橿原日記 平成18年11月23日 

飛鳥時代後期の高級住宅地・竹田遺跡の現地見学会に参加

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竹田遺跡の現地見学会会場 (2006/11/23 撮影)

新聞各紙に踊る”飛鳥ヒルズ””飛鳥セレブの丘”の見出し

竹田遺跡周辺から甘樫丘を望む
竹田遺跡周辺から甘樫丘を望む
竹田遺跡付近の地図
竹田遺跡付近の地図
日香村飛鳥(あすか)集落のはずれにある丘陵の水田で、村の教育委員会は今年6月から学術調査を行ってきた。場所は八釣(やつり)の集落から伸びる丘陵の南山麓に位置し、西に向かって緩やかに下る坂道の先には、甘樫丘が悠々と視界を横切っている。

術調査として4カ所で計約900平米を発掘したところ、7世紀後半とみられる大型の建物群の跡が見つかった。そこで、明日香村教委は去る11月21日、「飛鳥時代の高級住宅地」が見つかったとメディアに公表した。その公表を受けて、京都橘大学の猪熊教授も「山手のような高級住宅地があったのでは」とコメントしておられる。その影響でもないだろうが、翌日の新聞には”飛鳥セレブの丘”(朝日)とか”飛鳥のセレブ邸”(読売)、”飛鳥ヒルズ”(産経)発見といったセンセーショナルな見出しが踊った。読者の注意を引くたため、何事によらず大げさに報道したがるのは新聞の常だ。

掘調査地は、蘇我馬子が建立した飛鳥寺(法興寺、元興寺)の北面大垣をそのまま東へ伸ばした道路沿いの場所である。この道路は、飛鳥時代に「竹田道」と呼ばれていたことが、周辺に残っている小字名から分かっているため、遺跡は「竹田遺跡」と仮称されている。

調査地の近くには2つの遺跡がすでに見つかっている。南西にある東山カワバリ遺跡では、7世紀中頃以前の掘立柱建物跡や、飛鳥寺で使用されていた鴟尾(しび)が見つかっている。別の飛鳥竹田遺跡では、溝や掘立柱塀の跡が発見されている。したがって、この付近には、飛鳥時代の邸宅または寺院に関係した施設が存在する可能性が指摘されていた。今回の学術調査は、こうした発掘の成果を踏まえて付近の遺跡の範囲と性格を解明することを目的に実施された。その結果、飛鳥時代の後半を中心とした建物群の発見につながった。



飛鳥時代の皇族か高級官僚の邸宅の可能性が大きい建物跡

竹田遺跡遠望
竹田遺跡遠望

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現地見学会の資料
田遺跡の発掘が実施中であることは、9月15日の橿原日記ですでにレポートしている(「発掘が進む明日香村の竹田遺跡」参照)。一応の発掘成果が得られたため、明日香村教委は21日に記者発表を行ったが、さらに本日午前10時から現地見学会を実施するというので、早速出かけてきた。

場の受付で手渡された資料によれば、今回発掘されたのは建物11棟と塀1棟の遺構である。これらの建物群は次のようなグループに分けることができるという。
●建物@・A・Bは大型の建物で、柱を立てるための方形の穴が1辺1.3mから0.85mと大きい。
●建物C・D・Eおよび塀@も上記グループと同様の大型建物群であるが、上記よりわずかに東に方位が振れている。
●建物F・G・H・Iは50cmの柱穴を持つ建物群だた、上記のグループより新しい。
●建物Jは平安時代に建てられた建物である。

発掘地区Aの建物@・I 発掘地区Bの建物A・B・G
発掘地区Aの建物@・I 発掘地区Bの建物A・B・G
発掘地区Cの建物EとH 発掘地区Cの建物FとJ
発掘地区Cの建物EとH 発掘地区Cの建物FとJ

物Jを除く建物群はいずれも飛鳥時代後半を中心としたものだそうだ。また、建物@・A・Bと建物C・D・Eおよび塀@の微妙な方位の違いは、時期による違いか敷地などによる違いか、現時点では不明とのことだ。発掘では建物遺構だけでなく、石器・土師器・須恵器・製塩土器・黒色土器・墨書土器などの土器類や、瓦器、瓦、セン、鉄滓なども出土している。

塀の柱穴の断面状況(*)
塀の柱穴の断面状況(*)
目すべきは、建物の柱の据え付け穴の大きさだ。1m前後の大きさは宮殿クラスの建物の柱の据え付け穴に匹敵する。このため、皇族や高級官僚の邸宅跡の可能性が高いとされている。調査区が狭いため、建物配置が不明である。しかし、倉庫らしき建物があり、塀で区切られている箇所があり、邸宅だったことは間違いないようだ。だが、最大規模の建物跡は東西が4.8m、南北がすくなくとも6.6mにすぎない。これは邸宅の中心部ではなく、周辺部の建物だったと推定されている。邸宅の正殿跡の発掘が待たれるところだ。
(*)現地見学会の配布資料より転写



中臣鎌足ゆかりの邸宅跡? それとも新田部親王の館跡?

現地見学の風景
現地見学の風景

1月22日付けの産経新聞は、竹田遺跡は”天武天皇が開いた飛鳥浄御原(きよみはらの)宮を見下ろす高台に位置し、さながら「ビバリーヒルズ」のような飛鳥の高級住宅地だったとみられる”と書いている。確かに、現代ならばさしずめ高級住宅地と呼んで良いような高台に竹田遺跡は位置している。南と北を小さな丘陵に挟まれ、背後の東側にも山が迫っていて、西側だけが緩やかに傾斜していて抜群の景観を楽しむことができる。だが、残念ながら天武天皇の飛鳥浄御原は南南西に位置し、山陰になって見下ろすことはできない。

れよりも、気になるのは付近には中臣氏ゆかりの伝承地が多いことだ。近くの飛鳥坐(あすかにいます)神社の東側一帯は、万葉集にも歌われた大原(現在は小原と書き「オオハラ」と読む)の里で、鎌足誕生の伝承地としても知られている。神社の脇の坂道を400mほど登ると、右手に樹木が生い茂った小さな丘があり、「大伴夫人の墓」と彫った石柱が建っている。大伴夫人とは、大伴咋(くい)の娘・智仙娘のことで、中臣御食子(なかとみのみけこ)の妻となって鎌足(かまたり)を生んだ。

「大職冠誕生旧跡」の碑がある大原神
「大職冠誕生旧跡」の碑がある大原神社
大伴夫人の墓」から少し先の道路の反対側に、小原の人たちが氏神様と呼んでいる小さな神社がある。正式には大原神社と云うそうだが、その境内の前に「大職冠誕生旧跡」と書かれた石柱が建っている。大織冠とは中臣鎌足その人のことである。神社の裏手の北側には、鎌足が産湯に使ったとされる井戸がある。

足の娘の五百重娘(いおえのいらつめ)は天武天皇に嫁いで藤原夫人と呼ばれた。『万葉集』には天武天皇と藤原夫人の間で交わされた雪をめぐるユーモアに富んだ相聞歌が残されている。
天武天皇が藤原夫人に送った歌
わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後(のち)(万葉集巻2・103)
【意味】私の住んでいる里に大雪が降った。(あなたの住む)大原の古い里に降るのはもっと後だろう。
藤原夫人が返した返歌
わが丘の おかみに乞ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ(万葉集巻2・103)
【意味】私の所の神様が降らせた雪が、そこまで散っていったのでしょう。

の相聞歌から類推して、五百重娘の邸宅は大原にあったものと思われる。その五百重娘は大原大刀自(おおとじ)とも呼ばれ、天武天皇の末子・新田部(にいたべ)皇子を生んでいる。 新田部皇子の邸宅の場所を類推させる歌も、『万葉集』に載っている。
矢釣山 木立も見えず 降りまがふ 雪にうぐつく 朝楽しも (万葉集巻3−262)
【意味】矢釣山の木立も見えないほどに降りみだれる白雪の中を、馬を走らせて御殿に来る朝は本当に美しい
柿本人麻呂が新田部皇子に献上した歌とされている。京都教育大学の和田萃教授によれば、地元の言い伝えでは、竹田遺跡の西にあって桜井市との境になっている山が八釣(矢釣)山とのことである。幼い頃の新田部皇子は母の五百重娘のもとで育てられたものと思われる。あるいは、皇子の邸宅が矢釣山の近くにあったのかもしれない。そうであれば、人麻呂の歌に矢釣山が読み込まれていて不思議はない。

田部皇子の天武天皇の末子だがその生年は不明である。文武4年(650)、浄広弐位の位に授けられ、大宝元年(701)に施行された大宝令で親王になっている。神亀6年(729)2月のに勃発した長屋王の変では、長屋王の罪を糾弾した人物として知られている。軍事を統括する畿内大惣管(きないだいそうかん)に任命されたが、天平7年(735)に天然痘で死去した。ちなみに、新田部親王の子・道祖王(ふなどおう)は、藤原氏打倒を企てた奈良麻呂の乱(757)に連座したため、平城京内の新田部親王の旧宅が没収され、唐招提寺(奈良市)として建て直されたことは有名である。


田遺跡が筆者の関心を引いたのは、その竹田という名称である。古代の竹田道が遺跡の近くを通っていたのであれば、竹田と呼ばれた地域があったはずである。竹田という土地で育てられた皇子であれば、竹田皇子と呼ばれてもおかしくない。『日本書紀』には、実際にその名の皇子が実在したことを告げている。推古女帝の子息である。不運にして天皇に即位する前に病没してしまったと推測されているが、竹田皇子の邸宅が竹田遺跡の近くにあった可能性も否定できない。もちろん時代が違うため、竹田遺跡がその遺構ということにはならないが・・・。



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