橿原日記 平成19年1月1日

初詣は”大山詣で”で知られる大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)

小田急電車の車窓越しに見た大山
小田急電車の車窓越しに見た霊峰大山。手前は東名高速自動車道 (2006/0101 撮影)


奈川県の伊勢原市は、昨年市制施行35周年を迎えた人口10万都市。そのシンボル的存在は、市の北西にそびえる霊峰・大山(おおやま)とその山上に鎮座する大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)。今年の初詣は娘のたっての希望もあって、江戸時代から「大山詣で」または「大山参り」で知られるこの阿夫利神社にした。

緒書きによれば、大山阿夫利神社は第10代崇神(すじん)天皇のころに建てられたとされている。事実ならば、ずいぶんと古い由緒ある神社ということになる。だが、この神社が栄えるようになったのは、おそらく奈良時代の中頃に、良弁(ろうべん)僧正が山腹に大山寺を開山したことが大きな要因となっているはずだ。山頂に神社を、山腹に寺院を構えることで、大山は山全体で神仏一体の信仰の対象となった。

国定公園「大山」のイラストマップ
国定公園「大山」のイラストマップ
夫利神社はすでに平安時代から朝廷の庇護(ひご)を受けていたという。武士の世になってますます盛んになり、鎌倉幕府を開いた源頼朝をはじめ、室町幕府を開いた足利尊氏、戦国時代の小田原北条氏など多くの武士もこの山を信仰した。次の歌は、鎌倉三代将軍の実朝が大山の山神に献じた歌として知られている。
●時により すぐれば民の なげきなり 八大竜王 雨やめたまえ

山が全国的に有名になったのは、大山詣で(おおやまもうで)が盛んになった江戸中期ころとされている。江戸の庶民が2泊3日くらいで出かけられる大山は、便利な行楽地だった。大山詣でが隆盛を極めた宝暦年間(1751〜1764)には、1シーズンに20万人もの参詣客が訪れたという。

の大山へ、我が家からは電車とバスとケーブルカーを乗り継いで3時間足らずで行くことができる。幸い関東地方の元旦は雲一つない青空で明けた。風もなくそれほど寒さを感じさせない絶好の天候に恵まれたので、娘とワイフの付き人として、「大山詣で」をしてきた。以下はその備忘録である。

[参考]大山阿夫利神社のホームページ



電車とバスとケーブルカーを乗り継いで阿夫利神社下社まで

阿夫利神社下社の境内からの展望
阿夫利神社下社の境内からの展望

奈川県中央部、丹沢山地の東南に位置する大山は、相模平野から一気に立ち上がる標高1252mの勇壮な山である。丹沢大山国定公園に属し、古くから山岳信仰の霊山として人々の信仰を集めてきた。大山阿夫利神社は、大山の山嶺に築かれた三社からなる。本社は大山祗大神(オオヤマツミノカミ)を祀り、摂社奥社に大雷神(オオイカヅチノカミ)が、また前社に高オカミノ神(タカオカミノカミ)が祀られている。

神の大山祗大神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子で、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の父とされる神だ。山の神、海の神、田の神として神代の昔から信仰されてきた神である。海の神とされたのは、大山が海上遠くからも遠望でき、漁民たちによって古くから航海の目印としてきたためとされている。

山祗大神を祭る本社は阿夫利神社下社(しもしゃ)と通称され、摂社の奥社と前社は阿夫利神社本社と呼ばれている。標高1252mの大山山頂に位置する本社は、下社から90分を要する登山道の果てに鎮座していて、一般の参詣客が普段の服装で足を伸ばすにはいささか厳しい。そこで、下社に参詣した後少し下に位置する雨降山大山寺(あぶりさんだいせんじ)を参拝する予定で、朝の8時前に自宅を出た。


小田急線「伊勢原」駅
小田急線「伊勢原」駅
「伊勢原」駅前に立つ大鳥居
「伊勢原」駅前に立つ大鳥居
飲食や土産物、宿が両脇に並ぶ参道
飲食や土産物、宿が両脇に並ぶ参道
坂道の踊り場の数を表す「こま」のタイル
坂道の踊り場の数を表す「こま」のタイル

宅のある川口から新宿に出るには、JRの武蔵野線と埼京線を乗り継げば、1時間足らずで行くことができる。元日の朝の車内はどの電車も意外と思えるほど空いていた。荒川を渡る埼京線の車窓から、久しぶりに富士の秀麗な姿を望むことができた。9時1分に新宿駅を出る小田急電車の急行に乗ると、ちょうど1時間で「伊勢原」駅に着いた。駅の北口を出て、先ず人目を引くのは、駅前道路を挟んで、商店街の入り口に建っている鳥居である。阿夫利神社が市のシンボルになっていることを如実に表しているモニュメントである。

ス停の前で一人の老婆が、神奈川中央バスの「大山ケーブル駅」行きの切符を売っていた。阿夫利神社下社までの道のりを聞くと、
「終点の大山ケーブル駅まで、バスでおよそ25分、そこから土産物屋や豆腐料理の店などが軒を連ねる門前町を通り抜けるのにおよそ15分、それから大山ケーブルの「追分」駅から「不動前」駅経由で「下社」駅まで約6分、そして「下社」駅から下社まで歩いて3分」
という返事が返ってきた。


山ケーブル行きバスは、伊勢市内を抜けると、大山上粕屋線を走りながら高度をあげて行く。上粕屋地区には、「道灌塚前」バス停がある。その近くに、江戸城を築いたことで知られる太田道灌(おおたどうかん、1432 - 1486)の墓(首塚)が、大慈寺の境内にあると聞いていた。晩年の道灌は、扇谷・山内両上杉家の対立抗争に巻き込まれ、主君である扇谷定正に謀られて、文明18年(1486)7月26日、糟屋の館で暗殺されたという。 時に道灌55歳。江戸城はその後徳川家康が入城し、改修されて大きくなった。


大山ケーブル駅」はバスの終点だが、そこから大山観光電鉄が経営する大山ケーブルの「追分」駅までは、飲食店や土産物屋、旅館などで両脇を埋め尽くした参道が長々と続く。しかも大山川の狭い渓谷沿いの参道はかなりの急坂である。そこで、10段ほどの石段を登るごとに踊り場が設けてあり、石段と踊り場が交互に配されている。「追分」駅までの踊り場は全部で27あるという。それぞれの踊り場には、大山の代表的な土産物である「大山こま」をデザインしたタイルで順序が示してある。大きいこまは10の数を表し、小さいコマがそれぞれ1の数を表している。たとえば、右の写真は15番目の踊り場であることを示したタイルである。

道脇の旅館には、「先導師」と書かれた標識を掲げたものがある。先導師はもともと大山で修行をしていた修験者だった。彼らは戦国時代に、小田原北条氏と結び付いて僧兵の性格を持つようになっていった。徳川幕府を開いた家康は、彼らの力を危惧して下山を命じた。山を下りた修験者たちは、全国各地を歩き、大山講(こう)というグループを作り、御師(おし)となって盛んに大山詣でを勧めたという。実は、江戸時代に大山詣でが隆盛をみた背景には、こうした先導師の働きがある。大山講の御師となった彼らは、参拝者のために多くの宿坊を作った。それが現在の旅館のルーツとされている。


大山ケーブルの「追分」駅
大山ケーブルの「追分」駅
山上駅に到着するケーブルカー
山上駅に到着するケーブルカー
山ケーブルの「追分」駅(山麓駅)は標高およそ400mの高さにある。ケーブルカーは、ここから「下社」駅(山上駅)までの勾配長786m、高低差278mを所要時間6分で客を運ぶ。営業時間は初電が朝の9時、終電が16時30分(休日は17時)で、20分間隔で動かしている。本日は初詣のために、早朝3時半から運行しているとのことだ。

客を腹一杯飲み込んだ一両だけのケーブルカーはゆっくりと山の斜面をはい上がっていく。途中の「不動前」無人駅で下りのケーブルカーとすれ違った。

下社(しもしゃ)」駅は標高679mの高さにある。ケーブルカーを降りると、伊勢原の市街地や相模平野、さらにはその向こうの相模湾が、「下社」の参道から一望できる。空は晴れていたが、残念ながら下界は霞んでいて、相模湾の水平線ははっきりと見定めることができなかった。実は、標高1252mの大山の頂上は見晴らしが良くて、神奈川の景勝50選にも選ばれているとのことだ。空気の澄んだよく晴れた日には、南に相模平野・江ノ島・相模湾、東に東京の新宿高層ビル、北に塔ノ岳(とうのだけ)など丹沢山塊の山々、西に富士山が眺めらるという。だが、山頂は下社からさらに500mの急な山道を登らなければならない。



初詣で賑わう阿夫利神社下社の境内

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初詣で賑わう阿夫利神社下社の境内

新しく作り替えられた石の参道
新しく作り替えられた石の参道
阿夫利神社下社の境内
阿夫利神社下社の境内
下社」駅から歩くこと数分、新しく作り替えられた石段の前に出る。朱色で寄贈者の名前を彫り込んだ石柱が累々と続く石段を登ると、天下太平、国土安稔と大書された鳥居が建っていて、その先に巨大な本殿が聳えている。本殿前の広場には大きな茅(ち)の輪が置かれていた。その輪をくぐり抜けて、昨年の間に犯した罪や穢れをぬぐって、拝殿で一年の願い事を祈念するという仕組みになっている。

緒書きによれば、阿夫利神社の創始は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の頃までさかのぼるという。その真偽は別として、標高1252mの大山の山頂にある神社は、延喜式神名帳にも登載されている式内社である。丹沢山系の中でもピラミッド型のひときわ美しい山容を誇る大山は、別名を雨降山(あふりやま)とも言う。相模湾を渡ってくる海風が大山の山腹をはい上がり山頂付近で雲を呼び雨を降らせるという。そのため、大山は雨乞いに霊験あらたかな山とされ、古来より山嶽神道の根源地とされてきた。

平勝宝7年(755)に良辯(ろうべん)僧正が入山して、不動堂を建立した。以来、山全体が神仏一体の信仰の対象となり、多くの堂宇が建てられ、霊石の由縁をもって石尊大権現と称し、雨降山大山寺と号するようになった。平安時代は朝廷の保護を受け、鎌倉時代以降は多くの武士が武運長久を祈願してこの山を参詣した。徳川時代には、三代将軍家光は、18万両の巨費を献じて、本社以下、摂社末社を改築し、実に12坊8大坊でもって一山を取り仕切らせることにしたという。

典落語の傑作『大山詣り』で知られるように、江戸時代の中期には多くの人々が江戸から参拝して繁栄した。人々は「雨乞い」「豊漁」「航海安全」「商売繁盛」「家内安全」といった現生利益を願ったという。だが、安政年間の大火で全山が灰燼に帰してしまい、以前の盛観はまったく無くなってしまった。崇敬者の努力によってなんとか再建に努力してきたが、明治初期の神仏分離によって激しい廃仏毀釈に会い、大山寺が廃止され、旧の阿夫利神社となった。大山寺は女坂の途中に移転され、現在は大山不動明王を本尊として祭っている。

殿の横に、江戸幕末・明治初期の国学者・医者・神道家だった権田直助(1809 - 1887)の銅像がある。埼玉県下呂町の漢方医の子として生まれた権田直助は、天保8年(1837)に平田篤胤に入門し、神道を基礎とした皇朝医学を唱えた。文久2年(1862)には、上京して尊皇討幕に奔走した。明治6年(1873)に大山阿夫利神社の祠官となり、一時は静岡県三島神社の宮司も務めたことがある。

殿と銅像の間に「大山名水入口」とかかれた標識があった。階段を降りて中に入っていくと、湧き水が泉を作っていた。その脇の作られた龍の口から出る湧き水を手桶で汲んで飲むことができる。一口飲んでみたが、味音痴にはさして旨い水とも思えなかった。

権田直助の銅像 大山名水の泉
権田直助の銅像 大山名水の泉



女坂を下って大山寺に向かう

女坂方面の標識 「これより女坂」
女坂方面の標識 「これより女坂」の石柱

初の予定では、下りのケーブルカーで途中の「不動前」駅まで降り、大山寺に立ち寄って下山することになっていた。ところが、トイレの近くに立っていた標識を見て、娘が歩いて下山しようと言い出した。標識には、「女坂 大山寺15分 追分 30分」「男坂 追分 20分」とある。男坂を利用すると大山寺には立ち寄れないが、女坂からは徒歩15分程度の下り道である。

の15分という道のりに、娘は気持ちが動いたらしい。阿夫利神社下社から大山寺まで杉木立の山道を15分程度の歩きで下れるなら、大したことはない、と判断したようだ。どうやら娘の頭には、一昨年の二月に阿波を巡礼したときの経験が残っていたようだ。だが、その判断ミスが未曾有の経験を我々老夫婦にもたらすことになる。

振り返れば、長々と続く石段
振り返れば、長々と続く石段
前を見ても地の底に続くような急斜面
前を見ても地の底に続くような急斜面
ーブルカーなどの文明の利器がなかった時代、人々は男坂なり女坂を苦労して上ってきて、阿夫利神社に参拝したはずだ。ハイキングマップでは追分から下社までの時間が、男坂で30分、女坂で40分になっている。だが、旅人が健脚だった江戸の昔ならいざ知らず、あまり山歩きに慣れていない現代人には、いささか所要時間が短いような気がした。

こで、女坂と男坂の合流地点まで上ってきて、大汗を拭きながら一息入れている中年男性に聞いてみた。大山寺までの下りにどれくらい時間がかかりそうかという問いに対して、彼の答えが軽妙だった。
「一概には言えないね、それぞれの体力に個人差があるから・・・。自分の体力と相談しながら、ゆっくり下りられることですな」

坂の下り口に立って、ワイフがまず絶句した。思わずつんのめりそうな急な石段が、はるか下に向かって延々と連なっている。しかも、切石を積んだ石の階段ではない。付近の山石を集めてきて階段風に積み上げただけの石の道である。石段の幅は見た目にも狭い。そのため、カニのように横歩きで下りなければならない箇所が随所にある。

れでも、下り始めの場所には手すりがあった。それも途中から無くなった。娘は身が軽いのかどんどん石段を下りていくが、普段から運動不足のワイフはそうはいかない。しかし、両親に手をつながれて下から昇ってくる幼稚園児の姿を見て覚悟を決めたのか、一段一段カニ歩きでゆっくりと下り始めた。

跡探訪であちこち出かけている筆者は、山寺で結構急な石段の参拝路を上り下りした経験がある。四国遍路では、第12番札所の焼山寺からの下りの遍路路は急な階段の下り坂だった。金剛葛城山系の稜線をダイトレで縦走したときも、けっこう厳しいアップダウンの坂道を経験した。だが、目の前の急坂は今までの坂道とは違った恐怖感を抱かせた。なにせ石段の幅が狭いのである。場所によっては、靴のつま先が石段からはみ出してしまう。慎重の上にも慎重な足の運びが要求された。

5分で到達できるはずの大山寺までの坂道に、結局倍近い30分を要した。もっとも、女坂の途中に点在する「女坂の七不思議」で足を止めて、休み休み下りてきたせいもある。たとえば最初に出会った七不思議は眼形石(めかたいし) だった。人の目の形をしたこの石に触れると目の病が治ると言われている。次に出会ったのは、潮音洞(ちょうおんどう)。洞(ほこら)に近づいて心を鎮めて耳を澄ますと潮騒が聞こえるという。こうした「女坂の七不思議」は、弘法大師が岩に杖を突いて出た水で、夏でも枯れないという1番目の弘法の水(こうぼうのみず) まで続く。

七不思議その7:眼形石(めかたいし) 七不思議その6:潮音洞
七不思議その7:眼形石(めかたいし) 七不思議その6:潮音洞(ちょうおんどう)



大山不動尊を本尊として祭る真言宗大覚寺派の古刹・雨降山大山寺(あぶりさんだいせんじ)

雨降山大山寺の正面 本尊の不動明王像と制吁迦童子・矜羯羅童子
雨降山大山寺の正面 本尊の不動明王像と制吁迦童子・矜羯羅童子

峻の石段がやっと平坦な地道に代わったと思ったら、真言宗大覚寺派の古刹で雨降山(あぶりさん)と号する大山寺の横に出た。この寺の創建は古く、東大寺の初代別当だった良弁(ろうべん)僧正が、奈良時代の天平勝宝7年(755)に開山したのが始まりとされている。

大山寺の本堂
大山寺の本堂
宝筐印塔
宝筐印塔

弁の後を継いだのは、行基の高弟だった光増和尚である。光増は大山全山を開いて山の中腹に諸堂を設けた。さらに弘法大師空海が当山に入り数々の霊所を開いて、大山七不思議と称される霊地信仰を確立した。また、日本古来の信仰を大切にし尊重すべきとの空海の言葉に従って、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存に心がけて手厚く神社を保護したと伝えられている。

慶3年(879)、大地震によって全山が灰燼に帰したが、天台の安然和尚が伽藍を再興して、華厳・真言・天台の三宗兼学の道場とした。これにより、大山は丹沢山系の中心道場として各地に知られ、別当八大坊、僧坊十八院、末寺三、御師三百坊の霊山として栄えた。

かし、その後大山寺は寂れた。文永年間(1264 - 1274)になって、鎌倉胡桃谷大楽寺の願行上人が再興し、文永11年(1274)には鉄造不動明王と二童子像を鋳造して安置した。それが、現在国の重要文化財に指定されている本尊の不動明王像と制吁迦(せいたか)童子・矜羯羅(こんから)童子像である。

山不動の御利益にあずかろうと、鎌倉時代より多くの武将や庶民がこの寺に参拝した。江戸時代には春日局(かすがのつぼね)が慶長9年(1604)9月に、家光が将軍になることを大山不動に祈願するため当山に参詣している。元和元年(1616)4月には、大阪夏の陣の戦勝を謝するため家康の代わりに代参し、家光が将軍職を継いだ後も、家光の子授け祈願のためや竹千代(4代綱吉)誕生の折にも参詣している。

山寺は、もともと現在の阿夫利神社下社のある場所に築かれていた。しかし、明治初期の神仏分離により大山寺が廃止され元の阿夫利神社に戻ると、本堂が女坂の途中に移転された。現在は大山不動を本尊として祭る真言宗大覚寺派の寺として存続している。本尊の大山不動は、成田山新勝寺の成田不動、高幡山金剛寺の高幡不動とともに関東三不動の一つに数えられ、毎月8の付く日に御開帳が行なわれる。また、大山寺は関東三十六不動の1番札所となっている。

大山寺正面に石段に並ぶ童子たち
大山寺正面に石段に並ぶ童子たち
堂の横に回ると、巨大な宝筐印塔(ほうきょういんとう)が建っている。宝筐印塔とは、「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づく供養塔で、平安時代頃から造立されるようになったとされている。笠の四隅に「隅飾り突起」を設ける点が他の石塔と大きく異なる。室町時代以降は、供養塔だけでなく、墓標としての造立も行われるようになった。

筐印塔の横に鐘楼があり、「除夜の鐘 祈願」と書かれた看板が立っていた。昨晩の午後11時半から、希望者は除夜の鐘を打たせてもらえたようだ。鐘楼の前に「かわらけ道場」があった。大山寺開山1250年を祈念して設けられたもので、”厄除け”と書かれた直径6cmほどの素焼きの皿を崖下に向かってなげると厄除けに効くそうだ。

坂を下って来たため気づかなかったが、下から上がってきたら、大山寺の正面の参道は両脇に童子の像が並ぶ石段である。さまざまな童子が置かれていて一種異様な雰囲気を漂わせていた。


食は少し遅くなったが、参道脇の和風食堂で豆腐の懐石料理風のお膳を頼んだ。大山と言えば、手作りの豆腐料理が名物として広く知られていて、多くの旅館や食堂が豆腐料理を売りにしている。大山詣での参拝者が増えるにつれて、初期のころの木賃宿が次第に旅籠(はたご)に変わり、先導師たちが食べていた精進料理である豆腐料理が、人々のもてなし料理になっていったとされている。大山名水で作る豆腐の味は格別らしい。だが、ほとんどの旅館や食堂は一軒の豆腐専門店から仕入れているとのことだ。

を出るとき、「大山登山マラソン」のポスターが目についた。3月の第2日曜日、伊勢原駅北口から阿夫利神社下社までの9km、標高差650mのレースが開催されるという。全国各地から健脚自慢が参集するとのことだが、あの恐怖の階段を走って上る連中もいるのかと思うと、背筋に寒気が走った。




2007/01/02作成 by pancho_de_ohsei return