、当時の役所である近江国庁(おうみこくちょう)がありました。その西側にある瀬田唐橋を渡ると、藤原仲麻呂が造営を計画したと伝えられる保良宮(ほらのみや)がありました」
「ということは、都の朱雀通りのように、国庁または保良宮を荘厳に見せるための仕掛けだった?」
「必ずしもそうとばかりは言えません。道路の両側で、約60棟の掘立柱建物跡が見つかっています。また建物に付随する井戸も8基検出されました。建物の形や規模には若干ばらつきがありますが、これらの建物は道路の方向を意識して、道路に沿って整然と配置されています。しかし、一般の住居とはすこし様相が違っています。多くの土師器や須恵器に混じって、墨書土器や龍の形をした硯(すずり)、風字硯、木沓(きぐつ)といったものも出土しています。瓦の量は多くないですが、近江国庁などから出土する瓦と同形式のものが出土しています。これらのことを併せて考えると、「近江国庁」や「保良宮」に関係した公的施設、たとえば官衙(かんが)だった可能性もあります」
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| 関津遺跡の発掘現場から瀬田丘陵を望む |
では、南側はどのあたりま続いているのだろうか。18m幅の田原道が関津峠を越えて、かっての北陸道との合流地点まで続いていたのだろうか。車で通ってきた山道を思い返すと、その可能性はまずない。せいぜい関津峠の手前の平坦部までであろう。そのことを確認しようとしているとき、横からAが質問した。
「道路はいつ頃造られたのですか?」
「よくは分かりません。道路沿いの建物から出土した土器などから、8世紀中頃から9世紀中頃にかけて機能していたことは確実です。しかし、少量ですが8世紀初め頃の須恵器のかけらも見つかっています。だから、道路の敷設時期は8世紀初めまでさかのぼるかもしれません」
「この遺跡の近くには、藤原京や東大寺などの建築材を切り出したとされる田上山(たなかみやま)がありますね。正倉院文書には、輸送を管理した「田上山作所」(たなかみさんさくしょ)の記述もあるそうです。すると、この遺跡付近は、田上山から切り出した材木を集めて、筏に組み、瀬田川の川下に流す物流の拠点だったことが考えられますね」
「仰る通りです。「近江国庁」や「保良宮」に関係した公的施設が作られる以前は、そうした物流センターだったかもしれません」
ただし、田上山は、現在の大津市上田上・田上から大石・竜門の広い範囲が想定されるようだ。
最後に、Yさんは面白い話をしてくれた。関津の語源である。関津の「津」は港を意味する。琵琶湖の湖水は瀬田川を通って流れ出るが、この付近の瀬田川の水位は琵琶湖の水位とほとんど変わらないそうだ。琵琶湖を往来する大型船も、昔は貨物を積んでこの付近まで下ってくることができた。したがって、関津は瀬田川を下ってくる川船の港だった。ただし、ここから下流へは船は航行できない。瀬田川は県境を越えて京都府に入ると宇治川と名前を変えるが、山間を抜ける間に激流がいくつもある。
では関津の関は何か。一般には関所と解されている。近江国は交通の要衝で、周囲に三つの大きな関所があることで知られる。越前に出たところに愛発の関が、美濃に出たところに不破の関が、そして伊勢に出たところに鈴鹿の関がある。関所はもともと反乱者などが地方に脱出するのを食い止めるために設けられたものである。では東山道にも関所はあったのだろうか。近江の入口に関があったという話はあまり聞かない。
そこで、Yさんは、関津の関はもともと瀬田川の「堰」(せき)ではなかったかと想定しているという。田上山から切り出した建築材を筏に組むためには、堰を設けて材木が勝手に下流に流されないようにしなければならない。つまり「堰のある港」が関津の語源ではないか、というのがYさんの考えである。あるいは妥当な推測かもしれない。時期はずれに突然訪れた我々に対して、労を惜しまず付き合ってくださったYさんに礼を述べて、その場を立ち去った。
近江国府の巨大な官衙を偲ばせる近江国庁跡
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| 近江国庁跡に建つ「近江国衙跡」碑 |
「せっかく大津まで来たのだから、ついでに近江国庁跡(おうみこくちょうあと)と保良宮(ほらのみや)をみていこう」
と、A君は雨上がりの県道29号線を北に向かって走らせた。瀬田川の左岸に築かれた県道は、壬申の乱で有名な瀬田の唐橋までほぼ一直線に続いている。
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| 近江国庁跡付近の地図 |
奈良時代から平安時代にかけて、当時の栗田郡勢多(せた)に所在した近江国の国府は方八町におよぶ広大な敷地を有していたとされている。現在の大津市大江3丁目、6丁目、三大寺に広がる平坦な丘陵の上である。その中央南よりの地点に位置していた国庁の発見は、昭和38年(1963)にこの地で工事中に大量の瓦が発見されたことがきっかけである。翌昭和39年(1964)から二年越しで実施された発掘調査によって、近江国庁の建物の配置がほぼ明らかになった。その遺構が現在、近江国庁跡として国の史跡に指定されている。
地図で確認すると、「唐橋東詰」交差点で右折して県道29号線から16号線に入れば、伝説上の英雄・日本武尊(やまとたけるのみこと)を主祭神として祀る近江一宮・建部大社(たけべたいしゃ)の東に近江国庁跡がある。だが、建部大社の近くまで来ながら、運転するA君の顔に明らかにイライラの表情が浮かんできた。国指定史跡のはずなのに、道の何処にも史跡方面への標識が見あたらないのである。アクセスする道が分からないまま行きすぎて、東海道新幹線の高架下まで来てしまった。
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| 史跡公園として整備が進んでいる近江国庁跡 |
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| 瓦積基壇遺構 |
住宅街の狭い生活道路を抜けて、やっと建部大社の裏手にでることができた。だが、また道に迷った。すこし引き返して、高層住宅が建ち並ぶ団地の中に入り、店員が教えてくれたコンビニを見つけた。そこで、やっと史跡の所在を確認できたが、相変わらず車ではアクセスできず、近くに駐車場もないという。近くの雇用促進住宅の中の適当な場所に車を駐車して、徒歩でアクセスするしか方法はないとのことだった。車でアクセスできず、しかも近くに駐車場すら設置していない国指定史跡って、いったい何なのだ、とA君がいきまいた。
教えられた通りにコンビニの前の坂道を上り交差点に出た。交差点の先がまだ地道の坂道になっていて、その先が雇用促進住宅の敷地に続いている。雇用促進住宅の敷地と史跡を区切る金網のフェンスの側に車を止めて、史跡の中に入ると、だだっ広い広場の中央付近に近江国庁跡を示す「近江国衙跡」碑が立っていた。その碑の先に、建物の一つを復元したような休憩所があった。休憩所の壁には、発掘当時の様子や近くの関連遺跡を紹介するパネルが何枚も懸けられていた。
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| 近江国庁復元イメージ |
上記の遺跡の左隣には、同じように築地塀で囲われた敷地があり、その中央に東西に長い大型建物が1棟建てられていた。面白いことに、この建物の基壇は瓦積みではなくて、全国的にも類例が少ない東西23.9m、南北13.3mの木製外装基壇だった。さらに周囲には玉砂利が敷かれていて、ここから出土した遺物から、国司が宴会を催した場ではないかと考えれている。
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| 国司が宴会を催した建物跡? | 木製外装基壇に囲われた建物遺構 |
国府とは、天皇を中心とする律令制が施行されていた当時、地方支配のために各国に設置された役所である。その中心となる行政施設が国庁で、現在の県庁や裁判所の役目を果たしていたとされている。発掘された国庁跡は、地方官衙の典型を示すものとして、その後の国府研究の進展に大きく寄与したと言われている。
近江国府の成立は8世紀の初頭とされている。和銅元年(708)3月、正五位下の多治比真人水守(たじひのまひと・みずもり)が国府の長官に任命されたことが史書に記載されている。国府の廃絶は、明徳3年(1392)8月の赤松近江守源則春を最後の国守として、南北朝の動乱の中で終焉したものと推測されている。
そんな中にあって、天平17年(745)9月に近江守に就任した藤原仲麻呂は天平宝字2年(758)6月まで、14年という異例の長さで在任していたことが分かっている。光明皇后の贔屓で位人臣を極めた仲麻呂が、その権力維持のためにいかに近江を重視していたかが伺い知ることができる。
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| 惣山遺跡遠望 | 春江遺跡 |
近江国庁の真南に、谷を挟んで国庁と対峙する場所に青江遺跡(あおえいせき)がある。ここでは、築地塀に囲われた敷地内に、北向きに建てられた大型建物の跡などが見つかっている。周辺から多くの瓦や食器類が見つかっていることから、中央から派遣されてきた国守の館だった可能性が指摘されている。
関津遺跡に見つかった幅18mの直線道路は、まっすぐ北に延びて青江遺跡の前を通り近江国庁の中門に続いていたと考えられる。惣山遺跡と青江遺跡は国庁に付随する施設の跡として、現在「近江国庁跡附(おうみこくちょうあとつけたり)惣山遺跡・青江遺跡」の名で国の史跡に指定されている。
奈良時代の中頃、半年足らずの宮都だった保良宮
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| 保良宮の礎石だと言われている「へそ石」 |
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| 幻住庵跡付近マップ |
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近江には、天智天皇の近江大津宮や聖武天皇の紫香楽宮(しがらきのみや)、孝謙上皇・淳仁天皇の保良宮などが営まれたことが知られている。不思議なことに、いずれの宮もその所在地が最近までまったく分からなかった。 壬申の乱で廃都となった大津宮の所在は、大津市内の錦織(にしこうり)、南志賀、滋賀里などさまざまな地域が候補に挙がりながら特定するには至らず、長い間”幻の大津宮”とされてきた。宮の中心となる内裏正殿の建物跡が見つかって、所在地が確定したのは昭和53年(1978)になってからである。 紫香楽宮の所在地も、大正15年に甲賀寺址が間違って史跡紫香楽宮に指定されて、その状態が長い間続いてきた。実際の紫香楽宮の跡地として近年注目されているのは、甲賀寺址から2kmほど北の宮町遺跡である。昭和58年(1983)から、信楽町教育委員会が本格的な宮町遺跡の発掘調査を行なっていて、平成15年(2003)までに第31次調査が行われ、建物跡や塀、溝をはじめ、土器類、木製類、種子類、木簡などが多数発見された。 保良宮に関しては、天平勝宝9年(757)7月に橘奈良麻呂の変を鎮圧した藤原仲麻呂が、翌天平宝字2年(758)に右大臣に就任して政界の主導権を握ると、その翌年の11月に保良宮の造営担当者を任命したことが分かっている。宮の造営は順調に進んだようで、2年後の天平宝字5年(761)10月には、孝謙上皇と淳仁天皇が保良宮に行幸してそのまま滞在している。そして、平城宮を改造するため、しばらく近江保良宮に遷都することを宣している。 この時点では、造営工事は一段落していたと見られるが、工事そのものは継続して進められたようだ。ところが、天平宝字6年(762)の5月になると、上皇と天皇が道鏡をめぐって不和になり、二人とも平城宮に戻ってしまった。保良宮は、当時の政権担当者であり、近江国の国守も兼ねていた藤原仲麻呂が中心になって建設が進められた宮である。しかし、造営からわずか3年ほどで廃都となってしまい、実質的には半年足らずの宮都にすぎなかった。
だが、上皇と天皇が行幸する以前に藤原仲麻呂その他の要人の邸宅はすでに完成していたはずである。国昌寺は遷都以前から宮内に存在していた。石山寺の造営も宮の造営と平行して行われていた。したがって、保良宮はすでにかなりの規模と体裁を整えていたはずだ。大津市国分付近には、洞神社とか洞山と称される山があることから、保良宮も国分台地付近に造営されたと推定されているが、古文献に詳しい記述がないため、その所在地がいまだに確定していない。
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瀬田の唐橋を渡りきると、A君は車をそのまま直進させ、2つ目の信号「北大路」でハンドルを左に切った。ドライバーの勘というやつだろう。大筋で方向は間違っていなかった。だが、地図にも出ていない史跡(?)の所在は、やはり地元に人に聞くのが一番だ。たまたま停車したのが消防署の前だった。地域の地理に最も熟知している場所である。
少し図々しいと思ったが、思い切って敷地内に車を乗り入れ、玄関脇の受付で声をかけた。消防署の敷地に入り込んで道を聞かれるケースはほとんどないのか、受付の職員は最初戸惑った様子だったが、そのうち同僚たちにも声をかけ、詳細な地域マップを広げながら場所を探してくれた。だが、誰も「へそ石」の事など聞いたことがないという。バスの国分団地終点付近を克明に調べてくれても、地図に表示されていない。
唯一の手がかりとして、芭蕉の「幻住庵」の南にあるらしいと言うと、幻住庵までの道筋を早速書いてくれた。しかし、幻住庵の南は山の中で何もないという。結局、幻住庵近くの住人にもう一度確かめるよう勧めてくれた。名神高速道路をまたいだ後、手書きで書いてくれた通りに車を走らせたら、幻住庵の前に到達することができた。幻住庵を通り過ぎてバス停のあるロータリまで行ってみたが、付近は住宅街で人通りがない。結局、分からずじまいのまま、幻住庵の駐車場まで戻り、幻住庵を見学して帰ることにした。
駐車場に車を止めていると、たまたま近所の女性が犬の散歩に出てきたので、「へそ石」の所在を聞いた。最初は分からないとの返事だったが、そのうちロータリの先を数軒行った家の角にそのような石を見たことがある、と思い出してくれた。もう一度、ロータリまで戻り、その先を歩いて進んだら、4軒先の家の角にその石は置かれていた。念のために、道路脇の電柱で確認すると、このあたりの番地は国分(こくぶ)二丁目16となっていた。
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| 注意しなければ通り過ぎてしまう史跡 | 平面が円形が加工されている礎石 |
斜めに土の中に潜り込んだ巨大な石の表面を見ると、確かに丸柱を建てられるように円形に加工してある。石の側に立てられた大津市教育委員会の案内板には「ほらの前の礎石」とあり、この石をへそ石と呼ぶのは通称である。案内板には次のように書かれている。
”この石は、その大きさから塔の心柱を支える礎石ではないか、と言われています。しかし、あまりにも巨大であるため、はたして実際に使われたかどうか疑問があります。ここに寺があったことを証明するものが、なにもないからです。
奈良時代、この地周辺は国昌寺や国分寺、また、淳仁天皇の保良宮などがあった場所でもあり、そのどれかにあたるかは断定できません。
このように不明な点も多いのですが堂々たる礎石の姿はみごとで、この地の歴史を語るうえにおいて見逃すことができない存在です。”
このへそ石がある国分団地付近は、瀬田川の西岸におよそ200mほどの幅で舌状に延びている国分台地の上である。近くの晴嵐小学校付近は、白鳳期や奈良時代中期から平安時代にかけての瓦や土器類が出土していて、石山国分遺跡と呼ばれている。東海道新幹線建設の際に、この遺跡の発掘調査が行われ、東西に延びる礎石の列や瓦が出土する溝が見つかっている、さらに大津市教育委員会が平成3年から4年にかけて行なった調査でも、大規模な礎石建物や掘立柱建物の遺構が見つかったという。所在が分からなかった保良宮も少しずつ実態を現してきているようだ。
近津尾神社
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| 幻住庵周辺案内図 |
案内図に描かれている鳥居は、実は近津尾神社の二の鳥居である。一の鳥居は、はるか離れた住宅街の交差点の脇にある。その鳥居の横に神社の由緒書きを記したまだ新しい案内板が立てられている。それによると、この神社は主祭神として誉田別尊、すなわち応神天皇を祀っている。この種の由緒書きには珍しいことに、その冒頭に創立年代は不詳と堂々と断っている。しかし、『石山寺記録中之三』には、承安3年(1173)に後白河院が石山寺へ行幸された際に、石山寺座主の公裕僧都が命を受けて誉田別尊を勧請し石山寺祈願と奉崇した、とある。
それ以来、石山寺の寺領であったときは、建物はすべて領主から寄進されてきた。膳所領となっても、元和7年の菅沼織部から安政3年の本多下総守まで、代々社領として田一反伍畝、山林五丁余りを寄進されて今日に至っているという。
明治42年、国分新田の洞神社、雨壺神社を合祀し、大正3年には国分西山の山神神社も合祀して、現在の社殿に改められた。境内には元禄年間俳聖芭蕉が移り住み俳句をよんだゆかりの幻住庵が再興され、毎年秋には盛大に幻住庵祭が地元の人々によって行われるとのことだ。
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| 近津尾神社の二の鳥居 | 近津尾神社の神門 |
二の鳥居から先は、午前中の雨で濡れた石段の表参道が、鬱蒼と茂った樹木の間を縫って長々と続いている。三曲二百歩と、芭蕉も「幻住庵記」の中で記している石の階段を登り切ると、神社にしては珍しい、武家屋敷の門のような瓦葺きの神門が立っていた。その門をくぐれば神社の神域であり、門をくぐらずに横道に逸れれば、芭蕉が逗留したという幻住庵を再興した庵がある。
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| 近津尾神社の本殿 | 近津尾神社の境内に立つ幻住庵跡碑 |
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| 森川許六筆「芭蕉行脚図」 |
芭蕉はこの地の美景と気候、殊に山中での暮らしが気に入ったようである。ここでの生活の様子や、自分がこれまで辿ってきた俳諧道への心境、人生観、 当庵の環境や素晴らしさを、『おくの細道』と並ぶ俳文の傑作とされる「幻住庵記」の中で述べている。「幻住庵記」は”石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。・・・”書き出しで始まり、末尾は次の句で終わっている。
●先ず頼む 椎の木も有り 夏木立
現在の幻住庵の建物はは平成3年(1991)に新築されたものである。その庵への登り口に、「幻住庵記」の原文が書かれた記碑がある。 長さ約2m ほどの大きな碑で、芭蕉の俳諧七部集の一つ「猿蓑」の初版本に掲載された幻住庵記の全文を陶板で復元したものである。「猿蓑」は向井去来と野沢凡兆が編集した蕉門の句集である。芭蕉は元禄4年(1691)の5月と6月に京都に滞在し「猿蓑」撰の監修をしている。彼が江戸の芭蕉庵に戻ったのは、その年の秋である。
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| 幻住庵の門 | 幻住庵のたたずまい |
幻住庵の門をくぐると、その奥に茅葺き屋根の古めかしそうな庵があった。しかし、古めかしいのは外見だけで、玄関を上がると奥にテレビ付きの居間があり、電気ごたつが据えられていた。蛍光灯が吊された八畳ほどの和室には句会で読まれた歌が書き出され、床の間には森川許六の筆になる「芭蕉行脚図」の掛け軸が懸けられていた。縁側に出てみると周囲こ木立は、芭蕉が詠んだように椎の木が多い。