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| 押しかけた考古学ファンを前に現地説明を行なう発掘責任者 (2006/12/2 撮影) |
史跡高麗寺跡とは・・・
高麗寺跡(所在:京都府相楽郡山城町大字上狛小字高麗寺・森の前)は、上狛の東方、木津川北岸の段丘上に位置する飛鳥寺院の跡である。現代の字(あざ)の名に古代寺院の名をそのまま踏襲しているのは珍しい。史跡に立つと、北側に狛山の緩やかな起伏が連なり、南側に水田を隔てて木津川の右岸を望まれ、のどかな田園風景が周囲に広がっている。 この遺跡は昭和13年(1938)に2度の発掘調査が行われた(第T期調査)。その結果、金堂や塔などが築かれていた土壇・礎石が発見され、我が国最古の仏教寺院とされる飛鳥寺で使われたのと同じ瓦も出土した。さらに、東に塔、西に金堂を並置し、それを囲む回廊が北で講堂、南で中門に接続する法起寺式の伽藍配置を採用していたことも判明した。
こうした発掘成果を受けて、2年後の昭和15年(1940)8月、回廊に囲まれた主要堂塔を含む伽藍の一部が「国の史跡」に指定された。その後、昭和59年(1984)から63年(1988)にかけて、山城町は寺域の範囲確認調査を行った(第U期調査)。その結果、回廊の南北規模は唐尺でおよそ200尺(0.297m/尺)、東西規模は201と、ほぼ正方形に整然と計画された伽藍設計であることがわかった。 発掘調査で得られた知見から、高麗寺は7世紀の初め頃に創建された我が国最古の寺院の1つであり、白鳳時代に本格的に整備され、平安時代まで存続したことが判明した。この地の豪族であった新興勢力の狛(こま)氏が建てた氏寺だったと考えられている。
昨年から史跡整備に伴う発掘調査が行われている(第V期調査)。昨年12月には、塔の基壇の南西部を再調査し、基壇は1辺が12.7m(43尺)の瓦積み基壇であることが確認された。また、基壇の周囲には幅約1.65mの石敷きが巡らしてあった。石敷き部分からは、塔の擦管(さっかん)が見つかった。擦管は相輪の水煙附近のものであり、銅製品で金鍍金を施してあった。おそらく、創建時には五重塔の頂きで燦然と輝いていたであろう。 今年の10月から行われてきた発掘調査は、今まで未確認だった南門跡と南辺の築地跡の規模などを確認することを目的としたものだった。ところが、従来の常識を覆す発見があった。南門は通常、伽藍の中心線上にあるべきだが、高麗寺では西にずれていて、ちょうど金堂の正面の位置に築かれてた。しかも南門の大棟には鴟尾(しび)が載せてあった。 |
想定外の伽藍配置。鴟尾を載せた南門は金堂の正面に建てられていた
午前10時半、定刻通り一回目の現場説明が始まった。約200平米の調査区域701Trから剥いだ表土が、発掘現場の横にうずたかく積まれている。その上に立って、山城町教育委員会の発掘責任者がハンドマイクを手に、今回の発掘の目的と成果について説明した。目的は上記のように、南門跡と南辺築地跡の規模などを確認するすることだった。そのため、調査区域は全面発掘した訳ではなく、確認したい場所に部分的にトレンチを入れただけである。
この遺跡の重要性を強調するために、説明員はまず、我が国最古の飛鳥寺の屋根を飾った単弁八葉軒丸瓦と同笵(型)の瓦が、以前の発掘調査で出土したことを指摘した。西暦596年に創建された飛鳥寺に用いられた瓦は、寺の近くの飛鳥寺瓦窯(がよう)で焼かれたことがすでに判明している。したがって、飛鳥寺と同じ瓦が葺かれていた高麗寺も610年前後には創建されたと推定されている。 創建時期から言えば、高麗寺は我が国の最古の飛鳥寺院の一つであり、京都府内ではもちろん最古の寺である。ただし、伽藍として完全整備されるのは7世紀後半の660年代、すなわち天智天皇の頃だったようだ。天智天皇が母の斉明天皇の菩提を弔うために建てたとされる川原寺の瓦と同じものが、出土している。 整備された高麗寺の塔や金堂、講堂は、瓦積基壇という美しい基壇の上に建てられていた。そのため遺構が非常に良い状態で残されていた。そのため、第T期調査のすぐ後に早々と国の史跡に指定された。 高麗寺は、奈良時代の終わりから平安時代の初めに大幅な修理を受けた。その時期は、桓武天皇が平城京を捨てて長岡京に都を遷す頃である。桓武天皇は長岡京に遷都して新しく王城の地となった山城の寺々があまりにみすぼらしいのに耐え難かった。そのため、延暦10年(791)に山城国の浮屠の修理令を出している。高麗寺も、他の山城の寺々と同じ時期に修理されたようだ。高麗寺が何時廃絶されたかは文献上ではわからない。ただ、発掘調査で瓦解した瓦を取り除いたとき、その中から平安時代の土器である灰釉陶器が見つかっていることから、おそらく平安時代の末頃(12世紀代)には廃れたものと思われる。 昨年の発掘調査では、高麗寺道の下に位置する中門跡が調査の対象とされたが、今年度は中門の南に位置しているはずの南門の位置確認が目的だった。伽藍の東・西・北にある門は、僧が出入りする「僧門」と呼ばれている。それに対して、南側正面にある南門は仏が入る門すなわち「仏門」とされ、中門とともに特別な扱いを受けている。古代の寺院では、南門も中門と同じく伽藍中軸線に建てられるのが、通常の常識だった。
高麗寺は自然の地形に左右される山間部に建てられた寺院ではない。段丘の平坦な場所に建立されていた。それにもかかわらず、南門は当初から伽藍の中軸線上ではなく、大きく西に偏った金堂の正面に計画されたようだ。その理由は謎である。 今回の調査では、南門跡の全体が発掘された訳ではない。わずかに東側の一部の遺構が出土しただけである。周囲の遺構状況から、出土した南門跡は8世紀後半に元あった南門の同じ場所に建て替えられたようだ。この南門の大棟から落下したと思われる鴟尾(しび)がほぼ復元可能な状態で出土した。その復元イメージが新聞などのメディアに公開された。
復元した鴟尾は、幅約90cm、高さ約90cm、奥行き約40cm。元は高さ1m程度とみられる。この鴟尾は縦帯や鰭(ひれ)部がまったく装飾されておらず、赤い粘土を焼いたものだった。大棟に取り付ける方形透かし穴などが残っていた。
鴟尾を載せた壮麗な南門を持つ寺院の例は少ない。過去の発掘例では、飛鳥寺の西門と北門、および檜隈寺の南門推定地付近で鴟尾の破片が出土した程度である。山城町教委は「木津川を往来する外国や地方の使節に威厳を示すため、高麗寺は正面の外観を重視し、南門も鴟尾で飾ったのだろう」としている。そして、南門が西に偏っている謎を解くヒントが、この鴟尾に隠されているのかもしれない、と語っている。 発掘現場の端に立って表土を剥がれた跡を俯瞰すると、軒丸瓦などの破片がやたらと散乱しているのが目に入る。築地塀が倒壊し、その屋根に葺かれていた瓦が砕け散った名残である。その破片の多さが、往事この地にそびえていた伽藍の雄大さを彷彿と脳裏に思い描かさせる。木津川を川船で上り下りする旅人は、北岸にそびえる高麗寺の、鴟尾を載せた南門や相輪が燦然と輝いている五重塔を見て、その美しさに感嘆したにちがいない。 |
高句麗系渡来氏族の狛(こま)氏と高麗(こま)氏
新聞などのメディアは、高麗寺をこの地の豪族であった新興勢力の狛氏が建てた氏寺と紹介している。この表現で2つのことが気になった。新興勢力とはいつ頃の勢力なのか? そして、高麗(こま)氏との関係はどうなのか? さっそく気になって調べてみた。 先ず、高麗寺の”高麗”(こま)は、西暦918年に朝鮮半島の北部で建国し、936年に半島全域を統一した高麗(こうらい)国のことではない。紀元前1世紀に建国し、西暦668年に唐・新羅連合軍によって滅ばされるまで、満州から朝鮮半島にかけて存続した扶余系民族の高句麗(こうくり)国のことである。我が国では、高句麗の”句”の字を省いて高麗と呼んできた。 『日本書紀』には詳細な記述はないが、高句麗が滅亡したとき、多くの高句麗人が日本列島に亡命してきた。彼らは列島のあちこちに居住地を与えられて渡来人として住み着いたはずである。時が移って奈良時代になると、律令政府は、駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、相模(神奈川県)、上総・下総(千葉県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)の7カ国の高麗(こま)遺民1、799人を武蔵国(埼玉県)に移して高麗(こま)郡を置いたことが記録されている。霊亀2年(716)5月のことである。
高句麗からの亡命者の中で王族の系統を引くものは高麗の姓を名乗ったようだ。たとえば、高麗郡を建てたとき、上記の高句麗遺民を率いて新しい土地を開いた人物は、高句麗の亡命王族の高麗若光(こまのじゃっこう)だったと言われている。『続日本紀』によれば、大宝3年(703)4月、律令政府は従五位下高麗若光に王(こにきし)の姓が与えた。以後、彼は高麗王(こまのこにきし)若光の名で呼ばれている。その若光を祭神として祀る高麗(こま)神社が埼玉県の日高市にある(高麗神社参照)。 高麗王若光の系統を引く背奈福信は、少年の時伯父に伴われて上京し、聖武天皇にその勇武を愛されて次第に出世した。天平19年(747)に背奈王、天平宝字2年(750)に高麗朝臣、宝亀10年(779)に高倉朝臣と改姓し、従三位まで進み、延暦8年(789)に81歳でなくなっている。
高麗寺が建立された場所は、現在の京都府山城町大字上狛(かみこま)である。木津川を挟んで西の精華町にも大字下狛(しもこま)がある。これらの地域にはすでに6世紀には高句麗系の渡来人が住んでいたと推測される。では、彼らはいつ頃住み着いたのか。その点に関して、『日本書紀』の欽明天皇26年(565)夏5月の条に次のような記載がある。 だが、実際はもっと早い時期に高句麗系の渡来人集団がこの地に住み着いたに違いない。その証拠となる記述は『日本書紀』の中にもある。継体天皇11年(517)の条に、「高麗の使・安定が来て好を結ぶ」とある。継体天皇は即位する以前、男大迹(おほど)王と呼ばれ、越前三国にあって近江や尾張の地方豪族と連係し北陸に絶大な勢力を張っていた。その頃から海の向こうの高句麗とも関係を持っていたと思われる。多くの高句麗系渡来人を自国の領土に居住させていたとしても不思議ではない。 欽明天皇31年(570)の4月、高句麗からの使節が暴風雨にあって越の国の海岸に漂着した。使節の一行はその年の7月近江の琵琶湖を経由して、山城の高麗の館に導かれ、相楽(さがらか)の館で饗応された。しかし、一行は2年近く高麗の館に止め置かれた。欽明天皇が不予の病に倒れ、謁見がかなわなかったためである。翌年の4月、欽明天皇が崩御し、1年の殯があけて皇太子が敏達天皇として即位するまで、彼らは高麗の館で過ごしたことになる。この高麗の館や相楽の館は南山城にあったはずであり、その運用管理には在住の狛氏に委託されていたと思われる。西暦565年に山城に配属された高句麗系渡来人が5年足らずで、それほどの財力を蓄えたとは思えない。
この種の石室は4世紀の末に高句麗の石室封土墳に出現し、5世紀に一般化した高句麗の墓制とされている。そのため、5世紀の中頃には、高句麗からの渡来人が新しく紀ノ川流域に住み着いて岩橋千塚古墳群を残したのではと推定されている。紀ノ川流域だけではない。5世紀から6世紀にかけて、高句麗は東北アジアから朝鮮半島にかけて覇をとなえる最強の国家だった。現在の日本海は、当時は高句麗の海だった。高句麗系の人々は、朝鮮北部の東海岸から南に流れる海流に乗れば、容易に越の国に到着することができる。こうした北陸ルートで南山城に住み着いた渡来集団も存在したであろう。彼らは7世紀の初めには狛氏として氏寺を建立できるほど、巨大な人口と財力を備えた地縁豪族に成長していたはずである。
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