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| 池上曽根史跡公園内に復元されている掘立柱建物群 (2007/01/08 撮影) |
池上曽根史跡公園の目玉は、大型掘立柱建物と大型くり抜き井戸
実際に確認されている池上曽根遺跡は、南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がり、その総面積は約60万平米にも達するという。本格的な発掘調査が開始されたのは昭和44年(1969)、第二阪和国道(現在の国道26号線)の建設が計画されたのがきっかけである。発掘の結果、重要な弥生遺跡であることが判明し、昭和51年(1976)に11.5万平米が国の史跡に指定された。 平成2年(1990)からは池上曽根遺跡整備委員会による発掘調査が続行され、平成7年(1995)には上に述べたように>大型掘立柱建物>と大型くり抜き井戸が発見された。さらにこの年、「歴史ロマン再生事業」と称する文化庁の補助事業で、公園化のための第一期整備事業がスタートした。平成13年(2001)にこの整備事業が完了し、その結果、池上曽根遺跡の2000年前の大環濠集落を再現した史跡公園が地上に出現した。 史跡公園の付帯設備として、池上曽根弥生情報館と池上曽根弥生学習館が設けられている。公園の入口のすぐ右手にある弥生情報館は、この遺跡の情報発信センターとして機能し、公園案内所を兼ねている。立ち寄って見たが、なぜか本日は閉館になっていた。弥生学習館は史跡公園に隣接して建てられている。池上曽根遺跡を通じて、地域の歴史を学び、弥生人の文化・生活に触れるための体験学習を行なうための施設だそうだ。平成13年(2001)5月に開館したという。 公園の中央部分は、ほぼ円形のフェンスで囲われ、その中に数棟の掘立柱建物とくり抜き井戸が復元されている。掘立柱建物は大型のものが一棟、小型のものが数棟ある。その他にも、環濠や竪穴住居跡、祭祀遺構などが公園内に復元されている。しかし、この史跡公園のハイライトは、なんと言っても巨大な大型掘立柱建物と大型くり抜き井戸であろう。
平成7年(1995)に発見されたこの大型掘立柱建物と大型くり抜き井戸は、従来の弥生時代のイメージを一変させたと言って良い。 集落の中央に建てられた掘立柱建物はなにしろ巨大だった。東西10間(19.2m)、南北1間(6.9m)、床面積133平米の大きさを持ち、太さ60cm前後の柱が26本も使われていた。17本残っていた柱根の一本を年輪年代法で鑑定した結果、伐採年が紀元前52年だったことが判明した。伐採されてすぐに利用されたと仮定した場合、この大型掘立柱建物の築造時期は紀元前1世紀半ばということになる。 建物の使用目的は集会場だったのか、あるいは神殿だったのか不明である。現在、両方の妻側に独立棟持柱をもつ、壁のない高床式建物として復元されている。屋根裏が二階になっていて、「いずみの高殿」と命名されたこの復元建物は、高さが11mもある。 大型掘立柱建物と同じ時期に、建物の南側で1本のクスノキの丸太を刳り抜いた丸い枠を持つ井戸が出土した。残っていた木枠の直径は約2.3m、高さは約1mだった。井戸の周囲に柱穴があったことから、この井戸には覆屋があったことも確認された。発見時も絶えず水が湧いていたという。この井戸は実用的なものではなく、神聖な儀式に用いられたのでは、と推測されている。「やよいの井戸」と命名されたこの井戸は、現在寄せ木で復元されている。現在では直径が2.3mにも達するようなクスノキは存在しない。
紀元前5世紀中頃、中国大陸の長江流域や山東省付近から北部九州へ渡ってきた渡来系弥生人は、水稲耕作技術を中心とした生活体系を日本列島に伝えたとされている。弥生時代のはじまりである。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したようだ。弥生時代早期に北部九州に現れた水田は、弥生時代前期中葉には東北へと伝播していたことが、発掘調査で判明している。 紀元前300年ころに弥生人が池上・曽根地域に住み着いて水田耕作を始めたとすると、九州北部から吉備などの瀬戸内海地方を経由して、この地に弥生文化が根付くのにせいぜい100〜150年しか要していない。ものすごいスピードである。瀬戸内海を東に向かって水稲農耕を広めてきた新人種は、大阪湾の突き当たりに水耕稲作に適した場所を見つけた。彼らは集団で移り住み、共同で水田の開発や用水の建設を行い、余剰作物の生産と蓄積に精を出した。冬枯れしただだっ広い史跡公園の中程に立って耳を澄ますと、弥生人たちの活気ある話し声が風に乗って聞こえてくるような錯覚を覚えた。 弥生人は、水田耕作だけに勤(いそ)しんでいた訳ではない。彼らは弥生土器を作り、住むための竪穴住居を作り、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作り、居住地から少し離れて別の場所に墓地を作った。やがて、ムラの中に貧富の差が生まれ上下関係が生まれた。さらに、水田に使用する土地の拡大争いと水争いが主な原因となって、他のムラとの争いが起こるようになると、敵の襲撃からムラを守るための環濠が幾重にも周囲に築かれるようになった。この地を居住地とした弥生人の集団は、多くの争いを通して大型化し、紀元前後には王を頂点に頂く小さなクニに発展していったにちがいない。その王の居宅があったと思われる場所が集合の中心から見つかっている。 |
池上曽根史跡公園に隣接する大阪府立弥生文化博物館
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| 弥生文化博物館の正面−1 | 弥生文化博物館の正面−2 |
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| 触れて体感できる本物の弥生土器 |
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| 貫頭衣を着て弥生人になって館内見学 |
来館者が弥生文化の遺物に直に触れて体感できるように、この博物館では第一展示室の入口前に本物の弥生土器の破片やレプリカの石斧、石包丁、木製の鍬などが置かれている。通常は、博物館に展示された土器や石器、木製品は貴重な出土品であり、見学者が手に触れることは原則として許されない。だが、ここではお触り自由である。弥生土器の破片を持ち上げてみたが、意外にズシリと重量感があった。
第一展示室の入口前には、弥生人が着ていた貫頭衣も置かれていた。それを着て、弥生人になったつもりで館内を見学できるという。試みに貫頭衣を頭からかぶり荒縄を腰に巻き付けてみた。館内の女子職員から「似合ってます」と煽てられて、そのまま館内を見学することにした。時代をさかのぼるタイムトンネルを通過すれば、第一展示室に導かれる。この展示室のテーマは目で見る弥生文化。竪穴住居の中で4人家族が食事食事をしている団欒風景が微笑ましかった。
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| 竪穴住居での団欒風景 |
第二展示室は一転して池上曽根遺跡からの出土品を中心に池上曽根遺跡の全貌を示す部屋である。国内最大の大型井戸木枠(レプリカ)や大型建物の柱に加え、龍や建物が描かれた土器やヒスイの勾玉など数々の品が展示されている。
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| 人面土器@ | 人面土器A |
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| 人面土器B | 頸に舟を描いた壺 |
特別展示室では、「新発見考古速報展 発掘された日本列島2006」が開かれていた。2005年度中に発掘調査された主な遺跡の出土品を巡回展示している文化庁の催しである。筆者は昨年の6月、江戸東京博物館でこの展示を見学している(平成18年6月20日付け橿原日記参照)。鶴見山古墳から出土し武装石人や百足塚(むかでづか)古墳出土の人形埴輪らと、半年ぶりに再会できた。
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| 鶴見山古墳から出土し武装石人 | 百足塚古墳出土の人形埴輪 |