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| 大和三名段の一つになっている仏隆寺の石の階段 |
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さらに、友人は川柳まで寄越して「曼珠沙華 咲く天上は どんなとこ」と気にしていた。彼岸花が咲き乱れる仏隆寺の光景を、よほど知りたかったのだろう。本日、一年前の彼の依頼に応えるべく榛原まで出かけてきた。以下は、そのレポートである。 |
石段の参道両脇を埋め尽くして群生する赤い彼岸花
仏隆寺の山門に到達するには、197段の石段を登らなければならない。その斜面の両脇を赤い花をつけた彼岸花が埋め尽くしている。その景観は見事としか言いようがない。写真ではその全体の雰囲気を伝えることがとてもできないが、その一部を以下に紹介しよう。
これらの彼岸花はすべて自生である。このように見事な花を咲かせるには、寺としても大変な苦労があるようだ。彼岸花は開花して枯れた後に葉を出し、冬場に盛んに光り合成をおこなう。そして春先になって周囲に雑草ははびこる頃に、彼岸花の葉は逆に枯れてしまう。それからの手入れが大変なようだ。 寺では、彼岸花の群生地に生える雑草を春から何回も刈り取るという。刈り取られた雑草は枯れて彼岸花の堆肥になる。草刈りは、彼岸花が芽を出す9月の始めまで行われる。今年は最後の草刈りを9月5日に行ったそうだ。最後に刈り取った草はきれいに取り払われ、一カ所に集めて焼き払う。こうして発芽する最高の条件を整えているが、そのためにはかなりの経費がかかる。寺では参拝者に心づくしの寄付をお願いすることで、なんとか毎年花を咲かせているという。 |
県の天然記念物に指定されている樹齢約900年の桜
石段の右脇に聳える桜の巨木は、ヤマザクラとエドヒガンの雑種であるモチズキサクラの一種で、推定樹齢約900年とのことだ。幹周りは7.5m、高さは16mを超え、県下では最古の樹として県の天然記念物に指定されている。 この時期、四方に広がった枝は未だ青々とした葉を付けているが、春の開花時期には見事な花を咲かせる。社務所の壁に何枚かの写真がパネルにして飾ってあるが、それを眺めて、来春には是非また当寺を訪れなければ、と決心した。 |
室生寺の末寺として栄えた仏隆寺
鎌倉時代に作られた自然石の石段とその両側で咲き誇る彼岸花は、見事なコントラストをなしていて、アマチュア・カメラマンにとって絶好の被写体である。大勢の人が三脚を並べて最高のシーンを写し取ろうとしていた。彼らは参拝客が写らない構図を期待しているのだろう。彼らに意地悪をするつもりはないが、彼岸花を愛でながら石段を登る足は、ともすれば階段の途中で停まりがちである。 197段を登りきると、正面にこじんまりとした山門がある。仁王像が控えているわけではなく、どこかの邸宅の裏門といった感じの門だが、その古さが良い。山門の中央に賽銭箱が置かれていて、拝観料の100円硬貨を入れると、優しい音色のチャイムが流れる。 あまり広くもない境内に、白い彼岸花の植え込みがあった。こちらは自生ではないようである。その植え込みの陰に隠れるように、黄色の彼岸花が一株咲いていた。
境内の一段高くなったところに、本尊の十一面観音菩薩像を安置した本堂が聳えている。昭和になって改築された建物だそうで、正面から内部をのぞき込むと、厨子に納まっているのが本尊のようだ。聖徳太子の作とされる言い伝えがあるようだが、信じがたい。我が国の仏教界では、太子信仰の広がりとともに、実像の聖徳太子がどんどん聖人化されてきたが、太子が仏像を制作したという話は他では聞かない。
本堂の裏手に回ると、さらに一段高いところに求聞持堂が建っている。この建物も昭和に入ってからの改築だそうだ。堂内の中央に、大日如来の化身である不動明王の座像が安置してある。右手に三鈷剣(智剣)を、左手に羂索(けんさく)を握りしめ、憤怒の形相で座っているはずだが、遠目には造形がよく分からない。ただ迦楼羅焔(かるらえん)の形をした炎だけが目立って見えた。
本堂の裏手には、元徳2年(1330)の銘を持つ十三重の石塔が建っている。すでに相輪は失われているが、興福寺の別当だった修円の墓と伝えられている。さらに、境内の右奥には、平安前期に作られた宝形造りの石窟がある。国の重要文化財に指定されていて、内部は古墳のように羨道(せんどう)と玄室からなっていて、玄室の奥には鎌倉時代の五輪塔が安置されていて、本寺を創建した堅恵の墓とされている。 創建当初は、この仏隆寺も七堂伽藍を備えた立派な寺だったようだ。現在でも堅恵像や弘法大師像など貴重な宝物が多い。
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仏隆寺は大和茶の発祥の地
我が国での茶の栽培の始まりとされる話は、各地で伝えられている。しかし、仏隆寺で堅恵が栽培を始めたとする伝承は、最も古いものの一つとされている。 事の真偽は別として、仏隆寺では日本の茶の栽培は当寺から広まったとしている。境内には「大和茶発祥伝承地」と大書された碑が建っている。寺には、空海が唐から持ち帰ったとされる茶臼も残っているとのことだ。 |