橿原日記 平成18年10月21日

歴史のなかの鉄炮伝来異聞

鉄砲の歴史をさかのぼれば・・・

砲の歴史をさかのぼると、中国で発明された「火薬」に行き着く。木炭と硫黄と硝石の3種類を混合して作られ、西暦950年頃にはすでに武器として使用されていたと言われている。

元寇の役で炸裂弾を投擲する蒙古兵
元寇の役で炸裂弾を投擲する蒙古兵
ンギス・ハーンが中国を征服したことで、火薬はモンゴルに伝わった。日本人が初めて火薬を用いた兵器に遭遇したのは、13世紀後半の元寇においてである。当時の様子を描いた『蒙古襲来絵詞』には、元軍が用いた「てつはう」と呼ばれる兵器が描かれている。「てつはう」は鉄球に火薬をつめた炸裂弾で、強力な弓の先端につけて発射された。

ンギス・ハーンの西域遠征やその子孫によるヨーロッパ遠征によって、東洋で発明された火薬兵器はヨーロッパにもたらされた。そして、ヨーロッパで原始的火薬から金属製の筒から弾丸を発射する銃器にまで発達していったとされている。初期の頃の銃は、銃口から火薬や弾丸を込め、銃身の根元にあけた小孔に火種をつけるという「タッチホール式」と呼ばれるもので、14世紀末までには出現していた。

いで15世紀頃に考案されたのがマッチロック(火縄式)と呼ばれるいわゆる火縄銃である。この形式の銃は銃身の後端に平たい皿(火皿)が取り付け、その火皿の上に発射用とは別に点火用の火薬を置く構造になっていた。そして銃把(じゅうは)の右側に先の曲がったS字型の鉤(かぎ、サーペンタインという)を取り付け、その先端に火のついた火縄をは差し込むことができた。サーペンタインの一端を引いて火縄を火皿上の点火薬に押し込めば、点火薬に着火し、続いて筒内の発射薬に伝火して弾丸を発射することができる。

種子島式火縄銃
種子島式火縄銃
5世紀の末になると、ドイツでサーベンタインをバネによって火皿に落とすスナッピング方式が考案され、さらにオランダやスペインで改良が加えられ、引き金を引くだけで短時間で銃弾を発射する事が出来るようになった。こうして改良を加えられた鉄砲は、その後の世界の歴史に大きな影響を与えた。その好例が、新大陸における2つの文明の滅亡である。


く知られているように、クリストバル・コロン(Cristobal Colon)が1492年にアメリカ新大陸を発見した後、16世紀の初めのスペインは新大陸への渡航ブームの熱に沸き返った。多くの冒険野郎が黄金郷を求めて新大陸の奥地に足を踏み入れ、各地を征服していった。彼らはスペイン語でコンキスタドール(Conquistador、征服者)と呼ばれている。

エルナン・コルテス(左)とフランシスコ・ピサロ(右)
エルナン・コルテス(左)とフランシスコ・ピサロ(右)
時、新大陸にはメキシコからユカタン半島にかけてアステカ帝国が栄え、南半球では現在のペルーのクスコを中心に、アンデス文明史上最大の帝国といわれるインカ帝国が栄えていた。だが、エルナン・コルテス(Hernan cortes、1485?〜1547) はわずか400人の手兵と50頭の馬で1521年にアステカ王国を征服し、フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro、1475〜1541)は180人の手兵と27頭の馬で1532年にインカ帝国を滅亡させてしまうのである。種子島に鉄砲が伝来するわずか20〜30年前に起きた世界史的事件である。

ちろん両帝国とも、当時内部抗争などさまざまな問題を抱えていた。だが、彼らは騎馬の風習を知らなかったこと、そしてなによりも鉄砲という火器を知らなかったことが、滅亡の大きな要因だったとされている。

マチュ・ピチ
スペイン人に滅ぼされたインカ帝国の都市遺跡マチュ・ピチュ



流布されてきた鉄砲伝来に関する定説

方、我が国では、鉄砲という外来文化の伝来が、新大陸とは別の効果をもたらした。鉄砲の伝来は戦国時代の乱世を終わらせ、統一国家の実現に大きく寄与したとされている。その鉄砲伝来に関する従来からの定説(あるいは通説)は、ほぼ次のようなものだった。

鉄砲の伝来地
種子島
文12年(1543)8月25日、鹿児島県本土から約115キロ南の洋上に浮かぶ種子島の南端に位置する門倉岬(かどくらみさき)の「前之浜」に、百余人が乗った一隻の南蛮船が漂着した。幸い民国人で五峯と名乗る男が乗船していたため、彼との筆談によってその船がポルトガルの商船であることがわかった。乗組員の内から牟良叔舎(ムラシュクシャ)と喜利志多陀孟(キリシタダモウ)という二人の長が、当時16歳だった島主・種子島時尭(ときたか)の前に連れてこられた。

のとき時尭は二人が持っていた鉄砲に着目し、試し打ちをさせた。そして、その威力に驚き金2,000両を投じてこれを買い入れた。現在の貨幣価値に換算すると、約2億円で2挺の鉄砲を買ったことになるという。時尭は自領で鉄砲を複製することをを考え、種子島在住の刀鍛冶・八板金兵衛清定篠川小四郎にその製法や火薬調合法を学ばせた。そして、わずか1年後の天文13年(1544)には国産第1号の鉄砲を完成させた。このようにして、ポルトガル人によって最初に種子島に伝えられたため、火縄銃は”種子島銃”あるいは単に”種子島”と呼ばれた。

上は、鉄砲伝来を記す我が国の唯一資料である『鉄炮記』(てっぽうき)*に基づく定説である。だが、この定説に疑問が持たれて久しい。
(*)現在「てっぽう」「ほうじゅつ」には「鉄砲」「砲術」の字を当てているが、江戸時代の文献史料には通常「鉄炮」「炮術」と書かれている。

種子島の門倉岬
鉄砲伝来の地・種子島の門倉岬



鉄砲伝来を巡るさまざまな疑問

記の『鉄炮記』は鉄砲が伝来して60年も経った江戸時代の慶長11年(1606)、第16代島主が薩摩の儒僧・南浦文之(なんぽぶんし)に書かせたものである。その目的は、種子島時尭の功績を後世に残すために当時の様子を記録したものである。したがって、その記述には不確かな部分や脚色があることが指摘され、近年、定説とするには多くの疑問が投げかけられている。

江戸時代の薩摩筒 薩摩で製作された銃
江戸時代の薩摩筒 薩摩で製作された銃。
形式に種子島伝来の影響が見られという。(歴博館蔵)
ず、鉄砲伝来の時期である。『鉄炮記』は種子島にポルトガル人を乗せた大船がやってきたのは天文12年8月25日の出来事としている。だが、当時ポルトガルの東南アジアの商館長をしていたアントニオ・ガルバンという人物が書いた『新旧大陸発見記』には1年前の1542年、3人のポルトガル人が中国船(ジャンク)に乗って東シナ海の港リャンホーに向かって出向したが台風で遭遇し種子島に漂着したと書かれている。

ョアン・ロドリゲス (Joao Rodriguez, 1561-1634) が書いたイエズス会の『日本教会史』にも1542年の出来事と書かれているそうだ。一方、フェルナン・メンデス・ピント(Fernao Mendes Pinto, 1514?-83) の『東洋遍歴記』には1545年の出来事であるとしている。このように鉄砲の伝来時期一つとっても、さまざまな異説がある。

に、種子島の門倉岬にやってきた大船はポルトガルの商船だったのか、それとも中国船(ジャンク)だったのか。『鉄炮記』では、百余人の乗組員がおり、これがポルトガル人という人種であることが、乗船していた明国の五峯と名乗る男との筆談で判明したと記されている。だが、『新旧大陸発見記』では、門倉岬に台風で漂着した船は中国船(ジャンク)で、その船に乗り合わせていた3人のポルトガル人の名をあげている。

ジャンク
中国のジャンク船
ルトガル人の名は、アントニオ・ダモッタアントニオ・ベイショットフランシスコ・ゼイモトである。『鉄炮記』に記された牟良叔舎(ムラシュクシャ)は、当時の明の発音ではフランシスコにあたるという。喜利志多陀孟(キリシタダモウ)の多陀孟はダモッタであると推測されている。つまり、『鉄炮記』も『新旧大陸発見記』も史実を伝えているなら、1542年に種子島に漂着した中国船(ジャンク)に乗船していた人物と、1543年に大船でやってきたポルトガル人は同一人物である可能性が高い。

に興味深いのは、五峯と名乗っていた明国人である。中国側史料から、五峯は実は中国人倭寇(わこう)の王直と同一人であることが判明している。王直は東南アジアや日本近海で密貿易を広く展開していた大頭目で、商取引でポルトガル人と密接な関係を持っていた。中国の安徽省に生まれた王勅は、はじめ塩商人だったが、失敗して貿易商人となった。天文9年(1540)ころ五島列島の福江に来航し、領主の宇久盛定(うくもりさだ)の厚遇を得て福江に居住した。2年後には平戸に居を移し、平戸城主の松浦隆信の庇護を得て密貿易を行っていたとされる。

峯が中国人倭寇であったとすれば、鉄砲の種子島伝来の意味は大きく異なってくる。たまたま種子島に漂着した南蛮船に乗り合わせたポルトガル人が持っていた火縄銃に、島主が興味を懐いて買い付けたのではない。鉄砲という新しい火器を日本に売り込んで一儲けしようとする倭寇とポルトガル人の明確な意図があったことになる。

砲史研究の第一人者である所荘吉氏は、天文11年と12年のポルトガル人来訪を一連の事件と見ておられる。天文11年(1542)に3人のポルトガル人が乗ったジャンクが台風に襲われて種子島に漂着した。そこで、日本が貿易上有望な土地であることを南に帰って報告した。そこで、翌年再びジャンクで鉄砲を売り込みにやってきて、鉄砲を種子島の島主の種子島時尭に高く売りつけたとする仮説を立てておられる。その際、倭寇の王直がその手助けをしたという。

子島時尭には、鉄砲という最新兵器を手に入れて一日も早く島内で複製しなければならない事情があった。鉄砲を高額で買い付ける半年前、大隅半島の豪族禰寝<(ねじめ)氏に攻め込まれ,領土の屋久島を占領されてしまった。すなわち種子島は当時軍事的緊張状態にあったのである。



戦国動乱という時代を背景にして急速の全国に伝搬した種子島銃

砲の製造技術の本土への伝搬も早い。短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。上述の『鉄炮記』によれば、種子島に鉄砲が伝来したことを聞きつけた紀州那賀郡小倉荘の領主・津田監物(つだけんもつ)は、直ちに種子島に渡って二挺のうちの一挺を手に入れた。そして、根来に鉄炮を持ち帰ると、直ちに根来西坂本の芝辻鍛刀場・芝辻清右衛門(しばつじせいえもん)に複製を命じて、天文14年(1545)には紀州第一号の鉄炮を誕生させている。その後、監物は根来寺の子院「杉ノ坊」の院主だった弟の津田明算(みょうさん)に命じて武装化を進めていった。これが鉄炮傭兵集団・根来衆の発祥となる。

フォーラムのレジメ表紙より
フォーラムのレジメ表紙より
長15年(1610)に作られた『鉄炮由緒書』は、堺の商人・橘屋又三郎(たちばなやまたさぶろう)が種子島の八板金兵衛のもとに弟子入りして、その製法技術を堺に持ち帰ったことを記している。彼は早速鉄炮の製造に着手し、後に「鉄炮又」と呼ばれる大商人となる。また上記根来の芝辻清右衛門が後に堺に移住したこともあり、堺は一大鉄炮生産地として知られるようになったという。

砲は最初から戦場で武器として使用されたわけではない。ほとんどの場合、狩猟用として使われた。普及はやはり交易が盛んだった九州が早い。薩摩の島津氏は天文18年(1549)の黒川崎の合戦で初めて鉄砲を使用したとされる。最初に鉄砲を大量に使ったのは大坂の石山本願寺にこもった根来衆や雑賀衆で、織田信長は石山本願寺の戦いで鉄砲の重要性を認識したようだ。信長が鉄砲隊を組織し武田軍に圧勝して時代を動かした長篠の戦いは天正3年(1575)5月に行われた。この時信長は3列交代というヨーロッパにもない近代的な戦法で武田勝頼軍を蹴散らした。合戦で織田軍が装備していた鉄砲の数は3000挺とされている。

フォーラムのレジメ表紙より
フォーラムのレジメ表紙より
って慶長5年(1600)年9月の 関ヶ原の合戦では、5万挺の鉄砲が使われた。すべてが国産である。鉄砲伝来からわずか50年で、いかに鉄砲が普及していたかが分かる。その背景には、日本刀を製造する高度な鉄の加工技術がすでに存在し、刀を大量生産するシステムを作り上げていたことがあげられている。そうした刀鍛冶技術集団が鉄砲作りに取り組んだ結果、当時の世界の鉄砲の数の50%は我が国にあったと見積もられている。



鉄砲伝来異聞

に述べたように、『鉄炮記』は鉄砲がポルトガル人によって最初に種子島に伝えられたと記している。しかし、最近の歴史学会においては、その記述がどこまで史実を反映しているのか疑問が持たれ、様々な検証が行われている。そうした史実の検証の中心にいるのが、おそらく国立歴史民俗博物館(通称、歴博)であろう。

歴博の企画展示のチラシ
歴博の企画展示のチラシ
博は開館以来、銃砲史の研究を継続して進めるとともに、銃砲資料の充実に努めてきた。今や、日本の3大銃砲コレクション(吉岡新一銃砲コレクション・安齋実炮術関係資料・所荘吉銃砲コレクション)を蒐集し、質量ともに日本最大級の実物資料や文献史料を保管している。そして、これらの募集資料の紹介と今までの研究成果の集大成を示すために、10月3日(火)から11月26日(日)まで「歴史のなかの鉄砲伝来」と称する企画展示を行っている。

念ながら時間の都合で、この企画展示はまだ見学していないが、歴博は企画展示と同じタイトルのフォーラムを本日東商ホールで主催した。フォーラムには「種子島から戊辰戦争まで」という副題が付いている通り、種子島への鉄砲伝来から幕末維新までの3世紀の間に、鉄砲がいかに我が国に受容され発展したかを多角的に検証するものだった。

パネラーの発表はそれぞれに興味ぶかい内容だったが、最近の研究で明らかになった鉄砲伝来と伝搬の真相は特に面白かった。以下にその要旨を付しておこう。


フォーラムの図録表紙
フォーラムのレジメ表紙
ず、和歌山市立博物館の太田宏一氏は、鉄砲伝来を『鉄炮記』の記述をベースに通説にしていること自体をもう一度見直す必要がある、と主張された。その根拠として、天文12年以前にすでに倭寇が日本近海で顕著な活動をしている点を指摘される。倭寇の中には、九州や和泉、紀州の人間もおり、彼らは密貿易で火薬の原料となる硝石を流通させていた。したがって、我が国に初めて火縄銃を伝えたのはポルトガル人ではなく、倭寇であったと考える方が現実的であろうと述べられた。

薬の原料となる硝石に関しては、井沢元彦氏も『逆説の日本史 9 戦国野望編』の中で面白い見解を示しておられる。硝石はごくありふれた鉱物で、世界各地で産出するが、我が国ではまったく産出しない。したがって、鉄砲の製造技術を習得して国産化できても、火薬がなければ単なる鉄の棒にすぎず、硝石は100%海外から輸入しなければならない。そこに着眼して大もうけを企んだのがポルトガル商人であり、彼らと結託した倭寇だったという。

文12年以前に倭寇が密貿易で硝石を日本各地で売りさばいていたのであれば、ポルトガル人ではなく倭寇によって同時並行的に日本各地に鉄砲が伝えられた可能性も否定できなくなる。さらに、現存する古銃の構造から、伝来した銃は西欧のものではなく、加圧式火鋏を持った東南アジアの鳥銃に似ているという。そのため、ポルトガルなどのヨーロッパ経由ではなくて、当時、東アジアの海上に広く活動していた倭寇が密貿易で東南アジア方面から持んだとも考えられている。

来は、種子島に伝来した鉄砲が戦国動乱の渦中の中で急速に全国に伝搬したと考えられてきた。しかし、こうした見解に対して、歴博の宇田川竹久氏は疑問を呈しておられる。鉄砲は当初、贈答品や狩猟の道具として用いられた。その普及に貢献したのは、鉄砲伝来後まもなく各地に現れた砲術師であるという。

術師は鉄砲の使い方や火薬の調合方法などを教えることを生業とする人たちだった。戦乱の時代、正史に名こそとどめないものの幾多の砲術師が、諸国を遍歴しながら鉄炮の技術を日本中に広めていったという。鉄砲が合戦で主要な武器となったのは伝来から十数年経ち、戦国大名が鉄炮衆を創設してからのことである、と宇田川氏は指摘する。




【参考文献】井沢元彦著『逆説の日本史 9 戦国野望編』
第55回歴博フォーラム 『歴史の中の鉄炮伝来』レジメ
2006/10/26作成by pancho_de_ohsei return