![]() |
| 竹田遺跡の現地見学会会場 (2006/11/23 撮影) |
飛鳥時代の皇族か高級官僚の邸宅の可能性が大きい建物跡
会場の受付で手渡された資料によれば、今回発掘されたのは建物11棟と塀1棟の遺構である。これらの建物群は次のようなグループに分けることができるという。
建物Jを除く建物群はいずれも飛鳥時代後半を中心としたものだそうだ。また、建物@・A・Bと建物C・D・Eおよび塀@の微妙な方位の違いは、時期による違いか敷地などによる違いか、現時点では不明とのことだ。発掘では建物遺構だけでなく、石器・土師器・須恵器・製塩土器・黒色土器・墨書土器などの土器類や、瓦器、瓦、セン、鉄滓なども出土している。
(*)現地見学会の配布資料より転写 |
中臣鎌足ゆかりの邸宅跡? それとも新田部親王の館跡?
11月22日付けの産経新聞は、竹田遺跡は”天武天皇が開いた飛鳥浄御原(きよみはらの)宮を見下ろす高台に位置し、さながら「ビバリーヒルズ」のような飛鳥の高級住宅地だったとみられる”と書いている。確かに、現代ならばさしずめ高級住宅地と呼んで良いような高台に竹田遺跡は位置している。南と北を小さな丘陵に挟まれ、背後の東側にも山が迫っていて、西側だけが緩やかに傾斜していて抜群の景観を楽しむことができる。だが、残念ながら天武天皇の飛鳥浄御原は南南西に位置し、山陰になって見下ろすことはできない。 それよりも、気になるのは付近には中臣氏ゆかりの伝承地が多いことだ。近くの飛鳥坐(あすかにいます)神社の東側一帯は、万葉集にも歌われた大原(現在は小原と書き「オオハラ」と読む)の里で、鎌足誕生の伝承地としても知られている。神社の脇の坂道を400mほど登ると、右手に樹木が生い茂った小さな丘があり、「大伴夫人の墓」と彫った石柱が建っている。大伴夫人とは、大伴咋(くい)の娘・智仙娘のことで、中臣御食子(なかとみのみけこ)の妻となって鎌足(かまたり)を生んだ。
鎌足の娘の五百重娘(いおえのいらつめ)は天武天皇に嫁いで藤原夫人と呼ばれた。『万葉集』には天武天皇と藤原夫人の間で交わされた雪をめぐるユーモアに富んだ相聞歌が残されている。
この相聞歌から類推して、五百重娘の邸宅は大原にあったものと思われる。その五百重娘は大原大刀自(おおとじ)とも呼ばれ、天武天皇の末子・新田部(にいたべ)皇子を生んでいる。 新田部皇子の邸宅の場所を類推させる歌も、『万葉集』に載っている。 新田部皇子の天武天皇の末子だがその生年は不明である。文武4年(650)、浄広弐位の位に授けられ、大宝元年(701)に施行された大宝令で親王になっている。神亀6年(729)2月のに勃発した長屋王の変では、長屋王の罪を糾弾した人物として知られている。軍事を統括する畿内大惣管(きないだいそうかん)に任命されたが、天平7年(735)に天然痘で死去した。ちなみに、新田部親王の子・道祖王(ふなどおう)は、藤原氏打倒を企てた奈良麻呂の乱(757)に連座したため、平城京内の新田部親王の旧宅が没収され、唐招提寺(奈良市)として建て直されたことは有名である。 竹田遺跡が筆者の関心を引いたのは、その竹田という名称である。古代の竹田道が遺跡の近くを通っていたのであれば、竹田と呼ばれた地域があったはずである。竹田という土地で育てられた皇子であれば、竹田皇子と呼ばれてもおかしくない。『日本書紀』には、実際にその名の皇子が実在したことを告げている。推古女帝の子息である。不運にして天皇に即位する前に病没してしまったと推測されているが、竹田皇子の邸宅が竹田遺跡の近くにあった可能性も否定できない。もちろん時代が違うため、竹田遺跡がその遺構ということにはならないが・・・。 |