流布されてきた鉄砲伝来に関する定説一方、我が国では、鉄砲という外来文化の伝来が、新大陸とは別の効果をもたらした。鉄砲の伝来は戦国時代の乱世を終わらせ、統一国家の実現に大きく寄与したとされている。その鉄砲伝来に関する従来からの定説(あるいは通説)は、ほぼ次のようなものだった。
そのとき時尭は二人が持っていた鉄砲に着目し、試し打ちをさせた。そして、その威力に驚き金2,000両を投じてこれを買い入れた。現在の貨幣価値に換算すると、約2億円で2挺の鉄砲を買ったことになるという。時尭は自領で鉄砲を複製することをを考え、種子島在住の刀鍛冶・八板金兵衛清定と篠川小四郎にその製法や火薬調合法を学ばせた。そして、わずか1年後の天文13年(1544)には国産第1号の鉄砲を完成させた。このようにして、ポルトガル人によって最初に種子島に伝えられたため、火縄銃は”種子島銃”あるいは単に”種子島”と呼ばれた。
以上は、鉄砲伝来を記す我が国の唯一資料である『鉄炮記』(てっぽうき)*に基づく定説である。だが、この定説に疑問が持たれて久しい。
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鉄砲伝来を巡るさまざまな疑問上記の『鉄炮記』は鉄砲が伝来して60年も経った江戸時代の慶長11年(1606)、第16代島主が薩摩の儒僧・南浦文之(なんぽぶんし)に書かせたものである。その目的は、種子島時尭の功績を後世に残すために当時の様子を記録したものである。したがって、その記述には不確かな部分や脚色があることが指摘され、近年、定説とするには多くの疑問が投げかけられている。
ジョアン・ロドリゲス (Joao Rodriguez, 1561-1634) が書いたイエズス会の『日本教会史』にも1542年の出来事と書かれているそうだ。一方、フェルナン・メンデス・ピント(Fernao Mendes Pinto, 1514?-83) の『東洋遍歴記』には1545年の出来事であるとしている。このように鉄砲の伝来時期一つとっても、さまざまな異説がある。 次に、種子島の門倉岬にやってきた大船はポルトガルの商船だったのか、それとも中国船(ジャンク)だったのか。『鉄炮記』では、百余人の乗組員がおり、これがポルトガル人という人種であることが、乗船していた明国の五峯と名乗る男との筆談で判明したと記されている。だが、『新旧大陸発見記』では、門倉岬に台風で漂着した船は中国船(ジャンク)で、その船に乗り合わせていた3人のポルトガル人の名をあげている。
次に興味深いのは、五峯と名乗っていた明国人である。中国側史料から、五峯は実は中国人倭寇(わこう)の王直と同一人であることが判明している。王直は東南アジアや日本近海で密貿易を広く展開していた大頭目で、商取引でポルトガル人と密接な関係を持っていた。中国の安徽省に生まれた王勅は、はじめ塩商人だったが、失敗して貿易商人となった。天文9年(1540)ころ五島列島の福江に来航し、領主の宇久盛定(うくもりさだ)の厚遇を得て福江に居住した。2年後には平戸に居を移し、平戸城主の松浦隆信の庇護を得て密貿易を行っていたとされる。 五峯が中国人倭寇であったとすれば、鉄砲の種子島伝来の意味は大きく異なってくる。たまたま種子島に漂着した南蛮船に乗り合わせたポルトガル人が持っていた火縄銃に、島主が興味を懐いて買い付けたのではない。鉄砲という新しい火器を日本に売り込んで一儲けしようとする倭寇とポルトガル人の明確な意図があったことになる。 鉄砲史研究の第一人者である所荘吉氏は、天文11年と12年のポルトガル人来訪を一連の事件と見ておられる。天文11年(1542)に3人のポルトガル人が乗ったジャンクが台風に襲われて種子島に漂着した。そこで、日本が貿易上有望な土地であることを南に帰って報告した。そこで、翌年再びジャンクで鉄砲を売り込みにやってきて、鉄砲を種子島の島主の種子島時尭に高く売りつけたとする仮説を立てておられる。その際、倭寇の王直がその手助けをしたという。 種子島時尭には、鉄砲という最新兵器を手に入れて一日も早く島内で複製しなければならない事情があった。鉄砲を高額で買い付ける半年前、大隅半島の豪族禰寝<(ねじめ)氏に攻め込まれ,領土の屋久島を占領されてしまった。すなわち種子島は当時軍事的緊張状態にあったのである。 |
戦国動乱という時代を背景にして急速の全国に伝搬した種子島銃鉄砲の製造技術の本土への伝搬も早い。短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。上述の『鉄炮記』によれば、種子島に鉄砲が伝来したことを聞きつけた紀州那賀郡小倉荘の領主・津田監物(つだけんもつ)は、直ちに種子島に渡って二挺のうちの一挺を手に入れた。そして、根来に鉄炮を持ち帰ると、直ちに根来西坂本の芝辻鍛刀場・芝辻清右衛門(しばつじせいえもん)に複製を命じて、天文14年(1545)には紀州第一号の鉄炮を誕生させている。その後、監物は根来寺の子院「杉ノ坊」の院主だった弟の津田明算(みょうさん)に命じて武装化を進めていった。これが鉄炮傭兵集団・根来衆の発祥となる。
鉄砲は最初から戦場で武器として使用されたわけではない。ほとんどの場合、狩猟用として使われた。普及はやはり交易が盛んだった九州が早い。薩摩の島津氏は天文18年(1549)の黒川崎の合戦で初めて鉄砲を使用したとされる。最初に鉄砲を大量に使ったのは大坂の石山本願寺にこもった根来衆や雑賀衆で、織田信長は石山本願寺の戦いで鉄砲の重要性を認識したようだ。信長が鉄砲隊を組織し武田軍に圧勝して時代を動かした長篠の戦いは天正3年(1575)5月に行われた。この時信長は3列交代というヨーロッパにもない近代的な戦法で武田勝頼軍を蹴散らした。合戦で織田軍が装備していた鉄砲の数は3000挺とされている。
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鉄砲伝来異聞上に述べたように、『鉄炮記』は鉄砲がポルトガル人によって最初に種子島に伝えられたと記している。しかし、最近の歴史学会においては、その記述がどこまで史実を反映しているのか疑問が持たれ、様々な検証が行われている。そうした史実の検証の中心にいるのが、おそらく国立歴史民俗博物館(通称、歴博)であろう。
残念ながら時間の都合で、この企画展示はまだ見学していないが、歴博は企画展示と同じタイトルのフォーラムを本日東商ホールで主催した。フォーラムには「種子島から戊辰戦争まで」という副題が付いている通り、種子島への鉄砲伝来から幕末維新までの3世紀の間に、鉄砲がいかに我が国に受容され発展したかを多角的に検証するものだった。 各パネラーの発表はそれぞれに興味ぶかい内容だったが、最近の研究で明らかになった鉄砲伝来と伝搬の真相は特に面白かった。以下にその要旨を付しておこう。
火薬の原料となる硝石に関しては、井沢元彦氏も『逆説の日本史 9 戦国野望編』の中で面白い見解を示しておられる。硝石はごくありふれた鉱物で、世界各地で産出するが、我が国ではまったく産出しない。したがって、鉄砲の製造技術を習得して国産化できても、火薬がなければ単なる鉄の棒にすぎず、硝石は100%海外から輸入しなければならない。そこに着眼して大もうけを企んだのがポルトガル商人であり、彼らと結託した倭寇だったという。 天文12年以前に倭寇が密貿易で硝石を日本各地で売りさばいていたのであれば、ポルトガル人ではなく倭寇によって同時並行的に日本各地に鉄砲が伝えられた可能性も否定できなくなる。さらに、現存する古銃の構造から、伝来した銃は西欧のものではなく、加圧式火鋏を持った東南アジアの鳥銃に似ているという。そのため、ポルトガルなどのヨーロッパ経由ではなくて、当時、東アジアの海上に広く活動していた倭寇が密貿易で東南アジア方面から持んだとも考えられている。 従来は、種子島に伝来した鉄砲が戦国動乱の渦中の中で急速に全国に伝搬したと考えられてきた。しかし、こうした見解に対して、歴博の宇田川竹久氏は疑問を呈しておられる。鉄砲は当初、贈答品や狩猟の道具として用いられた。その普及に貢献したのは、鉄砲伝来後まもなく各地に現れた砲術師であるという。 砲術師は鉄砲の使い方や火薬の調合方法などを教えることを生業とする人たちだった。戦乱の時代、正史に名こそとどめないものの幾多の砲術師が、諸国を遍歴しながら鉄炮の技術を日本中に広めていったという。鉄砲が合戦で主要な武器となったのは伝来から十数年経ち、戦国大名が鉄炮衆を創設してからのことである、と宇田川氏は指摘する。 |