![]() | 宮内庁によって崇峻天皇の倉梯岡陵 |
坂道を愛用のチャリンコを押しながら崇峻天皇陵を訪れる現在の桜井市の市域は、古代には「磐余(いわれ)」と呼ばれ、古代の天皇の宮居が置かれた地域で、飛鳥(あすか)よりも古い歴史を持つ。飛鳥地方が時代の脚光を浴びるようになるのは、推古天皇が飛鳥の豊浦に宮を築いた6世紀末から平城遷都までの約1世紀の短い期間にすぎない。崇峻天皇の宮は現在の桜井市大字倉橋に営まれた。
その崇峻天皇に関して、いくつかの謎がある。先ず、柴垣の宮が倉梯の何処に営まれたかはっきりしない。さらに、埋葬地もはっきりしない。『日本書紀』は、殺された天皇の亡骸をその日のうちに倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬ったと記す。現在、桜井市大字倉橋に宮内庁が崇峻陵として管理する陵が存在する。しかし、それは『日本書紀』の記述に基づいて明治時代に御陵として整備されたものである。
悲運な運命に翻弄された天皇の死について少し考えてみたくなって、本日久しぶりに倉橋を訪れた。崇峻陵は、談山(たんざん)神社へ続く多武峰(とうのみね)街道の途中にあり、寺川の流れに沿って築かれている。西側に聳える急峻な山が川岸まで迫って視界が開けない上に、日当たりもよくない。お世辞にも天皇の宮地として適した場所とは思えない所に築かれている。 ところで、今まで崇峻天皇陵が桜井の市街地からどれほどの高さにあるのか、またどれほど山間にあるのか実感したことがない。いつもバスを利用して訪れていたためである。今回はどれほど不便な場所にあるのか確かめるため、愛用のチャリンコで出かけることにした。 橿原市と桜井市を区切る米川にかかる「ささほ橋」を渡れば、桜井市の市域に入る。そのまま進めば安倍材木団地に入り、県道15号線にぶつかる。左折して次の交差点「木材団地5号」で東へ道を取れば、県道37号、通称多武峰街道に行き着く。その手前に、多武峰から流れ下ってくる寺川がある。寺川に架かる橋を上宮橋という。
この橋の近くの寺川を見下ろす台地で、1986年から発掘調査が行われ、飛鳥時代の豪族の居館遺構が発見され、上之宮(うえのみや)遺跡と名付けられた。遺跡の規模は東西およそ5、60m、南北およそ100mで、その範囲に、当時としては第一級の規模・格式をもった四面庇(ひさし)付大型建物の居館をはじめ、倉庫群や掘立柱建物が配置されていた。これらの建物をとりまく柵列と溝が東と南側に造られ、西側にはこれらの建物群に付属していたと思われる園池遺構や石組み遺構が検出された。 聖徳太子は上宮皇子とも呼ばれていた。この付近は太子が斑鳩(いかるが)に移るまで居住したと推定され、皇子の名に因んで上宮と呼ばれてきた。発掘された居館遺構は、上宮皇子の宮跡だったのでは、と推測されている。現在、遺跡の周りは住宅が建ち並び、遺跡には園池の石組み遺構が復元されている。
道路を挟んで上之宮遺跡とは反対側に、メスリ山古墳と呼ばれる大型前方後円墳がある。全長224m、前方部幅80m、後円部高さ19m、前方部高さ8m、三段築成で構築された古墳時代前期(4世紀中頃)の堂々たる前方後円墳である。高さが2.42m、基底部の直径が90cmの堂々たる、日本最大の大型特殊円筒埴輪を出土したことでも知られている。 上之宮遺跡が聖徳太子の宮跡だったならば、太子は南に聳えるこの巨大な墳丘を毎日目にしながら過ごしたことになる。 崇峻天皇が東漢駒の凶刃に倒れたあの日、聖徳太子も間違いなく倉梯の柴垣宮の朝貢の儀式に参列していたはずである。通説のように柴垣宮が現在の崇峻天皇陵の傍にあったのであれば、太子の上宮からわずか2km離れているにすぎない。歩いても25分で行ける距離である。
坂道を登り切ったところにT字路があり、聖林寺(しょうりんじ)方面への大きな看板が寺川の橋の上に立っている。右手を見ると、国宝十一面観音で知られる聖林寺の本堂の屋根が、集落の奥に見えた。平らになったと思う道は、また上り坂になりそのまま自転車を押しながら進んだ。 やがて左手に石段が見え、横に「式内 下居(おりい)神社」と書かれた石碑が立っている。近くで世間話をしている二人のオバサンがいたので、誰を祀っているのか聞いてみた。二人とも地元に住みながら、聞かれるまで祭神のことなど知らないまま過ごしてきたと恥ずかしそうに笑った。そして、社殿はずいぶん山を登った上にあると教えてくれた。 下居神社の社殿は、下(しも)、浅古(あさご)および倉橋(くらはし)の三つの大字が境界を接する山上に鎮座している。祭神として、神武天皇の長男の彦八井耳命(ひこやいのみこと)を祀っているが、近世までは天満神社と称して天満天神を祀っていた。実は下居神社が鎮座する場所は、崇峻天皇の柴垣宮の候補の1つにされている。それは、崇峻天皇が倉橋の南に位置する下居原に庭を造らせて、宮から四季を叡覧したという伝説が残っているためだ。大字倉橋の南には今でも下居(おりい)と呼ばれる地区が存在する。 下居神社の鳥居の前を過ぎてさらに坂道を登っていくと、「赤鳥井」のバス停がある三叉路に出た。右折すれば、しだれ桜で知られる満願寺がある今井谷を経て明日香村の八釣に続く4キロ近い農免道路である。そのまま坂道を進むと「倉橋」のバス停がある。そのバス停から20メートルほど先の右手に呉服屋があり、その角に「崇峻天皇陵」と刻まれた石碑が立っている。民家の間の細い道を下っていくと、寺川の岸に築かれた天皇陵の前に出る。
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悲劇の舞台となった倉梯の柴垣宮(しばがきのみや)
宮内庁によって崇峻天皇の倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)として管理されている陵は、桜井市大字倉橋に所在する円丘とされている。ただし、巨木やその下に密集する雑木に覆われてなにも分からない。その上に、横を流れる寺川までせり出した山陰にあたるため、昼訪れても薄暗い感じがする。最初にこの御陵を訪れたとき、何故この場所に? という疑問を持った。
では、崇峻天皇の倉梯柴垣宮は何処にあったのか。『日本書紀』は、崇峻天皇の即位前紀で、泊瀬部皇子は炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)(後の推古天皇)や群臣の勧めを受けて旧暦の587年8月2日に第32代天皇として即位し、その月に倉梯に宮殿を造ったと記している。『古事記』にも、用明天皇の異母弟・泊瀬部天皇は「倉椅(くらはし)の柴垣宮に坐しまして、天の下治らしめす”とあり、崇峻天皇の宮居は現在の桜井市大字倉橋に営まれたようだ。 こうした記述が史実を反映しているなら、崇峻天皇は自らの意志ではなく、誰かに押し切られて山間の地に宮居を設けたことになる。まるで当初から天皇を幽閉状態に監禁しておきたいという誰かの意志が働いたとも思える。あるいは、そうした意志を感じとって、天皇自らが攻めるに難しい場所を選んで宮としたのかもしれない。いったい、崇峻天皇の登極に際して何があったのか? 倉橋には倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた小字「天皇屋敷」があり、その地に以前から崇峻天皇の位牌を祀る柴垣山金福寺があった。そのため、江戸幕府は安政2年(1855)に現在の場所を陵地に比定し、明治22年(1889)には宮内庁が崇峻天皇の倉梯岡陵に治定して整備を行った。その結果が現在の姿である。 崇峻天皇の死から1300年を経た明治時代になっても、皇国史観に毒された輩は崇峻天皇の復権を認めたがらなかったようだ。『日本書紀』が史実を記しているなら、崇峻天皇は蘇我馬子が放った刺客によって殺された犠牲者である。本来ならば、もっと景観のよい場所に手厚く埋葬しなおすというのが、先祖に対する供養であろう。上に述べたように、すでに江戸時代から倉橋字赤坂にある赤坂天王山古墳は赤坂陵とも呼ばれ、崇峻天皇の倉梯岡陵に擬定されていた。また、法隆寺の近くで発見された藤木古墳は、地元では古くから「ミササキ山」と呼ばれており、江戸時代の延宝7年(1679)に書かれた文書にも、はっきりと「崇峻天皇御廟 陵山」という記載があるという。 だが、宮跡と陵が同じ場所にある不自然さを無視し、何故か明治政府は記紀の記述から推定されるこの山間の薄暗い山陰の地を、御陵として治定し整備した。古老の話だと、整備作業のとき、奥まった場所から小さな石棺が出てきたが、何処かへ持ち去られてしまったそうだ。何のためか? 何を隠蔽しようとしたのか? 『日本書紀』は、駒によって殺されたその日のうちに、天皇の遺体を倉梯岡陵に葬ったと記す。いかにも宮の近くに、まともな葬送儀礼も行わずに埋めてしまったという印象を与える書き方である。亡骸がこんなに粗末に扱われた天皇がいるだろうか。そのため、蒲生君平は『山陵志』のなかで、「倉梯岡陵は寿陵ではないか、さもなければその日のうちに葬送が行われるはずがない」といっている。しかし、寿陵を築いていたとする史料はない。しかも、この陵墓は崇峻天皇の倉梯芝垣宮の跡地に建っていた金福寺から至近距離にある。たとえ寿陵を造ったとして、自分の宮所と目と鼻の先に墓地を築くとは到底思えない。
御陵の境域内に、位牌堂と呼ばれている小さな建物が建っている。金箔で「崇峻天皇」と書かれた位牌を納めた厨子が安置されている建物だそうだ。だが、近所の老人に聞いた話では、実際には厨子は位牌堂にはなく、北隣の金福寺に置かれているとのことだ。寺と言われても、山門があるわけでもなく、普通の民家と変わらない切り妻屋根の古びた建物である。 |
筆者の推測では、崇峻天皇を暗殺した本当の黒幕は・・・・
平日の昼下がりに、この陵墓に訪れてくる参拝客の姿など見当たらない。寺川の心地よいせせらぎの音に耳を傾けながら、縁石に腰を下ろして、崇峻天皇暗殺の通説を少し疑ってみた。通説では、崇峻天皇が献上されたイノシシの頸をはねるとき「朕が憎いと思っている者もこのように斬りたいものだ」と近従たちに話しているのを妃の大伴小手子(おおとものこてこ)が立ち聞きし、天皇の寵愛が衰えたことを恨んでいた彼女は、そのことを蘇我馬子に密告した。これが事件の発端とされている。馬子は天皇が己を亡き者にすることを画策しているものと考えた。そこで、先手を打って東国からの献上の儀式を演出し、部下の東漢駒に殺害させた。
話は5年前にさかのぼる。旧暦の587年4月9日、聖徳太子の父・用明天皇が在位わずか2年で病没した。当時は大和の主要豪族の合議によって次期天皇が選ばれた。その時点で候補者は4人に絞られていたという。一人は先の天皇・敏達の第一皇子・押坂彦人大兄皇子 (おしさかのひこひとのおおえのみこ)。当時の推定年齢は28歳。皇位継承の筆頭と目され中小豪族の支持を受けたが、蘇我氏の血が流れていないため、馬子から敬遠された。
その時点での穴穂部皇子の弟・泊瀬部皇子は、推定年齢29歳だったが、兄が皇位継承者の有力候補だったため、ほとんど無視されていた。ところが、敏達天皇の殯(もがり)の宮で事件が起きた。穴穂部皇子が殯の宮に侵入し、あろうことか炊屋姫を暴力で犯そうとした。幸い、炊屋姫の寵臣・三輪逆(みわのさこう)の働きで事なきを得たが、後に皇子は三輪逆を殺してしまう。気位の高い美貌の元皇后は激昂して、馬子に穴穂部皇子を命じた。 蘇我馬子はその年の七月、皇族や豪族の連合軍を組織して物部守屋を滅ぼして、大和朝廷の第一人者にのし上がった。炊屋姫にとって蘇我馬子は血のつながった叔父である。叔父の力を利用して、なんとか溺愛する竹田皇子を皇位につけることを画策したようである。しかし、年齢が若い上に、馬子自身は竹田皇子よりも、物部討伐で活躍し、聡明な人物として頭角を現してきた厩戸皇子(のちの聖徳太子)を買っていたようだ。 そこで、両者の妥協の結果、両皇子が成長するまでの天皇として、泊瀬部皇子に白羽の矢がたった。こうして、本人も予期せぬうちに、崇峻天皇が誕生した。当時、敏達天皇の皇后だった炊屋姫は、大和朝廷において隠然たる勢力を握っていたようである。権力志向の強いこの女性は、溺愛するわが子をなんとしても天皇の位につけたいと目論んだ。その場合、彼女の取ったシナリオは読めてくる。 泊瀬部皇子は決して凡庸な皇子ではなかったようだ。在位はわずか五年に過ぎなかったが、東国の国境視察の使者を派遣したり、群臣に詔して任那復興を建議させ、大将軍らを任命して2万余の軍を筑紫に派遣したりしている。だが、炊屋姫にとって息子が成長するまでの傀儡天皇が優秀であっては困るのだ。なるべく人里離れた場所に宮を築かせ、そこで何もしないで過ごしてくれればそれで良い。おそらく宮地の選定には、炊屋姫の強い意志が働いたものと推察される。
この事件は、当然のことながら大和朝廷を根幹から揺るがせた。なまじの対策では人心が治まらないと読んだ策士の馬子は、苦肉の策を生み出した。炊屋姫を登極させ、我が国最初の女帝を誕生させることで人心の収攬させようというのである。そして、事は馬子の思惑通りに運んだ。女帝を誕生させると同時に、将来を嘱望する若き厩戸皇子を摂政の位につかせた。だが、実質的には第33代推古天皇が第32代崇峻天皇を暗殺して皇位を継いだことに変わりはない。しかし、天皇家の正史である『日本書紀』が、こうした事件をそのまま史実として記述できるはずもない。そこで、天皇弑逆の黒幕を蘇我馬子とし、真の黒幕の炊屋姫だった事実を闇に葬った。 以上は、1つの可能性として筆者が描き出した推論である。しかし、同じことを考えていた人物が他にもいた。SF作家の豊田有恒(とよたありつね)氏である。しかも、豊田氏は14年も前の平成4年に「聖徳太子の悲劇」という作品を発表し、推古天皇がキング・メーカーだったと断じておられる。 しかし、こうした推論はあくまで1つの可能性を提示するだけで、史実を実証した訳ではない。残念なことに、我々は依拠すべき資料として『日本書紀』以外には何も持たない。今となっては死人に口なしである。『日本書紀』の記述を信頼するか、あるいは疑ってかかるかでまったく異なった過去の世界を垣間見ることになる。 |
崇峻天皇陵の候補の1つ赤坂天王山古墳に立ち寄る
同じ桜井市大字倉橋には、古くから崇峻天皇の御陵と考えられてきた古墳がもう一つある。赤坂天王山古墳(所在:桜井市大字倉橋字赤坂)である。江戸時代には赤坂陵ともよばれ、崇峻天皇の倉梯岡陵に擬定されたこともある。御陵としての元禄・享保年間の記録も残っているという。場所は倉橋地区の中の小字赤坂2464。宮内庁が治定している倉梯岡陵から北東方向へおよそ2.3キロの地点である。せっかく近くまで来たのだから立ち寄って見ることにした。 多武峰街道脇に立つ「崇峻天皇陵」の標識から少し南へ坂道を登ると、T字路の交差点がある。その交差点から道を左に取れば、桜井市高齢者総合福祉センターがすぐ右手の丘の上に位置している。このセンターがある丘の上に柴垣宮があったという説がある。土地の老人の話ではセンターの裏山に宮内庁が管理する土地があり、そこが実際の崇峻天皇の墓とも推測されている。
眼下に倉橋溜池が空の青を写して静まりかえっている。この溜池は昭和32年(1957)に農業用水の供給源として造られた。しかし、水をせき止めている堤の老朽化が進んで改修が必要となったため、洪水調節機能を持つ防災ダムとして整備され、平成12年(2000)に改修を完了した。周囲には柴垣の宮広場やまほろば広場などいくつかの広場が設けられ、市民の憩いの場となっている。
倉橋溜池の堤の上に立って下方を見ると、音羽山から粟原(おおばら)川に向って西北に下ってきた丘陵の先端部が長々と横たわっている。鬱蒼と緑の森で覆われたその先端部は、まるで1基の古墳のようにも見える、実は、この丘陵には2基の方墳と3基の円墳が築かれ、赤坂天山古墳群を構成している。 道路脇に赤坂天王山古墳の案内板が立っているので、この古墳群の所在を見失うことはない。案内板の横を抜けて丘陵に向かうと、手前に3枚の小さな棚田があり、棚田の奥にハサバなどに使う丸太をトタンで覆って保管してある場所がある。崇峻天皇陵に比定されている1号墳は、その場所の右側から少しばかり登った丘の上に築かれている。
1号墳の石室入口はポッカリと南に向かって黒い口を開いていた。のぞき込むと下に向かって傾斜しているようだ。長年の間に流れ込んだ土砂や木の葉で羨道(せんどう)が埋まってしまったのだろう。入口の穴は、体重80キロの筆者が入り込むにはいささか狭い。仕方なく後ろ向きになり、さらに腹這いになって穴の中へ滑り込む以外に手はない。そのとき滑り落ちないように、親切にも入口にはちゃんとロープが用意されている。 ロープにつかまって滑り込んだ後、起きあがろうとしてまず天井に頭をぶっつけた。堆積した土砂のために羨道の天井は低い。その上に、羨道の入口には閉塞石が残っている。何回も天井石に頭をぶつけながら、玄室(げんしつ)にたどり着いた。 資料によると、この両袖型の横穴式石室は全長が17m。羨道は長さ8.5m、幅1.8m、高さは現状で約2m、玄室は長さ6.34m、幅約3m、高さは現状で4.3mとのことだ。その玄室のやや北よりに安置されている石棺は、上記のように巨大であり、石室の入口からは搬入できない。そこで、この古墳の作り方として、(1)まず一辺40mの正方形の対角線の中心に石棺を据える、(2)その後に玄室と羨道の壁や天井となる岩を積む、(3)平行して順次土を盛り上げる、という工法が取られたと推測されている。
少し目が闇に慣れるのをまって、羨道から奥の方へ進んだ。ペンライトを点灯すると、奥の玄室に置かれた巨大な石棺がぼんやりと見えてきた。石棺の身の部分には、羨道に面した面の上辺中央に穴が穿(うが)たれている。その穴を囲むように三辺に四角に縁取りした切り込みが付けられている。これに対応する蓋の部分にも彫り込みがあるが、横口式石棺の小口板をはめ込むようなものとは違うという。他に全く類例がない珍しいものと言われている。近づいて、その穴から石棺の中をペンライトで照らしてみたが、何もなかった。
巨大な石棺の蓋を手でなでながらその周囲を一周しているうちに、何故か被葬者が崇峻天皇でなければならない気がしてきた。赤坂天王山1号墳が壮大な方墳であること、築造時期から6世紀末から7世紀初めと推定されることなどから、考古学会でも崇峻天皇陵に比定する説が有力である。だが、『日本書紀』は、崇峻天皇が殺されたその日のうちに亡骸を埋葬したと記載している。もしそのことが事実なら、文献上の記述と考古学的知見とが矛盾することになる。この矛盾の解決策として、崇峻天皇の遺骸はその日のうちに仮埋葬されたが、後日この墓を築いて改葬された可能性があるとする説がある。 では、弑逆事件の陰の黒幕とされる蘇我馬子あるいは推古女帝に逆らってまで、改葬を実行できた人物が当時存在したか。そう考えた時、浮かび上がってくる人物像がある。聖徳太子その人である。崇峻天皇は聖徳太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の実弟であり、聖徳太子から見れば、母方の叔父にあたる。しかも、聖徳太子が居住していた上宮は倉梯の柴垣宮から近い。崇峻天皇が即位する以前から二人の間に親交があったと考えるのが自然である。悲運にも凶刃に倒れた叔父を、天皇としての尊厳にふさわしい御陵を築いて改葬することが、摂政の位についた太子のまず実現したかった治績であってもおかしくない。 |
(追記) 天王山古墳群の2号墳と3号墳
1号墳を見学した後、ついでに2号墳と3号墳にもアクセスを試みた。
1号墳と2号墳の間を縫って小径が竹林の中を続いている。竹林が植林された若い杉の木に代わるあたりで前方を見ると、斜面の岩が小さな穴を覆うようにむき出している。3号墳の石室入口である。この古墳の入口も狭い。大人が腹這いになってやっと滑り込めるほどの広さしかない。
やっとの思いで滑り込んだ羨道は下に向かって傾斜している。したがって入口付近は外部の明かりがわずかに入り込んでいるが、奥は漆黒の闇である。ペンライトを点灯してみたが、弱い光では奥まではっきり見えない。少し目が闇に慣れるのをまって、羨道から玄室まで進んだ。1号墳と比べたら、横穴式石室の規模は小さい。だが、羨道は立って歩けるほど高い。玄室の天井も高いが、本来あるべき石棺が見あたらない。1号墳が崇峻天皇を埋葬した墓だったとしたら、3号墳は誰が葬られていたのであろうか。
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