|
興味深いテーマであり、また以前から『日本書紀』編纂の目的や成立の経緯について疑問を抱いていたので、どんな話が聞けるか楽しみに出かけてきた。会場は杉並区産業商工会館、JR中央線の阿佐ヶ谷駅から枯れ葉をほとんど落としたケヤキ並木を南へ5分ほど歩いて路地に入った場所にあった。 |
我が国の史書に記述されている『書紀』編纂事業の経緯はたった4カ所『日本書紀』(以下、『書紀』と略記)は、奈良時代の初めに編纂された我が国最初の正史である。その編纂事業は、専門の史書局のような機関を設置して、国家的レベルで行われたプロジェクトだったにちがいない。にもかかわらず、『書紀』には上表文も序文も付されていないため、編纂の目的や編纂の事情に分からない点が多い。 よく知られているように、『書紀』とその後継正史である『続日本紀』(以下、『続紀』と略記)の中で、『書紀』の編纂について記述された箇所は、次に示した4例にすぎない。
天武紀10年(682)3月17日の条に見える記述は、『書紀』編纂の皓歯を示したものと見なされている。この日、天武天皇(てんむてんのう、在位673-686)は大極殿に出御して国史撰修の詔勅を下した。すなわち川島皇子(かわしまのみこ)以下12名に詔して、「帝紀」と「上古諸事」を記定し、中臣連大島(なかとみのむらじ・おおしま)と平群臣子首(へぐりのおみ・こびと)に筆録することを命じたという。 『書紀』の完成は養老4年(720)5月21日とされている。編纂事業の最高責任の任にあった一品舎人親王(とねりしんのう)はこの日、元正天皇((げんしょうてんのう、在位715-724)に日本紀三十巻と系図一巻の完成を奏上した。完成に要した日数は実に38年余、その間に編纂事業が継続していたことをうかがわせる記述は、持統天皇5年8月13日と和銅7年2月10日に掲載されているだけである。 持統天皇5年(691)8月3日には、大三輪(おおみわ)以下18氏に詔して、その先祖の墓記(先祖の事績を述べたもの)の提出を命じている。和銅7年(714)には、従六位上紀朝臣清人(きのあそん・きよひと)と正八位下三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)に対して国史を撰する旨の詔を下している。一般には、前者は『書紀』編纂のための追加資料の募集だったと解され、後者は『書紀』の編纂が最終段階にあり、その完成を促す追加人事だったと見なされている。 | |||||||||||||||
『書紀』編纂事業は天武10年(682年)に始まった『書紀』の編纂にはさまざまな謎がある。その中でも、筆者は『書紀』より8年前に完成した『古事記』との関係と、編纂に40年近い歳月を要した背景に、個人的な興味を抱いている。それに加えて、最近の歴史学会では、『書紀』編纂の陰の主導者は藤原不比等(ふじわらのふひと)だったとする説が有力になっている。数少ない資料の中から何故そうした推定が可能なのかも興味がある。加藤氏の講演がこうした筆者の疑問に、どのように答えてくれるか楽しみだった。 『書紀』や『続紀』の記述から、『書紀』は舎人親王を統括者として編纂事業が進められ、和銅7年以降に紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂が撰修に加わったことが確認できる程度である。実は、この3人の他にもう一人、撰者がいたとされている。『弘仁私記』(812年)には、舎人親王とともに『古事記』の編者である太朝臣安麻呂(おおのあそん・やすまろ)も撰者としている。さらに、『日本紀竟宴和歌』(943年成立)の奥書にも、『書紀』が完成した翌年の養老5年に行われた『書紀』の講書で、安麻呂が講書の博士だったことを伝えている。そのため、安麻呂も撰者の一人だったと見なされている。 だが、これら4人だけが『書紀』の撰者だったとは考えにくい。そこで、文献史学者は、史料的にそれを確証できる人物を、状況証拠の積み重ねで推定している。加藤謙吉氏の本日の講演も、そうした試みの一つに位置づけられる。 天武10年の「帝紀および上古諸事」の記定事業の人選から見えてくるもの講演の中で、加藤氏が最初に指摘された内容が面白い。天武10年(682)3月17日、帝紀および上古諸事の記定事業に任命された12名のうち、川嶋皇子(かわしまのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)、広瀬王(ひろせのおおきみ)、竹田王(たけだのおおきみ)、桑田王(くわたのおおきみ)、および三野王(みののおおきみ)の6名は王族である。 それ以外に指名された人物は、大錦下上毛野君三千(かみつけのきみ・みちぢ)や小錦中忌部連首(いんべのむらじ・こびと)、小錦下安曇連稲敷(あずみのむらじ・いなしき)、難波連大形(なにわのむらじ・おおかた)、大山上中臣連大嶋(なかとみのむらじ・おおしま)、大山下平群臣子首(へぐりのおみ・こびと)の6名である。このメンバーの中には、中臣連大嶋を除いて、大化改新以後に左・右大臣や御史大夫などの要職についた阿倍・蘇我・巨勢・大伴・紀などの豪族出身者はいない。壬申の乱(672)の功臣や外交との関わりが深い氏族の出を中心に人選されている。 これらの顔ぶれから見えてくるのは、中央の有力豪族の介入を極力排除して、天皇家中心の史観に立って史書を編纂しようとする天武天皇の強い意志であると、加藤氏はいう。そして、中臣連大嶋が加わっているのは、神事と関わる忌部連首とともに、神代の巻の前提となる神々の時代の叙述を進めるためだったと、推測されている。 それはそれとして、天武10年(682)3月17日に天武天皇が彼らに命じた「帝紀および上古諸事」の記定作業は、『書紀』編纂事業の第一段階と位置づけられるが、その作業の実態は何だったのだろうか。原資料の募集や整理を主体とした準備作業だったのか、それとも史書としての構想が用意され、それに基づいて多量の歴史資料の募集・整理・筆録といった本格的な活動が開始されていたのだろうか。 加藤氏は、後者の理解を支持しておられる。そうであれば、王族6名、官人6名に記録者2名を加えたこの人事は、史書局の設置の見なす他はない。つまり、彼ら14名も初期の段階での撰者だったことになる。 『古事記』編纂は天武の私的事業、『書紀』編纂は組織化された公的事業?
ところで、この『書紀』編纂事業に関しては、別の問題がある。『書紀』よりも8年前に完成した『古事記』との関連である。『古事記』の完成を示す記述は正史には残されていない。しかし、『古事記』の序文によって、和銅4年(711)9月18日、元明天皇(げんめいてんのう、在位707-715)が太安万侶(おおのやすまろ)に詔して『古事記』の撰録を下命し、4カ月と10日後の和銅5年(712)正月28日、安万侶は作業を完了してこの史書を「献上」したことを知ることができる。
序文はさらに、天武天皇の次のような言葉で本書の編纂目的を伝えている。
国家組織の原理や天皇政治の基本を明らかにするために、『帝紀』や『旧辞』の”削偽定実”を命じたのは他ならぬ天武天皇である。その意図は『書紀』編纂と何ら変わるところはない。だが、何時、そして誰に命じたのかは明らかでない。明らかなのは”削偽定実”したものを阿礼に誦習させたということだけである。何のために、天武天皇はその治世中に、同じ資料に基づいた系統のちがう史書の作成を意図したのか、その理由も不明である。 ほぼ同じ年月を経て出来上がった史書には、その編纂内容や記述方法に大きな開きがある。『古事記』の記述は神代と上代に限られ、物語があるのは第23代の顕宗天皇までで、その後は第33代推古天皇まで系譜を記述してあるにすぎない。また、内容が文学的で、一般には史書と認められていない。『書紀』も神代から始まっているが、初代神武天皇以後の記述は、中国の史書を手本にして暦年月を記入して編年体を採用し、史書としての体裁を整えている。 そのため、加藤氏は『古事記』は天武天皇が直々に帝紀を撰録し旧辞を見直して、これを阿礼に誦習せしめた私的な事業だったとのでは、とされている。これに対して、天武10年の「帝紀および上古諸事」の記定事業は、単なる帝紀と旧辞の校定・記録だけを目的としたものではなく、『書紀』編纂と直結する大規模な修史事業であり、いわば組織的な公的事業だったと断定された。残念ながら、『古事記』との関わりに関しては、それ以上の意見を拝聴できなかった。 筆者の考えでは・・・・何の先入観もないまま若いときに『古事記』と『書紀』の神代の巻を通読したとき、筆者は痛烈なショック受けた。神代の物語として『古事記』の内容は非常にきれいに整備されている。だが、『書紀』では同じ内容の異説がいくつも並記されていて、非常に読みにくい。正史としての体面から言ったら、本来は逆であるべきではないのか・・・。 そこで、勝手な憶測を重ねてみた。天武10年に「帝紀および上古諸事」の記定事業に命じられた撰者たちは、とりあえず諸家に伝わっている異説を収集し、校訂の前作業として羅列してみたにちがいない。現代の我々が物事を整理するために利用する「KJ法」と似たような作業を行ったのだろう。そして、諸家に伝承されてきた神話や上代の話がバリエーションに富んでいるのに驚いた。そこで、収集した結果を天武天皇に上進した。 収集された異説の多さに、天武天皇も驚いたであろう。それと同時にそれらの異説をどのように一本化するかに興味をいだき、己自身でトライして見る気になったのではないか。撰者たちには、史書全体の骨格作りを先に進めるように指示し、天皇は折りを見ながら、舎人の稗田阿礼を相手に削定を行ない、その結果を阿礼に誦習させた。 天武天皇は、作業が一段落した時点で、阿礼が記憶した内容を筆録させる予定でいた。ところが朱鳥元年(686)9月4日、天皇は飛鳥浄御原で崩御してしまい作業は中断してしまった。そうしたいきさつがあったことを知った元明天皇は和銅4年(711)、中断していた阿礼の作業の継続を太安万侶に命じ、安万侶は阿礼は”削偽実定”されて暗唱していた内容を書き取った。 和銅5年(712)正月28日に、安万侶は筆録を終えた『古事記』に序文をつけて元明天皇に献上した。しかし、『書紀』と違って、『古事記』が一般に講書されることはなく、『書紀』のダイジェスト版として皇室内部の一部の関係者の間だけで読み継がれてきたにすぎなかった(以上は、筆者のまったくの憶測である。しかし、このようにでも考えなければ、同時並行的に二種類の史書が編纂された理由が納得できない)。 |
撰善言司
|
不比等が『書紀』編纂に関与したとするなら、その時期は?藤原不比等は、刑部親王(おさかべしんのう)のもとで、官僚・学者を率いて大宝律令の選定にあたり、その功績によって大宝元年(701)には大納言に任じられた。その後、左大臣多治比真人嶋(たじひのまひと・しま)および右大臣阿倍朝臣御主人(あべのあそん・みうし)が大宝3年(703)までに相次いで他界している。 御主人の死後、石上朝臣麻呂(いそのかみのあそん・まろ)が右大臣に就任し、さらに和銅7年(708)に左大臣に進んだ。それに伴い、不比等も右大臣に就任した。麻呂はすでに高齢であり、養老元年(717)3月には死去してしまい、不比等は事実上政界の第一人者にのし上がった。左大臣職の就任を要請されながら、不比等はがんとしてそれを受けなかったという。 大宝律令に続いて、不比等は総裁として養老律令の選定にも従事していたが、加藤氏は『書紀』編纂にも主導的役割を果たしたと推測される。それを名証する資料はないが、父である中臣鎌足に対する『書紀』の筆使いを通して、彼の関与の跡をうかがうことができるという。 中臣鎌足の描かれ方から見えてくる不比等の『書紀』編纂事業への関与
645年の乙巳の変(いっしのへん)での蘇我入鹿(そがのいるか)誅殺の場面は、事件から70年近く推移しているにもかかわらず、読者がその場に居合わせたような臨場感で描かれている。また、天智8年(669)10月の条には臨終の床にある鎌足を見舞った天智天皇と鎌足とのやりとりが種々の工夫を凝らして描き出されている。 しかもこうした記述の内容や文辞が、天平宝字4年(760)ごろ藤原仲麻呂が表した『大織冠伝』(鎌足伝)に類似・共通する部分が少なくない。もとより、『書紀』編纂時にはまだ『大織冠伝』が執筆されていないが、鎌足の功業を顕彰した「原鎌足伝」とでも呼ぶべき伝記が、不比等が政界に登場する持統朝の初年の頃にはすでに存在していたと推定されている。 不比等が『書紀』の撰者に指示して、「原鎌足伝」をベースに鎌足の働きを『書紀』の中で描かせたら、それはおおいに意義のあることである。藤原一族の始祖ともいうべき鎌足が他の廷臣とは比較にならない功臣であったことを後世に印象づけることができる。藤原一族の今後の繁栄にとって、これは不可欠な仕掛けとなる。希代の政治家であった不比等であれば、この程度の配慮は当然行ったはずであり、彼の関与の跡がこうした点からもうかがうことができると、加藤氏は指摘される。 不比等と親しい渡来系有識者の『書紀』編纂の関与加藤氏の慧眼の一つは、『書紀』が完成した翌年の養老5年の人事に注目されたことである。『続紀』はこの年の正月、文人・学者ら16人が皇太子の首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)のもとに侍り、帝王教育を施すことになったことを記している。その中に、当時の文章(もんじょう)の第一人者とされた紀朝臣清人(きのあそん・きよひと)、山田史御方(やまだのふひと・みかた)、楽浪河内(さざなみのこうち)、刀利宣令(とみのせんりょう)らがいた。 紀朝臣清人は和銅7年(714)2月、三宅臣藤麻呂とともに『書紀』の撰述に選ばれた人物である。加藤氏は、彼の任命は完成間もない『書紀』に関して皇太子に進講を行なったことをうかがわせるという。この推測が正しければ、山田史御方、楽浪河内、刀利宣令の3名も『書紀』の撰述にたずさわった公算が高く、清人と同じ理由で皇太子のもとに侍ったと見てよいとされる。 実は、これら3名は藤原氏が私的なブレーンとして活用してきた渡来系氏族の出身者である。加藤氏は彼らも不比等の意を受けて『書紀』の撰修に参与したと推測しておられる。不比等と親しかった渡来系の有識者の中には、『書紀』の撰述の関わった可能性がある人物が他にもいる。具体的な人物として、伊吉連博徳(いきのむらじ・はかとこ)、船連大魚(ふなのむらじ・おおうお)、白猪史広成(しらいのふひと・ひろなり)の名をあげられた。 伊吉連博徳は7世紀後半に唐や新羅に派遣された外交官で、彼が作成した『伊吉博徳書』や『伊吉博徳言』が『書紀』の分注に引用されている。博徳は不比等とともに大宝律令の撰定にあたったが、撰定事業から解放された後不比等の勧めでこれらの外交記録の作成に着手し、その成果を携えて『書紀』の撰述に加わったと、加藤氏は推測される。その時期は8世紀の初め頃であろう。 船連大魚は、南河内の丹比郡に盤踞した渡来系氏族の出で、養老5年に首皇子のもとに侍った文章博士の一人である。その祖先に、敏達朝に高句麗の国書を解読した王辰爾(おうしんに)や推古朝に国史編纂に関与した船史恵尺(ふねのふひと・えさか)がいる。白猪史広成は当時を代表する「文章」の大家・風流人として知られ、養老3年(719) 葛井連(ふじいのむらじ)の姓を賜っている。先年、西安市郊外で墓誌が発見されて有名になった遣唐留学生の井真成(せいしんせい)は、広成の同族の可能性が強い。 高句麗からの渡来僧道顕(どうけん)が著した『日本世記』からの引用や同書に依拠した記述が、『書紀』の斉明紀以降に何カ所かに見える。加藤氏は『日本世記』の成立も8世紀の初頭ごろに求めるべきとされている。 唐人も『書紀』の撰述に参加していた古代日本語の音韻を研究している森博達(もりひろみち)氏は、『書紀』30巻の表記を分析し、その著書『日本書紀の謎を解く』の中で、『書紀』の各巻をα群(巻14〜21、24〜27)、β群(巻1〜13,22なみ23,28〜29)および巻30の三つに分類された。氏によれば、α群は歌謡と訓注の仮名が中国原音(標準音)によって表記され、文章は基本的に正格漢文で綴られている。β群は歌謡と訓注の仮名が倭音によって表記され、文章も倭習に満ち、漢語・漢文の誤用や奇用は枚挙のいとまがない。巻30は、仮名表記が少ないため原音か倭音か判別できないが、文章は倭習がすくなくα群に近い。 そして、大胆にも、唐朝の標準音に通暁している唐人の続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)がα群の述作に関係したと想定された。 続守言は660年の唐・新羅連合軍と百済との戦いで捕虜となった人物で、661年百済から献上されて来朝した。薩弘恪の来朝の経緯は不明である。両名はかなりの知識人だったようで、飛鳥浄御原令の撰修にも参画し、その功績で持統5年(691)9月と翌6年12月に褒賞を授かっている。また、唐朝の正音(唐代北方音)に通暁している両名は、最初の音博士を拝命している。浄御原令が撰上された後、余裕のできた両名が書紀の撰述に加わったものと思われる。 百済亡命王族の協力朝鮮三国との外交が、日本側に残された公式記録に基づいて記述されるのは、欽明朝の後半からのようである。それ以前の出来事は、いわゆる「百済三書」を主な資料として記されている。百済三書とは、『百済記』、『百済新撰』および『百済本記』をいう。ところが、加藤氏によれば、これらの史書は、百済本国で撰述された原記録をもとに、7世紀末に亡命百済人が大幅に手を加えて『書紀』の編纂に資する目的で上進されたものであるという。
これら三書からの引用は、『書紀』の中で分注として記述されているが、本文にも三書に依拠して記述された箇所が少なくない。加藤氏によれば、これら三書のうち、『書紀』の依存度が最も高い『百済本記』が先ず撰述され、ついで『百済記』、そして最後の補遺的な『百済新撰』が書かれたと推測されているようだ。おそらく『書紀』の編纂時期に合わせて執筆されたと思われるが、最終的な完成は8世紀初頭までずれ込む可能性があるらしい。そうであれば、雄略紀や武烈紀の本格的な編纂は8世紀に入ってからということになる。 |
『書紀』の編纂に40年近い歳月を要した理由加藤謙吉氏の講演を聴きながら、なぜ『書紀』の編纂に40年近い歳月を要したのか、その理由がおぼろげに見えてきた。結論から言うと、その間に多くの撰者の変動や交替を繰り返しながら、何回も『書紀』の骨格が追加・変更を繰り返したからであろう。おそらく次のような段階を経ながら、最終的には現在我々が接することができる『書紀』の完成を見たにちがいない。 ・第一段階:天武紀10年3月に任命された川嶋皇子以下12名は、おそらく2つの目的をもって事業をスタートさせたはずである。一つは、『古事記』の序で天武天皇の言葉として伝えているように、諸家に伝わっている『帝紀』や『旧辞』の異同を”削偽定実”するために、原資料を募集して整理すること。今一つは、そうして収集した資料や、史部が書き記した朝廷内の記録をもとに、正史としてふさわしい内容になるよう記述の骨格を構築して本格的な活動を開始すること。 おそらく第一段階で、天武天皇から新しい指令が追加されたであろうことは想像に難くない。『書紀』本来の目的は、天皇家が我が国を支配する正当性を万人に認めさせるために、アマテラスの血統を受け継ぐ万世一系の家系であること強調せよ。そして今ひとつ、壬申の乱は聖戦であり、正統な近江朝廷に対する反逆行為ではなかったことを強調せよ。 ・第二段階:活動開始から約10年、手元に集まった資料をもとに撰述した『書紀』の初稿が出来上がったが、中身は乏しいものだった。さらに肉付けが必要と痛感した史書局は追加資料を収集することにした。持統天皇に要請して、有力な氏族18氏に対して、祖先たちの墓記(おくつきのふみ)の提出を命じる詔をださせることにした。第二段階では、こうして集められた資料を吟味し、初稿を全面的に加筆・訂正した時期にちがいない。
『古事記』の本文には年月日の記載がないが、『書紀』では重要な事績に年月日が記載されている。それまでに編纂されていた稿本では、古い時代の出来事は干支が分からないものは、そのままになっていたはずだ。そうした記述に対して、強引とも思えるやり方で日を示す干支を割り振る作業は文武元年以降に行われたにちがいない。面白いことに、”月”は数字で、”日”は干支で記し、月の初日は月朔(げっさく)の干支を記すことで、記事の干支が何日であるか分かるように配慮されている。 (注)『書紀』の記述を分析した結果、古い元嘉暦で年月日が記されているのは第21代雄略天皇以降であり、初代神武天皇から第16代仁徳天皇までは、新しい儀鳳暦で年月日が記されていることがすでに判明している。その中間の第17代履中天皇から第20代安康天皇までの歴代天皇紀も、儀鳳暦で記述されているとみられている。こうした事実から、本格的な編纂作業は儀鳳暦が採用された697年以降に行われたと推測することが可能である。編纂者が古い時代に元嘉暦が用いられていたことは十分に承知していたはずであるが、初代の神武天皇以降歴代天皇の行業を、なぜ元嘉暦ではなく儀鳳暦で干支が付されているのはおそらく上記のような事情があったのであろう。 古い時代の朝鮮半島諸国や中国王朝との通交を記述には、相手国の史書の照査も必要である。だが、最も友好国だった百済はすでに滅び、また通交のあった高句麗も滅びて、朝鮮半島は今や仮想敵国・新羅が占有している。そこで、我が国に亡命してきている百済や高句麗の王族たちにもさまざまな形で協力を求めたであろう。百済王氏はそうした協力要請に応えて、百済三書を作成してくれた。 ・第四段階:大宝元年(701)、律令国家の礎ともいうべき大宝律令の編纂がようやく完了した。刑部親王(おさかべしんのう)のもとで、副総裁として官僚・学者を率いて大宝律令の撰定にあたってきた藤原不比等が、この時点で『書紀』編纂事業に本格的に関与することになったと思われる。律令の制定と史書の編纂は、いわば律令制度を支える両輪である。政権の中枢にいた不比等が、『書紀』の編纂に無関心であったとは思えない。何稿目かの草案に目を通した不比等には、さまざまな不備が目についたであろう。 『書紀』は国内はもとより海外の読者の目に触れても遜色のないものでなければならない。そう考えた不比等は、私的ブレーンとして彼の周りにいる渡来系氏族の文章博士や中国本土からの渡来者を撰修作業に参与させたに違いない。多くの漢籍をもとにした文飾の作業や、正調漢文への書き換えはこの時期に行われたと思われる。和銅7年(714)に紀朝臣清人や三宅臣藤麻呂に国史の撰述を命じた詔は、おそらくそうした作業への追加人事だったのであろう。 しかし、不比等が直接主導して『書紀』編纂にあたったとする証拠はなにもない。編纂に関与したとしても、おそらく大宝律令の完成以後であろう。関与の仕方も、不比等の意を受けた連中を編纂事業に参加させ間接的に主導したというのが実態であろう。8世紀に入ると、平城京遷都や、大宝律令を手直しした新しい律令の作成など、彼が処理しなければならない仕事は山積みしていたはずで、史書の編纂だけにかかずりあっていたとは思えない。 |