橿原日記 平成18年11月2日

鞍作福利(くらつくりのふくり)の少年時代を追って小さな散策の旅に出る

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JR大和路線にかかる陸橋から加美鞍作方面を望む (2006/11/02 撮影)

古代の鞍作氏三代が居住したとされるかっての鞍作村

作止利(くらつくりのとり) − 中学校で日本の歴史を学んだ者なら、飛鳥時代を代表するこの仏師の名を知らない者はいないだろう。時の権力者・蘇我氏が建立した我が国最初の仏教寺院・飛鳥寺の本尊を製作したのは止利である。法隆寺金堂の本尊である釈迦三尊像を製作したのも彼である。

鞍作氏三代
鞍作氏三代
は、鞍作多須奈(くらつくりのたすな)は? 多須奈になると、知名度はぐっと落ちるかもしれないが、止利の父である。『日本書紀』には、用明天皇の病が重くまさに臨終を迎えようとしていたとき、天皇の病気平癒の為に出家修道し、丈六仏像と寺を造りましょうと申し出た。しかし、彼の願いも空しく天皇はすぐに崩御してしまった。それでも多須奈は3年後の590年に出家し、法名を徳斉法師と称したという。

作止利には有名な叔母がいた。その名を(しま)という。西暦584年、17歳(一説には11歳)で出家して法名を善信尼(ぜんしんに)と称した。588年、当時朝鮮半島に存在した百済(くだら)へ学問尼として遣わされた。我が国最初の尼僧であり、我が国最初の留学僧である。

作止利の祖父の名は意外と知られているかもしれない。鞍作村主司馬達等 (くらつくりのすぐり・しばのたちと)という。『扶桑略記』には継体天皇16年(522)に一族を連れて来朝したと記しているが、年代が合わない。おそらく干支を一巡繰り下げた582年頃に我が国に来たものと思われる。鞍作村主とは乗馬用の鞍を製作する技術集団の統括者である。

馬の風習は5世紀には我が国に伝わっており、馬具を製作する集団は既に存在した。司馬達等はおそらく鞍製作の新しい技術をもたらしたので、鞍作部の長に任命されたのであろう。だが、彼の名は、我が国の仏教の草創期に崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)に協力して仏教興隆に尽力した人物として知られている。

馬達等−多須奈−止利と続く三代を一般に「鞍作氏三代」と呼んでいる。古代に鞍製作集団が居住した地域は、通説では河内国渋川郡に属していた鞍作村だったとされている。渋川郡は古代に軍事氏族・物部氏(もののべし)が支配していた領地である。軍事氏族であれば、馬具などの製作集団を領地内に住まわせたのは当然であろう。その鞍作村は現在の大阪市平野区加美(かみ)一帯であり、加美鞍作(かみくらつくり)などの町名が名残として残っている。



遣隋使節の通訳として大陸に渡り客死した(?)鞍作福利

ころで、古代史に詳しくても、鞍作福利(くらつくりのふくり)という人物に思い当たる人は意外と少ないのではないか。著名な仏師・鞍作止利とは一字違いだが、彼の名は『日本書紀』に三度記されている。推古天皇15年(607)7月、小野妹子を大使とする使節団が隋に遣わされたことは誰でも知っている。その時、通事(=通訳)として同行した人物が鞍作福利である。

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年の推古天皇16年、隋の煬帝は秘書省の属官である文林郎(書物の校訂や著述などを掌る官庁の役人)の任にあった裴世清(はいせいせい)を団長とする使節団を、帰国する小野妹子らに同行させた。我が国の国情視察を目的とした視察団である。その視察団が9月に帰国するとき、小野妹子が再び大使に任命され、多くの留学生を引き連れて一行に随行して大陸に渡っている。そのときも、鞍作福利が通事として同行している。

古天皇17年(609)9月、小野妹子らは隋から帰国した。しかし、通事の福利だけは帰らなかったと、『日本書紀』はわざわざ断っている。


でこそ史跡探訪にハマっている筆者だが、これでも一応外国語大学の卒業生である。ソース・ランゲージやターゲット・ランゲージの日常会話に不自由しない程度の語学力では、外交使節の通訳はとても務まらない事を知っている。バイリンガーであるだけでなく、彼我両国の文化や歴史の深い知識、そして何よりも政治的駆け引きの裏の意味をしっかり理解できる能力が求められる。

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かも、通訳という仕事は古来地味な職業である。現代は一国の元首の外国訪問が煩雑に行われている時代だが、通訳者の名前がメディアで公表されることはまずない。まして正史にその名が記録されて後世に伝えられる例など希有である。だが、鞍作福利の名は3度も『日本書紀』に登場する。

者が鞍作福利の名を知ったのは、40年も昔のことである。当時努めていた民間企業から外国へ出張を命ぜられ、客先の要人との会合で通訳の苦労をさせられていた頃である。まず、通訳者の名前が正史に記されていることに驚いた。次に、彼がどのように当時の中国語をマスターしたのか興味を持った。そして、何よりも、彼が帰国せず大陸に留まった理由が気になった。

来、40年間、鞍作福利という古代人の存在が気になりながら生きてきたといってよい。いつか、腰を据えて、彼が生きた時代、彼が隋に留まった背景などを調べてみたいと思いながら、結局なにもしないで過ごしてきた。気が付いてみれば、彼が育ったであろう鞍作村すらどんなところか知らない。これではいけないと思い、彼が少年期を過ごしたであろう鞍作村を先ず訪れてみることにした。鞍作村は、現在は大阪市平野区の加美付近に地名が変わっている。



筆者が抱いた鞍作村のイメージと現実

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JR関西本線の「加美」駅付近

年の鞍作村を散策するには、JR関西本線(大和路線)の「加美」を起点とするのがよい。JRの線路を挟んで南側の加美鞍作1丁目、加美南1丁目、同3丁目、線路の北側の加美北8〜9丁目、加美正覚寺3丁目、加美東1〜7丁目あたりが、かっての鞍作村の境域である。古くは河内国渋川郡に属した。


代に渋川郡を領地としていたのは、軍事氏族の物部氏である。西暦587年の蘇我−物部戦争で、物部守屋(もののべのもりや)が滅亡すると、没収されて四天王寺の所領になったとされている。司馬達等が一族郎党を引き連れて、582年頃に我が国に移住してきた理由は分かっていない。だが、筆者は密かに物部守屋が関係していると見ている。

事氏族の物部本宗家の族長として、物部守屋は大陸や半島における武具や馬具の新しい技術の動向に常にアンテナを張っていたものと思われる。当然、様々な情報ネットワークから司馬達等の存在を知っていたであろう。司馬達等はその名から推し量られるように生粋の百済人ではない。どうやら中国の南梁からの亡命者のようである。ただし、すばらしい馬具製作の技術を持っていた。

済での達等の噂は、守屋の情報ネットワークを介して、彼の耳に達したようだ。守屋はなんとしても、達等を我が国に呼びたかった。彼にはそうしなければならない理由があった。これ以上の憶測を重ねるのは控えるが、結果的には守屋は司馬達等を一族郎党と共に呼び寄せることに成功した。 そして守屋の別業がある渋川郡に住まわせ、鞍作部の村主(すぐり)として遇した。


R関西本線(大和路線)の「加美」駅は、かっての鞍作村のほぼ中央に位置する。橿原からは、JR桜井線の「畝傍」駅から王寺へ出て、そこから大和路線に乗り継げば良い。ほぼ1時間で到着することができる。

JR関西本線(大和路線)の加美駅
JR関西本線(大和路線)の加美駅

者のイメージの中の鞍作村は、平野川と長瀬川に挟まれた微高地である。現在の長瀬川は江戸時代に新たに掘削された農業用の水路を整備したものだが、古代にはその川筋を大和川が流れていた。川幅が200mから300mもあった堂々たる大河だったという。平野川もそれ相応に水量がある河川だったであろう。当時は2つの大河に挟まれた微高地に水田が広がっていたが、まだ大木が生い茂る林や森も方々に点在していた。

R加美駅の北東には、弥生時代から古墳時代を中心とした加美遺跡という集落遺跡が存在した。東西800m、南北1キロの広がりを持つ集落跡からは、多くの竪穴住居跡や方形周溝墓が発掘された。後漢時代の鏡の破片や朝鮮半島の陶質土器などの遺物を出土した墓もあり、また土壙からは貯蔵された多量のオナモミが見つかっている。林や森を切り開いて古い時代から多くの人々が生活していた証である。

我−物部戦争の折には、物部守屋は鞍作村に隣接する衣摺(きずり)の地で、稲城(いなぎ)を築き榎(えのき)の木股に登って、寄せてくる蘇我軍に向かって雨のように矢を射かけて応戦したという。榎の生い茂る林が鞍作村にもあり、そうした林の中に、鞍製作工房を中心として工人たちの住居が点々としていた。彼らは朝は生駒山から登る朝日を見、夕方には上本町台地の彼方に沈む夕日を拝むことができたはずである。

が、現代の「加美」駅周辺で筆者のイメージを支援してくれる場所は、後に訪れる久宝寺緑地以外にはない。筆者が降り立った「加美」駅南口は、駅前広場すらない。駅の出口はそのまま狭い商店街の路地に面していた。駅の近くの菅原神社の境内にわずかばかりの緑が残ってた。だが、あとはびっしりと小さな商店や民家が建ち並ぶ大阪の下町である。

加美久宝寺線の「加美鞍作」交差点
加美久宝寺線の「加美鞍作」交差点
原神社の脇を加美久宝寺線と呼ばれる車道が走っている。地図で確認すると、駅から少し離れたところに「加美鞍作」交差点がある。この付近には、善信尼が開いたと伝えられる鞍作廃寺があり、礎石や奈良時代初期から鎌倉時代にかけての丸瓦や平瓦が出土したと聞いていた。善信尼ゆかりの場所となれば、どんな場所だったか見てみたい。まずは「加美鞍作」交差点を目指した。

名の「鞍作」を冠した寺跡ならば、地元ではその所在地を誰か知っているはずだと思った。ところが、道ですれ違った地元の老人に何人か聞いてみたが知らないという。「加美鞍作」交差点の角に交番があった。立ち寄って聞いてみたが、そこでも分からないという。しかし年配の警官が道路の反対側にある建物を指さして、
「あそこが平野区役所の加美出張所です。あそこだったら何か分かるかもしれません」
と、親切にも教えてくれた。

かし、加美出張所でも事情は同じだった。二人の職員が備え付けの平野区の地図などで調べてくれたが所在は不明だった(注。『大阪市内埋蔵文化財発掘調査報告-1997年度-』や『新修大阪市史 第一巻』には鞍作廃寺の説明があるようだ)。礼を言って退出しようとすると、平野区の地図や平野区のうおーくらりーマップを手渡してくれて
「史跡探訪されるなら、近くに奥田邸がありますよ。江戸時代初期から続く豪農の家で、国の重要文化財に指定されています」と教えてくれた。

っての鞍作村の面影を残す地域をのんびり散策しようと出てきた小さな旅である。鞍作廃寺跡が豪農の屋敷に代わったと思えばよい。次に訪れたい「鞍作公園」へ行く途中だから、立ち寄ってみることにした。



鞍作公園から久宝寺緑地へ

奥田邸の塀 奥田邸の案内
奥田邸の塀 奥田邸の案内

田邸(所在地:加美鞍作1-8-5)は、平野区役所の加美出張所がある区画の西端の通りを右に入り、すぐに狭い路地を左に入ったところになる。江戸時代の古い屋敷は橿原市の今井町にも幾つかあって見学できるようになっている。たまたま奥田邸の裏側に出たら、路地を竹箒で掃除していた住民がいた。声をかけると奥田邸の主人だった。中を見学できますか、と聞くと、解放しているのは毎月第4日曜日の午前10時から午後4時までです、という返事が返ってきた。

敷の表にまわると、長屋門の前に平野区役所が立てた案内板があった。それによれば、奥田家は代々鞍作の庄屋をつとめた家柄で、この地方の豪農だった。屋敷が造られた年代は不明だが、建築手法から推して江戸時代初期のものと思われ、大阪市内に残る数少ない民家の1つだそうだ。敷地をはじめとして主屋・座敷・長屋門・納屋その他の建物が当時のまま残っているため、主屋のほか7棟が国の重要文化財に指定されているとのことだ。


作公園は、加美南1丁目にある。加美久宝寺線を東に向かって進み、JRの線路をくぐる手前で右折すれば、すぐ阪和貨物線の踏切にぶつかる。踏切を過ぎてまっすぐ歩いていくと、加美南中学校の校舎の前に出る。鞍作公園は中学校の東側に位置している。

鞍作公園の入口 鞍作公園の中の遊園地
鞍作公園の入口 鞍作公園の中の遊園地

園の名前から、鞍作村を象徴しているような場所ように自分勝手に思いこんでいた。現実の公園は、その大部分が児童の野球場になっていて、付け足し程度に遊園地の砂場やブランコ、それに老人のゲートボール場が並んでいるにすぎず、下町の遊園地といった感じの公園である。それでも、せっかく思い描いていた場所に来たのである。遊園地の中のベンチに腰を下ろして周囲を見渡してみると、遠くに高層マンションが何棟か聳えているのが梢の間から見える。だが、周囲の家屋のほとんどは、昔懐かしい棟割り長屋のような民家や町工場である。昭和30年代に大阪の下町で馴染んだ景観が周囲にあった。


ころで、鞍作福利は何処で生まれ、何処で育ったのだろうか? 彼の履歴を示す資料などいっさい存在しない。そうであれば、かってに憶測する以外にはない。まず、彼の年齢であるが、西暦607年に遣隋使節の通訳として大陸に渡った時は、まだ20代後半だっただろうと推定している。遣隋留学生や遣隋留学僧として選抜されて大陸に渡った者たちは、ほとんどが20歳前の優秀な青年たちだった。大使の小野妹子ですら、まだ20代の若い大使だったであろう。そうであれば、通訳として随行した鞍作福利もほぼ同年代と考えざるを得ない。筆者は、司馬達等が来朝したとされる582年前後に生まれたと想像している。

は、鞍作福利は誰の子供か? この点も勝手に推測する他はない。手がかりは、鞍作止利との名前の類似性だけである。止利に近い存在だったとすれば、従兄弟同士だったとの想定も可能であろう。止利が鞍の製作技術を応用して飛鳥寺の本尊の鋳造に日夜苦心していた時期に、福利は玄界灘を越えて祖父の母国へ旅たって行ったことになる。

者は、鞍作福利がどこで漢語を覚えたのかずいぶん気になっていた。外交使節の通訳が務まるほど漢語を流暢に話せるためには、ある一定期間大陸で生活した経験か、あるいは身の回りにネイティブ・スピーカの存在が不可欠である。聖徳太子の時代、朝鮮半島からは多くの僧侶や文化人が来朝している。例えば推古天皇20年(612)に百済から来朝した味摩之(みまし)は、「呉の国に学び、伎楽(くれがく)の舞ができます」といって、伎楽を伝えている。しかし、彼の来朝は福利が最初に隋に渡った5年後である。

利が中国語を覚えることができたヒントが1つある。『扶桑略記』には何を根拠にしたのか不明だが、司馬達等を南梁(なんりょう)の人としている。南梁とは、武帝蕭衍(しょうえん)が魏晋南北朝時代の502年に前王朝・斉(せい)の和帝の禅譲を受けて建国した王朝で、建康を都とした。仏教王国として栄えたが、548年に起きた侯景(こうけい)の乱を契機に、557年武帝一代で滅びた。司馬達等は、あるいは侯景の乱を避けるために建康から百済の王都・泗ヒ城に亡命した人物だったかもしれない。そうであれば、福利は身近に中国語の教師を持っていたことになる。


近畿自動車道脇のJRの線路をまたぐ歩道橋
近畿自動車道脇のJRの線路をまたぐ歩道橋
作公園から久宝寺緑地に向かうために、近畿自動車道の脇に作られたJRの線路をまたぐ歩道橋を越えた。歩道橋の上から見下ろす線路の両脇は、かっての鞍作村の境域である。物部守屋の招聘に応じて、百済の泗ヒ城から長い船旅の果てにこの地にやってきた司馬達等の一族郎党は、どのあたりに居を構えたであろうか。彼らは難波津に着くと、船を乗り換えて河内湖に入り、当時の大和川をさかのぼって、守屋の別宅に迎え入れられたはずである。守屋の別宅は、八尾市太子堂にある「大聖軍寺」あたりにあったとされている。

屋が屋敷に迎えた一行の中に、乳飲み子を抱いた百済の女性がいたにちがいない。その乳飲み子こそ、やがてこの地で数奇な運命に導かれて、25年後に同じ大和川を川船で下り、難波津から船出していった遣隋使節の通訳・鞍作福利だったと、筆者は勝手に想像している。

久宝寺緑地の運動公園側入口 久宝寺緑地の中央公園付近
久宝寺緑地の運動公園側入口 久宝寺緑地の中央公園付近

道橋を降りると、近畿自動車道の高架下に「神武町」交差点があり、その向こうに「久宝寺緑地」が広がっている。久宝寺緑地は服部・鶴見・大泉と並ぶ大阪4大緑地の1つである。八尾市、東大阪市、大阪市平野区にまたがる府営公園で、甲子園球場の約10倍の広い園内には、「花の広場」や「ファミリー広場」などの憩いのスペースに加え、本格的なスポーツ施設が揃っている。公園の西側は平野区の加美東地区である。おそらく、この緑地付近も少年時代の福利の遊び場だったかもしれない。真夏の太陽の下で川ブナ取りに熱中する少年の日の福利の姿を想像するのは楽しい。



蘇我−物部戦争の戦跡を顕彰する碑「衣摺顕彰之碑」

年の夏に蘇我−物部戦争の古戦場を探訪し、そのレポートを橿原日記に掲載したことがある(平成17年8月3日付け橿原日記参照)。今年の8月になって、橿原日記にアクセスいただいたハンドル名クマさんから一通の投稿をあり、東大阪市立長瀬西小学校のホームページを紹介された。その中に、地域の歴史を綴ったページがあり、蘇我−物部戦争の戦跡を顕彰する碑「衣摺顕彰之碑」の存在を教えて貰った。

光泉寺付近のマップ
光泉寺付近のマップ
者は以前、長瀬川と衣摺地区の間にある広い野球のグラウンドを備えた金岡公園のベンチに座り、物部守屋がこの金岡公園付近で稲城(いなぎ)を築き、エノキに登って討伐軍に対して応戦している様子を勝手に想像した。稲城を築いたと伝承されている場所が実際に金岡公園の近くに存在していたとは驚きである。

彰碑は、一条山光泉寺(所在地:東大阪市衣摺3−15−25)の築地塀の角に立っているという。地図で確認すると、久宝寺緑地から北へ直線距離で1キロほどの所である。せっかく近くまで来たので立ち寄ってみることにした。

一条山光泉寺 光泉寺の築地塀脇に立てられた顕彰碑
一条山光泉寺の門 光泉寺の築地塀脇に立てられた顕彰碑

「衣摺顕彰之碑」
「衣摺顕彰之碑」
衣摺顕彰之碑」は光泉寺の築地塀の角にある地蔵堂に沿うように建っていた。第7代長瀬村村長の奥田武三郎の孫にあたる奥田裕一郎氏の出資によって、平成元年10月吉日に建てられた碑である。高さ1.85m、幅1.7mの白御影石に750余字が刻まれているが、碑の撰文と書は「衣摺を語ろう会」の会長・佐野一雄氏によるものである。

文は守屋の最後の様子を記述した後、”聖徳太子(厩戸皇子)は、やむを得ぬ戦いのために亡くなった守屋を惜しんで、守屋戦死の大榎(えのき)に袖を摺りつけて落涙されたので、この地を衣摺と呼ぶと政野家文書にある”と、地名縁起を説明している。さらに、稲城の跡は、衣摺神社、光泉寺となり、大榎は脇芽が相次ぎ生い茂り、その巨大な根株は大正初期まで存在していた”と記している。

作福利が582年頃に生を受けたのであれば、587年に勃発した蘇我−物部戦争は物心ついた5歳か6歳の時の出来事である。あるいは好奇心のあまり、物陰に身を潜めて戦場の様子を見ていたかもしれない。戦争の悲惨さを直接体験した彼は、成長するに従って「和」を説く若き政治家・厩戸皇子に心酔し、皇子の周りに自然とできた若者たちのグループに入っていったであろう。そうしたつながりの中で、厩戸皇子に抜擢され、遣隋使節の通訳を拝命したと考えるのは、筆者の妄想であろうか。

使・裴世清(はいせいせい)が帰国するとき、小野妹子は再び大陸に渡った。このとき、8人の遣隋留学生・留学僧が彼に随行したと『日本書紀』は記している。実際はもっと多くの若者が隋に渡り、隋都・大興城や副都・洛陽城で隋の新しい制度や仏教の経典の勉強に精を出したはずである。当然のことながら彼らの横の連絡や隋王朝との折衝にあたる人物が必要になる。鞍作福利は厩戸皇子からそうした重要な特命を受けて隋に留まったのではないだろうか。そう考えなければ、一介の通訳が帰国しなかった事実を、ことさら正史に特記する理由が見あたらない。


2008/11/04作成by pancho_de_ohsei

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