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| 九品寺前の蓮田越しに大和三山を望む |
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九品寺の境内に立つと、眼下に大和盆地が広がり、大和三山がまるで海に浮かぶ孤島のように本堂の甍越しに眺めることができる。大和高田市在住の知人T.O氏は、九品寺の景観を四季折々にカメラで撮影し続けていて、毎年今頃になると、彼から一枚の絵はがきが届く。市内の喫茶店を借りて展示している作品展の案内である。
九品寺がある楢原(ならばら)は、南北朝時代に南朝方について活躍した豪族・楢原氏が支配していた土地である。その数が1600体とも1700体とも言われる石地蔵は、楢原城の兵たちが北朝方と対峙したとき、”身代わり地蔵”として奉納したと寺伝は伝えている。 筆者が2001年10月の30日と31日の両日をかけて「葛城の道コース」を歩いたとき、一度この寺を訪れたことがある(「葛城の道」を歩くを参照)。当時は石仏にほとんど関心がなかったため、通り一遍の興味だけで寺を見学した。 しかし、最近は野仏の探訪にはまっている。今一度ゆっくりと九品寺を訪れてみたいと思っていた。その矢先に、今年の春京都府の北にある「かやぶきの里」に出かけたA君から電話があった。偶然にも九品寺を石仏を見たいから案内しろという。願ってもないチャンスだった。本日は迎えに来た彼の車に乗って、喜んで御所市に向かった。ただ残念だったのは、彼岸花が咲きそろうには今少し早かった。 |
本堂の裏山の斜面に累々と並ぶ無数の石仏
石仏の数は、1600から1700体とされている。実際の数は今後も増えるらしい。近年でも大雨の後に山の斜面で石像が見つかることがあるとのことだ。石像の大きさはまちまちだが、いずれも赤いよだれかけを付けてもらっている。よほど熱心な信者がいるのであろう。 本堂の脇を通って裏山に続く道や、裏山のあちこちに仏教賛歌が緑の木札に記されている。住職の優しい心遣いであろう。そのいくつかを拾ってみよう。
●たちならぶ 仏の像(かたち) 今見えば みな苦しみに 耐えしみ姿 (今井邦子作)
裏山に登るツヅラ折れの坂道に、リリーフ状に半肉彫りされた石仏が土留め代わりに並べてある。その一体一体をつぶさに見ていくと、ほとんどは風化がひどくて目鼻立ちすら分からなくなっている。それでも僧形であるからには、地蔵菩薩を刻んだものであろう。裏山の頂付近では、斜面を覆い尽くす石仏が並ぶ。まるで石のピラミッドを遠望するようだ。
仏教では、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう。その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救ってくれるのが、地蔵菩薩である。地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」と決意して、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、幼くして散った子供や水子の魂を救って旅を続けているとされている。
楢原城を拠点として北朝側と戦った兵士たちは、戦いのたびごとに出陣を繰り返し、明日をも知れぬ命に不安な日々を送ったであろう。彼らはおそらく出陣の前に自らの姿の形代(かたしろ)として地蔵仏を彫り、九品寺へ奉納したものと思われる。戦闘で運悪く絶命したとしても、地蔵菩薩に祈願して地獄に堕ちる不幸だけは免れ、願わくば西方浄土へ生まれ変わることを希求したにちがいない。そうした願いが、風化して目鼻立ちも分からなくなっている石像の一体一体に込められているようだ。 あるいは、兵士たちが戦場の露と消え去った後に、その遺族たちが兵士を追善供養するために、村の石工に頼んで地蔵尊を彫らせ、死せる魂の極楽往生を祈願したのかもしれない。長い星霜を経るうちに石仏を奉納した墓地は裏山の土砂崩れで埋もれてしまい、いつしか竹林に変わって、人々の祈りも忘れ去られてしまった。200年前の竹林の開墾は、歴史の底に封印されてしまった祈りの実態を今一度この世に蘇らせたことになる。 よく見ると、石仏の付近に彼岸花の茎が伸びてきている。自然の摂理とは不思議なものだ。あと二週間もすれば彼岸である。わざわざ人手を煩わさなくても、その頃には自然が赤い彼岸花を献花して、石仏を供養してくれるのであろう。
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西国三十三カ所の石仏観音を安置した観音十徳園
二河白道を行く際の支えとして、慈悲の観音菩薩と忍耐の不動尊の力を借りるとされている。そのため、向かって右側の庭には、近畿地方をパノラマ式に縮小した中に西国三十三カ所の石仏観音が、また左の庭には大不動尊が安置されている。さらに、善導大師の遠忌記念事業として、板東三十三カ所の石仏観音も西国観音の北側に安置された。その結果、九品寺は西国・板東の六十六体の石仏観音を安置する、類例を見ない霊場となった。 右側の十徳園は、庭の中央に聳えるしだれ桜を中心にして、西国三十三カ所の霊場の観音石像がパノラマ式に配置してある。熱心な仏教信者ならば、石仏を一つ一つ礼拝して回るのだろうが、無神論者の筆者はただ仏像の前にたたずんでその顔立ちの良さを鑑賞するだけである。それでも、こぼれ日を受けて陰影がついた観音のお顔は、はっとするほど美しい。
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一願不動尊が安置されている藤原様式の十徳園
参道の左側にある「十徳園」は平安時代の池泉回遊式の庭園である。カエデや桜、椿が茂る庭園の中に、小綺麗に刈り込まれたツツジが、毬藻のように手際よく散らしてある。葛城山の山肌を下ってくる風が、桜の枯れ葉をあちこちに吹き散らしている。枯れ葉が散乱する小径に沿って進むと、静かな池の畔に出た。池の水面にも、枯れ葉が浮いている。風に吹くたびに、枯れ葉は船団のように隊列を組んでゆっくりと風下へ動いていく。人影を察知したのか、数匹の鯉が水面に浮かび上がり、岸辺に寄ってきた。
彼女の歌の中に「わが見が欲し国は 葛城高宮 吾家のあたり」という一節がある。磐之媛が生まれ育った我が家というのは、襲津彦の屋敷があった葛城高宮あたりを指すのであろう。その高宮は九品寺からすこし南へ下ったところである。若き日の磐之媛が日頃目にした大和盆地の景観も、一面に広がった市街地を原野に置き換えれば、おそらく現在と大して変わらなかったであろう。
十徳園の一角に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を従えた不動明王の像が建っている。不動明王は密教の根本尊である大日如来の化身とされ、悪魔を降伏させ、すべての障害を打ち砕き、おとなしく仏道に従わない衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。 忿怒で逆巻く髪を活動に支障のないように、不動明王の髪は弁髪でまとめ上げている。法衣は片袖を破って結び、右手に三毒の煩悩、「貪・瞋・痴」を断ち切る三鈷剣(智剣)を、左手に衆生の煩悩を縛り進むべき道へ引っ張っていく羂索(けんさく)を握りしめている。そして、背に迦楼羅焔(かるらえん)の形をした炎を背負い、磐石(ばんじゃく)の上に座すか、それとも仁王立ちに立っている。こうした不動明王の構図は、弘法大師空海が中国より密教を伝えた際に我が国に持ち込まれたと言われている。 十徳園の大不動尊の石像は、確かに巨大ではあるが、その憤怒の形相にあまり怖さを感じさせない。右目は開いているが、左目はすが目になっている。こうした目つきを天地眼というらしいが、その眼光にも怒りが感じられない。たとえは悪いが、バッキンガム宮殿の守衛のように、必死に直立不動の姿勢を保つのに精一杯といった感じだ。 |