橿原日記 平成18年9月22日

石段の両脇に彼岸花が咲き乱れる仏隆寺

大和三名段の一つ
大和三名段の一つになっている仏隆寺の石の階段


年の今頃、明日香で咲き乱れる彼岸花を「橿原日記」で紹介した。すると、堺市在住の友人が毎日新聞の夕刊に出ていた「奈良・仏隆寺」という記事を紹介してくれた。そして、新聞には写真が一枚しか掲載されていないが、ドン・パンチョならもっと多くのいい写真を撮ってくれるだろうから、来年は是非仏隆寺へ行ってみてくれ、と催促された。

らに、友人は川柳まで寄越して「曼珠沙華 咲く天上は どんなとこ」と気にしていた。彼岸花が咲き乱れる仏隆寺の光景を、よほど知りたかったのだろう。本日、一年前の彼の依頼に応えるべく榛原まで出かけてきた。以下は、そのレポートである。



仏隆寺への道

人が教えてくれた摩尼山仏隆寺は、奈良県宇陀市榛原区赤埴(あかばね)1684番地に所在する真言宗室生派の末寺である。室生寺の南門として摩尼山光明が岳の麓に位置する。寺伝では、嘉祥3年(西暦850年)、空海の高弟の堅恵(けんね)が県興継(あがたおきつぐ)を壇主として創建したと伝えている。しかし、一説には、それよりも古く、興福寺別当の修円僧都がこの地を開いたとも言われている。

仏隆寺方面の標識
バス停「高井」の近くにある仏隆寺方面の標識
隆寺は、春には見事な花を咲かせる樹齢900年の桜の巨木と、秋には参道の石段脇に咲き乱れる彼岸花で有名だ。近鉄榛原駅から奈良交通バスを利用してアクセスできる。「曽爾(そに)村役場行き」または「上内牧行き」に乗り、6つ目のバス停「高井」で下車して、徒歩で1.9キロの山道を歩くことになる。バス停「高井」までは10分ほどの所要時間ですむが、そこから先は徒歩で40分近くかかる。バスの便は一時間に一本程度しかないので、あらかじめ運行時間を確認しておく必要がある。

ス停「高井」の近くに、仏隆寺方面への標識が立っている。仏隆寺への道は、かっての室生寺参拝者が利用した室生古道と重なっている。標識の指示に従って、集落の中を進み、矢谷川に架かる頭矢(とうや)橋を渡れば、後は舗装されたなだらかな勾配の山道をそのまま進めばよい。

道は矢谷川に沿って続いている。川のせせらぎに耳を傾けながら坂道を登っていくと、左手の棚田に稲刈りの後のハサバが並んでいた。今時珍しい光景である。道の両脇は植林された杉林が続き、よく手入れが行き届いた木立がV字型に切り取った秋空が、高く青く澄んでいる。

棚田で見かけた”ハサバ” 杉林の中を行く山道
棚田で見かけた”ハサバ” 高く聳える杉林の中を行く山道

折マイカーでの参拝者の車が通る程度で、山道は山里の景色を眺めながら散策するには手頃である。だが、山道を歩き始めた頃は、棚田の畦にも矢谷川の堤防にも、彼岸花の赤い姿は全く見あたらない。明日香では今が盛りでも、この付近では開花時期が遅いのでは、といささか心配になった。仏隆寺まで残り400mの標識が出ているあたりから、道ばたの草花に混じってようやく彼岸花が目立つようになってきた。

40分をかけて山道を登ってくると、寺の駐車場はすでにマイカーであふれていた。駐車場の脇に東屋(あずまや)風の休憩所が建っている。そこで一息いれながら、仏隆寺の方角を見ると、不思議な光景が目に飛び込んできて、「これは、これは・・・」と、思わず絶句した。

姿を現した彼岸花 駐車場脇の休憩所
秋の草花の中に姿を現した彼岸花 駐車場脇の東屋風の休憩所

憩所の前を通る参道の左手に石仏が立っている。四国霊場八十八カ所の第二十番札所・鶴林寺の本尊・地蔵菩薩を模した石仏である。その先に、大和三名段の一つとされている197段の自然石を積んだ石段が続いている。

段の右脇で、樹齢約900年と言われる桜の巨木が枝を茂らせている。その根元付近から、彼岸花が石段の両側を赤く染め抜いている。まるで赤い絨毯を敷き詰めたように咲き乱れている様子は、明日香村の棚田で見る光景とは全く趣(おもむき)が違っていた。筆者ならずとも、誰でも絶句したくなるような景観がそこにあった。

鶴林寺の本尊地蔵菩薩 197段の石の階段
四国霊場第二十番札所・鶴林寺の本尊地蔵菩薩 石の階段脇の桜の巨木と彼岸花の絨毯



石段の参道両脇を埋め尽くして群生する赤い彼岸花

大和三名段の一つ
石段の両脇を埋め尽くす彼岸花

隆寺の山門に到達するには、197段の石段を登らなければならない。その斜面の両脇を赤い花をつけた彼岸花が埋め尽くしている。その景観は見事としか言いようがない。写真ではその全体の雰囲気を伝えることがとてもできないが、その一部を以下に紹介しよう。

石段の両側に咲き乱れる彼岸花-1 石段の両側に咲き乱れる彼岸花-2
石段の両側に咲き乱れる彼岸花-3 石段の両側に咲き乱れる彼岸花-4
石段の両側に咲き乱れる彼岸花-5 石段の両側に咲き乱れる彼岸花-6
石段の両側に咲き乱れる彼岸花-7 石段の両側に咲き乱れる彼岸花-8

れらの彼岸花はすべて自生である。このように見事な花を咲かせるには、寺としても大変な苦労があるようだ。彼岸花は開花して枯れた後に葉を出し、冬場に盛んに光り合成をおこなう。そして春先になって周囲に雑草ははびこる頃に、彼岸花の葉は逆に枯れてしまう。それからの手入れが大変なようだ。

では、彼岸花の群生地に生える雑草を春から何回も刈り取るという。刈り取られた雑草は枯れて彼岸花の堆肥になる。草刈りは、彼岸花が芽を出す9月の始めまで行われる。今年は最後の草刈りを9月5日に行ったそうだ。最後に刈り取った草はきれいに取り払われ、一カ所に集めて焼き払う。こうして発芽する最高の条件を整えているが、そのためにはかなりの経費がかかる。寺では参拝者に心づくしの寄付をお願いすることで、なんとか毎年花を咲かせているという。



県の天然記念物に指定されている樹齢約900年の桜

石段の両側に咲き乱れる彼岸花-7 石段の両側に咲き乱れる彼岸花-8

段の右脇に聳える桜の巨木は、ヤマザクラとエドヒガンの雑種であるモチズキサクラの一種で、推定樹齢約900年とのことだ。幹周りは7.5m、高さは16mを超え、県下では最古の樹として県の天然記念物に指定されている。

の時期、四方に広がった枝は未だ青々とした葉を付けているが、春の開花時期には見事な花を咲かせる。社務所の壁に何枚かの写真がパネルにして飾ってあるが、それを眺めて、来春には是非また当寺を訪れなければ、と決心した。



室生寺の末寺として栄えた仏隆寺

山門
山門

倉時代に作られた自然石の石段とその両側で咲き誇る彼岸花は、見事なコントラストをなしていて、アマチュア・カメラマンにとって絶好の被写体である。大勢の人が三脚を並べて最高のシーンを写し取ろうとしていた。彼らは参拝客が写らない構図を期待しているのだろう。彼らに意地悪をするつもりはないが、彼岸花を愛でながら石段を登る足は、ともすれば階段の途中で停まりがちである。

97段を登りきると、正面にこじんまりとした山門がある。仁王像が控えているわけではなく、どこかの邸宅の裏門といった感じの門だが、その古さが良い。山門の中央に賽銭箱が置かれていて、拝観料の100円硬貨を入れると、優しい音色のチャイムが流れる。

まり広くもない境内に、白い彼岸花の植え込みがあった。こちらは自生ではないようである。その植え込みの陰に隠れるように、黄色の彼岸花が一株咲いていた。

境内の隅でひっそりと咲く黄色の彼岸花< 白い彼岸花
境内の隅でひっそりと咲く黄色の彼岸花 人間の手で育てられている白い彼岸花

内の一段高くなったところに、本尊の十一面観音菩薩像を安置した本堂が聳えている。昭和になって改築された建物だそうで、正面から内部をのぞき込むと、厨子に納まっているのが本尊のようだ。聖徳太子の作とされる言い伝えがあるようだが、信じがたい。我が国の仏教界では、太子信仰の広がりとともに、実像の聖徳太子がどんどん聖人化されてきたが、太子が仏像を制作したという話は他では聞かない。

本堂 本堂の内部
本尊の十一面観音菩薩立像を安置する本堂 本堂の内部

堂の裏手に回ると、さらに一段高いところに求聞持堂が建っている。この建物も昭和に入ってからの改築だそうだ。堂内の中央に、大日如来の化身である不動明王の座像が安置してある。右手に三鈷剣(智剣)を、左手に羂索(けんさく)を握りしめ、憤怒の形相で座っているはずだが、遠目には造形がよく分からない。ただ迦楼羅焔(かるらえん)の形をした炎だけが目立って見えた。

求聞持堂 求聞持堂の本尊
求聞持堂 求聞持堂の本尊

堂の裏手には、元徳2年(1330)の銘を持つ十三重の石塔が建っている。すでに相輪は失われているが、興福寺の別当だった修円の墓と伝えられている。さらに、境内の右奥には、平安前期に作られた宝形造りの石窟がある。国の重要文化財に指定されていて、内部は古墳のように羨道(せんどう)と玄室からなっていて、玄室の奥には鎌倉時代の五輪塔が安置されていて、本寺を創建した堅恵の墓とされている。

建当初は、この仏隆寺も七堂伽藍を備えた立派な寺だったようだ。現在でも堅恵像や弘法大師像など貴重な宝物が多い。

十三重塔 宝形造りの石室
元徳2年の銘を持つ十三重塔 宝形造りの石室の内部



仏隆寺は大和茶の発祥の地

大和茶の発祥の伝承碑
大和茶発祥の伝承碑
隆寺を有名にしているもう一つの理由は、大和茶(やまとちゃ)の発祥の地とされていることだ。弘法大師・空海が中国から持ち帰った茶の種子を、高弟の堅恵(けんね)がこの境内で栽培したしたのが始まりと伝えられている。

が国での茶の栽培の始まりとされる話は、各地で伝えられている。しかし、仏隆寺で堅恵が栽培を始めたとする伝承は、最も古いものの一つとされている。

の真偽は別として、仏隆寺では日本の茶の栽培は当寺から広まったとしている。境内には「大和茶発祥伝承地」と大書された碑が建っている。寺には、空海が唐から持ち帰ったとされる茶臼も残っているとのことだ。


2006/09/23作成by pancho_de_ohsei
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