西暦538年に建都された百済最後の王都・泗沘城百済は馬韓諸国のなかの伯済国が楽浪郡の滅亡(313年)を転機として周辺諸勢力をとりまとめ、4世紀中ごろには国家の体をなすようになったと推定されている。最初の都・漢城(かんじょう、ハンソン)は、現在の首都ソウルを貫流する韓国の母なる大河・漢江の南に置かれた。西暦475年、漢城は高句麗の攻撃を受けて落城し、蓋鹵王をはじめ大后、王子らは皆敵の手にかかって殺害されてしまった。しかし、王族の一部が南に逃れてソウルから120kmほど南にある熊津(ゆうしん、ウンジン)を都とした。現在の公州(コンジュ)である。
その遷都の候補地とされたのが、熊津から錦江を下った現在の扶餘(プヨ)で、直線で30kmほどのところにある。第24代東城王は、泗沘(しひ、サビ)の西の原に出かけてしばしば狩りを行っている(490年、501年)。おそらく、新都予定地の下見をかねて出かけたものと推測される。 韓国の史書『三国史記』によれば、百済の第26代・聖王の16年(538)春、都を泗沘に遷し、国名を南扶餘とした、と伝えている。熊津城は結局475年から538年までの63年の短い王城に過ぎなかった。因みに、聖王は我が国では聖明王の名で呼ばれ、我が国に仏教を伝えた百済王として知られている。 泗沘城は、西暦660年に新羅と唐の連合軍によって百済が滅亡に追い込まれるまで133年間百済の最後の王都として栄えた。善信尼が尼僧として故郷の泗沘城に戻ってきたのは、遷都してちょうど50年目のことである。 西暦584年、大臣の蘇我馬子は、鹿深臣(かふかのおみ)と佐伯連(さえきのむらじ)が百済から持ち帰った石仏二体を譲り受けると、高句麗の還俗僧・恵便(えべん)を播磨から招いて仏法の師とした。そして、司馬達等の娘・嶋(しま)と漢人夜菩(あやひとやぼ)の娘・豊女(とよめ)、錦織壺(にしこりのつふの娘・石女(いしめ)の三人を得度させ、それぞれを善信尼(ぜんしんのあま)、禅蔵尼(ぜんぞうのあま)、恵善尼(えぜんのあま)と名乗らせた。そして自宅に東に作った仏殿に安置した仏を祀らせた。
だが、彼女たちは正式の受戒して尼となった訳ではない。そこで、3年後の587年、彼女たちは、蘇我馬子に次のように願い出た。 たまたま百済の貢調使が来朝していたので、馬子は使節が帰国する船で善信尼たちを留学させ受戒させてやろうとした。だが、使節は国王の正式な許可を得てからの方が良いだろうと勧告した。翌588年、百済使が本格的な仏教寺院建設のために百済王に対して要請していた僧や寺工、鑪盤博士、瓦博士らを伴って再び来朝し、百済王から留学僧の受け入れを受諾した旨伝えた。こうして、善信尼など5人の尼僧は帰国する百済船に便乗して百済に渡ることになった(注 『元興寺縁起』は善信、禅蔵、恵善の他に、信善、善妙の名を伝えている)。『日本書紀』はそれが588年のいつ頃の時期だったか記していない。おそらく秋風が吹き出す前の夏の終わりだったと思われる。
西に向かう船はやがて全羅南道の多島海に入る。左右に大小の島影を見ながら進んだ船はやがて、半島の西南に位置する珍島(チンド)の沖を回り西海岸に入る。西海岸も相変わらず島の多い海域であるが、すでに百済の領海である。善信尼たちは、明るい日差しが降り注ぐ甲板に出て、次々と近づいてきては遠ざかる無数の島影をあかず眺めて、多島海の美しさを満喫したにちがいない。 全羅北道の群山(グンサン)市のある半島の岬をまわれば、錦江の河口に出る。この河口に広がる海域は、我が国では白村江(はくすきのえ)と呼んできた古戦場である。善信尼たちはあずかり知らぬことだが、75年後の西暦663年の8月27日、百済復興のために派遣された倭の水軍400艘が、この海域で唐と新羅の連合水軍170艘と遭遇して海戦となった。戦力で2倍以上の優位に立っていたはずの倭の水軍だが、相手の巧みな鋏み撃ちに戦術あい、軍船はことごとく炎上してあっけなく壊滅してしまい、大多数の倭の兵は逃げる余裕もなく溺死するというありさまであったという。 錦江の川幅はひろく、水量は多く、ゆったりと流れる一級河川である。河口から王都の泗沘城までは、40kmほど錦江を遡らなければならない。当時の海洋船がそのまま錦江を遡航できたかどうかは不明でる。おそらく河口の港で川船に乗り換えたであろう。 帆に風を受けてゆっくりと遡航する川船の両岸には、豊かな水田地帯が広がり、その向こうに緩やかな山並みが続く。そうした穏やかな風景に視線を投げながら、善信尼は故郷に戻ってきた喜びをかみしめたにちがいない。やがて彼女の視線は、舳先の向こうに緑に覆われたなだらかな小山を捕らえた。泗沘城の北にそびえる海抜106mの扶蘇山である。 |
善信尼たちが見た王都・泗沘城
475年に高句麗の攻撃を受けていったん滅亡した状態になった後、文周王が南に逃れて熊津を王都と定めた。しかし、熊津は仮の都という意識が強く、早い時期から計画的な王都の建設が模索されていた。候補地として選ばれたのは、熊津と同じく錦江に面した下流で、直線距離で30kmほど離れた扶餘の地だった。北から流れてきた錦江が扶蘇山にぶつかり、大きく西側に円弧をなして南に回り込んで流れ下る。この錦江の流れは、言ってみれば水の城壁である。したがって、東に羅城を築けば、防備の面で完璧な王都を築くことができる。さらに、北にそびえる扶蘇山に非常時の逃げ込み城として山城を築けば万全である。
このとき築造された扶蘇山城は包谷式山城である。現在は百済時代の建造物は残っていないが、池の跡や軍倉跡などが発掘されている。統一新羅時代以降に、従来の城壁の一部を利用しつつ、北西峰と南東峰に鉢巻式山城(左の図では黄緑の線)が造られ、さらに朝鮮時代初期に軍倉址の西側に城壁(青線)が築かれたことが判明している。 錦江(この付近では白馬江と呼ばれた)を遡航する船の上から、善信尼たちは扶蘇山の中腹を帯のように連なる城壁を望見できたはずである。明るい日差しの下で、乾いた土塁はおそらく白く輝いて見えたであろう。視線を下にずらすと、山の麓の斜面に築かれた王宮区の建物群が見えた。さらにその下側には市街地が広がっていた。市街地の一画には、今は母の妹の家族が住んでいるかっての我が家がある。「やっと帰ってきた・・・」6年ぶりに泗沘城の家々を目にして、善信尼の瞳には懐かしさと安堵でうっすらと涙が浮かんでいたであろう。 扶蘇山城の内部で、竪穴住居址や掘立柱建物址、瓦積み基壇建物址、貯蔵用竪穴、井戸址、集水設備、木柵などが確認されている。いずれも百済時代に作られたものである。だが、山城は非常の際の逃げ城であって、王族をはじめとする人々は山城の中に住んでいたのではない。王宮は扶蘇山の南側の山麓に営まれ、官北里(クアンプンニ)遺跡あたりが、王宮のあった一帯とされている。王や都の人々の居住地を外敵の侵入から守るために、羅城が築かれた。 1991年以降数次に渡って実施された発掘調査によって、羅城の全体構造や築造年代が分かってきた。現在までに得られた知見では、東羅城は扶蘇山城の築造時期の527年頃から着手して、554年から567年の間には完成したものと推定されている。
意外なことに、百済の都城では羅城が築かれたのは泗沘城が初めてだそうだ。西羅城と南羅城に関しては、発掘調査が不十分なため存在が確認されていない。錦江の河岸にあたるため、あるいは木柵を設ける程度で版築による本格的な土塁は作られなかったのかもしれない。 ところで、泗沘城の正門はどこにあったのだろうか。現在確認されている羅城の門址は東門だけである。後の時代のことだが、660年に百済が滅亡するとき、百済軍は都城を出て扶餘の東の破陣山という所で、唐・新羅連合軍との最後の一戦を試みる。だが、破陣山の戦いに勝利した連合軍は敗走する百済兵を追って東門から王城に入ったとされている。つまり、泗沘城は東門から国内各地の陸路とつながっていたと思われる。 だが、泗沘城の西や南に接して錦江が流れ、百済は水路によって中国本土や倭国と通交していた。現在までのところ、港の址はまだ見つかっていないが、城の西あるいは南に必ずや桟橋や港の倉庫群があったはずである。川風を帆一杯に受けて錦江を遡航して来た川船は、ゆっくりと桟橋に繋留され、乗客たちは船と桟橋の間に渡された分厚い板を危なっかしい足取りで渡って上陸した。その中に、長い船旅をしてきた善信尼たちの姿があった。難波の津を船出しておそらく二ヶ月はかかったであろう。善信尼は出迎えの人々の中から知人の顔をいくつも見つけた。思わず駆け寄って再会を喜ぶ姿は、今も昔も変わらない。 善信尼が泗沘城に戻った588年は、百済の第27代威徳王の治世35年にあたる。先代の聖王は554年秋7月、新羅を撃つために自ら歩兵と騎兵を率いて出陣したが、伏兵に待ち伏せされて手傷を負い、在位32年で薨じた。王位を継いだ威徳王はその長男である。 威徳王は中国の北朝と南朝に対して両面外交を展開し、即位14年目あたりから毎年のように朝貢使節を派遣している。581年に隋が建国すると、すぐに使節を送り、隋の皇祖文帝から「上開府儀同三司帯方郡公」に冊封されている。善信尼たちが泗沘城に到着した翌年、隋が南朝の陳を平定すると、漂着した隋の軍船が帰国するとき使者を派遣して、陳を平らげたことを祝賀している。そのため高祖はいたく喜び、わざわざ毎年入貢するには及ばないと詔書を発している。
羅城の中の市街地は五部五巷(ごぶごこう)という区画で区切られていたようだ。すなわち、山城および王宮区の南に、後部(北部)・中部・前部(南部)があり、東側に上部(東部)、西側に下部(西部)の5部があり、各部の中にはそれぞれ前・中・後・上・下の巷があったとされている。 高句麗の都城も新羅の都城も条坊制に基づく区画があったが、百済にはそれがない。百済が目標とした中国南朝の都・建康(現在の南京)にも条坊制はなかったが、巷があった。当時の中国で巷があったのは建康だけである。したがって、泗沘城は建康をモデルにした中国的な都作りが行われたものと推定されている。 善信尼が旅装を解いたのは、かって司馬達等の一家が住んでいた下町の家だったであろう。達等の一家が倭国に移り住むとき、善信尼の母の一家がその家を引き継いだ。その家が何処に所在していたかは定かでない。だが、彼女はこの家で生まれ15歳までの少女時代をここで過ごした。狭い路地の奥にある大壁建物の部屋に入ると、昔馴染んだ懐かしい匂いがした。倭国での波乱に富んだ6年間がまるで嘘のような気がした。 |
扶餘で発掘された百済時代の寺院址
百済の仏教は中国の南朝から伝えられた。『三国史記』によれば、枕流王元年(384)7月、王は東晋の孝武帝の許に王位継承と伝える使者を派遣した。その2ヶ月後に、胡僧の摩羅難陀(まらなんだ)が東晋から百済に遣わされた。枕流王は摩羅難陀を宮内に迎え礼敬したという。翌年には、百済の最初の都があった漢山(韓国のソウルの地)に仏寺が建立され、十人が出家し僧となった。 しかし、上記の記述以外、6世紀まで仏教関連の記述は見あたらない。百済で仏教が隆盛を見るようになったのは6世紀に入ってからのようだ。武寧王(在位501 - 523)と聖王(在位 523 - 554)の時代、盛んに南朝の梁と通交している。梁の創始者武帝(在位 502 -549)は世に知られた仏教信者で、仏教を深く信仰し、みずからを「三宝の奴」と称して盛んに仏寺を建立した。梁の最盛期には226の寺があったとされる。梁はさながらこの世に仏教王国を実現させた観があった。したがって、百済が多くの僧侶や造寺・造仏の技術者を梁から招き、逆に多くの逸材を梁に派遣して仏教を学ばせたことは容易に想像できる。 一方、聖王4年(526)、沙門謙益がインド求法の旅から帰ってきた。謙益は中インドの常伽那大律寺で梵文を学び、律部を研究してインド僧・倍達多三蔵とともに梵文の阿毘曇蔵、五部律文を持って帰国し、これを翻訳した。そのとき、曇旭、恵仁は律疏36巻を著した。これにより百済律宗が確立されたとされている。
泗沘城内外で建立された仏教寺院で、創建時期が判明あるいは推定されているのは、陵山里寺、定林寺、王興寺、弥勒寺ぐらいしかない。ほとんどの寺は寺の名前すらも分かっておらず、遺構が出土した地名で呼ばれている。 百済に渡った善信尼たちは590年3月に帰国するまでの約1年半、これらの寺のいずれかに住んで、戒律の作法や仏典を学んだはずだ。残念ながら、どの寺で勉学に勤しんだかは分からない。主な寺址について発掘調査から得られた知見を整理すると次のようになる。 陵山里寺址(ヌンサンニサヂ)陵山里寺址は陵山里(ヌンサンニ)古墳群の近くにある。古墳群の駐車場造成のために1992年に試掘調査をして発見された。1993年には西回廊の工房跡の中央房から金銅大香炉(国宝第287号)が、1995年には当塔心礎の上から百済昌王銘石造舍利龕(しゃりがん)(国宝第288号)が出土したことで知られる。
発掘調査によって、3間x1間の中門が11.6mx7.5mほどの基壇の上に建っていたことが判明している。中門の正面には、一辺が11.73mの二重基壇の上に、柱間3間x3間の木塔が塔が建ち、塔心礎石の上に花崗岩製の舎利龕が横たえたまま見つかった。また、その周囲からは、地鎮具あるいは供養具と思われる金板、銀板、金糸、金環、金堂環など多くの遺物が出土したが、舎利容器はすでに盗掘されていた。金堂址は柱間が5間x3間で、基壇に二重基壇を採用していた。講堂跡の基壇は37.4mx18mで、中央の通路を基準に東室と西室の二房に区分されていた。
陵山里古墳群と羅城の間に位置するこの寺は、西暦567年に建立された。なぜ建立時期が特定できるかというと、木塔心礎石に埋納されていた花崗岩製舎利龕の前面の龕室の左右面に、それぞれ10字ずつの銘文を右から左へ刻字されていた。
588年にこの地に修行にやってきた善信尼たちは、間違いなく陵山里寺の堂宇を仰ぎ見たことがあるはずだ。あるいは、1年半の修行をこの寺で行ったかもしれない。 軍守里寺址(クンスニサヂ)
中門址から北へ83尺(25m)ほど離れたところに、センを積み上げた一辺46尺(13.8m)の正方形の塔の基壇があった。この基壇の上に木の塔がそびえていた。塔址の中央には、地下約6尺(1.8m)に一辺3尺1寸(90.3cm)の方形の心礎石が置かれ、その上から金銅仏像(宝物第330号)、蝋石仏坐像(宝物第329号)、土製後背片、金環、小玉などが見つかっている。 金堂址では約90尺(27m)x60尺(18m)の瓦積み基壇が見つかった。東・北・西の三方では平瓦を立てて積んであり(垂直横列式瓦積基壇)、南側では横に重ねて積んであった(合掌式瓦積基壇)。確認された礎石と柱痕跡から見て、金堂は東西9間、南北5間の建物だったと推定されている。 講堂跡でも平瓦の列が検出され、瓦積基壇であったことが確認されている。伽藍の中央を走る南北線から東西両側にそれぞれ115尺(34.5m)ほど隔てて扁平な石が敷かれていて、回廊跡と推定されている。なお、講堂の東西両側でも経楼と鐘楼の址と思われる基壇が見つかっている。しかし、韓国では経楼や鐘楼は8世紀頃から造られ始める。 定林寺址(チョンニムサヂ)
定林寺址は、扶餘邑東南里、すなわち現在の扶餘の中心地に位置する百済の代表的な寺跡である。五重石塔(国宝第9号)と高麗時代の高さ5.62mの石仏座像(宝物第108号)が残っている。講堂跡は現在木造瓦葺き建物に復元されていて、内部に再建当時の高麗初期に造像された昆慮遮那の石仏座像が一躯残っている。
中門は三軒x一間の大きさで、13.1mx7.8mの盛り土の基壇の上に建てられていた。五重石塔は高さ8.33mを測る。基壇は二重基壇で4本の隅柱と各面二枚ずつの板石で組み立てられた塔身上には屋蓋石(おくがいせき)が載せられている。金堂は、南北軸先から西方向の約24cmずれている。15.15mx10.2mの石造りの二重基壇の上に建つ建物の柱間は5間x3間だった。
五重石塔は以前は「平百済塔」と呼ばれた。初層の塔身に「大唐平百済国碑銘」と題額のある碑文が刻まれているためだ。唐・新羅連合軍が百済の都・泗沘城を平定し寺院を破壊したとき、勝利の記念に刻んだとされている。冒頭の日付から660年の滅亡の年に刻まれたことがわかる。 王興寺址(ワンフンサヂ)
1934年に「王興」銘のある瓦が出土して、現在の位置が比定された。1946年には高麗時代の石仏坐像も発見されている。2000年から毎年発掘調査が行われていて、すでに百済時代の創建伽藍の東西回廊址と寺域南辺の石垣、木塔址と推定される建物址の一部が確認されている。 こうした発掘成果をもとに伽藍配置を推定すると、寺域の規模は東西回廊の最大幅は58.7m、南北長は80と思われ、陵山里寺址と規模や形態が類似している。王興寺址の南辺では石築とともに、その下に低湿地が確認された。この場所が船着き場だったのではと推測されている。つまり、王興寺は錦江の川岸に位置し、武王がしばしば船に乗って王興寺を訪れ、その南辺に船をつけたものと思われる。 2005年と2006年の調査では、寺域の東側で百済時代の窯跡が10余基発見された。ここの窯で王興寺の瓦が焼かれたと推定されている。 その他の百済時代の寺址
●東南里寺址
●佳塔里(カタムニ)寺址
●金剛寺(クムガンサ)址
●天王寺址
●西腹寺(ソプクサ)址
●犀蘭寺(コランサ)
●扶蘇山(プソサン)廃寺址
●益山弥勒寺(イクサンミルクサ)址
●扶余邑東の寺址 |
帰国した善信尼
彼女たちが帰国したとき、明日香の真神原は蘇我の氏寺を建立するための整地作業が真っ最中だった。傾斜した土地を平らにするため多くの人夫が働いていた。蘇我本宗家がその枝氏や配下の渡来系氏族からかき集めた人夫たちである。その年の10月、山に入って材木を切り出す作業も開始された。飛鳥川や冬野川から流されてきた木材が、貯木のために築かれた池に運び込まれた。 木材だけではない。建物の基壇の外壁となる石や柱の礎石となる石の切り出しや加工も始まった。真神原の周囲には作業人たちの宿舎に当てられた多くの小屋が設営され、飯炊き女たちが黄色い声を張り上げながら忙しそうに働いていた。善信尼が桜井寺の庭先から眺める真神原は、まるで戦場のようだった。 そうした喧噪を横目で見ながら、善信尼は帰国した年に多くの人を出家させた。その中には大伴狭手彦連の娘・善徳や大伴狛の夫人ら11人の名が伝わっている。さらに、善信尼の兄の多須奈(たすな)もこの年出家して徳斉法師と名乗った。 善信尼の帰国から6年後の596年、蘇我馬子の悲願だった仏教寺院が完成する。馬子は「仏法興隆」の願いを込めて、寺号を「法興寺」とした。竪穴住居や掘立柱住居くらいしか知らなかった当時の人々にとって、礎石の上に立つ朱塗りの柱や、緑の連子窓、目にも眩しい白壁の各堂宇やその屋根で日差しを反射して輝く甍は、まさに別世界だった。天高くそびえる五重塔の頂点には金色の相輪が輝き、軒先に吊した風鐸が風が吹くたびに妙なる音色を奏でている。蘇我氏の権勢を象徴するようなモニュメントの完成に、人々は驚き、その姿を見て馬子は我が意を得たりとほくそ笑んだ。 この飛鳥寺の完成を見て、多くの有力氏族は蘇我氏の技術協力を仰ぎ、それぞれの氏寺建立に奔走した。推古天皇32年(624)9月、それぞれの寺および僧尼を調査して、詳細にわたる各寺の縁起や僧尼の出家の理由、出家の年月日を記録させた。『日本書紀』の記載によれば、その時の寺の数は46,僧816人、尼569人、合計1385人だったという。善信尼たちが百済から帰国して34年のことである。 善信尼が存命であれば、この年57歳である。蘇我馬子もまだ74歳で生きていた。彼に死が訪れるのは、それから2年後5月20日である。年老いた老政治家と年老いた尼僧は何かの機会に顔を合わせることもあったであろう。二人はこの仏教の盛況にどんな感慨を抱き、何を語り合ったであろうか。 |
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参考文献:
2007/01/16作成 by pancho_de_ohsei |