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| 発掘調査が終わって埋め戻されていた羽内遺跡 (2006/10/31 撮影) |
多くの謎を残したまま埋め戻されてしまった住居跡発掘された建物跡には、6−7世紀頃に大型の建物が存在した。その使用目的は何だったのか? 掘立柱が従来の工法ではなく特殊な工法で土台を固めている点を考慮すれば、相当量の重量に耐えられる建物が建っていたにちがいない。それに加えて、大壁建物の存在は渡来人の関与を伺わせる。しかも、遺跡は現代でも辺鄙と思われる山中の谷間に立地する。古代では、アクセスするのも大変な場所であっただろう。 高取町教育委員会によれば、調査範囲をこれ以上拡大する予定はないそうだ。建物跡の性格は謎のまま地かに埋められてしまった。したがって、発掘調査で得られた知見と発掘場所の地名、その他から建物の性格を類推するほかはない。 先ず、建物跡が見つかった遺跡の周辺は、古代には波多郷または羽田郷と呼ばれていたことが分かっている。『日本書紀』には推古天皇20年(612)の夏5月5日に”薬猟(くすりがり)をして後、羽田(はだ)に集い、引き続いて朝廷に赴いた”という記述がある。この時の羽田を『和名抄』は大和国高市郡波多郷としている。 『大和志』は「羽田」を現在の高市郡明日香村大字畑に比定しているが、一般には現在の高市郡高取町南部の郷域と考えられている。その根拠となる記述が、『今昔物語』巻11第32にあり、「今昔、大和国 高市の郡 八多の郷に 小島山寺という寺あり」と書かれている。小島山寺という寺は高取町大字上小島・下小島の付近にあったと見なして良い。
羽田または波多という地名は、古代の豪族・波多(はた)氏と結びつく。遺跡が見つかった高取町羽内周辺は波多氏が本拠とした地域と推定されていたが、今まで考古学的物証がなかった。そんな中での今回の建物跡の発見である。当然のことながら、波多氏の居館だったのではとする推定が出されて当然である。 ところが、古代の波多氏がどのような氏族だったかよく分かっていない。『古事記』では、波多氏は臣(おみ)姓の氏族で、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君などと共に、大和豪族の祖・武内宿彌(たけのうちのすくね)の子・波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を遠祖とすると記されている。 波多八代宿禰は武内宿彌の9人の子(男7,女2)の筆頭に挙げられている人物である。『日本書紀』には応神天皇3年に、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰(きのつねのすくね)らと共に百済に遣わされ、その無礼を責めた人物として登場する。百済は辰斯王を殺して謝罪したので、宿禰らは阿花を王にたて帰国したという。 『日本書紀』はさらに、履中天皇が皇太子のときに波多八代宿禰の娘の黒媛をたてて妃にしようとしたが、仲皇子が不倫をはたらいたので、皇子を攻め殺したと記述している。こうした記述から、波多氏は百済で軍事、外交面に功績を残した有力な在地氏族と見られている。 壬申の乱のとき、羽田公矢国(はたのきみ・やくに)が朝廷の軍の将として参戦したが、子の大人らとともに己の族を率いて大海人皇子側に寝返った。そして、ただちに北越に行くよう命じられ琵琶湖西岸を南下し、三尾城(みおのき 滋賀県高島郡高島町西にある山城)で近江朝廷軍と遭遇して、これを破るという手柄を立てている。 持統天皇3年6月には、羽田朝臣斉(はたのあそんむごえ)という人物が撰善言司(善い説話などを選び集める訳)の一人として選ばれている。しかし、その他には著名な人物の名が記紀に見あたらない。ただ、奈良時代に波多姓の官人の名が何人か伝えられているため、氏族としては存続し一族の中から中級官人を排出したようだ。 発掘された住居は波多氏の勢力圏にあることから、波多氏の拠点説が有力である。ただし、建物の使用目的に関しては意見が分かれる。辰巳和弘・同志社大学教授(考古学)は波多氏の居館ではなく、「建物跡の堅固さから推して、波多氏の拠点にあった倉庫群だろう」と考えておられる。猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は、波多氏が渡来系氏族の可能性を示唆され、「立派な柱を持つ倉庫は、絹製品など渡来人特有の特産物をおさめていたのでは」と推測されている。これに対し、現場で鉄くずなどが出土していることから、高取町教育委員会の木場幸弘技師は「波多氏の配下だった渡来人の鍛冶工人が関与していた」と考えておられる。 これらの説に対して、京都教育大教授で地元在住の和田萃(あつむ)教授は、この地が推古天皇の薬猟場として『日本書紀』に登場することに着目し、もし建物跡が7世紀前半のものならば、「推古天皇の行宮(あんぐう)であった可能性がある」とし、巨大建物跡は「鹿の角などを収めた倉庫だったのではないか」と推論されている。 果たして羽内遺跡が波多氏の倉庫群の跡だったのか、それとも推古女帝の行宮跡だったのか。現在、言えることは、いずれの説も推論であり確固たる証拠がある訳ではない。調査区域をもっと拡大して発掘を続ければ新しい知見が得られるかもしれないが、その予定はない。 |
初夏の重要な宮廷行事として定着した薬猟
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| 船岡山万葉公園にある薬猟のイラストを描いた半円形の壁画 |
天智天皇7年(668)年5月5日、現在の滋賀県蒲生郡にある蒲生野と呼ばれる平野で盛大な薬猟(くすりがり)が行われた。当時、蒲生野には多年草の紫草が丘の草地一面に白い花を咲かせていた。その蒲生野を舞台に、今なお人口を膾炙する次の万葉歌が作られた。万葉集は次のように伝えている。
天皇の蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまへる時、額田王の作る歌
●あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る(巻1-20)
【大意】紫草の生えている野、御料地の野をあちらにゆきこちらにゆき・・・まあ、野守は見はしないでしょうか、あなたはそんなに袖などお振りになって。
皇太子(=大海人皇子)の答えましし御歌
●紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも(巻1-21)
【大意】紫草のように美しいあなたが憎いのなら、すでにあなたは人妻だのに、何で私が恋などしようか
その故地に築かれた船岡山万葉公園には、薬猟のイラストを描いた半円形の壁画が置かれている。一昨年、その壁画を見てから薬猟に興味を持った。薬猟では、宮廷官人たちは鹿を追い、宮女たちは野の薬草を摘むものと思っていたが、どうやらそうではないらしい。薬猟とは本来、鹿の若角をとる猟のことで、鹿の若角は鹿茸(ろくじょう)と呼ばれ、陰乾しにして補精強壮剤として用いられた。 したがって、当初は鹿狩りの勇壮な宮廷行事だった。薬猟が変じて薬草採りを表すようになるのは、もっと後の時代になってからで、女性たちも参加して薬草を摘んだとされる。
薬猟の初見は、『日本書紀』の推古天皇19年(611)5月5日に行われた菟田野(うだの)の薬猟である。菟田野は現在の奈良県宇陀市榛原区足立あたりとされているが、確証はない。この日、参加者は夜明け前に藤原池のほとりに集合し、曙に出発した。粟田細目(あわたのほそめ)が先導者として列の先頭に立ち、しんがりは額田部比羅夫(ぬかたべのひらぶ)が勤めた。諸臣はみな冠位の色と同じ服を着て参加したという。羽田の薬猟はその翌年のことである。
羽田の地での薬猟を追体験するために紀路を往く
和田萃教授の羽内遺跡=推古天皇行宮説は、改めて薬猟に対する筆者の興味を駆り立てた。どのようなルートで羽田に赴き、どのような場所で薬猟が行われたのか見てみたくなった。当時、推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)は現在の明日香村の雷丘(いかづちのおか)の東にあったとされている。そうであれば、参加者たちは正装した馬上姿で従者を引き連れて、朝まだきに大軽の市に集合したであろう。現在の近鉄橿原神宮駅前の「丈六」交差点付近である。その後、一行は先導者に導かれて下つ道を南に取り、見瀬丸山古墳を過ぎて、現在の近鉄吉野線の飛鳥駅前あたりから、紀路に入ったはずである。
午前10時半、近鉄飛鳥駅前から高取川に沿った旧道を愛用のチャリンコを駆った。この道筋がかっての紀路であると何かの本で読んだことがある。平行して走る国道169号線は車の往来が激しいが、旧道はゆっくりと自転車を駆ることができる。高取川の堤防にコスモスの花が秋の日差しを受けて鮮やかに咲き誇っていた。 高取高校がそびえる丘陵の縁を進み、保育園脇の小さな岡を越えると高取中学校の前に出る。そこから少し進んだところでT字路にぶつかる。右方向へ進めば、東明神古墳や岡宮天皇陵で行くことができる。左へ進めば高取町のリベルテホールの裏側に出る。3年前の2月16日、このホールで第1回高取町文化講演会が開かれ、森カシ谷遺跡を見学した(平成15年2月16日付け橿原日記参照)。森カシ谷遺跡は時代が異なる複合遺跡だった。注目されたのは飛鳥時代の砦と推測される1号墳と、天武天皇の子女を埋葬したと推測される2号墳である。その他にも中世の柱穴群遺構や木棺墓なども検出された。しかし、当時の発掘現場は現在、送電線の鉄塔だけがそびえる整備地に変わっている。
この付近は紀路の東の出口に位置している。古墳時代には和歌浦より紀ノ川を遡り、この紀路を経由して、中国大陸や韓半島から渡来した人・物・情報が大和へ入ってきた。薩摩遺跡はその交通の要衝に弥生時代から世代を越えて住み着いた人々の生活の跡である。その場所が、今はバイパスの橋脚の根元で破壊されてしまった。
薩摩遺跡からさらに道を南西に取ると、市尾の集落に入る。集落の屋根が切れたあたりで右手を見ると、全長66mの市尾墓山古墳が秋の日を受けて長々と寝そべっている。こ前方後円墳の石室が見学できるようにと周濠と外堤に発掘トレンチを設定して調査したところ、第1トレンチで「木の埴輪」と言われる鳥形木製品が出土した。そのため、昨年の11月27日に現地説明会が開かれた(平成17年11月27日付け橿原日記参照)。 道路を挟んで市尾墓山古墳と反対側に近鉄「市尾」駅がある。遺跡が見つかった羽内集落は線路の東側にあり、駅の傍の踏切を渡らなければならない。
踏切を渡って先へ進むと、信号機のある車道とぶつかった。地図では羽内集落はその交差点を直進した先にある。おぼろげな地図の表示を信用して、そのまま谷間の山村に続く道を進むことにした。だが、これが失敗の原因だった。途中に道が分からなくなり、3回も道を聞く羽目になった。後で気づいたのだが、交差点で左に曲がり、車道が小高い丘の頂上に達したところで右に入る道を進めば、すぐに遺跡の場所にでることができた。要するに、遺跡は丘陵の尾根を1つ越えた向こうにあったのだ。 最後に道を聞いたのは、道路の傍らで工事現場に出入りする工事車両の整理に当たっていた小太りの人物である。この人物は実に気さくな御仁で、聞きもしないのに天理に住んでいて考古学に興味を持っていると前置きして、羽内遺跡の発掘の様子をあれこれと話してくれた。発掘現場は、彼が立っている場所から100mほど坂道を下った田んぼの中だった。しかし、表土はすっかり埋め戻され、その脇に立てられた二本のポールが、そこに遺跡があることを示していた。たった田んぼ一枚の広さである。
工事車両の出入りを整理をする必要もなくよほど暇だったと見えて、先ほどの男は発掘現場まで来て雑談していった。彼の話によれば、遺跡の西側にそびえる小山は古墳だそうだ。新設される町道はこの小山を貫通するので、来年は古墳の調査が行われるとのことだ。時間があったら是非見学に来なさいと、片目をつぶりながらアドバイスしてくれた。俺も見に来るから、という意味を込めているようにも見えた。 |