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| 史跡山田寺跡を東方から見下ろす (撮影 2006/09/25) |
後裔の山田重貞
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| 山田寺観音堂と雪冤碑 |
"雪冤"とは、無実の罪をすすぐことだそうだ。石川麻呂の事件は冤罪だったことを当時の史書も認めているにもかかわらず、『平家物語』では石川麻呂を朝敵としてさんざん罵倒している。そのことを知った山田重貞は、祖先の名誉回復のために山田寺跡に雪冤碑を建てることを決心した。建立したのは、天保12年(1841))3月24日、すなわち石川麻呂の命日の前日である。その碑が現在、山田寺観音堂の右手に鉄柵に囲われて建っている。
前述の桐村氏は、そのエッセイの中で、石川麻呂の悲劇の生涯を追っているわけではない。知人から雪冤碑の話を聞いて、雪冤碑が建立されるようになった背景に焦点を当て、あわせてその建立者の後裔たちの行方を追っている。
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| 山田寺観音堂 |
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| 観音堂の右前に鉄柵に囲まれて建つ雪冤碑 |
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| 碑文の末尾に見える”粟田部山田重貞建”の文字 |
筆者は今までに何回も山田寺跡を訪れながら、雪冤碑の存在にまったく気付かなかった。橿考研付属博物館の資料室では、受付の女性が毎日丹念に考古学や古代史関連に新聞記事を切り抜いてくれている。たまたま偶然に桐村氏のエッセイを読んで、はじめて雪冤碑の存在を知った。早速山田寺跡に駆けつけてみた。確かに観音堂に右手に、雪冤碑は鉄柵に守られて建っていた。
鉄柵で囲ってあるのは、拓本をとる人が多く石が傷むのを防ぐためだそうだ。びっしりと彫られた碑文の文字は、端正で上品である。幕末三筆といわれた貫名海屋(ぬきなかいおく)の手によるものだそうだ。
エッセイの中で、桐村氏は雪冤碑を建てるまでの経緯を丁寧に説明している。しかし、筆者を驚かせたのは、山田重貞が越前粟田部(あわたべ)の住人だったことだ。碑文の末尾にも”粟田部山田重貞建”の文字が、明確に読み取れる。越前粟田部は、以前は福井県今立(いまだて)町に属していたが、今は町村合併で越前市粟田部町になっている。なんと筆者が生まれ育った故郷の隣町である。古代史の著名な人物の末裔が北陸の田舎町に存在していたとは、まさに驚きである。
石川麻呂の子孫がなぜ越前にいたのか? 桐村氏の説明によれば、石川麻呂には清彦という幼い子がいたそうだ。余りに幼かったので死を免れ、清彦は越前に流刑(るけい)になった。古代、越前は流刑地だった。奈良時代の中臣朝臣宅守( なかとみのあそみやかもり)は、狭野弟上娘子(さののおとがみおとめ)との間に多くの恋の贈答歌を残したことで知られる悲恋物語の主人公だが、彼が配流となった味真野も粟田部の近くである。越前に根を下ろした山田家の子孫は、薬を京や大阪に売って財をなした。重貞の代には、粟田部の町並みを見下ろす歌鳳山(かほうざん)の斜面に、石川麻呂の廟(びょう)を建てている。
重貞が江戸末期に実在した人物なら、当然その末裔が存在しているはずだと、桐村氏は方々手を尽くして子供探しをされた。そして、福井市内に住む母と娘の二人の女性が重貞の子孫であることを突き止められた。娘さんは石川麻呂から数えて60代目に当たるそうだ。さらに、近江神宮に預けられていた白鳳、平安期の大小二体の神像は、石川麻呂をかたどったと伝えられているが、この二体の神像も、現在は越前市定友町にある今立の歴史民俗資料館に保管されていることを突き止められた。
悲劇の寺・山田寺の歴史を追う
そんな中にあって山田寺建立の歴史は例外的に詳しく分かっている。聖徳太子の一代を書き記した『上宮聖徳法王帝説』の裏書に、山田寺関係の記述が、本文とは別に記述されて残っていたためである。そこに記された山田寺堂塔の建設次第を整理すると、次のようになる。 石川麻呂が氏寺として建立を発願した山田寺は、舒明13年(641)に建設工事が始まった。この年、寺の敷地を定め、土地の造成を行っている。その2年後には、金堂の工事が開始された。さらに5年後には、金堂や僧坊ができあがり僧侶たちが寺に住むようになった。この時点までは建立工事が順調に進んだと見なしてよい。
工事は再開されたものの、順調には進まなかったようだ。塔を建て始めて、心柱を立てるのに10年もの歳月を要している。本格的な工事再開は、天武天皇の時代まで待たなければならない。それを可能にしたのは、石川麻呂の孫娘で天武天皇の皇后(後の持統天皇)の力が大きかったとされている。こうして天武14年(685)3月25日、石川麻呂の37回目の命日に、開眼法要が行われた。
塔は三間(6m)四方の五重の塔だった。講堂は正面八間(33m)、奥行き四間(14m)の建物で、堂内には丈六の薬師如来像と日光・月光の両脇侍、および十一面観音像が安置されていた。 完成後の山田寺は国立寺院である官寺に準じる扱いを受け、宮都が藤原京から平城京に遷ったあとも、それなりに隆盛を誇ったようだ。平安時代になっても寺観には大きな変化はなかったようで、藤原道長が高野山詣での途中に山田寺を訪れ時、金堂内の荘厳さを驚きをもって伝えている。 山田寺の次なる悲劇は平安時代の終わりに起きている。文治3年(1187)3月9日、興福寺の僧たちが、山田寺の講堂に安置されていた薬師三尊像を奪い去って、東金堂に安置するという事件が起きた。興福寺の東金堂は治承4年(1180)の平重衝(たいらのしげひら)の焼き討ちで焼失してしまった。すぐに復興工事が行われ文治元年(1185)頃には再建されたが、本尊の造立が難行したため、興福寺側が山田寺の仏像奪取という手段にでたとされている。 返還交渉が行われたが、像はそのまま東金堂の本尊として祀られた。だが、応永18年(1411)の火災で、薬師三尊像は堂もろとも焼損してしまった。かろうじて残された仏頭は、昭和12年(1937)の東金堂の解体修理の最中に、現在の本尊の台座の中から発見された。この仏頭は白鳳時代を代表する 彫刻として国宝に指定され、興福寺宝物館に置かれている。
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発掘された山田寺の東面回廊
東面回廊とは、中門から東側を南北に延びて塔と金堂を囲む回廊のことである。南北の長さは23間(87m)、基壇の幅は6.4m。基壇の縁の縁石には自然石を一段並べてあり、その基壇の上に法隆寺の回廊と同様に2本の柱を並べた単廊が建っていた。回廊の桁行きと梁行きはいずれも3.8mで、外側にあたる東側には連子窓が取り付けてあった。 この東面回廊が10世紀末から11世紀前半のある時期に倒壊してしまった。おそらく東側にある丘陵からの土砂崩れで一気に東から西に向かってなぎ倒され、そのまま土砂の中に埋められてしまったものと思われる。屋根に乗っていた瓦が葺かれた状態で崩れ落ちており、その下に回廊建物が倒れたままの状態で残っていた。 なぎ倒された建物の部材は、厚い粘土の層に封じ込められたまま、何百年も地下水に浸されてきた。その事が木材の保存にとって幸いした。掘り出された建物の部材は、古代建築に関するさまざまな知見をもたらした。だが、水に浸した状態で出土した木材は、非常に軟らかくもろい。力が加われば潰れてしまい、乾燥すれば極端に縮んだり歪んでしまう。 発掘を担当した奈良文化財研究所は、出土した建築部材を保存するために、PEG(ポリエチレングリコール)による保存処理を採用した。部材に含まれる水をPEGと置き換えて、変形を防ぎながら脱水、強化する方法である。部材中の水を完全にPEGに置き換えるには、徐徐にPEG濃度を高くした浴槽に長期間何度も浸しておくという作業を繰り返さなければならない。PEGが入った処理タンクに部材を入れてから取り出すまでに5年の歳月を要したという。 さらに、タンクの大きさに限度があることから、保存処理は何回かに分けて行われた。1982年に掘り出された建築部材の保存処理には、ほぼ15年の歳月がかかった。こうして保存処理が終わった回廊の建築部材を常設展示するために、山田寺にほど近い飛鳥資料館が改築された。そして、1997年4月から建築当初の状態に再現された回廊が一般に公開されている。
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(*) 飛鳥資料館カタログ第11冊「山田寺」より転載
2006/09/25作成by pancho_de_ohsei