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| 座談会による市民との交流で壇上に並ばれた諸先生 (2006/10/15 撮す) |
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馬場小室山遺跡は、縄文時代中期から晩期にかけて長期間継続して同じ場所に営まれた縄文集落の典型的な姿を今に留めている。そのため、これまでに実施された発掘調査で数多くの遺構や遺物が発見され、考古学の分野では縄文文化の正倉院とさえ呼ばれてきた。それだけではない。中央の直径約50mの窪地の周囲に5基の大きな土塚が配された、いわゆる環状盛土遺構を持つ他にあまり例を見ない不思議な遺跡である。だが、宅地化の波に押されて、その遺跡が2004年にはあわや消滅の危機に瀕した。 消滅の危機から遺跡を救ったのは、地元の市民ボランティアや考古学研究者らが中心に繰り広げた保存運動の成果である。残念なことに民有地の下にある遺跡の保存は実現できなかった。だが、市有地の下にある遺跡部分については、市議会を動かして2005年3月29日、市の文化財史跡に指定して保存することを決定させた。 この史跡指定を記念して、市民ボランティアと学術ボランティアは共同で馬場小室山遺跡研究会を発足させた。馬場小室山遺跡を中心とした見沼文化の解明と、市民に開かれたいわゆるパブリック・アーケオロジーの実践を目指して、この研究会は現在、精力的な活動を続けている。定期的に開かれる「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」はその活動の一環である。 第1回と第2回の市民フォーラムでは、これまでの発掘調査の成果に基づいて、馬場小室山遺跡がどのような遺跡であるかを検証した。今回のフォーラムでは、見沼という自然環境の中で形成された馬場小室山遺跡を今後どのように語りついて行くかという命題が、テーマの中心に据えられた。フォーラムは別紙のプログラムに従って進められた。実行委員会が企画した手段は実にユニークだった。 |
考古学と民話で語りつぐ「見沼文化」馬場小室山遺跡は、見沼を見下ろす大宮台地の南の端に築かれた縄文遺跡である。したがって、見沼の存在を抜きにしてこの遺跡を語ることはできない。見沼がもたらした縄文文化として位置づけられるためである。言い方を替えれば、馬場小室山遺跡は見沼文化を具現化した縄文時代の証であると言って良い。 市民フォーラムでは、この見沼文化を後世に語りつぐ手段として、馬場小室山遺跡を代表する出土品の考古学的発掘調査のレポートと、この地方に伝わる「見沼の竜」に関する民話に着目した。 馬場小室山遺跡の発掘調査は、昭和44年(1969)以来32回にわたって行われてきたが、この遺跡の名を一躍世間に広めた遺物が2点ある。第3次発掘調査(昭和56年度)で発見された土偶装飾土器と、第5次発掘調査(昭和57年度)で出土した人面画土器である。この2つの土器は、県指定文化財として現在さいたま市立浦和博物館に展示されている(平成17年1月30日付け橿原日記参照)
今回の市民フォーラムでは、見沼文化を語りつぐ意味を参加者に知ってもらうため、さいたま市教育委員会の小倉均氏に「土偶装飾土器・人面画土器が発見された時」と題する基調講演を用意した。 小倉氏は旧浦和時代に両方の発掘に従事された当事者である。両土器の発掘の経緯が当事者によって語られることで、あらためてこの遺跡の凄さというものが参加者にも伝わってきた。
頭部が両方とも失われているため断定はできないが、この深鉢形土器には口縁部に男女一対の土偶を対称的に貼り付けてあったようだ。男性がみみずく土偶で、女性が山形土偶とのことだ。
この2つの珍しい土器の用途は分かっていない。祭祀遺物として各地の博物館や図録に紹介されているが、旧浦和市教育委員会で文化財保護行政を担当され、現在は尾間木公民館館長の青木義脩(ぎしゅう)氏は祭祀遺物とは考えておられない(平成18年3月5日付け橿原日記参照)。
小倉氏の講演であらためて馬場小室山遺跡の凄さに感銘を受けたのは、その特異性である。何しろ堆積した枯れ葉を取り除き、表土を10数センチほど剥いだだけで、縄文土器などの遺物が多量に包蔵されていたという。つまり、縄文時代以後、この地で新しい開発は何も行われず、縄文の集落遺跡がタイムカプセルに封印されたままこの地下に眠っていることになる。縄文文化の正倉院と言われるゆえんである。これもひとえに女体神社の宮司を歴代務めてきた武笠(むかさ)家の持ち山だったせいであろう。
見沼文化の会の代表である宮田正治氏は、埼玉民話に造詣が深く、見沼に関する歴史や伝説に関する本や絵本を多く執筆しておられる。見沼文化を民話を通して語りつぐには、まさにうってつけの人物である。宮田氏が調査された範囲では、見沼周辺の民話や伝説の中に、見沼の竜にからむ話が15〜16はあるという。 竜は想像上の動物である。古くから雲を呼び、嵐を起こし、天と行き来し、水を司る卓越した力をもつ神聖な生き物とされてきた。その竜に関する民話が見沼の周辺で多い理由として、宮田氏は次の点を指摘された。まず、見沼は広大な沼であり、水の神である竜が住むのにふさわしい、と周辺の住民に見なされていた。見沼が干拓されて水稲栽培が行われるようになると、見沼の水の管理が難しいことが分かり、暴れ沼であると理解されるようになった。そこで竜の話が従来の水の神である蛇伝説と一緒になって、見沼の竜伝説が各地に発生した、という。
紙芝居は確かに楽しかったが、筆者が感心したのは、宮田氏自身が雑学であると前置きして語られた竜に関する蘊蓄(うんちく)の深さである。その一部を以下に紹介しておこう。 ●上記のように、竜は想像上の動物であるが、今から5〜6000年ほど前に農業の発展とともに中国の揚子江あたりで、ワニあるいはオオトカゲをモデルとして創造されたようだ(最近、内モンゴル自治区で6〜7000年前の遺跡から竜と思われる肖像が発見された。そのため、東洋の竜は内モンゴルで創造されたとする学者もいるようだ)。 ●東洋の竜と西洋の竜(=ドラゴン)とははっきり違う。西洋のドラゴンは英雄に成敗される悪魔として描かれる。だが、東洋の竜は、顔も形も動き方も西洋のドラゴンとは大きく異なっている。中国では、竜は皇帝の乗り物または王権のシンボルとして早くから神聖視され、尊敬の念で見られる場合が多い。日本の竜は、中国から朝鮮半島を経由して伝えられ、土着の蛇の信仰と結びついた。
●竜には九種類の動物の特徴が備わっている。これを「九似」という。中国の後漢時代に王符が唱えたとされる説で、具体的には、目は鬼、頭はラクダ、耳は牛、角は鹿、胴は蛇、鱗(うろこ)は鯉、腹は蜃(しん)、掌は虎、爪は鷹に似ているとされている。このうち、蜃(しん)は顔が竜に似ている霊獣で、吐く息が蜃気楼を発生させると言われている。 ●竜の鱗(うろこ)の数は本来81枚であるとされている。このうち1枚だけはのど元に逆について逆鱗(げきりん)と呼ばれている。これに触れると竜は猛烈に起こり、その者を喰い殺してしまうという。一説には鱗の数は117枚で、そのうち善なるものが81枚、悪なるものが36とする説もある。竜が暴れたりするのは、この36枚の鱗のせいである。 ●爪の数は、中国の竜は皇帝の乗り物であり皇帝のシンボルであるため5本、朝鮮半島の竜は一段低く4本、日本の竜はさらに一段低く3本とされている。爪でさえ皇帝のシンボルとされていて、中華思想を反映しているのは面白い。 ●見沼とその周辺の伝説に登場する竜は、人を困らせる竜、人を助ける竜、そして人に助けを求める竜の3つのパターンに大別できるとのことだ。 |