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| 小田急電車の車窓越しに見た霊峰大山。手前は東名高速自動車道 (2006/0101 撮影) |
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神奈川県の伊勢原市は、昨年市制施行35周年を迎えた人口10万都市。そのシンボル的存在は、市の北西にそびえる霊峰・大山(おおやま)とその山上に鎮座する大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)。今年の初詣は娘のたっての希望もあって、江戸時代から「大山詣で」または「大山参り」で知られるこの阿夫利神社にした。 由緒書きによれば、大山阿夫利神社は第10代崇神(すじん)天皇のころに建てられたとされている。事実ならば、ずいぶんと古い由緒ある神社ということになる。だが、この神社が栄えるようになったのは、おそらく奈良時代の中頃に、良弁(ろうべん)僧正が山腹に大山寺を開山したことが大きな要因となっているはずだ。山頂に神社を、山腹に寺院を構えることで、大山は山全体で神仏一体の信仰の対象となった。
●時により すぐれば民の なげきなり 八大竜王 雨やめたまえ 大山が全国的に有名になったのは、大山詣で(おおやまもうで)が盛んになった江戸中期ころとされている。江戸の庶民が2泊3日くらいで出かけられる大山は、便利な行楽地だった。大山詣でが隆盛を極めた宝暦年間(1751〜1764)には、1シーズンに20万人もの参詣客が訪れたという。 その大山へ、我が家からは電車とバスとケーブルカーを乗り継いで3時間足らずで行くことができる。幸い関東地方の元旦は雲一つない青空で明けた。風もなくそれほど寒さを感じさせない絶好の天候に恵まれたので、娘とワイフの付き人として、「大山詣で」をしてきた。以下はその備忘録である。 [参考]大山阿夫利神社のホームページ |
初詣で賑わう阿夫利神社下社の境内
由緒書きによれば、阿夫利神社の創始は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の頃までさかのぼるという。その真偽は別として、標高1252mの大山の山頂にある神社は、延喜式神名帳にも登載されている式内社である。丹沢山系の中でもピラミッド型のひときわ美しい山容を誇る大山は、別名を雨降山(あふりやま)とも言う。相模湾を渡ってくる海風が大山の山腹をはい上がり山頂付近で雲を呼び雨を降らせるという。そのため、大山は雨乞いに霊験あらたかな山とされ、古来より山嶽神道の根源地とされてきた。 天平勝宝7年(755)に良辯(ろうべん)僧正が入山して、不動堂を建立した。以来、山全体が神仏一体の信仰の対象となり、多くの堂宇が建てられ、霊石の由縁をもって石尊大権現と称し、雨降山大山寺と号するようになった。平安時代は朝廷の保護を受け、鎌倉時代以降は多くの武士が武運長久を祈願してこの山を参詣した。徳川時代には、三代将軍家光は、18万両の巨費を献じて、本社以下、摂社末社を改築し、実に12坊8大坊でもって一山を取り仕切らせることにしたという。 古典落語の傑作『大山詣り』で知られるように、江戸時代の中期には多くの人々が江戸から参拝して繁栄した。人々は「雨乞い」「豊漁」「航海安全」「商売繁盛」「家内安全」といった現生利益を願ったという。だが、安政年間の大火で全山が灰燼に帰してしまい、以前の盛観はまったく無くなってしまった。崇敬者の努力によってなんとか再建に努力してきたが、明治初期の神仏分離によって激しい廃仏毀釈に会い、大山寺が廃止され、旧の阿夫利神社となった。大山寺は女坂の途中に移転され、現在は大山不動明王を本尊として祭っている。 本殿の横に、江戸幕末・明治初期の国学者・医者・神道家だった権田直助(1809 - 1887)の銅像がある。埼玉県下呂町の漢方医の子として生まれた権田直助は、天保8年(1837)に平田篤胤に入門し、神道を基礎とした皇朝医学を唱えた。文久2年(1862)には、上京して尊皇討幕に奔走した。明治6年(1873)に大山阿夫利神社の祠官となり、一時は静岡県三島神社の宮司も務めたことがある。 本殿と銅像の間に「大山名水入口」とかかれた標識があった。階段を降りて中に入っていくと、湧き水が泉を作っていた。その脇の作られた龍の口から出る湧き水を手桶で汲んで飲むことができる。一口飲んでみたが、味音痴にはさして旨い水とも思えなかった。
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女坂を下って大山寺に向かう
当初の予定では、下りのケーブルカーで途中の「不動前」駅まで降り、大山寺に立ち寄って下山することになっていた。ところが、トイレの近くに立っていた標識を見て、娘が歩いて下山しようと言い出した。標識には、「女坂 大山寺15分 追分 30分」「男坂 追分 20分」とある。男坂を利用すると大山寺には立ち寄れないが、女坂からは徒歩15分程度の下り道である。 その15分という道のりに、娘は気持ちが動いたらしい。阿夫利神社下社から大山寺まで杉木立の山道を15分程度の歩きで下れるなら、大したことはない、と判断したようだ。どうやら娘の頭には、一昨年の二月に阿波を巡礼したときの経験が残っていたようだ。だが、その判断ミスが未曾有の経験を我々老夫婦にもたらすことになる。
そこで、女坂と男坂の合流地点まで上ってきて、大汗を拭きながら一息入れている中年男性に聞いてみた。大山寺までの下りにどれくらい時間がかかりそうかという問いに対して、彼の答えが軽妙だった。 女坂の下り口に立って、ワイフがまず絶句した。思わずつんのめりそうな急な石段が、はるか下に向かって延々と連なっている。しかも、切石を積んだ石の階段ではない。付近の山石を集めてきて階段風に積み上げただけの石の道である。石段の幅は見た目にも狭い。そのため、カニのように横歩きで下りなければならない箇所が随所にある。 それでも、下り始めの場所には手すりがあった。それも途中から無くなった。娘は身が軽いのかどんどん石段を下りていくが、普段から運動不足のワイフはそうはいかない。しかし、両親に手をつながれて下から昇ってくる幼稚園児の姿を見て覚悟を決めたのか、一段一段カニ歩きでゆっくりと下り始めた。 史跡探訪であちこち出かけている筆者は、山寺で結構急な石段の参拝路を上り下りした経験がある。四国遍路では、第12番札所の焼山寺からの下りの遍路路は急な階段の下り坂だった。金剛葛城山系の稜線をダイトレで縦走したときも、けっこう厳しいアップダウンの坂道を経験した。だが、目の前の急坂は今までの坂道とは違った恐怖感を抱かせた。なにせ石段の幅が狭いのである。場所によっては、靴のつま先が石段からはみ出してしまう。慎重の上にも慎重な足の運びが要求された。 15分で到達できるはずの大山寺までの坂道に、結局倍近い30分を要した。もっとも、女坂の途中に点在する「女坂の七不思議」で足を止めて、休み休み下りてきたせいもある。たとえば最初に出会った七不思議は眼形石(めかたいし) だった。人の目の形をしたこの石に触れると目の病が治ると言われている。次に出会ったのは、潮音洞(ちょうおんどう)。洞(ほこら)に近づいて心を鎮めて耳を澄ますと潮騒が聞こえるという。こうした「女坂の七不思議」は、弘法大師が岩に杖を突いて出た水で、夏でも枯れないという1番目の弘法の水(こうぼうのみず) まで続く。
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大山不動尊を本尊として祭る真言宗大覚寺派の古刹・雨降山大山寺
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| 雨降山大山寺の正面 | 本尊の不動明王像と制吁迦童子・矜羯羅童子 |
急峻の石段がやっと平坦な地道に代わったと思ったら、真言宗大覚寺派の古刹で雨降山(あぶりさん)と号する大山寺の横に出た。この寺の創建は古く、東大寺の初代別当だった良弁(ろうべん)僧正が、奈良時代の天平勝宝7年(755)に開山したのが始まりとされている。
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| 大山寺の本堂 |
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| 宝筐印塔 |
良弁の後を継いだのは、行基の高弟だった光増和尚である。光増は大山全山を開いて山の中腹に諸堂を設けた。さらに弘法大師空海が当山に入り数々の霊所を開いて、大山七不思議と称される霊地信仰を確立した。また、日本古来の信仰を大切にし尊重すべきとの空海の言葉に従って、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存に心がけて手厚く神社を保護したと伝えられている。
元慶3年(879)、大地震によって全山が灰燼に帰したが、天台の安然和尚が伽藍を再興して、華厳・真言・天台の三宗兼学の道場とした。これにより、大山は丹沢山系の中心道場として各地に知られ、別当八大坊、僧坊十八院、末寺三、御師三百坊の霊山として栄えた。
しかし、その後大山寺は寂れた。文永年間(1264 - 1274)になって、鎌倉胡桃谷大楽寺の願行上人が再興し、文永11年(1274)には鉄造不動明王と二童子像を鋳造して安置した。それが、現在国の重要文化財に指定されている本尊の不動明王像と制吁迦(せいたか)童子・矜羯羅(こんから)童子像である。
大山不動の御利益にあずかろうと、鎌倉時代より多くの武将や庶民がこの寺に参拝した。江戸時代には春日局(かすがのつぼね)が慶長9年(1604)9月に、家光が将軍になることを大山不動に祈願するため当山に参詣している。元和元年(1616)4月には、大阪夏の陣の戦勝を謝するため家康の代わりに代参し、家光が将軍職を継いだ後も、家光の子授け祈願のためや竹千代(4代綱吉)誕生の折にも参詣している。
大山寺は、もともと現在の阿夫利神社下社のある場所に築かれていた。しかし、明治初期の神仏分離により大山寺が廃止され元の阿夫利神社に戻ると、本堂が女坂の途中に移転された。現在は大山不動を本尊として祭る真言宗大覚寺派の寺として存続している。本尊の大山不動は、成田山新勝寺の成田不動、高幡山金剛寺の高幡不動とともに関東三不動の一つに数えられ、毎月8の付く日に御開帳が行なわれる。また、大山寺は関東三十六不動の1番札所となっている。
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| 大山寺正面に石段に並ぶ童子たち |
宝筐印塔の横に鐘楼があり、「除夜の鐘 祈願」と書かれた看板が立っていた。昨晩の午後11時半から、希望者は除夜の鐘を打たせてもらえたようだ。鐘楼の前に「かわらけ道場」があった。大山寺開山1250年を祈念して設けられたもので、”厄除け”と書かれた直径6cmほどの素焼きの皿を崖下に向かってなげると厄除けに効くそうだ。
女坂を下って来たため気づかなかったが、下から上がってきたら、大山寺の正面の参道は両脇に童子の像が並ぶ石段である。さまざまな童子が置かれていて一種異様な雰囲気を漂わせていた。
昼食は少し遅くなったが、参道脇の和風食堂で豆腐の懐石料理風のお膳を頼んだ。大山と言えば、手作りの豆腐料理が名物として広く知られていて、多くの旅館や食堂が豆腐料理を売りにしている。大山詣での参拝者が増えるにつれて、初期のころの木賃宿が次第に旅籠(はたご)に変わり、先導師たちが食べていた精進料理である豆腐料理が、人々のもてなし料理になっていったとされている。大山名水で作る豆腐の味は格別らしい。だが、ほとんどの旅館や食堂は一軒の豆腐専門店から仕入れているとのことだ。
店を出るとき、「大山登山マラソン」のポスターが目についた。3月の第2日曜日、伊勢原駅北口から阿夫利神社下社までの9km、標高差650mのレースが開催されるという。全国各地から健脚自慢が参集するとのことだが、あの恐怖の階段を走って上る連中もいるのかと思うと、背筋に寒気が走った。