創建飛鳥寺の講堂の規模を確定する重要な礎石の発見
特に説明員が待機しているわけでもない。調査中の奈文研の職員にたずねれば応えてくれるという形の現場公開である。現場の横にボードが置かれ、飛鳥寺講堂の遺構図が張り出されている。奈文研都城発掘調査部が作成した「飛鳥寺講堂跡の調査」と題するA4サイズの説明書も置かれていた。おそらく昨日メディア各社に配布されたのと同じものだろうが、それを読めば、発掘された遺構の場所や発掘された遺物の概略はほぼ言い尽くされている。
発掘は、飛鳥集落の中ほどにある来迎寺(らいごうじ)境内の南西部で行われた。創建飛鳥寺の回廊の北側、中金堂の北方にあたる場所で、そこは長い間竹藪や巨木が生い茂っていた場所である。その調査区の西半分で、花崗岩の巨大な礎石がL字型に4個並んでいるのが見つかった。そのうちの幾つかはケヤキやカシの木の根にしっかりと抱きかかえられていて、チェーンソーが使えず掘り出すのにずいぶん苦労したようだ。
これらの4個の礎石の出土の意味は大きい。飛鳥寺の大がかりな発掘調査は1956年から57年にかけて実施され、講堂跡に関しても、すでに東西と北端で、礎石や礎石の痕跡が確認されている。だが、南端がわからないままだった。しかし、今回の調査で新たに出土した3個の礎石で南端の位置が判明し、創建時の講堂の大きさが東西35.15m、南北18.7mであることが確定した。
柱と柱の間隔は、東2個の礎石間で4.5m、他では3.85mとのことである。また、各礎石の間には一辺80cmの足場穴が見つかっていて、足場を組んで講堂が建てられたと推察されている。初期寺院の建築方法を知る上で貴重な知見が得られたとのことだ。 前回と今回の発掘調査から、創建当時の講堂は東西8軒、南北4軒の四面廂(しめんひさし)付きの建物で、玉石を積んだ基壇外装を持ち、周囲に玉石組の雨落溝があったことが判明した。我が国で最初に創建された仏教寺院の偉容を彷彿とさせる建物だったが、平安時代後期には廃絶したと考えられている。 それにしても、今回発掘現場を訪れて驚いたのは、わずかに表土を剥いだだけで、礎石が創建時の状態で見つかったことだ。しかも礎石の色や形がとても1400年前に作られたようには見えない。つい最近石材店から持ち込まれたみたいに、冬の朝日をうけて白く輝いている。 推古天皇4年(596)11月にに飛鳥寺が完成すると、高句麗僧の恵慈と百済僧の慧聡が共に住んだという。二人の高僧がこの講堂で若いホヤホヤの出家僧に仏典を講義する姿が、彷彿として思い浮かんだ。二人の講義に耳を傾ける出家僧の中には、608年に学問僧として大陸に渡った日文(にちもん)、請安(しょうあん)、恵隠(えおん)、広済(こうさい)らの若き日の姿もあったはずである。 |
昭和31〜32年度に実施された飛鳥寺発掘調査
奈文研は奈良県教育委員会と共同で昭和31年(1956)度から32年(1957)度にかけて、3次にわたる発掘調査を実施した。調査内容は、その後に公表された「飛鳥寺発掘調査報告」に詳しい。この報告書によれば、第一次調査は昭和31年5月1日から6月末日まで行い、中金堂・塔・西金堂・西門・講堂を確認した。第二次調査は同じ年の11月20日から翌32年3月14日まで実施し、塔以南の中門・回廊・南門・石敷き広場を検出し、さらに塔の東で東金堂と東回廊を検出することができた。 第三次調査は、前二回の調査で手をつけながら中断されていた箇所の検討を目的としたもので、塔基壇内部、講堂西半部、北回廊などを中心に昭和32年7月5日から8月12日まで実施した。その結果、塔の中心部から舎利その他が見つかった。講堂西半部では南が民家なので、西および北側を堀り、基壇を検出した。金堂と講堂のちょうど中間に畑が一段落ちる線があり、そこが北回廊跡であることも判明した。 講堂跡の旧土壇がそのまま来迎寺の寺域として利用されていたため、相当高い基壇が良く残っていて、これらの調査で講堂の東西と北端で、礎石や礎石の痕跡が確認された。しかし、発掘区域が限定されていたので建物規模までは確定するに至らなかった。それが、今回の調査で新たに出土した礎石で講堂の南端の位置が判明し、創建時の講堂の大きさが東西35.15m、南北18.7mであることが確定したことになる。 |
一塔三金堂式と呼ばれる特殊な伽藍配置が採用されていた背景飛鳥時代の仏教寺院は創建のいきさつが不明な場合がほとんどである。そんな中にあって、飛鳥寺は珍しく創建事情や工事の経過がある程度分かっている。『日本書紀』が時系列的に次のように記載してくれているためだ。
それにもかかわらず、飛鳥寺創建にはいくつかの謎が残されている。謎の1つはおそらく発掘調査以前は誰も想像していなかった「一塔三金堂式」と呼ばれる特殊な伽藍配置様式が採用されていたことだろう。
創建飛鳥寺は、塔を中心としてその東・西・北の三方に塔に面した三つの金堂を配し、中門から発する回廊がこれらを囲み、回廊の外に講堂が建つという、まったく予想を超えた伽藍配置を採用していた。こうした伽藍配置は、高句麗の都があった平壌で発掘された清岩里廃寺、上五里廃寺、定陵寺などにだけ類例が見られるにすぎない。 百済の技術者の支援を受けながら百済にはない伽藍配置が採用されていたことは、発掘調査がもたらした最大の謎である。専門家はその解明に様々な説を持ち出した。その1つは、当初は伽藍が一直線に並ぶ四天王寺式で建立されたが、その後何かの事情で東西金堂が追加されたというものである。その根拠として、塔や中金堂の基壇が、花崗岩の地覆石と凝灰岩の羽目石からなる壇上積基壇を採用しているのに対して、東西両金堂の基壇は下成壇上に小礎石を配する特殊な二重基壇であることが指摘された。 新たに東西金堂を増設するには、東西の回廊を外側に移築しなければならない。だが、発掘調査では、回廊部分が移築された痕跡は発見されていない。当初から三金堂を建設することで伽藍配置の基本設計がなされていたことになる。一般に、蘇我馬子が主導したのは百済一辺倒の外交であり、聖徳太子の時代になって半島三国との等距離外交に代わったとされている。しかし、飛鳥寺創建の時点で、百済に劣らない支援が高句麗からもあったと考えることで、上記の伽藍配置や基壇の違いに関する謎も氷塊する。ただ、高句麗からの技術者の派遣が『日本書紀』に記載されなかっただけの話である。
当時の中国大陸では、581年に隋が成立し、高句麗と国境を接するようになる。南で百済と新羅に敵対していた高句麗はこの隋の成立に危惧の念を抱いた。そこで、遠交近攻策を取り、百済と新羅の背後に位置する我が国との外交関係の樹立に熱心だった。すでに敏達朝のはじめに国交を結ぶことに成功した高句麗が、時の権力者・蘇我馬子が崇仏に熱心であると知って、仏教興隆のためのさまざまな支援を申し出てきたであろう。 588年に百済からの寺工の到着を待って、馬子の邸宅では、伽藍配置の基本設計が何度も打ち合わされたであろう。筆者はその段階で高句麗の寺工も関与していたと推察している。百済から四天王寺式の伽藍配置が提案され、高句麗から一塔三金堂の伽藍配置が提案されたとして、馬子がどちらを採用したか。応えは誰にも自明であろう。仏教寺院という当時としては最先端の総合文化施設で蘇我一族の権威を飾ろうとしていた馬子にとって、一塔三金堂の伽藍配置はおそらく我が意を得たのプランだったに違いない。伽藍の建立に関しても、中金堂と塔は百済の寺工が指導したのに対して、東西両金堂は高句麗の寺工の指導のもとに建てられたと考えれば、基壇の様式の違いも理解できる。 |
飛鳥の真神原が飛鳥寺建立の地に選定された理由
『日本書紀』によれば、蘇我−物部戦争で勝利した蘇我馬子は、飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬいのみやつこ)・樹葉(このは)の家を壊して寺地とし、この場所を真神原(まかみのはら)と名付けたという。それが、現在飛鳥寺が建っている場所である。では、なぜ馬子はこの場所を寺地として選定したのであろうか。 その理由として、この地がケヤキの林がある神聖な所だったとする説がある。ケヤキは、古代には槻(つき)の木と呼ばれて神聖視されていた。そのため、別名を斎槻(ゆつき)とも称した。槻の木の下は、神聖で清められた場所と認識され、誓約やそれに伴う饗宴などが繰り返し行われたという。 飛鳥寺付近に槻の木があったことは、『日本書紀』がよく知られた逸話で証明している。645年6月に中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に蘇我入鹿を殺す「乙巳の変(いっしのへん)」が起きた。その首謀者の二人が知り合うきっかけは、飛鳥寺の槻の木の下で催された蹴鞠(けまり)の会だったとされている。おそらく飛鳥寺の西門から飛鳥川の川岸にかけて当時もケヤキが群生していたのであろう。その林の中に様々な催しを行うのに適当な広場があったと思われる。 新しい神である仏を祀る寺院を建立する場所として、蘇我馬子はおそらく古来から神聖な場所と認識されてきた真神原の槻の林に着目したのだろう。たまたまそこに渡来系の樹葉の家が建っていた。そこで、樹葉の家族を他の場所に移転させ、さらに周囲の槻の林を切り開いて広大な空間を更地に変えさせた。だが、この付近は、現在でも棚田が続くほど傾斜している土地柄である。加えてケヤキは根が深い。深い根を掘り起こし、土地を平らに造成するには、膨大な人力を要したであろう。
現在、飛鳥寺の西に「入鹿の首塚」と称する五輪塔が置かれている。今から1400年の昔、この付近一帯はケヤキの林があり、巨大なケヤキの木が天に向かってそびえていた。神々が降臨する依り代として、ケヤキは神聖な木だった。「乙巳の変」による蘇我本宗家の滅亡は、異国の神を祀るために神聖な木々を切り倒した蘇我馬子の傲慢さに対する報いだったかもしれない。 別の説もある。田村園澄氏がその著書「仏教伝来と古代日本」などで紹介している説で、飛鳥寺の寺地選定にあたり、尼寺の豊浦寺(とゆらでら)との距離が条件となったという。豊浦寺というのは、 推古天皇が592年に即位した豊浦宮の前にこの地にあった桜井寺のようだ。当時桜井寺には、百済留学から帰国した尼僧の善信尼が済んでいた。 田村氏によれば、善信尼が留学した百済では、尼寺と僧寺とは互いに鐘声が聞こえる所に建てられていた。というのは、半月毎に白羯磨(びゃくかつま)、すなわち自己反省の集会が尼寺と僧寺とで交代で開かれ、そのたびに尼また僧がその寺に参集しなければならなかった。 また、百済の僧尼の得度出家の制によると、尼になるには、まず尼寺で十人の尼師について戒を受け、ついで僧寺で十人の法師について戒を受けなければならない。だた、当時は尼寺の桜井寺はあっても僧寺はまだ存在しない。そこで、善信尼は蘇我馬子に対して僧寺の建立を、しかも桜井寺から鐘声が聞こえる場所に建立することを強く要望した。田村氏によれば、飛鳥寺の創建は善信尼のそうした強い要望に応えたものであるという。 |
飛鳥寺完成した時期今回の講堂の礎石発見の報道は、奈文研が準備した発掘調査資料とほぼ同内容の記事が新聞各紙で掲載された。その中で興味深かったのは、飛鳥寺の完成時期に関する記述である。読売新聞は596年としているのに対し、毎日、朝日、奈良新聞は一様に606年と報道していた。つまり、10年の誤差がある。 これは、以下の理由による。上記のように日本書紀は推古天皇4年(596)に法興寺を造り終わるとしているのに、その9年後に奇妙な記述がある。すなわち、推古天皇13年(605)4月、推古女帝は、詔勅によって1丈6尺の仏像を銅(あかがね)と繍(ぬいもの)でそれぞれ一体作ることを命じ、鞍作鳥(くらつくりのとり)を造仏工に任命したという。翌年の4月8日、鞍作鳥は銅の釈迦丈六像が完成した。だが、金堂の戸が低くて堂の中へ搬入できなかった。工人たちは堂の戸を壊して搬入しようとしたが、鳥の知恵で戸を壊さずに搬入できたので、その日斉会(さいえ)を設けた。 つまり、仏教寺院は諸々の堂宇ができただけでは完成したとは言えず、本尊が完成してはじめて寺の建立と見なすという考えが、こうした見方の底流にあるようだ。考古学会でもこうした考え方を支持しているようで、最近の関係資料でも完成時期を7世紀の初めと記したものが多い。 筆者はこうした考え方にいささか疑問を感じている。その理由を以下に示すことにする。 先ず、我が国で最初の本格的仏教寺院の建立を思い立ち、その技術支援を仏教先進国の百済に要請したとき、派遣されてきた技術団の中には造仏工が含まれていない。このことの意味はきわめて明白である。588年の時点で、蘇我馬子は飛鳥寺の本尊として祀る仏像をすでに確保していたか、あるいは、仏像製作に習熟した渡来系工人を確保していたためだ。
別の伝承もある。敏達天皇6年(577)、”百済王は日本に帰る大別王(おおわけのおおきみ)につけて経論若干とともに律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を献上した”という。彼らは難波の大別王の寺に配置された。大別王が何者か不詳である。だが、この『日本書紀』の記述がなにがしかの史実を反映しているならば、10年も前に百済から造仏工が我が国に渡来していたことになる。馬子が特に造仏工の派遣を要請しなかった理由の背景には、こうした事実があったのであろう。 したがって、596年に飛鳥寺が完成したとき、3つの金堂にはそれぞれの仏像が安置されていた、と筆者は考えている。では、それから9年も経って、605年になって天皇直々に本尊の鋳造を命じた背景は何なのか。こうした疑問も田村氏の説によって納得することができる。
そこで、蘇我馬子ではなく推古天皇が直々に詔勅を発して新たに銅の丈六釈迦像と丈六の繍帳の製作を命じたのである。そのためのひな形を募集したところ、たまたま鞍作止利が応募したものが、女帝の意にかなったというのが、真相ではないだろうか。
断っておくが、606年は飛鳥寺そのものが完成した年ではない。飛鳥寺の諸伽藍はすでに完成していた。この年に完成したのは、飛鳥寺の中金堂に安置するために新たに鋳造された本尊の釈迦如来三尊像だった。しかも、本尊完成の時期に関しては異説もある。『元興寺縁起』では、3年後の609年としている。
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