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明日の16日から3日間、「光の回廊」と「彼岸花祭り」の催しが明日香村で行われることになっている。久しぶりの晴天の朝を迎えたので、彼岸花の開花状況の確認をかねて明日香村まで愛用のチャリンコを駆った。高松塚付近ではすでに開花していたが、その他の地域ではまだ咲き始めた段階だ。稲田の畦を見ても赤い花が群生している姿はまだ見かけられない。その代わり、明日香村の教育委員会が行っている遺跡の発掘現場に偶然遭遇した。
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| 今秋の発掘調査地(*) |
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| 発掘調査地に設置された解説板 |
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| 発掘現場付近から甘樫丘の望む |
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| 保存作業中の植山古墳 |
場所は、明日香村の飛鳥(あすか)集落のはずれにある丘陵の水田地帯である。雷(いかずち)方面から東に延びる県道124号線は、桜井方面から下ってきた県道15号線(桜井明日香吉野線)と飛鳥資料館の手前にある「奥山」交差点でぶつかる。
その交差点から南に向かう県道15号線を進むと、「奥山」バス停の先が緩やかな坂道になっている。坂道を登り切ると、小さな橋が架かっている。吉野川分水の東部幹線水路に架けられた「八釣橋」である。発掘作業は、八釣橋から眼下に見下ろすことができる集落のはずれで行われていた。
遺跡の名称は、竹田遺跡という。しかし、正式な名称はまだ決まっておらず、仮称らしい。発掘現場に近づくと、ありがたいことに遺跡の解説板が道路脇に設置されていた。解説板を立てた目的は2つある。一つはこれまでの発掘調査の成果の一端を見学者に開示することだ。もう一つは、竹田遺跡の重要性と埋蔵文化財に対する理解を見学者に深めてもらうことらしい。
解説板に張り出された発掘調査地の地図を見ると、現場は飛鳥寺の北限にあたる道に通じていた「竹田道」と呼ばれる古道の北側である。調査地付近には「竹田道ヨリ北」という変わった名前の小字が残っているとのことだ。調査地の北には中世の城跡である飛鳥城が、南には飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)が鎮座している。さらに、東には6世紀から7世紀にかけて築かれた八釣・東山古墳群が展開している。
それよりも、筆者の関心を引いたのは、遺跡の名前である。この近くを「竹田」道が東西に通っていたのであれば、当然「竹田」と呼ばれた地域が近くにあったはずである。推古天皇の竹田皇子(たけだのみこ)が居住した館は、おそらくその地域にあったのではないだろうか。
年齢的にも厩戸皇子(うまやとのみこ、聖徳太子)に近かったとされる竹田皇子は、有力な皇位継承資格者だった。『日本書紀』は、西暦587年の蘇我−物部戦争(丁未の変(ていびのへん)ともいう )に皇子が参戦したことを伝えている。だが、その後の消息がぷっつりと途絶えていることから、590年ころ病没したのでは、と推測されている。もう少し存命であったならば、我が国最初の女帝である推古天皇の登極はなかった。
推古天皇はよほど竹田皇子を愛おしく育てたようだ。死後は竹田皇子と同じ墓に埋葬するようにと遺言すら残している。2000年に橿原市教委が橿原市五条野で発見した植山古墳が、この親子を合葬した墓とされている。だが、竹田皇子が住まいとした宮の所在については、定説はない。現在発掘が行われている付近だったと想定すると、西に向かって開けた傾斜地の先に甘樫丘を望むことができ、推古天皇の小墾田の宮にも近い。独りよがりの勝手な想像だが、現在の発掘調査地あたりを竹田皇子の終焉の地と考えたい。
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