橿原日記 平成18年9月7日

石仏と庭の寺として知られる戒那山九品寺(かいなさんくほんじ)

大和三山を望む
九品寺前の蓮田越しに大和三山を望む


良県と大阪府の県境にそびえる葛城山には、別名があった。江戸時代には河内側では篠峰(しのがみね)、大和側では戒那山(かいなやま)と呼ばれていたという。その山の名を山号とする戒那山九品寺は、葛城山の東の山麓に建つ浄土宗の古刹である。所在地は奈良県御所市大字楢原(ならばら)。近鉄御所駅より2.5kmの所にある。

品寺の境内に立つと、眼下に大和盆地が広がり、大和三山がまるで海に浮かぶ孤島のように本堂の甍越しに眺めることができる。大和高田市在住の知人T.O氏は、九品寺の景観を四季折々にカメラで撮影し続けていて、毎年今頃になると、彼から一枚の絵はがきが届く。市内の喫茶店を借りて展示している作品展の案内である。

山門の前に並べられた地蔵尊
山門の前に並べられた地蔵尊
品寺の何が彼を魅了しているのかは知らない。だが、九品寺の境内で彼が撮影した四季の景観は、見る者の心を和ませてくれる。温厚な彼の人柄が滲み出ているせいであろう。特に、この時期境内に咲き乱れる彼岸花に、古びた石仏を配した写真は良い。九品寺の境内や本堂の裏山には、俗に「千体石仏」と呼ばれる石仏群が累々と並び、お彼岸の頃になると、群生する彼岸花がその霊を弔うように赤い花を咲かせる。

品寺がある楢原(ならばら)は、南北朝時代に南朝方について活躍した豪族・楢原氏が支配していた土地である。その数が1600体とも1700体とも言われる石地蔵は、楢原城の兵たちが北朝方と対峙したとき、”身代わり地蔵”として奉納したと寺伝は伝えている。

者が2001年10月の30日と31日の両日をかけて「葛城の道コース」を歩いたとき、一度この寺を訪れたことがある(「葛城の道」を歩くを参照)。当時は石仏にほとんど関心がなかったため、通り一遍の興味だけで寺を見学した。

かし、最近は野仏の探訪にはまっている。今一度ゆっくりと九品寺を訪れてみたいと思っていた。その矢先に、今年の春京都府の北にある「かやぶきの里」に出かけたA君から電話があった。偶然にも九品寺を石仏を見たいから案内しろという。願ってもないチャンスだった。本日は迎えに来た彼の車に乗って、喜んで御所市に向かった。ただ残念だったのは、彼岸花が咲きそろうには今少し早かった。



南北朝時代に勢力をふるった豪族・楢原氏の菩提寺だった九品寺

県道30号線脇の標識
県道30号線脇の標識
九品寺の山門
九品寺の山門
城山の東斜面を南北に走る県道30号線は、別名を御所香芝線という。その県道の「楢原南」交差点のわずかに北側に、御所市コミュニテイバスの停留所「楢原」がある。バス停の横には、「戒那山九品寺」と「千体地蔵尊」と彫られた2本の石柱が立っている。その石柱の間から山腹に沿って延びる農道が、九品寺へのアクセス道路である。

門脇の駐車場に車を止めると、山門の屋根瓦を見上げながらA君が言った。
「歴史のある古刹にしては、ずいぶんと新しい寺の雰囲気だね」
九品寺縁起によれば、この寺の開基は行基(ぎょうき)とされている。奈良時代の天平年間に聖武天皇の勅に奉じて行基が当地に留まり、草庵を結んで民衆を教化したのがこの寺の起こりとされている。後に、空海が行基の遺跡を訪ね当地に戒那千坊を創始したという。さらに時代が下って永禄年間(1558-70)に、弘誓(ぐせい)大和尚が出て専修念仏の道場としてから、浄土宗派に属するようになったと伝えられている。

堂は明和5年(1768)の再建と聞いていた。だが、本堂だけでなく地蔵堂や鐘楼、山門、庫裏も平成6年から平成8年にかけて大修理が行われたとのことだ。A君が山門を見ていぶかったのも無理はない。大修理のために浄財を寄付した信者の名前が、山門の前に掲示してある。その先頭に書かれた某氏の寄付額が1億円となっている。大阪在住とのことだが、おそらく地元出身者なのだろう。あの人が当地出身者だったのか、とA君は驚いたようだ。どうやら知り合いのようだ。

門をくぐると、参道の先に石段が続いている。参道から見上げる境内は、まるで絵はがきから切り取ったように端正な建物の配置と手入れの行き届いた植え込みが美しかった。

手入れの行き届いた九品寺の境内
手入れの行き届いた九品寺境内

慈母地蔵尊像
慈母地蔵尊像
鐘楼
慶長15年3月吉日鋳造の銘がある梵鐘を吊す鐘楼
段の途中で左手を見ると、中央に慈母地蔵の巨像を配し、赤いよだれかけを掛けた小さな石仏が沢山並んでいる。いずれも僧形のお地蔵さんである。水子供養のたびに寄進された石仏がここに並べられるのであろう。後に本堂の裏山で見る石仏とはちがって、いずれも風化しておらず、美しい顔立ちである。

段を登り切ると、右手のお手水と地蔵堂がある。左手にあるのは、総高1.84mの梵鐘を吊り下げた鐘楼である。この梵鐘には、慶長15年(1610)3月吉日に鋳造したことを示す銘が刻まれている。もともとは興福寺一条院門跡の長講堂が用いられていたが、当寺に移したとのことだ。

堂に祀られている本尊は、木造の阿弥陀如来座像である。像高123cmの仏像は平安後期の作品で、国の重要文化財の指定を受けている。その造形は優しく円満な雰囲気を漂わせ、気品が高く、市内でもまれにみる秀作だそうだ。尊顔を拝したいと本堂に上がったが、残念ながら扉が総て施錠されていて堂内には入れなかった。

の他にも、南北朝時代に活躍した地元の豪族・楢原氏一族の念持仏だったとされる秘仏の観世音菩薩や地蔵菩薩が、当寺に祀られいる。また、末寺の石川薬師堂から移されてきた薬師如来像には、内部に墨書銘が残っており、それによれば弘治3年(1557)の作だそうだ。

は、九品寺は楢原氏の菩提寺とされていて、墓地には一族の墓もある。楢原氏は春日若宮祭礼六党のうち南党の刀禰(盟主)だったようだ。若宮祭礼の願主人として、鎌倉末期に伴田氏とともにその名が史上に現れる。両氏は若宮祭礼に流鏑馬(やぶさめ)を奉納するのが恒例だった。

原氏は越智(おち)氏の同族とされている。越智氏系図によると、6代家永の子・重慶とその子の光慶の時に楢原氏を名乗るようになったという。鎌倉末期には、上に述べたように春日若宮祭で流鏑馬を奉納するほど有力氏族になっている。楢原氏の平城は、現在の国道24号線沿いにある鴨都波神社の西約1kmにあった。楢原氏が築いた山城は、平城から北東へ2kmほど離れた標高320mの葛城山の東麓の丘の上に築かれていた。西側を三重の堀で囲み、北・東・南の三方は50mの空堀が築かれたていたという。南北朝時代、後醍醐天皇の建武親政が崩壊すると、吉野や金剛山が戦場となった。葛上はその膝下にあり、楢原氏はこの楢原郷の山城に拠って南朝方として活躍したという。だが、楢原氏の詳しい動きの記録は乏しい。

地蔵堂 本堂
地蔵菩薩を安置した地蔵堂 新しく葺き直された屋根瓦が眩しい本堂



本堂の裏山の斜面に累々と並ぶ無数の石仏

本堂の右前に置かれた石地蔵
本堂の右前に置かれた石地蔵
仏教賛歌を刻んだ立て札
仏教賛歌を刻んだ木札
裏山の坂道に沿って並べられた石仏
裏山の坂道に沿って並べられた石仏たち
品寺を有名にしているのは、本堂の裏山に並べられた無数の苔むした石仏たちである。今から200年ほど前に境内の竹藪を開墾したときに、土中から掘り出されたものを、現在のように配置した。寺伝によると、南北朝の頃、楢原城の兵士たちが自分の身代わりに奉納したものらしい。そのため「身代わり千体地蔵」と呼ばれている。

仏の数は、1600から1700体とされている。実際の数は今後も増えるらしい。近年でも大雨の後に山の斜面で石像が見つかることがあるとのことだ。石像の大きさはまちまちだが、いずれも赤いよだれかけを付けてもらっている。よほど熱心な信者がいるのであろう。

堂の脇を通って裏山に続く道や、裏山のあちこちに仏教賛歌が緑の木札に記されている。住職の優しい心遣いであろう。そのいくつかを拾ってみよう。

●たちならぶ 仏の像(かたち) 今見えば みな苦しみに 耐えしみ姿 (今井邦子作)
●われはただ 仏にいつか あおい草 心のつまに かけぬ日ぞなき (法然)
●ホロホロと なく山どりの 声きけば、 父かとぞ思う 母かとぞ思う (伝行基作)
●行けば釈迦 来いは弥陀 中はわれ 押され引かれて まいる極楽 (二河白道のたとえ)
●わが心 いたくきづつき 帰り来ぬ うれいしや我に 母おはします (吉井勇作)
●目は見えず 耳は聞こえず 手は無くとも 生きて帰れと 祈りしものを (道歌)
●住む土地の 恵みを想う 心あり そこに住むべき 道はひらけむ (伊藤左千夫)
●ありがたし 今日の一日も わが命 めぐみたまへり 天と地と人と (佐々木信綱)

山に登るツヅラ折れの坂道に、リリーフ状に半肉彫りされた石仏が土留め代わりに並べてある。その一体一体をつぶさに見ていくと、ほとんどは風化がひどくて目鼻立ちすら分からなくなっている。それでも僧形であるからには、地蔵菩薩を刻んだものであろう。裏山の頂付近では、斜面を覆い尽くす石仏が並ぶ。まるで石のピラミッドを遠望するようだ。

山の斜面を覆う無数の石仏
山の斜面を覆う無数の石仏

教では、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう。その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救ってくれるのが、地蔵菩薩である。地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」と決意して、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、幼くして散った子供や水子の魂を救って旅を続けているとされている。

納骨堂の裏に置かれた石仏
納骨堂の裏に置かれた石仏
石仏を慰める彼岸花
まもなく石仏を慰める彼岸花たち
が国では、浄土信仰が普及した平安時代以降に、極楽浄土に往生のかなわない衆生は、死んで冥土に赴むくと、地獄の閻魔の裁きを受けて地獄に堕ちると信じられた。だが、有り難いことに現実界と異界の境に立って,冥界にいくのを救ってくれる菩薩の存在が明らかになった。地蔵菩薩である。こうした地蔵菩薩の性格が強調され地蔵信仰が普及してくると、地獄における責め苦からの救済を、人々は地蔵菩薩に対して欣求するようになった。

原城を拠点として北朝側と戦った兵士たちは、戦いのたびごとに出陣を繰り返し、明日をも知れぬ命に不安な日々を送ったであろう。彼らはおそらく出陣の前に自らの姿の形代(かたしろ)として地蔵仏を彫り、九品寺へ奉納したものと思われる。戦闘で運悪く絶命したとしても、地蔵菩薩に祈願して地獄に堕ちる不幸だけは免れ、願わくば西方浄土へ生まれ変わることを希求したにちがいない。そうした願いが、風化して目鼻立ちも分からなくなっている石像の一体一体に込められているようだ。

るいは、兵士たちが戦場の露と消え去った後に、その遺族たちが兵士を追善供養するために、村の石工に頼んで地蔵尊を彫らせ、死せる魂の極楽往生を祈願したのかもしれない。長い星霜を経るうちに石仏を奉納した墓地は裏山の土砂崩れで埋もれてしまい、いつしか竹林に変わって、人々の祈りも忘れ去られてしまった。200年前の竹林の開墾は、歴史の底に封印されてしまった祈りの実態を今一度この世に蘇らせたことになる。

く見ると、石仏の付近に彼岸花の茎が伸びてきている。自然の摂理とは不思議なものだ。あと二週間もすれば彼岸である。わざわざ人手を煩わさなくても、その頃には自然が赤い彼岸花を献花して、石仏を供養してくれるのであろう。



西国三十三カ所の石仏観音を安置した観音十徳園

石仏観音を安置した十徳園
西国三十三カ所の石仏観音を安置した十徳園

納骨堂の裏に置かれた石仏
品寺の門前には、緩やかな登りの参道の両脇に「十徳園」と称される見事な回遊式庭園が広がっている。今から30年ほど前、古庭園研究の権威だった京都大学名誉教授・森薀(もりおさむ)博士の設計によるものである。この庭は、中国・唐代の浄土教の大成者・善導大師(613〜681)の教えである「二河白道」の比喩、すなわち参道を進む信者は東の釈迦、西の阿弥陀の二尊に抱かれて登り詰めることができるという比喩をまねて、「二尊遣迎(けんこう)の庭」とも呼ばれている。ちなみに、「十徳園」という名称は、善導大師が持ち合わせた徳に因んで命名したという。

河白道を行く際の支えとして、慈悲の観音菩薩と忍耐の不動尊の力を借りるとされている。そのため、向かって右側の庭には、近畿地方をパノラマ式に縮小した中に西国三十三カ所の石仏観音が、また左の庭には大不動尊が安置されている。さらに、善導大師の遠忌記念事業として、板東三十三カ所の石仏観音も西国観音の北側に安置された。その結果、九品寺は西国・板東の六十六体の石仏観音を安置する、類例を見ない霊場となった。

側の十徳園は、庭の中央に聳えるしだれ桜を中心にして、西国三十三カ所の霊場の観音石像がパノラマ式に配置してある。熱心な仏教信者ならば、石仏を一つ一つ礼拝して回るのだろうが、無神論者の筆者はただ仏像の前にたたずんでその顔立ちの良さを鑑賞するだけである。それでも、こぼれ日を受けて陰影がついた観音のお顔は、はっとするほど美しい。

パノラマ式に置かれた石仏観音 第30番宝厳寺の観音
パノラマ式に置かれた石仏観音 第30番宝厳寺の観音



一願不動尊が安置されている藤原様式の十徳園

十徳園内の池
十徳園内の池

道の左側にある「十徳園」は平安時代の池泉回遊式の庭園である。カエデや桜、椿が茂る庭園の中に、小綺麗に刈り込まれたツツジが、毬藻のように手際よく散らしてある。葛城山の山肌を下ってくる風が、桜の枯れ葉をあちこちに吹き散らしている。枯れ葉が散乱する小径に沿って進むと、静かな池の畔に出た。池の水面にも、枯れ葉が浮いている。風に吹くたびに、枯れ葉は船団のように隊列を組んでゆっくりと風下へ動いていく。人影を察知したのか、数匹の鯉が水面に浮かび上がり、岸辺に寄ってきた。

楢原から見た大和盆地
磐之媛も眺めたはずの大和盆地
の縁に置かれたベンチに腰を下ろして、葛城山頂からわき出す雲を仰いでいると、時空を超えて古代の葛城へ引き込まれそうな錯覚に襲われる。九品寺の境内や付近の遊歩道から眺める大和三山の景色は、いつ見ても美しい。葛城襲津彦(かつらぎのそつひきこ)の娘で仁徳天皇の皇后だった磐之媛(いわのひめ)は、夫の浮気に愛想を尽かして難波の宮を出ると、木津川から奈良山あたりをさまよい、故郷の葛城を望んで歌を詠んだ。その歌が『古事記』や『日本書紀』に記載されて残っている。

女の歌の中に「わが見が欲し国は 葛城高宮 吾家のあたり」という一節がある。磐之媛が生まれ育った我が家というのは、襲津彦の屋敷があった葛城高宮あたりを指すのであろう。その高宮は九品寺からすこし南へ下ったところである。若き日の磐之媛が日頃目にした大和盆地の景観も、一面に広がった市街地を原野に置き換えれば、おそらく現在と大して変わらなかったであろう。

綺麗に手入れされた植え込み 矜羯羅童子と制多迦童子を従えた不動明王
綺麗に手入れされた植え込み 矜羯羅童子と制多迦童子を従えた不動明王

徳園の一角に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を従えた不動明王の像が建っている。不動明王は密教の根本尊である大日如来の化身とされ、悪魔を降伏させ、すべての障害を打ち砕き、おとなしく仏道に従わない衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。

忿怒で逆巻く髪を活動に支障のないように、不動明王の髪は弁髪でまとめ上げている。法衣は片袖を破って結び、右手に三毒の煩悩、「貪・瞋・痴」を断ち切る三鈷剣(智剣)を、左手に衆生の煩悩を縛り進むべき道へ引っ張っていく羂索(けんさく)を握りしめている。そして、背に迦楼羅焔(かるらえん)の形をした炎を背負い、磐石(ばんじゃく)の上に座すか、それとも仁王立ちに立っている。こうした不動明王の構図は、弘法大師空海が中国より密教を伝えた際に我が国に持ち込まれたと言われている。

徳園の大不動尊の石像は、確かに巨大ではあるが、その憤怒の形相にあまり怖さを感じさせない。右目は開いているが、左目はすが目になっている。こうした目つきを天地眼というらしいが、その眼光にも怒りが感じられない。たとえは悪いが、バッキンガム宮殿の守衛のように、必死に直立不動の姿勢を保つのに精一杯といった感じだ。



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