橿原日記 平成18年9月21日

彼岸の入りを待ちかねたように、飛鳥古京を彩る彼岸花たち

彼岸花
明日香村岡の稲田の畦に咲き乱れる彼岸花


日香村の彼岸花祭りは9月18日に終わった。祭りの期間中まだ2〜3分咲きだった彼岸花が、本日の彼岸の入りを迎えて、一斉に花開いた。自然の摂理とは恐ろしいものである。今を盛りに咲き誇る彼岸花を添えて眺めることで、明日香村に点在する飛鳥古京の名勝旧跡は今までとは違った趣を呈してくれる。

鳥古京の秋は今が旬である。実際に明日香村を訪れて秋を満喫できないビジター諸兄のために、飛鳥古京の今をお伝えしよう。以下のスナップは、本日の午前中に撮影したものである。彼岸花に彩られた古京の秋をじっくりとご鑑賞あれ!



 天武が皇后の病気治癒を祈願して建立した本薬師寺(もとやくしじ)

本薬師寺の東塔跡
本薬師寺の東塔跡
在の橿原市城殿(きどの)町にある本薬師寺跡は、明日香村の地域外にある。だが、明日香村を訪れる道すがら、筆者はよくその前を通る。跡地に群生するホテイアオイの大群落を愛でるためだ。まずは、本薬師寺跡の景観から紹介しよう。今年も彼岸花がホテイアオイに華を添えるように咲いた。

薬師寺はもともと薬師寺と呼ばれていた。西暦680年11月、天武天皇が鵜野皇后の病気平癒を願って建立を発願し、天武天皇崩御の後に持統天皇として登極した皇后が、本格的な造営を進め、689年に完成した。

かし平城遷都から8年目の718年、薬師寺が藤原京から平城京の右京六条二坊、現在の薬師寺の地に移転された。そのため、以前の薬師寺は本薬師寺(もとやくしじ)と呼ばれるようになった。移転後も元の寺の一部は平安時代後期ごろまで存続したようだ。現在は醫王院というごく小さな寺院の庭に金堂や塔の礎石が残っている。

布袋葵の大群落 ああああ
本薬師寺跡を埋め尽くすホテイアオイの大群落 本薬師寺金堂の礎石群

 小墾田宮(おはりだのみや)跡を示すとされてきた古宮土壇(ふるみやどだん)

田圃の中にそびえる一本の木 小墾田宮跡伝承地の目印
田圃の中にそびえる一本の木 実は小墾田宮跡伝承地の目印

 推古天皇の最初の豊浦宮(とゆらのみや)跡に建つ向原寺(こうげんじ)

豊浦宮・豊浦寺の跡地に建つ向原寺 592年12月、推古天皇はここで即位した
豊浦宮・豊浦寺の跡地に建つ向原寺 592年12月、推古天皇はここで即位した

 蘇我蝦夷・入鹿蘇我蝦夷・入鹿(そがのえみし・いるか)親子が邸宅を構えたとされる甘樫丘(あまかしのおか)

甘樫丘を北側から遠望 坂田地区からの遠望
甘樫丘を北西から遠望 反対側の坂田地区から見ると・・・

 飛鳥資料館の庭にある石人像と須弥山石(しゅみせんせき)が埋まっていた石神(いしがみ)遺跡

石神遺跡 迎賓館跡
明治時代この遺跡から石人像と須弥山石が掘り出された 現在は外国の使節や国内の遠方の民を饗応した
飛鳥の迎賓館跡があったこ事が判明している

 我が国最初の仏教寺院の法灯を継ぐ飛鳥寺(あすかでら)

飛鳥寺を建立 安居院の本堂
蘇我馬子は596年この地に法興寺(=飛鳥寺)を建立 かっての中金堂跡に建つ現在の安居院本堂

 斉明天皇の飛鳥川原宮(あすかかわはらのみや)の跡地に建立された川原寺跡

670年ごろ、斉明天皇を供養するために建立された 川原寺式と呼ばれる独特な伽藍配置の寺
670年ごろ、斉明天皇を供養するために建立された 川原寺式と呼ばれる独特な伽藍配置の寺だった

 聖徳太子誕生の地とされている橘寺(たちばなでら)

寺伝では、橘寺は聖徳太子出生の地 創建当時の橘寺は堂々たる大寺院だった
寺伝では、橘寺は聖徳太子出生の地 創建当時の橘寺は堂々たる大寺院だった

 蘇我馬子(そがのうまこ)を葬った桃源墓とされている石舞台(いしぶたい)古墳

桃原墓(ももはらのはか)に葬られた 645年の乙巳の変の後に桃源墓が暴かれた
馬子は626年(一説には627年)に死亡、
桃原墓(ももはらのはか)に葬られた
645年の乙巳の変の後に桃源墓が暴かれた?

石舞台古墳の近くで見つけた白い彼岸花−1 石舞台古墳の近くで見つけた白い彼岸花−2
石舞台古墳の近くで見つけた白い彼岸花−1 石舞台古墳の近くで見つけた白い彼岸花−2

石舞台古墳付近で感じた秋−1 石舞台古墳付近で感じた秋−2
石舞台古墳付近で感じた秋−1 石舞台古墳付近で感じた秋−2

石舞台古墳付近で感じた秋−3
石舞台古墳付近で感じた秋−3



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